①勘違いと失恋
夕映えに染まる職人町を、エヴァは歩いていた。
父の工房で時計職人の見習いとして働くエヴァにとって、この通りは幼い頃からの景色の一部だった。
木槌の音、金属の匂い、人々の呼び声。
どれも日常の息づかいとして胸に馴染んでいる。
隣を歩くのは、二つ年上の幼馴染、スティーブだ。
震災で両親を亡くしたスティーブは教会に身を寄せ、今では港で荷を担って働いている。
幼い頃から、二人はいつも一緒だった。
父同士が友人で、震災のあとも縁は途切れなかった。
破れた袖を繕い、焼いたパンを分けると、幼いスティーブが笑顔で礼を言った。
その笑顔に、エヴァの胸は小さく跳ねた。
──感情はやがて初恋へと変わり、永遠に続くものだと信じるようになった。
通りの軒先では、ランタンの骨組みが吊るされ始めていた。
もうすぐ、百年以上続く『恋の祭事』がやってくる。
町中がランタンとリボンで彩られ、光のアーチの下で恋人たちが懐中時計を交換するという、想いを預ける儀式のようなものだ。
年に一度、町全体が浮き立つ。
恋人も、夫婦も、家族も、誰もが誰かを想いながら、その夜を迎える。
この祭りの夜に誰かと過ごすことは、偶然や気まぐれで済ませられるものではない。
周囲は、祭りに参加する男女を『恋人』や『結婚の前提』と見なす空気がある。
だからこそ、エヴァにとって、この夜は特別だった。
スティーブが十六になった年から、毎年この祭りの夜をエヴァと過ごしてくれる。
それも、今年で五度目。数えればわずか五回にすぎないのに、まるでずっと昔から続いてきたように思える。
エヴァはそこに、自分なりの意味を重ねてきた。彼にとって自分は、誰よりも近い、と。
けれど、隣を歩くだけでは、彼の考えていることを確かめる術がなく、不安な気持ちもある。
風に翻るリボンの向こう、灯を宿したランタンがゆらりと揺れた。
橙の光は、届かぬ想いを包みこむように、町に溶けていく。
「お祭り、今年も一緒に行くよね?」
「あー、うん」
「……」
スティーブの素っ気ない返事に心がわずかに沈む。
風に鳴るリボンの音が耳に残り、石畳には灯りの色が淡く踊っていた。
町の人たちは、エヴァとスティーブを見て、そういうふうに思っている。結婚前提である、と。
そう思われることが、エヴァの気持ちを支えていた。
道端の露店でも、すでに祭りの準備が進んでいる。
通りの一角では、時計職人たちが昼の展示会に備え、懐中時計を一つずつ並べていた。磨き上げられた金属が、夕暮れの光を淡く返している。
どれも丹念に仕上げられた品ばかり。中には、光のアーチの象徴とされるペアの懐中時計もあった。細い鎖をつなぐようにして、二つの文字盤が並べられている。
交換されたペア時計は、『永遠の愛』の証になる。
言い伝えの類いだが、この町では、それを本気で信じている者が多い。
エヴァもその中の一人だ。
世間では、十八から二十四歳──この短い間に、結婚を決める者が多いと言われている。
エヴァは、今年で十九歳。
期待していないふりをしても、視線は勝手に光のアーチを追ってしまう。
期待すればするほど、その先に落ちる影も深くなると分かっているのに。
「お父さんね、今年の懐中時計は去年よりもずっと凝った細工にするんだって。お母さんの昔のデザイン画が出てきたらしくて、それをもとに挑戦するつもりみたい」
言葉を口にしながら、工房の光景を思い返す。
父が図面を前に、何度もため息をついては線を引き直していたのを覚えている。
あの時間を愛おしいと感じるのは、自分が二人の娘だからだろうか。
二人は、エヴァにとって自慢の両親であり、憧れだ。
スティーブは「へえ」とだけ言った。
気のない相槌なんて、想定の範囲内なのに寂しい。
たぶん、彼にとっては祭りは特別なものじゃない。エヴァの話も、きっと同じ。聞き流している。
それでも、彼と一緒に光のアーチをくぐりたい。光のアーチの下で、スティーブとペアの懐中時計を交換したい。
「今年もクッキー焼いて持っていこうかな。ちゃんと食べてくれる?」
去年、黙ってそれを口にしていた彼の姿は、今も記憶に残っている。
「ああ」
彼はポケットに手を突っ込んだまま、いつもの調子で答える。
昔のようにお礼は言わなくなったけど……食べてくれるのだから、きっと喜んでくれているはずだ。
「あ、あとね、お祭りの準備のことなんだけど……」
「なあ、俺、昼の仕事が忙しくてさ。準備とか手伝いとか、たぶん無理」
スティーブは歩きながら言う。言葉に特別な色はない。
「あ、そっか。そうだよね。……うん、分かった」
じくりと、針を落とされたような痛みが走る。
(──ねえ。私たち、将来のことを考える仲なんだよね?)
