優しい月光
残酷にも日は巡る。後期も必修講義が多いため課題は溜まっていくが、休学届を出せるほどの気力はなかった。どうしても課題を進めなければならない。あまり家にいたくない。特に理由も用事もないが、よくカフェで作業するようにしていた。そうすれば体を起こしておかねばならないし、帰るためには終わらせなければならない。
「ねえっ、起きてよ! 今日は朝から出かけるって約束したでしょ?」
甲高い声で催促する妹の声――わかっている、幻聴だ――由弦は引っ張られるように体を起こした。
自分の準備を完璧に済ませてリビングでのんびり絵を描いていた彼女に「……行こ」あくび交じりに声をかけた。スケッチブックを閉じながら丸くした目を瞬かせながら
「さっきまで寝てたよね?」
駆け足で道具を自室へ片付けに行った。
「本気だせば百十秒で支度できる」
キッチンで利き手の小指側にこびりついた炭素を洗い落として「四十秒は?」手を拭きながら尋ねてきた。端的に「無理」とだけ返す。
「朝ごはんいらないの?」
「そこらへんで珈琲買う」
「うわぁ、不摂生」
「クリスのグリーンスムージーと変わんないって」
「はーい、ゲンは世界中の美容に真面目な人たち敵に回しましたぁ」
「愚か者が。我こそ、この世界を滅ぼさんとする者なるぞ」
「手始めに?」
「カフェイン摂取する」
「じゃあ私のも買って! 今月の新作、抹茶なの!」
「去年もこの時期そうだったと思うけど」
「企業努力は消費者に届いてこそ意味を成すんだよ」
ただ飲みたいだけだな、とは思ったが口には出さなかった。待たせた詫びにもなるだろう。靴を履きながらスマートフォンと財布だけは持っていることを確認して家を出発した。
向かう先は変わらないが、心模様までは似ても似つかない。真上から日光が降っており、澄んだ白い光は眩しかった。寝ぐせ直しのついでにキャップを目深にかぶった。歩道の信号を眺めながら、色が変わるのを待つ。ビル風が吹き抜けて首筋を冷やした。これを心情に重ねて寂しいと表現する人もいれば落ち着くと表現する人もいるだろうか。由弦は帽子が飛ばされないよう片手で押さえた。
秋は深まらず気温が安定しない日々が続いているものの、今日は暑すぎず寒すぎず……不意に数日前に電話で聞かされた証拠品を返却できる旨を思い出した。時間があるときに、とだけ曖昧な返答をしたが、今日なら構わない気がした。トートバッグの中には、ノートパソコン、充電器、イヤフォン、スマートフォン、財布――問題ない。肩紐を掛けなおして背に回す。スニーカーの紐を結びなおした。立ち上がった瞬間、青信号に変わった。
いつものようにホットコーヒーを注文して席に着くなり半分を嚥下した。誰かと目があった気がしたが、イヤフォンを装着して課題を消化しにかかった。一度も途切れなかった集中。最後にカップの中身を呷り、ダストボックスに放ってカフェを出た。
新幹線で向かわねばならない必要性を見いだせず、結局、在来線を乗り継ぐことにした。
到着まで数時間かかる。立ち続けていられるほど体力に自負は無い。開いている席に腰を下ろして一息ついた。最初の数駅は車内アナウンスを聞いていたが、いつの間にか微睡んでいた。
「年号は、もう教えるも何も、覚えるしか無いでしょ」
リビングのテーブルに突っ伏せる妹に言った。
「年号覚えられない」
「数字得意なのに?」
「日本語が好きな人は、アイヌ語も英語もアラビア語も得意だと思うの?」
「無理だね。じゃあ、語呂合わせは?」
「ワンツーツーワン承久の乱」
「……それ語呂合わせじゃない、力技」
「ウグイスおはようキケリキー」
平安京か平城京か、どちらか混乱する云々の訴えかと思ったが「それ、は……何?」考えるまでもなく初めて聞いた。そもそも語呂合わせでは無い。
「もー、私だって家康に育ててもらえるウグイスになりたい!」
さすがに当人もよくわかっているらしく、両足をパタパタさせながら天井を仰ぐ。
