兄と刑事
法医学教室から離れて鷲見はそっと一息つく。五感が死の匂いに慣れたとて、その雰囲気からは解放されたくて辛抱ならない。さすがに仕事だと割りきっているため頑是ない子どものような真似はしないが、生存本能のひとつなのか単に心の底で仕事に関する何かを嫌悪しているのか、答えが出ても仕方のないことだと予想はついているがふとした拍子に考えてしまう。
大学の駐車場に停めた車の鍵をポケットに探っているとき、車両の影から人影が現れた。
「どうも」暗がりの中で軽く手を上げているのは髙橋だった。
「車は?」
「望月が近くまで乗せてくれました。俺、運転しますよ」
鍵を渡すと代わりに缶コーヒーが差しだされた。
「間違えて買っちゃいました。飲みます?」
「ガキか」
憎まれ口を叩きながら受けとり、腕にかけたスーツのポケットに缶を滑りこませた。スーツの襟を引いて均衡を整える。
髙橋は運転席側から乗りこみ、鷲見は助手席に腰を下ろした。エンジンをかけながら「冷めますよ」と指摘する。
「冷めてまずくなる飲料にアイスは存在しない。だいたい、こんなクソ暑い日にホットを買うな」
「胃腸は冷やさないほうが健康にいいんですって。ご存じありません?」
「こんな時間からコーヒーを飲ませようとするやつが健康志向か?」
腕時計を一瞥して冷笑すると髙橋は軽く肩をすくませる。
「こんな時間から仕事だと呼び出されたんですから時間なんてどうだっていいでしょう? それとも、ビールをお求めですか?」
鷲見が「勘弁してくれ」というのが早いか否か、アクセルが踏みこまれる。捜査本部が置かれることになった現場から最寄りの署へ走り出した。
鷲見と髙橋が当該会議室に到着したときにはほとんど会議の用意が整っているように見えた。最初の捜査会議だ。情報共有とおおよその方針が共有される。大きなホワイトボードにはすでに文字や写真が配置されていた。そこには、瞼を閉じたまま小雨に降られていた少女が満面の笑みを浮かべている写真も、含まれている。
鷲見の到着に気がついたらしい大城が厳めしい表情のまま近づいてきた。
「ガイシャの身元、判明ったらしいな」
「白河六花さん、修桜大学付属高校一年生。生年月日から察するに十六歳――所持品の財布の中に学生証がありました。まあ、本人でしょう」
「今どきの学生は夏休みに学生証を持ち歩くものなのか?」
「クラスメイト五名で旅行中だったそうで、学割目的じゃないですかね」斜め後ろから髙橋が補足する。
「彼らの友人だったか」
誰に伝えるでもなく言葉が零れた。鷲見は誤魔化すように「被害者の両親に連絡は?」大城に質問をぶつけた。すると、聞かれると予想していたらしい、タブレット端末を差しだした。慣れない手つきでスクロールする上司に構わず大城は続ける。
「所持品の中にガイシャのものと思われるスマホはありましたが、碌に連絡先を登録していないようで。まあ、最近は電話帳なんて使いませんから。ひとまず、被害者支援の担当者は、お兄ちゃん、に電話してこっちに呼んだそうです」
「メッセージアプリやSNSにも?」
「お兄ちゃんと登録されているデータのほかには友人と思われるものだけです。いくつか並んでいるこの……レ、ロゼイ? このほかオマ・アンド・オパについては、確認中です」
現場から証拠品として取得された被害者のものと思われるスマートフォンから抽出された情報を列挙したもののうち、鷲見はようやく登録された連絡先に辿りつき、目を通した。大城のカタコトどおりのローマ字読みであってもそうでなくても、鷲見は心当たりが無かった。
「父、母、白河……確かにひとつもないな。それで? お兄ちゃんとやらは来れるのか? 旅行中ってことは、こっちは地元ではないんだろう?」
「担当者いわく取り乱した様子は無かったそうです。落ち着いていた、と。関東からなので会議が終わるころには到着するでしょう」
「そうか」
会議室の前の扉から管理職が次々と入室する。会議開始の頃合いだった。
被害者は白河六花だと断定されたのは、遺体発見まもなく現場まで姿を現した五人の少年少女の話からも間違いないらしい。ところが、任意で宿泊していた部屋を確認したところ、被害者が滞在していた部屋からリュックサック含めて被害者本人の荷物がすっかり消えていた。