問いが頭に浮かぶけれど、それが唇を越えることはない。
もし言葉にしてしまったら、何かが壊れる気がして。
(……ううん、本当は分かっている)
昔、一度だけ、似たことを言ったことがあった。
でもスティーブは、曖昧に笑っただけだった。
あれ以来、自分の気持ちを明確に伝えるのが怖くなった。
答えは、きっと、もう『ここ』にある。
エヴァはまだ『時計を交換する相手』ではないのだろう。
それでも彼は、今年も『エヴァと一緒に行く』ことを選んでくれた。
そこに、ひそかな期待を重ねてしまう──今はまだでも、いつかは、と。
「──……なんだ?」
ぼそりとスティーブが呟き、急に足を止めた。
つられてエヴァも立ち止まり、彼の視線の先を追う。
石畳の端、ガス灯の光が霞むその下に、誰かが倒れていた。
形からして、人間のようだった。
夕映えの色が血のように石畳を染めていた。
「人?」
言葉が自然と漏れた。
心がざわつき、エヴァは無意識にスティーブの腕を掴んだ。
彼はエヴァの手に反応せず、無言で一歩、また一歩と歩み寄っていく。
そこにいたのは、若い女性だった。
裾を泥で汚したドレス。胸元には土埃。片耳だけのイヤリングが、夕焼けの橙を受けて微かに光っていた。
顔立ちはとんでもなく整っているけれど、血の気がない。
スティーブは小さく息を飲み、その場にしゃがみ込んだ。
エヴァの膝は固まり、足先が石畳に縫い付けられたように動かない。
「おい、大丈夫か?」
呼びかけに、反応はない。
女性は身じろぎもせず、動かないまま横たわっている。
「スティーブ、この人……どうする?」
エヴァが問いかけても、彼はすぐには答えなかった。眉間に皺を寄せたまま、じっと女性を見下ろしている。
「ね、教会に連れて行こうよ。修道女たちなら、すぐに手当てしてくれるよ」
「いや、俺が医者に運ぶ」
短くそう言うと、スティーブは女性の肩に手を伸ばし、ぐっと抱き起こした。
その動作が思いのほか素早くて、エヴァの足が半歩遅れ、声が詰まった。
「え……? 抱えて行くの?」
「ああ」
「でも」
「エヴァ、ここで解散しよう」
その目には迷いも、躊躇もなく、どこか冴えた光が宿っていた──エヴァが見たことのない色だった。
次の瞬間、彼は驚くほど軽やかに駆け出していた。
ずしん、と。みぞおちに石を落とされたような圧迫感が広がる。
「待って、スティーブ!」
気付けば、石畳を蹴って彼の背中を追っていた。
◇
町外れの医者の家に着いた頃には、スティーブの額にうっすらと汗が滲んでいた。
彼は女性を抱えたまま、無言で玄関の扉を力強く叩いた。
医者が顔を出すと、スティーブは手短に事情を伝えた。
エヴァは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
胸の内がじりじりと痛み出す。
あの女性の姿のせいなのか、それともスティーブの見慣れないほど真剣な顔のせいなのか。
「中に運びなさい。診てみよう」
医者の声に、スティーブは黙って頷き、女性を抱えたまま家の中へ入っていった。
エヴァも彼の後を追おうとしたけれど、中には入れなかった。
扉が目の前で閉じられたからだ。
(……私を、置いていった?)
