表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

①勘違いと失恋

 夕映えに染まる職人町を、エヴァは歩いていた。


 父の工房で時計職人の見習いとして働くエヴァにとって、この通りは幼い頃からの景色の一部だった。


 木槌の音、金属の匂い、人々の呼び声。

 どれも日常の息づかいとして胸に馴染んでいる。


 隣を歩くのは、二つ年上の幼馴染、スティーブだ。

 震災で両親を亡くしたスティーブは教会に身を寄せ、今では港で荷を担って働いている。


 幼い頃から、二人はいつも一緒だった。

 父同士が友人で、震災のあとも縁は途切れなかった。

 破れた袖を繕い、焼いたパンを分けると、幼いスティーブが笑顔で礼を言った。

 その笑顔に、エヴァの胸は小さく跳ねた。


 ──感情はやがて初恋へと変わり、永遠に続くものだと信じるようになった。



 通りの軒先では、ランタンの骨組みが吊るされ始めていた。

 もうすぐ、百年以上続く『恋の祭事』がやってくる。


 町中がランタンとリボンで彩られ、光のアーチの下で恋人たちが懐中時計を交換するという、想いを預ける儀式のようなものだ。

 年に一度、町全体が浮き立つ。

 恋人も、夫婦も、家族も、誰もが誰かを想いながら、その夜を迎える。


 この祭りの夜に誰かと過ごすことは、偶然や気まぐれで済ませられるものではない。

 周囲は、祭りに参加する男女を『恋人』や『結婚の前提』と見なす空気がある。

 だからこそ、エヴァにとって、この夜は特別だった。


 スティーブが十六になった年から、毎年この祭りの夜をエヴァと過ごしてくれる。

 それも、今年で五度目。数えればわずか五回にすぎないのに、まるでずっと昔から続いてきたように思える。


 エヴァはそこに、自分なりの意味を重ねてきた。彼にとって自分は、誰よりも近い、と。

 けれど、隣を歩くだけでは、彼の考えていることを確かめる術がなく、不安な気持ちもある。


 風に翻るリボンの向こう、灯を宿したランタンがゆらりと揺れた。

 橙の光は、届かぬ想いを包みこむように、町に溶けていく。


「お祭り、今年も一緒に行くよね?」

「あー、うん」


「……」

 スティーブの素っ気ない返事に心がわずかに沈む。


 風に鳴るリボンの音が耳に残り、石畳には灯りの色が淡く踊っていた。


 町の人たちは、エヴァとスティーブを見て、()()()()()()に思っている。結婚前提である、と。

 そう思われることが、エヴァの気持ちを支えていた。



 道端の露店でも、すでに祭りの準備が進んでいる。

 通りの一角では、時計職人たちが昼の展示会に備え、懐中時計を一つずつ並べていた。磨き上げられた金属が、夕暮れの光を淡く返している。

 どれも丹念に仕上げられた品ばかり。中には、光のアーチの象徴とされるペアの懐中時計もあった。細い鎖をつなぐようにして、二つの文字盤が並べられている。


 交換されたペア時計は、『永遠の愛』の証になる。


 言い伝えの類いだが、この町では、それを本気で信じている者が多い。

 エヴァもその中の一人だ。


 世間では、十八から二十四歳──この短い間に、結婚を決める者が多いと言われている。


 エヴァは、今年で十九歳。


 期待していないふりをしても、視線は勝手に光のアーチを追ってしまう。

 期待すればするほど、その先に落ちる影も深くなると分かっているのに。


「お父さんね、今年の懐中時計は去年よりもずっと凝った細工にするんだって。お母さんの昔のデザイン画が出てきたらしくて、それをもとに挑戦するつもりみたい」


 言葉を口にしながら、工房の光景を思い返す。


 父が図面を前に、何度もため息をついては線を引き直していたのを覚えている。

 あの時間を愛おしいと感じるのは、自分が二人の娘だからだろうか。

 二人は、エヴァにとって自慢の両親であり、憧れだ。


 スティーブは「へえ」とだけ言った。

 気のない相槌なんて、想定の範囲内なのに寂しい。


 たぶん、彼にとっては祭りは特別なものじゃない。エヴァの話も、きっと同じ。聞き流している。