「残念ながらホトトギスだなぁ」
「天下人なら何種類だって鳥飼って良いの!」
今はとにかく不満を発散したいのだろう。正論は意味を成さない。
「まあ、昔から文字列覚えるの苦手だよね」
「そうっ、そうなんだよ! 文字列が覚えられないの!」
「だったら……」由弦は近くのルーズリーフを引き寄せて、有名な年号をいくつか列挙した。それを、顔を上げた六花の前に掲げる。「……紙に列挙して、これを覚えるのは?」
「力技?」
「語呂合わせは音感頼りで意味を付随させて記憶する作業。それができないなら真正面から向き合うしかない」
「他に無いの?」
明らかに乗り気ではない。しかし、始める前にどれだけ及び腰だろうと、結局は取りくむ。わかっているからこそ突き放しても問題ない。
「ワンツーツーワン行けるなら行ける」
「うぇええ……」
電車に揺られている間、いくつか記憶が再上映された。しかし、目覚めてしまうと鮮明に覚えていられたのはたったワンシーンだけだった。惜しくなってもう一度目を閉じてみたが、熱海駅に到着してしまった。
季節が異なると印象も異なる。足を踏み出せば車窓から走り去っていた景色はゆっくり隣を進んでくれる。体温と気温のコントラストが心地よくなってくると、自然と歩幅が大きくなるのがわかった。
ようやく記憶が重なる場所に到着したころにはもう陽は暖色を帯び始めていた。
三六〇度を見渡す。もう半周ほどして、視線は北北東へたどりついた。献花台は撤収していたが、花束がいくつか並んでいた。
由弦はトートバッグを膝に乗せるようにしゃがんだ。
「Requiescat in pace.
(死者に安らかな眠りを)」
ここなら、誰もいない。誰も聞いていない。誰も見ていない。
日記帳のような空間だった。
どれほど時間が経過したのか、背中の熱が消えていた。いつの間にか、影が夜に解けようとしている。海のほうを眺めると、黒ではないが深い青……眼鏡を外して見ても色は変わらなかった。
天から零れる月の光は、あらゆるものを蒼く照らし出す。
すべてを浄化し得るだろう清い光を浴びようと、決意は変わらない。いつまでも、白河由弦という人間を作るひとつの要素として肚の底で澱んだままだった。
リュックサックに詰められた返却品を片手に、コンセントがある店を調べて熱海駅併設の商業施設に入った。適当にパンを買って、妹のスマートフォンを充電する。
蛍光灯が狭量はなはだしく窓ガラス越しに見える月光を和らげてしまっている。
この月を最後にこの地を去るのは心なしか癪に障った。
電車に揺られながらやろうと思っていたが、充電が半分を超えたあたりで店を後にした。しかし、とくに行く当てはない。宿泊先も目的地も無い。
なんとなく海岸へ足を運んでみた。この季節の日が落ちた時間に泳いでいる者の姿は無いが、波打ち際で水温の低さを騒いでいたり砂浜の建築を嗜んでいたりする人々は少なくない。ひとまず由弦は離れたところで彼らの仲間に加わった。胡坐で、トートバッグを置いた上に肘を乗せる。満を持して妹のスマートフォンと向き合う。スケッチブックに描いた花の絵が表示される。幾重にも重なる花弁が、恥ずかしそうにはにかむ彼女を思い出させる。筆致をなぞるように画面を撫でた。画面がカメラに遷移して、焦ってホームボタンを押した。元の画面に戻り、もう一度、ホームボタンを押す。
パスコード入力を要求する画面だ。六桁の数字を要求されている。
不意に、 日記の最初のページが脳裏を過ぎった。花のイラストと
「雪……さ、く、は、な……違う…………」
――闇夜に咲き誇れる日を待ち望む
――八、三、四、二、三、九
入力してみると……ホーム画面に遷移した。
簡単なことだった。考えてみれば容易にたどり着ける答えだった。随分前に、刑事に知らないと答えた自分の愚かさに面白さがこみあげてきた。
なんとなく空を見上げる。
月光で安心した。陽光は眩しすぎる。