詳細を聞いてみると、同室の女子ふたりが被害者の荷物が無いと気がついた時点では最後に被害者本人を見てから二時間以上は経過していたという。すぐに男子三人にも声をかけて相談するまでもなく、彼ら五人は被害者が何処へ行ったのか捜索を始めたらしい。
雨が降ってきたとはいえ宿泊先から決して遠くない場所での事件を知り、希望か不安か、よくわからないものに突き動かされるように駆けてきたのだろう……鷲見は腕を組んで資料を睨みつける。
ホテルの一室を借りて聴取未満の聞き取りをしてきた班員によって、被害者の最後の飲食は、姿が見えなくなった当日の夕食および直後のデザートだと確認された。朝から海水浴をして疲れたためその日はホテル内で食事したという彼らの証言は、ホテルに設置された防犯カメラ映像が裏付けた。十七時五十七分ごろ六人で食堂に赴き、十九時二十三分には揃って出ていく姿、宿泊階のエレベーターホールに到着したのは十九時二十七分だと確認できた。なお、デザートは男子三人の宿泊部屋に集まって日中に購入した熱海プリンを食べた。その後、若い身体とはいえ朝から海を楽しんで疲労は蓄積していたようで、誰が主張するでもなく二十時を目途に被害者を含む女子三人は部屋に戻ったと口を揃えていた。
監察医の話では被害者の死亡推定時刻は食後二時間から五時間程度、つまり当日二十二時から翌一時に該当する。
また、女子側は部屋に戻ると順番にシャワーを浴びつつ就寝準備を進めたと言った。被害者が二番目に浴室を使用している間にひとりは疲れてベッドで眠ってしまったが、もうひとりは被害者の次に入れ替わるように浴室へ入った。最後に浴室を使うことになった彼女はそれが最後に被害者を見たときだと言い、おそらく二十時四十分前後ではないかと推しはかった。なお、これを補強するようにホテルが提供したルームキーの解錠施錠時刻は、男子部屋が十九時五十九分に内側から解錠され、女子部屋が二十時二分に外側からカードキーで解錠されると、ともに二十時六分に自動施錠された記録がある。次に女子部屋が内側から解錠されたのは二十時四十三分であり、この三十七分間は一度も解錠されていない。
要するに、最後にシャワーを使用した少女の話について時間的な違和感は見受けられない。
実際、被害者は発見時の服装に加えてリュックサックを背に桃色のマスクで顔のほとんどを覆った姿を宿泊階のエレベーターホールでは二十時四十五分ごろ、ホテルのエントランスではその数分後。それぞれ防犯カメラに捉えられていた。
欲を言えば男子部屋と女子部屋を取っておいて欲しかったものだが、宿泊者のプライバシーを考慮すれば無理な話だ。死角はあるが、及第点の範囲を記録している。
それぞれを考慮すると、現時点における被害者の死亡推定時刻は当日二十二時から二十三時だと考えられる。他方、これはあくまでも被害者が息を引き取ったと考えられる時刻だ。
受傷後しばらく息があったというから前者を引き延ばして――二十時四十五分から二十三時――被害者の身に何かあったと思われるのは、この二時間十五分だろう。
鷲見はなんとなく腕時計に視線を降ろした。目敏い髙橋の視線を無視して再び会議に聞き入る。
現場からは被害者のものと思われるスマートフォン、財布、ホテルのルームキーは回収されたがマスクやリュックサックは見つかっていないため捜索が続行されること。
被害者が通っていた学校関係者や一緒に旅行していた友人らに任意聴取をするため少数が関東へ送られること。
被害者の保護者への連絡を急ぐこと。
第一発見者の少年への対応を丁寧に進めること。
初回の捜査会議における決定事項はこの四点だった。粒立って目を引くものではないが、鷲見の班から大城および望月の両名が関東へ向かうよう決定が下された。
会議室を出ると、鷲見の後ろから「いいんですか、望月で」髙橋が尋ねる。
「不満か?」
経験の浅い望月に大役を任せる不安はあるが、彼女の性格上、活かせる経験になると考えた。大城が同席するなら多少のミスがあったとしてもフォローできるだろう。髙橋にしても、ベテランと呼ぶにはだいぶ早いが現場周辺の捜査を進めるにあたり十分な技量がある。人選には問題ないと判断した。
「いえ。そういうわけでは……」