 それでも、彼と一緒に光のアーチをくぐりたい。光のアーチの下で、スティーブとペアの懐中時計を交換したい。


「今年もクッキー焼いて持っていこうかな。ちゃんと食べてくれる?」


 去年、黙ってそれを口にしていた彼の姿は、今も記憶に残っている。


「ああ」

 彼はポケットに手を突っ込んだまま、いつもの調子で答える。


 昔のようにお礼は言わなくなったけど……食べてくれるのだから、きっと喜んでくれているはずだ。


「あ、あとね、お祭りの準備のことなんだけど……」

「なあ、俺、昼の仕事が忙しくてさ。準備とか手伝いとか、たぶん無理」

 スティーブは歩きながら言う。言葉に特別な色はない。


「あ、そっか。そうだよね。……うん、分かった」


 じくりと、針を落とされたような痛みが走る。


(──ねえ。私たち、将来のことを考える仲なんだよね?)


 問いが頭に浮かぶけれど、それが唇を越えることはない。


 もし言葉にしてしまったら、何かが壊れる気がして。


(……ううん、本当は分かっている)


 昔、一度だけ、似たことを言ったことがあった。

 でもスティーブは、曖昧に笑っただけだった。


 あれ以来、自分の気持ちを明確に伝えるのが怖くなった。


 答えは、きっと、もう『ここ』にある。

 エヴァはまだ『時計を交換する相手』ではないのだろう。


 それでも彼は、今年も『エヴァと一緒に行く』ことを選んでくれた。

 そこに、ひそかな期待を重ねてしまう──今はまだでも、いつかは、と。




「──……なんだ?」


 ぼそりとスティーブが呟き、急に足を止めた。

 つられてエヴァも立ち止まり、彼の視線の先を追う。

 石畳の端、ガス灯の光が霞むその下に、誰かが倒れていた。


 形からして、人間のようだった。

 夕映えの色が血のように石畳を染めていた。


「人?」

 言葉が自然と漏れた。


 心がざわつき、エヴァは無意識にスティーブの腕を掴んだ。

 彼はエヴァの手に反応せず、無言で一歩、また一歩と歩み寄っていく。


 そこにいたのは、若い女性だった。

 裾を泥で汚したドレス。胸元には土埃。片耳だけのイヤリングが、夕焼けの橙を受けて微かに光っていた。

 顔立ちはとんでもなく整っているけれど、血の気がない。


 スティーブは小さく息を飲み、その場にしゃがみ込んだ。


 エヴァの膝は固まり、足先が石畳に縫い付けられたように動かない。


「おい、大丈夫か?」


 呼びかけに、反応はない。

 女性は身じろぎもせず、動かないまま横たわっている。


「スティーブ、この人……どうする?」


 エヴァが問いかけても、彼はすぐには答えなかった。眉間に皺を寄せたまま、じっと女性を見下ろしている。


「ね、教会に連れて行こうよ。修道女たちなら、すぐに手当てしてくれるよ」

「いや、俺が医者に運ぶ」


 短くそう言うと、スティーブは女性の肩に手を伸ばし、ぐっと抱き起こした。

 その動作が思いのほか素早くて、エヴァの足が半歩遅れ、声が詰まった。


「え……? 抱えて行くの?」

「ああ」

「でも」

「エヴァ、ここで解散しよう」


 その目には迷いも、躊躇もなく、どこか冴えた光が宿っていた──エヴァが見たことのない色だった。

 次の瞬間、彼は驚くほど軽やかに駆け出していた。


 ずしん、と。みぞおちに石を落とされたような圧迫感が広がる。


「待って、スティーブ!」


 気付けば、石畳を蹴って彼の背中を追っていた。


 ◇


 町外れの医者の家に着いた頃には、スティーブの額にうっすらと汗が滲んでいた。


 彼は女性を抱えたまま、無言で玄関の扉を力強く叩いた。


 医者が顔を出すと、スティーブは手短に事情を伝えた。

 エヴァは少し離れた場所から、その様子を見ていた。


 胸の内がじりじりと痛み出す。

 あの女性の姿のせいなのか、それともスティーブの見慣れないほど真剣な顔のせいなのか。


「中に運びなさい。診てみよう」


 医者の声に、スティーブは黙って頷き、女性を抱えたまま家の中へ入っていった。

 エヴァも彼の後を追おうとしたけれど、中には入れなかった。


 扉が目の前で閉じられたからだ。


(……私を、置いていった?)

