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追想と移動

 ぼんやりと虚空を眺めていた。

 風に揺られた前髪がわずかに額を撫でる。電話先の女性から尋ねられた「こちらへ来れますか?」に対して「はい」と応えたのだと思い出す。応えてしまった以上、行くしかない。右手だけを動かして、スマートフォンのホームボタンに親指を触れさせる。ロック画面からすぐにホーム画面が表示された。気怠い動作で腕を膝に乗せるとしばらく画面を前にして、なんとなく電源ボタンを押した。

 真っ暗なスクリーンに反射する何かを眺めていると、次第に肺と胃の中間あたりが白けてくる感覚に襲われた。それを自覚すると、脳髄のあたりからしびれていく感覚も知覚する。指先から体温が消えていく代わりに耳朶に熱が集まってきた。

 なぜスマートフォンを起動させたのか――調べようとしたのだ。どうすれば警察署へ行けるのか。

 瞬間、認識する――座っている場合ではない。

 由弦は椅子から飛び上がってスマートフォンと財布を掴んでポケットに押しこんだ。玄関へ駆けて室内履きを脱ぎ捨てて爪先に外靴をひっかける。

 階段を使うか迷ったが、エレベーターのボタンを連打した。

 エレベーターの駆動音が鼓動のリズムを巻きこむ。ほんのわずかに思考できる余白が生じて、昨晩は何をしていたか思い出そうとする。首筋に触れると予想外の温度差に驚いて一瞬だけ手を離す。しかし、構わず再び押しつける。沸騰しそうな脳への血液の熱を少しでも下げたかった。

 昨日は、六花が出発した翌日――二泊三日の折り返しだ。


「An nescis,mi fili,quantilla sapientia mundus regatur?

(私の息子よ、お前は、叡智がいかに世界をほとんど支配していないことを知っているか?)」


 ふと由弦の脳裏には父親の言葉が過ぎった――あの事件について考えていたと思い出す。

 父親がラテン語の格言を持ち出すのは滔々と語りたいときだった。妻に関する自慢にはじまり古本の良さや魅力が延々と語られる前に逃げ出した。当時から読書に苦手意識は持っていなかったが、運動のほうが圧倒的に好きだった。

 今は、聞けるときに聞いておけば良かったと後悔している。

 前代未聞のスイス国内における銃乱射事件によって父親が命を落としたのは六年前の冬。

 由弦はKnabenschiessen(青少年射撃大会)に初参加して準優勝を飾り、六花は父方の祖父母の支援を受けて名門校のサマースクールに参加した年……白河兄妹はまだ幼かった。

 スイスの銃所有率は世界屈指だが、長年、乱射事件は発生しないと信じられてきた。

 欠乏と蹂躙の歴史が歩ませた永世中立国への道だ。国家のための武器の保有である以上、個人のために武器を取る意識は薄い。

 しかし、あの日、事件は起きた。

 件の犯人による自殺を終結とする三分にも満たない襲撃は明らかに国家のためではない。犯人自身の怜悧な憎悪を顕現するためだけに百発以上の銃弾とともに命が散らされたとされている。国民が衝撃と恐怖に陥れられたのは想像に易しい。殊、由弦にとっては疑問も同時に押しつけられた。

 乱射事件からまもなく、ニュースに流れる事件に関する情報や犯罪学の専門誌に載せられた専門家による考察がことごとく腑に落ちなかった。

 映像然り文字然り、記録するという行為は認識の共有の一助となる。このように認識することが正しいのだと広く伝えるための行為は、正気とともに在るはずだ。

 当事者にとって、殺人は唯一にして最善の解決策になり得るのかもしれない……それは理解できた。納得はできないが、ここまでは理解できた。

 前提として、罪の成否や罰の存在は問題の発生条件には関係なく、問題を落着する手段として凶行が存在しており凶行は狂気によって成し得る。

 発生したときには問題の原点には狂気が宿っている――原点と狂気は運命をともにする――原点が熱量を失えば凶器は消える。原点が熾火のように長く熱量を持ち続ければ狂気は燻ぶる。

