②娯楽な噂の当事者
スティーブが女性を助けてから数日経った頃には、噂は、あっという間に町中に広がっていた。
パン屋に入った途端、店主の奥さんがちらりとこちらを見て、笑顔の端に含みを持たせながら声をかけてきた。
「エヴァちゃん、最近スティーブのところに女性がいるって聞いたけど、大丈夫かい?」
まるで面白がっているように聞こえるのは、なぜだろう。喉の奥がひりつく。
「あはは……はい、大丈夫、です」
震えた声を、なんとかごまかすように微笑んでから、ようやく言葉を足す。
「あ、あの、葡萄のパンを、二つお願いします」
もっと毅然とした態度を取らなくては──そう思っても、うまくいかない。
奥さんは「はいよ」とだけ言い、袋へ葡萄のパンを滑り込ませる。
余計なことを言いませんようにと願ったけれど、願いも空しく、その後に続いた奥さんの言葉が胸を締めつけた。
「今は我慢だよ、エヴァちゃん。あんな坊やなんて、どうせ相手にされなくてすぐ戻ってくるんだ! 正妻面してどっしり構えてな! ほら、おまけしとくからね! 元気出しな!」
(正妻面?)
その言葉の軽さに、胸の中で何かがひそりと崩れる。
怒りではない。もっと違う感情──ああ、そうだ、虚しさだ。
この人にとってエヴァの恋は、たぶん、面白い噂話や、通りすがりの娯楽の一部に過ぎない。
そう思うと、悲しみが込み上げてくる。
それでも、この気持ちを顔に出すわけにはいかない。
エヴァの表情一つで、『噂の物語』が勝手に膨らむのは嫌だ。
せめて、それくらいの意地は持っていたい。
「パン、ありがとうございます。また買いにきますね」
エヴァは、できるだけ笑顔を作り、お礼だけを言って店から離れた。
……逃げるみたいで、嫌な気持ちだ。
店を出ると、袋の隙間から葡萄の甘酸っぱい香りが立ちのぼった。
いつもなら胸をほどく香りなのに、今日は何の慰めにもならない。
(どうして、こんな思いをしないといけないの?)
その問いが胸の奥で燻り続け、答えのないまま心を荒らしていく。
(手を動かしていた方が、ずっと楽だったかも……)
そう思って、その日はいつもより早く工房に戻ることにした。
道すがら、人と視線が合うのが怖くて、うつむいたまま石畳を急ぐ。
けれど、工房まであと少しというところで、友人のリリアと目が合ってしまった。
できればそのままやり過ごしたかった。
でも、これだけしっかり目が合ってしまえば、無視するのは無理だった。
「あれ? エヴァじゃない? 久しぶり!」
リリアの声が明るく響く。
「あ、うん、久しぶりだね。あの、ちょっと急いでるから──」
「ねえ、エヴァ、顔色悪くない? 具合が悪いの? 平気?」
できるだけ素早く切り上げようとしたのに、彼女はエヴァの顔をじっと覗き込むようにして言う。
「平気だよ。ちょっと寝不足なだけ。ほら、お祭りがあるし……」
「ふうん?」
エヴァの返事に、リリアは納得していないような顔をした。
そして、そのまま続ける。
「でも、そんな顔してると、ますます噂が広がっちゃうよ?」
「……っ」
噂とは、スティーブと、あの女性のことで間違いない。
自分では気付かないうちにエヴァの表情は、こわばったのだろう。
リリアが慌てたように両手を振る。
「あっ! ごめんねっ! そんなつもりじゃないんだよっ! あのね、無理しなくていいんだよ、って言いたかったの!」
その次に出てきた言葉が、食道のあたりに棘のように引っかかる。
「エヴァは、ずーっとスティーブと恋人同士だと思ってたのに、それが勘違いだったんだもん! 辛いのは当然だよ!!」
リリアの瞳は真剣だった。
けれど声音には、どこか張り切った調子が混じっている。
彼女の励まそうとする熱が、刃のように胸へ突き刺さった。
ぎゅっと歯を食いしばる。
言葉がつかえて、うまく話せない。
でも、彼女は気付かない。
いや、気付くことすらできないだろう。
リリアの声には確かに優しさがある。
だけど、その優しさは癒しにはならない。
言葉をかけられるたびに、古い傷跡が内側から開いていくようで、沁みる痛みに息が詰まる。助けるつもりの手が、逆に重荷になるのだ。
その痛みは鈍く、背中からじわりと染みて、骨の内側まで冷やしていく。
「エヴァ、あなたって本当にいい子だから……あたし、見てられないの。エヴァが無理して笑ってるのとか、自分のことみたいに辛いって思うよ。あのね、こういう時はね、頼っていいの。ねえ、あたしが話を聞いてあげるよ? 何があったの? 最初から詳しく教えて?」
言葉遣いは柔らかく、笑顔だって優しい。
でも、その笑顔の奥に、かすかな『満足』の影が透けて見える。
エヴァを慰める自分に酔っているようで、その視線から逃げたくなった。
リリアは、決して悪い人間ではない。
だけど、彼女の考える優しさは、エヴァの思う『優しさ』ではない。
自分が『可哀想な人を助ける素敵な自分』であることを確認する為の優しさで、その気持ちを押し付けられるたび、ますます追い詰められていく。
「ありがとう。でも、私は本当に平気だよ」
こみ上げた言葉を舌の裏で押さえつけ、エヴァはなんとか笑顔を作った。
リリアはそんなエヴァの顔をじっと覗き込み、首を傾げる。
「……本当に?」
「うん、本当」
「でも、そう見えないよ?」
「……」
(──しつこい)
これ以上彼女と話していたら、言ってはいけないことを言ってしまいそうだ。