珍しく歯切れの悪い彼に疑問を抱く前に、廊下の先にいる別の人物が気になった。
二十代前半だろうか、青年は廊下に設置されたベンチに腰かけて、署員を見上げながら話している。白い半袖ティーシャツに黒い細身のパンツ姿、膝にフルフェイスのヘルメットを乗せている。刑事ではないだろう。纏う雰囲気だけが判断理由ではなかった。キャンディケインのような赤と白のストライプのフレームをした眼鏡があまりにも場にそぐわない。ただし、彼の口調はひどく平坦だ。
「大丈夫です、母が亡くなったときの手順なら覚えています。でも、今、印鑑持ってないです。電話でおっしゃってくださっていましたら、失礼しました。正直あんまり覚えてない感覚で」
「急ぐ必要はありません。書類が整い次第、こちらから改めてご連絡します」
「でしたら、番号どうなりますか? 妹のからじゃないと思うんですけど」
「はい。さきほどお渡しした名刺の裏に書いてあります」
青年は手にしていた紙片へ視線を落とし「ああ、本当ですね。すみません。見てませんでした」謝意を込めきれていない声色とともに軽く頭を下げた。
ちょうど話していた署員が鷲見たちに気がつく。彼女は青年に断りを入れてからこちらへ足を運んだ。
「シラカワユヅルさん……被害者のお兄さんです」
端的に告げた。その言葉だけで彼女の所属が犯罪被害者支援課の所属だと理解した。被害者へ連絡したのも彼女だろう。
「両親は? 兄だけで来たのか?」
「ふたりとも亡くなっているそうです。父親の死がきっかけで六年前に母親の故郷である日本へ移住することになったそうですが、その母親も三年前に病死しています」
「……祖父母は?」
「母方に関しては疎遠で会ったことがなく連絡の取りかたは知らないそうです。父方には連絡がとれるそうです。ただ、時差のため今は控えたいと」
「時差?」
「スイス在住の方だそうです」
「北米か」
「いや、あの雲はなぜー、ってとこですよね?」
髙橋の絶妙に空気の読めない質問に遺族担当は曖昧な苦笑を返した。
直後、
「ヨーロッパの内陸国です。フランス、ドイツ、イタリアとか、そのあたりです」
三人は同時に振り向いた。件の青年は足音もなく一メートルほど距離をおいて立っていた。髙橋と目が合って「ハイジで合ってますよ、山しかない国です」淡々と続けた。彼は遺族担当に水のペットボトルを差し出して
「それと、すみません。やっぱりいらないです」
「持っているだけでも」
「別に空気乾燥してないですから。大丈夫です」
口調は先ほどと比べて柔らかいが、有無を言わせない圧を帯びている。
遺族担当はペットボトルを受け取って「すみません」小さく頭を下げた。
「あ、いえ。ご厚意なのはわかってます」
担当者いわく取り乱した様子は無かったそうです。落ち着いていた、と。関東からなので会議が終わるころには到着するでしょう――大城の言葉が脳裏を過ぎる。取り乱していないどころか、むしろ感心するほどの冷静さである。
何を思ったのか、髙橋が一歩前に出る。
「修桜大学付属高校、横浜の学校ですよね? 関東からここまで?」
「あ、はい」
「始発?」
「あ……いえ、バイクで来ました」
「遠かっただろう? 大変じゃなかったか?」
「ですね。始発……電車、確かに電車のほうが楽ですね」
「仕事は?」
「えっと……大学生で、たまに知り合いの手伝いみたいな感じでウェブライターしてます」
「大学生?」
「はい……財布、今ちょっと学生証持ってないんですけど、あ、大学のポータルサイトでも良いですか。たしか学生情報が見れたはず――あ」
「どうした?」
「充電切れました」
呆然としながらも青年は真っ暗なスクリーンを見せてくれる。髙橋が言葉を探している傍らで「……帰りかた、わかりますか?」遺族担当が尋ねた。
「来た道戻れば、一応」
「初めてこちらへ来られたと思うのですが」
ヘルメットを小脇に抱えなおす青年に、遺族担当よりも積極的に髙橋が提案する。
「バイク乗ってきたんですよね、電車ではなく。車で送りますよ。それか、充電しませんか? 少し休んだほうが」
「でも、私がここいたら邪魔になりますよね? ほかに用はありませんし、できることないですし」
「急ぎの用事でも?」
「いえ、それはとくには」
「それなら、少し話を聞かせてもらえないかな」