 原点の熱量が閾値に達することは滅多に無い。滅多に無いからこそ狂気が激しく燃え盛るごとく機会は無く、罪や罰を論じる余裕や正しいことを認識するための思考が保障される。平穏が保たれるかぎり、狂気を測る唯一の定規として正気が存在を許される。ならば狂気のすべてを計測した果て、何もかもが明らかにされたとき、理屈の上では納得すら可能となる。

 にもかかわらず、由弦は納得できなかった。

 犯人が直接的に憎悪を抱いていたと思われる人物を殺害するため引き金に指を掛けたと考えられているにもかかわらず、同じ空間に居合わせた件の標的を殺害する前に犯人は自殺したのだから。

 そのために無関係な人々を死傷させていながら当初の目的であり動機の根幹を成す憎悪を解消しないまま犯人は自ら頭を撃ち抜いたのだから。

 自らの正気を疑った時期もあったが、


「An nescis,mi fili,quantilla sapientia mundus regatur?

(私の息子よ、お前は、叡智がいかに世界をほとんど支配していないことを知っているか?)」


 その度に父親の言葉を思い出した。

 納得できる答え――まだ誰もその叡智をもってしても理解していないことならば――わからないことを分解して叡智で名前をつける作業を理解だとすれば、それが適わない事象が存在すると知っていることこそ正気である証明にできる。どれほど語彙が豊かであろうと博識だろうと、理解の範疇を超えていれば伝えられる内容が無いのだと納得できる。

 正気は狂気の度合いを測れるが動機をはかることには向かない単位が用いられている定規なのだとようやく理解して納得したとき、由弦は自らの興味関心が人間心理にあるのだと確信した。

 その後。事件から一年も経過しないうちに母親の身体を蝕む病魔が見つかり遺された家族で母方の故郷である日本へ移り住んだ。

 以降、由弦は適当に入手した犯罪学や心理学の専門誌や論文を読み漁って犯人の思考を考え続けた。いつか事件についてすべてを明らかにできる日がくると信じていた。正気とともに思考をやめなければたどりつけると信じていた。昨今の世界的に流行する感染症の影響と大学進学による受講カリキュラムの融通を最大限に利用してでも時間を費やしたい内容だった。

 たまに六花から妨害を受けたが、自宅が最も集中しやすい環境だった。だからこそ、二泊三日旅行で彼女が家を空ける期間にちょうど大学の期末試験後の夏季休暇が重なったことは由弦にとって絶好の機会だった。この得難い機会に、降りてきた思考はまさに天恵だと信じられた。


 ――もし、当初から標的を殺すつもりではなかったとしたら?


 犯人は当初から標的を生かしておくつもりで引き金を絞ったのだと仮定してみると……事件は就業時間内に起こった、標的に関する下調べをしていたから襲撃時に同じ空間に居合わせた、事前の調査で標的の居場所を正確に知ることはできたのか、正確とはいえ座標で小数点以下までは不要だ、少なくともどの建物にいるのか分かれば十分だ、標的の仕事や立場から特定の時間に特定の順路を用いる可能性も考慮できる、待ち伏せすることは出来ただろうか、待ち伏せしたなら警備や警察が到着するまでに標的を殺せた、けれど殺さなかったのは何故だろう、殺すつもりが無かったのに銃は乱射されて死傷者が……今までとは全く異なる方向で考察が進んだ。

 ノートパソコンを起動してドキュメントアプリを開いて半日以上はキーボードを叩き続けた。新視点の推察に由弦はすっかり魅せられていた。

 だから、最中、傍らに置いていたスマートフォンが告げた着信を放置した。区切りをつけるには早過ぎた。休憩するには思考が速過ぎた。身体の疲労やあらゆる些事が魅力を凌駕するにはあまりにも無力だった。

