遺体発見と司法解剖
未明、若い女性の遺体が発見された。熱海の美しい浜辺へと続く何の変哲もない歩道の外れ。そこに横たわっていた。鑑識が臨場したときには、彼女が生きていた証拠は頭部付近から零れると降水に薄められながらアスファルトに広がっていた。
小雨に降られて湿った衣類が華奢な身体に張りつき、生気に欠けた滑らかな白い肌に水滴がすべる。端正な顔立ちと相俟って彫刻か絵画を前にしている心地に陥った――静岡県警捜査第一課強行犯捜査二係班長を務める鷲見は臨場するなり被害者に黙とうを捧げた。生憎、芸術方面には昏いと自覚している。いつかの何かで偶然どこかの類似する彫刻か絵画でも見たのかもしれないと終止符を打ち、事件解明へ向けた思考に切り替えた。
腕時計の針は諸手を上げている。仕事中毒上等だ。鷲見はひとまず、馴染みの検視官から死後硬直や遺体の様子をあるていど確認した。頭を打ったことによる出血のほか、首筋にはアイスピックのような細く鋭利な道具による外的受傷が見られたという。ふたりは無言で視線を交わらせる。
被害者の両手には何も無く、海は近いが日没後の断続的な雨により陸風の影響が限りなく抑えられて何らかの物品を遠くへ運んでしまうような気象条件ではない。頭部の出血はさておき、頸部の出血は、被害者自らの意思に基づくとは考えにくい。何者かによる受傷だと考えるのが自然だ。要するに、他殺である可能性が高い。
鷲見はあらためて被害者を見遣る。
最近の少年少女は大人びているとよく耳にする。少年課に配属されている同期と宅飲みした際には、終わらない愚痴を聞かされ続けて雑に相槌を打って構わず酒を流しこんでいたが……成人か、直前か、あるいは中学生か……鷲見はさらに眉根を顰めた。
ふと付近の柵に視線が留まる。錆とは異なる異質の赤黒い物体だ。すると目敏い検視官は鑑識が既に確認して採取も撮影も済ませたと告げる。採取された試料が被害者のものと一致すれば、被害者が当該箇所に頭を打ちつけた証左のひとつになるだろう。
鷲見は立ち上がり、深く息を吸う。頭を打った後に首を刺されたのか、刺されたことに驚いて体勢を崩して頭を打ったのか、あるいは他の状況下にあったのか……いずれにしろ単なる事故死ではない。
死因となり得る損傷を正確に判定するには、検視だけでは不十分だろう。
鷲見は、検視官に軽く礼を告げてブルーシートから出た。
現場に持ちこまれた白昼の太陽代理に目が眩む。腕で目元を庇う一方、鑑識課員たちが熱心に仕事を進めている様子を確認する。降水に焦らされているのか真摯なのか、それぞれ無言だった。彼らから視線を外して、規制線の向こう側を眺める。わずかながら人が集まっていた。何がおもしくて集うのか、甚だ疑問を抱く。同時に、見渡したかぎり姿がない部下にも疑問を抱く。ため息をつく価値すら無い。険しい表情とともに現場に未到着らしい髙橋に電話を掛けた。
数コールで応答した髙橋いわく、車で移動中らしい。現場を通り過ぎて司法解剖要請を準備するよう端的に言いつけると鷲見は一方的に通話を切りあげた。
少し離れたところでは鷲見よりわずかに早く臨場していた望月と大城が第一発見者の少年を聴取している。人間か自信が無くて遺体に触れてしまったという彼は、恐縮を通り越して怯えていた。
鑑識作業のため照明が周囲を昼間のように照らしているが普段の照明といえば街灯のみ。遺体が発見された場所から最も近い街灯ですら五メートルは離れている。人の形をしていると認識できてもそれがマネキンなどの人工物ではないと判断する根拠には欠けていただろう。行動に悪意は見えず、ましてや撮影した映像を拡散するような娯楽の錯誤をやらかしていない。メンタルケアは手配するものの、注意内容は夜間にひとりで外出した事実に対してのみに留めるのが筋だろう……思考をまとめたが、鷲見から指示するつもりは無かった。それがわからない部下たちではないと認識している。