「……リリア、本当にありがとね。優しくしてくれて嬉しいよ。リリアのおかげで元気がでた」
そう言うと、リリアは満足したように微笑んだ。
「ふふっ! そう? ならよかった。いつでも頼ってね!」
「……うん」
エヴァはぎこちなく笑い返し、その場を離れた。
背を向けた瞬間、顔から笑みが剝がれ落ちる。
つい先程リリアに言った言葉は、全部、嘘だった。優しさも感じていないし、嬉しいなんて気持ちも、本当じゃない。
(ああ、そっか……本音を言える友達なんて、私にはいないんだ。恋も、友情も、ただの勘違いだったんだ。そんなことを今さら思い知らされるなんて……。惨めで、恥ずかしくて、馬鹿みたい)
逃げるみたいに石畳を踏みしめる足音が、どこまでも自分を追いかけてきた。
(分かってる。誰も悪くない)
通りの角を曲がると、夕暮れの風が頬を撫でた。
(悪いのは、勘違いしてた私)
誰もいない路地に、パンと果実の香りがまだ残っている。
街灯には小さなリボンが結ばれていて、風に揺れるたび、かすかにカサカサと音を立てていた。
歩くたび、内側のどこかが少しずつ剝がれ落ちていくようだった。
その夜、工房での作業を終えた後、なんとなく息が詰まりそうで、外に出てみた。
空には輪郭がぼやけた月がかかっていた。
小さな猫が一匹、屋根の上を歩いているのが見えた。家と家の間の瓦の上を、まるで迷いもなく渡っていく。
エヴァはその後ろ姿を、しばらくぼんやりと見つめていた。
祭りの準備で町中がにぎやかになり始めている。
赤や黄色のリボンが街灯に結ばれ、通りに並ぶ露店では、菓子やランタンが彩りを添えていた。その明るさが胸に重くのしかかる。
そんな時だった、薬屋から出てくるスティーブの姿が目に入ったのは。
手には小さな包み──おそらく、あの女性の為の薬だろう。
彼の顔には、何かを背負っているような重さがある。
それでも、どうしても声をかけずにはいられなかった。
「スティーブ」
エヴァの声に気付いたスティーブが振り返る。
街灯の下で、彼の表情がはっきりと目に入った。疲れたような、苛立ったような顔だった。
「なんだ、エヴァか」
いつもと変わらない、素っ気ない返事。
でも、その素っ気なさがいつも以上に響く。
「あの人、本当に大丈夫なの?」
気付けばそんな言葉が口をついて出ていた。
「彼女、私たちとは違うと思う……」
自分でも分かっていた。この言葉の奥には嫉妬が混じっている。それが隠しきれない自分が情けなくて、惨めで、でも……どうしても止められなかった。
スティーブが、わずかに眉をひそめる。
「お前、冷たいな」
「そんな……私は、あなたが心配で──」
言いかけたエヴァの言葉を、スティーブが遮る。
「俺には放っておけないんだよ」
その声には、苛立ちが混じっている。
「彼女、記憶が曖昧なんだ。自分の名前も、どこから来たのかも分からない。俺が助けなきゃ、誰が助けるんだ?」
「でも──」
「はあ」
スティーブが大きなため息をつく音を耳にした時、エヴァは言葉をのみ込んでいた。
何か言わなきゃ──そう思うのに、声が出ない。
肩が竦み、背中の奥がじわじわと冷えていく。
「なんで分かんねえんだよ」
またため息を吐かれた。
──分からない。
(そうか、私には分からないんだ。彼の考えも、気持ちも、彼が今、何を大事にしているのかも)
そう思った。
でも、やはり、言葉にはならなかった。
スティーブは短くエヴァを見やった。その目には、敵意と落胆が浮かんでいる。
そして、彼の次の一言が、エヴァの中で何かを決定的に壊した。
「……お前にはガッカリだ。こんなに冷たくて意地の悪い女だとは思わなかった」
その一言が、鋭い刃となって心臓を直に叩いた。
(『意地の悪い女』?)
呼吸が途切れ、肺が硬直したまま動かない。痛みがじわじわと体の奥に広がり、自分の中で何かが壊れていく音がする。
何も言えず、彼がそのまま踵を返して歩き去るのを見送ることしかできない。
彼の背中が遠ざかるたび、体の奥にぽっかりと空洞が広がり、足元の石畳まで吸い込まれそうになった。
こんな思いをするくらいなら、声なんてかけるべきではなかった。
……いや、もっと早くこの恋を諦めていれば、ここまで苦しまなくて済んだのかもしれない。
それでも、エヴァはまだスティーブが好きだった。
この気持ちに逆らえない自分が、どうしようもなく情けない。
こんなにも傷ついているのに、彼の顔や声が頭に浮かぶたび胸が熱くなるのだ。
喉が細く絞られ、空気を吸うたびに肺の内側が焼けるように苦しかった。
涙は、もう堪えることができない。
熱いしずくが頬を伝い、次から次へとこぼれていく。
エヴァが彼にしてきたことは、結局すべて、自分の為だったのだ。
彼のそばにいたくて、何かをしていたかっただけで、見返りがほしかったわけじゃなかった──そのはずなのに、心のどこかでは『彼に応えてほしい』と願っていたのだ。
それはもう、優しさでも、愛情でもなく、自己満足だった。
彼の言葉が、それをはっきりと教えてくれた。
彼の心の中心にいるのは、エヴァではない。
エヴァよりもずっと綺麗で、出会って間もない、名前すら知らない女性なのだ。
(もしも私がもっと綺麗だったら……あの人のような見た目だったら……スティーブは優しくしてくれたのかな……)
誰にも言えない問いが、心の奥で濁流のように反響し続けていた。