なるほど、それが目的だったか――鷲見は髙橋の横顔を睨んだ。大学生ならば少なくとも十八歳以上だろう。任意聴取に親権者の同席は必須ではない。青年もなんとなく察したような声を漏らした。
「事情聴取ってやつですか、構いませんけど……仕事、大丈夫ですか?」
「あいにく、これが仕事だよ」
青年は遺族担当と髙橋を交互に見比べると、困惑したように鷲見へ視線を向けた。部署や職務内容の違いまでは把握していないのだろう。鷲見は自己紹介したうえで、遺族担当は捜査とは別の大切な仕事を担っており、事件解明を担うのは自分たちだと教えた。
ひとまず納得してくれたらしい青年を連れて、小会議室へ移動した。
遺族担当が扉を背後にできる椅子を引いて青年に着席を促した。
「……被害者と雰囲気が近いですね」
鷲見は改めて青年の後ろ姿を見下ろした。髙橋の指摘どおり、眼鏡の印象を除けば、兄妹は十分似ている。廊下で話しているときははっきりしなかったが、明るい部屋に移動したことで眼鏡のレンズ越しでも空色鼠の双眸は確認できた。
「どうしました?」尋ねながら、部屋を見渡す青年の正面に髙橋が陣取った。鷲見はすぐ隣に座る。
「いえ……こういう部屋もあるのだと思って」
「取調室に入れるのは容疑者と刑事だけですよ」
青年から椅子ひとつ空けて座る遺族担当に睨まれた気がして、咳払いをする。
「捜査の初動ですから、今は情報が必要です」
「電話で妹が、死んだとは聞きましたけれど……事故ではなかったんですか? 何時くらいに」
「何があったか明らかにするため、捜査中です」
「……わかりました。何を答えれば良いですか」
「白河六花さんの交友関係についてはご存じですか?」
「今回友達と旅行するというのは聞いていました。でも、詳しくは知りません。高校進学から間もないので交友関係と言われても浅いものばかりでしょう。ああ、小旅行を計画して実行するのって、別に浅いわけではないですかね」
「学校の知り合いよりは親しい間柄と言えるかもしれませんね。ちなみに、その友達の名前や容姿は?」
「そこまで干渉してませんから、知りません」
「ひとりも?」膝を進めた髙橋が尋ねる。すると「刑事さん、御兄弟はいらっしゃいますか?」淡白に切り返した。
「ええ、まあ。弟がふたりほど」
「でしたら、どちらの弟さんでも構いませんが、彼の御友人の名前はいくつご存じですか?」
「……高校時代からのが、それなりにいるくらいですね」
「妹はまだ進学から三か月程度です。贔屓目に見て、友人は少なくありませんでしたが、どれほどの時間をかけていままで親しくなっていったのか知るすべはありません。年齢差ゆえに入学と卒業が重なって、同時期に同じ校舎には通っていませんから」
「失礼、ありがとうございます」
「いえ……正直、話すよりも絵を描くほうが性に合っている子でしたから、私からは妹に学校で何があったか聞いてきません。もし聞いたらいくつ名前を挙げてくれたでしょうね」
「一緒に旅行していた友人についても、聞いていませんか?」
「……そうですね。海に行こうと提案があり熱海に決まったとは言っていましたが、それ以上は何も」
「人数については」
「聞いていないです」
「男女比も?」
「女子旅じゃあ……男子もいたんですか?」
これが演技なら経験者だろう。本当に何も確認していなかった自らの不足に呆れ切っているらしい。
このご時世にかぎらず、観光地へ女子高校生だけの宿泊旅行を許可するのは日本の平和神話を信じすぎている。他方、年頃の男女旅行を許可するのもどうだろうか。
青年の言葉から察するに、彼が思い至ったのは後者だけなのだろう。しかし鷲見と髙橋は何も言わない代わりに一瞬だけお互いを見やると、改めて青年に意識を集中させた。
「現場から六花さんのスマートフォンが回収されました。白河さんはパスコードをご存じでしょうか?」
「スマホ、ロック解除できていないんですか? たしか、電話……」
遺族担当へ視線が集まる。彼女は、登録されていた緊急連絡先から電話をかけた、と言う。
「じゃあ、捜査は難航してるとか、そういう」
「いや。ロックを突破できなくても情報を抽出する方法があるんです。それで、心当たりはあるかな」
「いえ、わからないです。指紋とか顔の認証はできないんですか」