 到着したエレベーターに乗りこんで駐車場へと急ぐ。

 上手い具合に落下していく箱の中で財布を確認する――財布のキーチェーンには、自宅の鍵とバイクの鍵が並んで引っかかっていた。

 ふと鼻歌とともにリビングを散らかしていた妹の姿を思い出す。



 その背に「どこ行くの?」と問いかけると軽く振り向きながら

「んーとねぇ、何だっけ、熱帯雨林みたいなカンジ」

「赤道近く? え、旅行って日本国内だよね?」

「違う違う、カンジは熱帯っぽいけど読むのは三文字」

 しかたなく出来の悪いなぞなぞらしい言葉遊びに応じる。キッチンの棚からグラスをふたつ取りだして適当に氷を入れた。冷蔵庫のペットボトルを取りだすと同時に「熱海?」思いつきをそのまま解答してみると

「ああ、そうっ、アタミ! アタミ行こうって」

 お気に入りの花柄のワンピースをリュックサックの底で整えると、六花は一旦パッキングを中断してキッチンに駆けて行った。氷入りのグラスに飲料を注ぐ兄の顔を覗きこむように見上げながら「海だよ、海! 見たことある?」楽しそうに尋ねる。

「こっち来るとき飛行機からなら」

「例外でしょ、それは」

 頬を膨らませる六花だったが、グラスをひとつ受け取って礼を告げるなり表情から不満は消えていた。

「なんで熱海?」

「海の日近いから、海行こうって」

「山の日が近かったら山だったんだ?」

「そうなるねー。山もいいよね」

「スイス以上に山ではないでしょ、この国」

 リビングは六花の所持品が広げられていた。テーブルや椅子の背までも侵食されている。少々困惑したが、由弦は器用に椅子を引いて腰かけた。

「国土の三分の二には勝てないけどさ、それでも7割だよ? 気候も違うし面白いと……待って、負けてるよ? 三十分の一、負けてない?」

「どうしてアルプス単体で一国と戦おうとするの。平均標高でしょ、広さも高さも違うんだし。それよりさ、熱海、七月下旬に花火大会あるよ。時期合わせなくていいの?」

 六花は、スマートフォンを掲げて見せている兄を碌に確認せず「えー、絶対混むよ。だったら隅田川のほう行きたい」ラグに並べた自分の荷物を踏まないよう気をつけながら消極的な答えを返した。

「どうせそっちも混んでるでしょ」

「距離に因るってこと! それに今回の旅行のハイライトは海なのっ!」

「へぇ?」

「アタミはね、目の前がもう海なんだってさ。決めるとき写真見せてもらったんだけどね、すっごくきれいなんだよ!」

 兄妹が長く暮らしていたスイスは内陸国であり、移住先の日本は海洋国だが今の自宅は決して海沿いではない。中学生時代の修学旅行では京都や奈良の文化や歴史に触れることが主題とされて、海には行っていない。正真正銘の初めての経験を前にする妹の興奮は想像するまでもなく由弦は理解できた。

「晴れると良いね」

「そう、それ! 空がきれいなら海も綺麗だもんね! ええっと、おてんと……違うね、テルテルボウズだっけ? そう、テルテルボウズ、テルボウズ♪ ねぇ、晴れにしてもらうにはいくつ作ればいいと思う? どんな顔がいいかなっ?」

「いくつ作ってもいいけど、顔まだ描くなよ」

「なんで? 欠いてない? 画竜点睛」

「欠いてていいんだよ、晴れてほしいってお願いが叶ってから描くんだから」

「そういうもの?」

「歴史に倣うなら。顔無しが嫌なら蝋人形作って玄関置いとけば?」

「比べるまでもなく労力違い過ぎるんだよなぁ、さすがに」

 苦笑しながらラグを避けてグラスを置き、パッキングを再開する。

「全部入るか?」

「吟味した結果この量だから。押しこむ」

 六花の瞳が、この前テレビで見た、詰め放題セールに精を出す一般人のそれに重なった。ビニール袋のように破けるような素材ではないが、万が一、破壊されそうになったら止めねばならないだろう。これから窮屈に苛まれる荷物たちが哀れだった。ふと、二回りほど大きなジップロックに乗せられたノートに視線が留まる。