望月はまだ捜査一課に配属されて二年目である一方、大城は現場一筋の叩き上げだ。聴取の技術は圧倒的に大城へ軍配が上がるものの、大切な試合が近いから雨が上がったのを知って軽く走りたかったという野球少年に手早く親へ連絡させるような気配りは望月のほうが上手である。再び降りだした雨から車内へ避難させたのは大城だが、水気を拭くようハンカチを少年へ渡して促したのは望月だった。
降水のおかげで規制線付近から野次馬が散った直後、五人ほどの人影が戻って来た――否、さきほどまで陣取っていた野次馬よりも若い男女だ。傘もささずに駆けてきた彼らのひとりが規制任務にあたる制服警官に話しかけている。
鷲見はその集団に歩み寄ると「何があった?」端的に尋ねた。顔がよく見える距離に立つと、彼らのあどけない顔立ちが哀れなほど不安に染まっていると認識させられた。
「あのっ、け、警察の、方、ですよね……?」
三人いる男子のうちひとりが、制服警官から鷲見へと質問相手を変えた。硬質らしい頭髪から水滴がぽろぽろ肩へ落ちた。彼は答えを待たずに言葉を続ける。
「六人で旅行してて、でも、友達がひとりいなくなってしまったので探してるんですけど」
「話は聞く。ただ、雨も降っているし時間が遅い。君ら、高校生くらいだろう? 親御さんは」
そのとき。
遺体がブルーシート外へ運び出された。遠目からは担架に乗せられた遺体は非透過性納体袋越しでは曖昧な形に見えるはずだった。
「女の子ですか、黒髪の」
つぶやかれた言葉に誘われ、女子のひとりへ視線が集まった。額に張りついた前髪から垣間見える、との茶ごとく瞳。その双眸はまっすぐ遺体を見据えていた。曖昧なふくらみが網膜に確かな像を結んだ瞬間、両手で頭を庇うようにひとつにまとめた髪を乱して悲鳴を上げた。その場に崩れるように膝を曲げた彼女を、背後の男子が咄嗟に抱きとめた。
鷲見は答えず、努めて無表情を通した。確かに遺体は黒髪の若い女性だった。しかし警察官の矜持としてむやみに動揺を見せるわけにはいかない。
鉄面皮から何かを読み取ろうとしているのか見上げてくる少年少女たちの双眸を、ただ受け止めた。
幸い、異変を感じ取った現場の班員が応援に来た。宿泊先に協力要請して話を聞くよう指示を出す。少なくとも聴取は保護者が到着してからだと伝えるのも忘れなかった。
第一発見者とは事情が異なるものの、依然として未成年への対応にはひどく気を使わねばならない。二十三時を過ぎているため補導の建前で最寄りの警察施設へ連れていき話を聞く方法も可能だが、遺体と面識があるなら後日にでも任意聴取を要請することになる。ならば、なるべく心労を軽くする努力を優先すべきだ。それが後に篤厚として扱われる。
現場から遺体が運び去られてしばらくしたころ、第一発見者の両親が車で迎えに来た。我が子を抱きしめる彼らの感情を必要以上に刺激しないよう心掛けながら丁寧に、指紋採取は容疑をかけるためでは無く事件の容疑者から外すための手順のひとつだと説明する。必要な個人情報の提供に応じてもらい、鷲見は親子に深く頭を下げた。誠実が伝われば、大抵は大事には至らないと信じている。良心の所在を信じなければ神経をひたすら擦り減らす仕事は続けられるわけがない。
息抜きか溜息か曖昧な何かを吐き出してまもなく、着信があった。髙橋からのそれは、県警の要請が適って当該遺体が司法解剖に回される手筈が整った旨だった。
「早かったな」
「たまには迅速っぽいです、有り難いことに」
軽口に思わず冷笑を浮かべた。
答えはわかっていたが「解剖、立ち会うか?」尋ねてみた。
「あー、いえ。班長にお譲りします。終了までに、いろいろ、ガイシャについて確認しておきます」
「任せた」
「はい」
どれほど軟派な言葉と口調だろうと最後の返答だけは間違えない――鷲見が髙橋を気に入っている理由のひとつだった。場や条件を弁えて使い分ける器用さは分け与えてほしいほどだ。
遺体がどこに運び込まれたのか端的に確認して通話を切った。
それから一時間も経過しないうちに鷲見は代表して解剖に立ち会った。
不自然な照明の配置をした二十畳もない小さな部屋。
解剖台に乗せられた遺体には異様なほど光量が集められている。
すでにふたりの助手が解剖の準備を整えていた。自らを棚に上げて就業時間外によく働くものだと呆れ混じりの感心を抱いた鷲見が光源から逃げるよう壁際に陣取った直後、ここの主人が入室した。