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
必要とされていないと感じるなんて、おかしい。
こんな場面で自分にできることなんて、元々ないのに。
分かっている。
……分かっているはずなのに、苦しくて、悲しくて、たまらない。
やがて、スティーブが玄関から出てきた。
医者に一礼をして、それからエヴァの方を向く。
「さっきのあの人だけど、俺が面倒見ることにした」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
「一人にしておくのは無理だろ。怪我はしてないけど、体力が落ちてるって医者が言ってた。とにかく休ませないと」
淡々とした口調だった。
言い終えると、彼はちらりと医者の家の中を振り返った。
「なあ、食事を用意してくれるか?」
「え?」
「俺のと、病人用のを作ってくれ。それから、彼女の為の寝間着とシーツの替えも頼みたい。新しいものがいい。それから──」
「ちょっと待ってよ」
「何だよ」
「なんで、私に頼むの?」
「あ?」
「スティーブが『面倒を見る』って決めたんでしょ?」
言葉を押し出すたびに喉が締めつけられ、視線が宙をさまよった。
「だったら、あなたがやるべきじゃないの?」
スティーブが目を丸くする。驚いているのだろう。
でも、自分自身の発言に一番驚いているのはエヴァだ。
「お前も見つけたろ。二人で見つけたんだ。協力するのが当たり前だろ?」
「協力……?」
スティーブは眉をしかめ、目を細めた。あきれたようにも、苛立っているようにも見える。
それから、彼は「はあっ」と、大袈裟にため息をついた。わざとらしいくらいの、分かりやすい不機嫌さで。
「つうか、お前、そういうの好きだろ?」
その言葉で、何かが一気に冷えていくのを感じた。
「『そういうの』、って、何……?」
「世話焼き。いつも勝手にやってるじゃん、俺に」
頼んでもないのに、と小さく付け加えられた言葉に、指先の感覚がなくなる。
(スティーブは本気で言っているの?)
世話を焼くのが好きだからやっていたわけではない。
「私が、あなたの世話を焼くのは……そういうことじゃ、ない……」
声を出すのに、少し力が要った。それに対してスティーブは、肩を軽くすくめて見せただけ。
「ねえ、心配なんだよ。スティーブも見たでしょ? あの人、すごく高そうなイヤリングしてた。服の意匠もここら辺じゃ見ない上等なものだったし、普通じゃないって、分かるでしょ……? あなたの嫌いな面倒ごとだと思わないの?」
「面倒かどうかなんて、どうでもいい……!」
スティーブの声が、荒くなった。
「放っておくなんて無理だろ? それだけの話だ。深入りだの損得だのって、考える必要あるか!?」
「そうじゃなくて──」
言いかけたところで、彼がエヴァの言葉を切った。
「お前、いちいちうるせえんだよ」
短く、強く。
その音が鼓膜を刺し、足元から力が抜けた。
「家族でもなんでもない。赤の他人のくせに、なんでそんな文句ばっか言うんだ。……めんどくせえ」
恋人でも、幼馴染でも、友達でもなく、『他人』。
倒れていた女性は面倒じゃなくて、エヴァだけが『めんどくせえ』。
結婚だなんて、勘違いにもほどがあった。
エヴァは、スタートラインにすら立っていなかったのだ。
「俺、もう戻るわ」
スティーブは硬直したエヴァを残し、背を向けて医者の家へ戻っていった。
バタン、と、玄関の扉が閉まる音だけが、耳の奥でこだまする。
夜の風が、何も知らないふりで通り過ぎていく。
息が詰まったままのエヴァは、そこに一人残された。