「絵、見ていい?」

「ラナパーまだ乾いてないと思う。ちょい待ち」

 そっとノート表面に手の甲を触れさせ、逡巡する。桃色の花が踊るジップロックからハンカチを取りだすと、円を描くようにノート全体を軽く拭う。よく手入れしているらしく、ハンカチにはノートの深緑が移っていた。パスポートサイズのノートは五分もかからず拭き終わり、腕を伸ばして差し出された。

 由弦は椅子から立ち上がりノートを受けとった。

 しっとりしたカバーが手に馴染む感覚が心地良い反面、手入れの効果を下げるのは悪い気がした。

 ノートの端を持ちながらゆっくりページをめくっていく……向きも絵の大きさも統一されていないが、誰かの製図用シャーペンのグリップの凹凸まで精密に再現していたり教室の窓の奥に広がる青空を広げてみたり……四冊目のリフィルにもなると、ひとつひとつの筆致について、素人目にも迷いが見えない。由弦の頬は緩んだ。

「もういいかーい?」

 再び伸ばされた妹の手にノートを乗せる。いつの間にか荷物は無事にリュックサックに収められていた。想定よりもリュックサックが無理をさせられていない様子に安心した。

 六花はノートを入れて軽く空気を抜くとジッパーを閉めた。よく見ると、中にはハンカチと、一緒にプレゼントしたペンも仲間入りしている。

「なんでこれに入れてるの」

「前ね、持ち運んでるときに爪ひっかけちゃったことあって……ほら、ここ」

 掲げたジップロックを翻し、指さした。目を細めると線状に若干色が薄くなっている箇所が把握できる。ただ、言われなければ気づけない程度だ。

「一緒についてきた布ケースは出し入れちょっと大変だし。こうしてハンカチとペンも入れておけば拭きたいときに拭けるし描きたいときに描ける」

「なるほど」

「そうだ! 私、海行きたくなるような絵、描いてくる! そしたらバイク乗せてよ。一緒に海行こ?」

「二人乗り無理。行くなら電車」

「わかった! 待っててね!」



 先ほどの通話では、一度でも熱海だと言っていただろうか――たいして傾聴していなかったのだからまともに思い出せるわけがない。だが、六花は熱海にいるはずだ――彼女に何かあったと仮定すると、車もバイクも免許を持っていない十六歳なのだから移動距離はたかが知れている。

 地図アプリを起動して、現在地から熱海駅の道のりを検索した。おおよその経路を頭に叩きこむなり、エレベーターから飛び出して駐車場へ駆けこむ。

 高校在学中に免許取得するなり間もなく友人と乗り回して以来、感染症流行によってほとんど休ませていたバイクを久しぶりに走らせた。

 目指すは熱海駅、そこからは駅から最寄りの交番か警察署を見つければ良い。

 今年五月に免許を更新してから大学にも乗って行っていないが、安全運転を心掛けられるほどの余裕はない。辛うじて交通違反を避けたい良心はあった。警察に呼ばれて急いでいるのに警察によって阻害されるような事態を避けたくもあった。

 頭痛や吐き気がひどくなってくる。

 徹夜に近い不摂生だけが原因ではない。カフェイン不足だろうと予想した。

 ひとりきりを満喫している最中に降ってきたような新視点に魅了されてから一切飲食をしていない。もちろん、コーヒーも飲んでいない。最後にカフェインを摂取したときから十二時間は経過している。離脱症状が出たのだろう。体調不良が解消されないまま運転する危険は承知している。どこかコンビニや自販機でコーヒーを買って一気飲みすれば解消されるだろうと認識する。いずれもバイクを走らせながら何度か選択肢に上がった。

 しかし由弦は頑なに熱海駅へ最速最短で向かう優先順位を下げなかった。

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