「では始める」
助手らが静かに雰囲気を切り替える。
張り詰めた集中だけが室内に満ちている。
「十代女性、痩身傾向あり。手の甲に擦過傷および皮下出血、手首に打撲傷あり。左頸椎付近にダイズ大の類円形開放性損傷あり。右側頭部から後頭部にかけて皮下血腫および頭部裂傷あり。……顎関節、上半身に広く硬直が見られる」
監察医の冷たい声色が滔々と事実を告げていく。
冷徹かつ滞ることなく進められる確認作業だ。
観るのを完了すると、続いて首筋の小さな傷に細い器具を差しこみ、抜いた。
「開放性損傷。鋭器損傷、刺創と思われる。深さ十ミリメートル。創口から深さ五ミリメートルについて創洞およそ七ミリメートル、そこから創底までは創洞一ミリメートル前後。頸椎には未達」
持ち替えられたメスが雪よりも蒼白い肌に触れる。Y字切開すると躊躇なく胸部が開かれた。視覚が赤に慣れているからか、室内の誰ひとり動揺する素振りはない。安心だが底知れない恐ろしさもある。鷲見がひとつ瞬きした隙に手際よく肋骨が切除されていた。露わになった内臓が検められている。
哀しいかな、鷲見は生物の死の匂いにはもう慣れてしまったと自覚している。
スクリーン越しならば思わず目を逸らしたくなるような光景だ。しかし、認知が歪んでしまったのか感覚が麻痺しているだけなのか、目の前であれば凝視できる。髙橋や望月には怯えられ大城にすら曖昧な表情をされるが、それもこれも、この監察医による規則――見ないなら出ていけ――ゆえである。
次々とサンプルが採取されて助手が渡されたそれを顕微鏡や試料を用いて即興で分析したり保管したりしていく。血液の色や胃の内容物の確認を終えると
「開頭する」
監察医は無感情に告げた。
本来は剃毛して開頭部位を露わにする過程を飛ばし、頭皮にメスを入れる。両耳を繋ぐような切開線は惚れ惚れする精緻な曲線だった。
「裂傷部位付近、生活反応あり。硬膜外血腫、硬膜内血種いずれも軽度」
頭蓋骨を開いている監察医の背に「死因になりますか」尋ねると「いいや、頭蓋骨骨折はしていない。頭部陥没は無く脳挫傷が生じるほどのエネルギーは加えられていない。硬膜内の出血は脳を圧迫するほどではない、自然治癒の可能性もある範囲だ。なお、コントラクー外傷も無い。外傷による影響は脳震盪程度だろう。頭部を打ちつけたり殴打されたりした可能性は示唆される。ただし、裂傷に伴う出血は相応だが、死に至る直接の怪我とは言いきれない」
やがて観察を完了すると「解剖終了。縫合する」端的に告げて、その言葉どおり、すばやく切開した箇所を縫い合わせていく。あらためて機械のような早さと正確さに感心していると
「脳溢血に失血性ショックを併発した。検案書はすぐ用意する」
この監察医と鷲見はすでに何度か仕事をした仲だ――さっさと着替えろ、お前がモタモタ着替え終わったころにはこちらは整理した情報を渡せる――言外の意図を受けとり解剖室をあとにした。
実際、解剖着を脱いで法医学教室で待機しているとまもなく白衣姿の監察医が悠然と現れた。
「頭ですか、首ですか」
「強いて言えば両方だ。放置されて息絶えた。どちらの傷にも生活反応が見られた」
「そうですか。推定時刻は?」
「髪と頭皮が湿っていた。この断続的な雨に濡れたんだろう? 期待しないでもらいたい」
「わかってます、参考に」
「死後硬直は当てにならない。軽微な角膜混濁と胃の内容物からの推定だ」
「何か問題ですか」
「根拠の希薄に問題無いとでも?」
「そういうことですか。あくまでも念のためです」
監察医は小さく唸るように声を零すと
「死後六時間は経過していない。食後二時間から五時間程度だろう。ただ、頭と首、どちらが先か判断できない。息絶えたのが、その時間だろうという話だ。受傷後しばらくは息が合った」
「しばらくというのは?」
「数十分から数時間……個人差の幅はあるが、遺体の年齢を考慮すると短くなかっただろう」
「申し分ありませんよ、先生。ありがとうございます」
鷲見は監察医に頭を下げてから暇を告げた。