「どうだろう。試させてもらいたいね」
「あくまでも捜査のことですよね? 私に拒否権があるとは思わないのですが」
青年が眉を顰める。髙橋に代わって鷲見があからさまに「ところで」話題を変えた。
「これらは六花さんのスマートフォンに登録されていたんですが……レ、ロゼイ。オマ・アンド・オパ……聞き覚えや心当たりのほうはありますか?」
すると、青年は何度かゆっくり瞬きをした。知らないのだろうな、と諦念を誤魔化すように居住まいを正そうとしたとき、
「Le Roseyですか? レ、ロゼイというのは。それなら、オマ・アンド・オパは、おそらく祖父母のことです。あの……」
言いよどむと、困ったように何度か握りこぶしを宙で振り、青年の視線は机の端にある充電中のスマートフォンに流れ着いた。遺族担当がすかさず自らの手帳とペンを彼に差し出した。意図を察したらしく、筆記用具を受けとるなり、青年は流れるような筆致によってそれぞれ「Le Rosey」「Oma&Opa」と綴った。
「父方の祖母が通わせたがったんです、妹も新しい環境が苦手だったり勉強が嫌いだったりしたわけではなかったので。インターナショナルボーディングスクールです」
あいにくながら、所在はレマン湖の近くだと補足されても、そもそも鷲見だけでなくこの場において被害者の兄以外はスイスの地理についてあまりにも解像度が低い。
「もしかして、連絡先のいくつか、Le Roseyの後にアンダーバーか何かで人名が続けられていませんでしたか?」
「人名?」
「向こうでの妹の交友関係はよくわからないんですけど、何か、女の子の名前です……アルファベット、何が綴られて――すみません、こっちから聞いたらいけませんよね。ポストカードで見たことがあるのは……ミア、マリア、アンナ、パトリツィア、カタリナ、キアラ……そのくらいです。どうですか?」
音が指定されると、案外アルファベットと一致させるのは苦にならなかった。
鷲見は「アンダーバーに続けられているのはマリア、カタリナ、キアラ……ほかにもあるが、スイスで通っていた学校での友人だったのだろうね」独り言ちるように結論付けた。
「向こうにいたころは妹さんに学校のことを聞いていたのかい?」
「あ、いえ……母が聞いてたのを」
「すまない、無作法だった」
髙橋は素直に非礼を詫びた。
「……それでも、今の交友関係を知らないのは私の責任です。お力になれずすみません。他には何か、私が答えられることありますか?」
青年のまっすぐな視線を受け止めて、髙橋は居住まいを改める。
「昨晩、白河さんはどこにいましたかね?」
「おいっ」
思わず鷲見は部下を諫める。案の定、遺族担当も眼差しを険しくして、和らげた瞳で青年を見つめる。
「自宅にいました」
不安をよそに、青年は答えた。
「ずっとですか」
「はい。妹が終業式から荷物を取り換えに帰ってきて玄関まで見送りましたが、家からはでていません」
「たしか大学生でしたよね? 白河さん自身のご友人を自宅に招いたりなどは」
「ああ、在宅を証明してくれる人ですか。いませんね。無意味に騒ぐのは性に合わないですし、世間ではまだ在宅推奨されてますから。最近は大学の講義も無くてオンライン会議の予定も入れてませんでしたし。強いて言えば、マンションの防犯カメラでしょうか。あと、ここまでバイクで高速使ってきたので、何か記録に残ってる可能性はあると思います」
「ありがとうございます。それでは最後に――白河六花さんを恨んだり憎んだりしていた人物に心当たりはありますか?」
続けられた髙橋の質問は、あくまでも機械的な口調だった。どこか青年の纏う雰囲気に合わせるような淡白さがあった。鷲見は部下を凝視する。
「事故ではなかったんですね?」
負けず劣らず冷静な声が響く。
髙橋は平然と目の前の青年を見つめている。
「ただ死んだなら、恨まれていたかなんて気にしませんよね? 交友関係や家族構成も、書類も」
「何を想像されているかわかりませんが、手順ですから」
「……わかりません。あいにく交友関係もまともに知りませんから」
「恋人がいることも?」
「はい?」
「妹さんに御友人がいることは知っていても、名前まではわからないんですね? でしたら、仮に恋人がいても六花さんは貴方には話さなかったかもしれない、それなら、知らないでしょうね」