 そう思った瞬間、自分でも驚いた。


 必要とされていないと感じるなんて、おかしい。

 こんな場面で自分にできることなんて、元々ないのに。


 分かっている。

 ……分かっているはずなのに、苦しくて、悲しくて、たまらない。



 やがて、スティーブが玄関から出てきた。

 医者に一礼をして、それからエヴァの方を向く。


「さっきのあの人だけど、俺が面倒見ることにした」


 その言葉に、頭の中が真っ白になった。


「一人にしておくのは無理だろ。怪我はしてないけど、体力が落ちてるって医者が言ってた。とにかく休ませないと」

 淡々とした口調だった。


 言い終えると、彼はちらりと医者の家の中を振り返った。


「なあ、食事を用意してくれるか?」

「え?」

「俺のと、病人用のを作ってくれ。それから、彼女の為の寝間着とシーツの替えも頼みたい。新しいものがいい。それから──」

「ちょっと待ってよ」

「何だよ」

「なんで、私に頼むの?」

「あ?」


「スティーブが『面倒を見る』って決めたんでしょ?」

 言葉を押し出すたびに喉が締めつけられ、視線が宙をさまよった。

「だったら、あなたがやるべきじゃないの?」


 スティーブが目を丸くする。驚いているのだろう。

 でも、自分自身の発言に一番驚いているのはエヴァだ。


「お前も見つけたろ。二人で見つけたんだ。協力するのが当たり前だろ?」

「協力……?」


 スティーブは眉をしかめ、目を細めた。あきれたようにも、苛立っているようにも見える。

 それから、彼は「はあっ」と、大袈裟にため息をついた。わざとらしいくらいの、分かりやすい不機嫌さで。


「つうか、お前、そういうの好きだろ?」


 その言葉で、何かが一気に冷えていくのを感じた。


「『そういうの』、って、何……?」

「世話焼き。いつも勝手にやってるじゃん、俺に」


 頼んでもないのに、と小さく付け加えられた言葉に、指先の感覚がなくなる。


(スティーブは本気で言っているの?)


 世話を焼くのが好きだからやっていたわけではない。


「私が、あなたの世話を焼くのは……そういうことじゃ、ない……」


 声を出すのに、少し力が要った。それに対してスティーブは、肩を軽くすくめて見せただけ。


「ねえ、心配なんだよ。スティーブも見たでしょ? あの人、すごく高そうなイヤリングしてた。服の意匠もここら辺じゃ見ない上等なものだったし、普通じゃないって、分かるでしょ……? あなたの嫌いな面倒ごとだと思わないの?」


「面倒かどうかなんて、どうでもいい……!」

 スティーブの声が、荒くなった。

「放っておくなんて無理だろ? それだけの話だ。深入りだの損得だのって、考える必要あるか!?」


「そうじゃなくて──」

 言いかけたところで、彼がエヴァの言葉を切った。


「お前、いちいちうるせえんだよ」


 短く、強く。

 その音が鼓膜を刺し、足元から力が抜けた。


「家族でもなんでもない。赤の他人のくせに、なんでそんな文句ばっか言うんだ。……めんどくせえ」


 恋人でも、幼馴染でも、友達でもなく、『他人』。


 倒れていた女性は面倒じゃなくて、エヴァだけが『めんどくせえ』。


 結婚だなんて、勘違いにもほどがあった。


 エヴァは、スタートラインにすら立っていなかったのだ。


「俺、もう戻るわ」


 スティーブは硬直したエヴァを残し、背を向けて医者の家へ戻っていった。


 バタン、と、玄関の扉が閉まる音だけが、耳の奥でこだまする。

 夜の風が、何も知らないふりで通り過ぎていく。


 息が詰まったままのエヴァは、そこに一人残された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