「……そうですね。可能性は否めません」
青年は天井を見上げると淡白に答えた。続けて、髙橋を見据えて尋ねる。
「誰に殺されたんですか?」
「繰り返しますが、目下、捜査中です」
「いつわかりますか?」
「最善を尽くします」
掴み切れない冷静な青年の探るような瞳を前に、髙橋は誠実そうな眼差しを返していた。
やがて疲れたから帰りたいという青年を見送るため小会議室を後にする。被害者の所持品は改めてこちらから連絡をした際に確認してほしいと告げ、了承を受けとった。
警察署のエントランスにて、彼は高校生前後の少年に話しかけられ、そのままヘルメット片手に会話をしている。
相手の少年に見覚えがあり、記憶をたどっていると、
「あの子、現場に来たひとりか?」
尋ねてから気づいたが、髙橋に確認しても無駄だ。彼は現場を経由しなかった。
ただ、鷲見はあの場にいた男子三人のうち話しかけてきた子でも悲鳴を上げた少女を抱きとめた子でもなく、もうひとりの男子だったと記憶している。見間違えだろうか、他方、ならば被害者の兄に話しかける理由も警察署にいる理由もない。事情を知る者に確認しようにも、せめて捜査本部へ戻らねばならないだろう。
ふと髙橋の表情を見る。まっすぐ青年の後ろ姿を見つめている。
「……たったひとりの家族が殺されたのに、って。そういう顔か?」
「いえ……」
「そういえば弟の友人、何人知ってるんだ?」
「それなりに社交的なやつらでしてね。今でも交友がある十五人なら住所まで知ってますよ」
「住所?」
「年賀状だってわざわざ送りあってるんですから。成人してからは生意気にも故郷納税の返礼品で遊んでますよ。まあ、俺の場合はどっちも男ですからね。妹いないんで、白河兄妹の関係性が普通なのかどうかすらわかりません。とはいえ……あまりにも落ち着き払ってませんか?」
「兄妹仲が良好だった保証は無い。幸いなのは、無関心ではなさそうだってことだな」
「そうでしたか? かなり淡白だったと思いますけど」
「どうでもいいやつの死にかたまで気にするか?」
「それは……そうだとしても、あそこまで冷静でいられるものですかね。班長だって、何か気になりませんでした?」
「まあ、そうだな。質問には丁寧に答えるが、多くを語ろうとしていないようには思う」
「ボロを出さないようにしてるってことですか?」
「先入観と私情で判断するな」
「……すみません」
自覚があるだけまだ良い。修正の余地がある。
青年が署を後にしてから「鍵を握るのは被害者だろうな」隣の髙橋にだけ聞こえるようつぶやいた。
「まあ、マスコミや世間様が飛びつきそうな被害者――痛っ」
手が出た後に「いい加減にしろ」と補足した。努力するつもりがあるのかないのか「へーい」と返された。注意を重ねようとしたが、その前に髙橋は「ねえ、君!」少年のもとへ駆け寄った。
「情報共有がなってなくて悪いんだけどさ、白河六花さんと一緒に旅行していた子であってるよね?」
警察手帳を見せながら気安く話しかけると、少年は首肯した。
「こんな時間までどうしたの? 他の子たちは姿見えないけど。まだ親御さんの迎え、来ない?」
「今、出張先から移動してるらしくて。連絡は取れてます」
「そっか、それなら良かった。送ったほうが良かったらそうするんだけど」
「いえ、大丈夫です。ほかの刑事さんにも提案してもらったんですけど、僕が断りました」
「そっか! そうだ、腹減ってる? そこにコンビにあるから何か買ってこようか?」
「え? いえ、大丈夫です」
少年は一瞬だけ視線を落とすと、再び髙橋を見上げた。何かを決意したようなまっすぐさだった。
「お兄さん、何か言ってましたか?」
「いいや、何も。君もさっき話してたの見えたけど、どうしたの?」
「いえ……別に」
髙橋がさらに質問しようとしたとき署内に男性が駆け込んできた。エントランスに話しかけようとした直前、髙橋と話す少年の姿を捉えて「ホタカ!」叫ぶように呼んだ。
「すみません、失礼します」少年は丁寧に頭を下げて暇を告げると、呼びかけてきた父親らしき男性のもとへ駆けて行った。親子そろってこちらへ頭を下げてきた。鷲見と髙橋も、礼には礼を返した。