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真夜中とアリバイ崩し

 由弦は、電話で妹の友人のひとりを呼び出した。

 久藤が作成してくれたグループチャットに登録されたアカウントから目的の人物だけを選んで電話を掛けた。

「聞きいてほしいことがあるんです」

 相手は突然そう告げられたわけだが、渋ることなく

「わかりました。どこへ行けば良いですか」

 由弦の指定した場所へ向かうと返して電話を切った。

 ホテルにある荷物のことなど忘れていた。由弦は熱海駅の改札を通過して、なんとか購入できた新幹線に乗りこむ。通路側の席に体を預けると、目を閉じて睡眠の真似事をする。傍目からは休んでいるように見えるが、嫌でも繰り返し思考を精査してしまっているため、休息どころでは無い。

 由弦は、妹の友人を呼びだしたものの、自らの推測について確信は無い。実際、ところどころ論理の飛躍や無理な展開が見つかる。しかし、由弦はそれで構わなかった。

 重要なのは、真実にたどり着くことではなく、誰が六花を殺したのか明らかにすることだ。

 たった今しがた、刑事との会話で必要なパズルのピースを獲得した。

 六花殺害犯の判明さえ適えば、納得いく解答が得られると信じていた。正気は由弦が保持している。目の前にある狂気を測る自信なら持ち合わせている。

 一時間もかからないうちに横浜駅に到着して、先を急ぐ――同様に、彼の掛けている特徴的な眼鏡を目印として、神奈川県警の長谷部が無事に尾行を引き継いだ。

 由弦は指定した公園にたどりつくと、ベンチに腰かけて夜空を見上げた。電灯の光量に負けて、星はほとんど見えない。時間経過とともに月がゆっくり天上へ向かっていく。

 やがて、一人分の影が公園へ加わった。月を眺めている由弦に「お待たせしました」と告げる。

 長谷部の位置取りから当該人物の顔は見えなかったが、その声で誰なのか把握した。しかしながら、彼らが何をしようとしているのか正確にはわからなかった。とはいえ、直前の電話にて事件が大詰めである可能性は聞かされていた。下手に動いて彼らに存在を知らせてしまうような真似は避けたかった。引き続き、公園の植物の影に身をひそめたまま息を抑えた。

「いえ。早かったですね。二十三時回ってますから、来ないかと思いました」

「断らないとわかってて呼び出したわけでは無いんですか?」

「……」

「聞いて欲しいことって、何ですか?」

「その前に、少し歩きませんか?」

 由弦は質問に答えない代わりに提案した。気障に差し出した手を宙を漂ったが、相手から了承を受けとれた。二人は公園を出て並んで歩く。無言の中、当てもなく歩く。目的地は無いが、一方は高校生だ。補導されるのは避けたかった。人目を気にしているうちに、徐々に周囲を歩く人が減っていく。

 他方、長谷部は慎重に、しかし決して捲かれないよう尾行する。思い切って大胆にも距離を詰めると、

「こんな時間になったのは、すみません。なかなか決め手に欠けていたもので」

 不意に由弦が足を止めた。相手も距離を保つようにその場に佇む。

「何を聞けば良いんでしょうか」

「私の推測が間違っていないかどうか」

「何に対する推測ですか?」

 由弦は引き結ぶように口角を上げて相手に向き直った。

「きっかけは、事件当日の六花の足取りに違和感を覚えたこと。日中ならともかく、なぜ夜に絵を描きに外へ出たのか。絵を描くだけなのになぜリュックサックを持ち出したのか」

 質問の答えがはぐらかされても、相手は平然としている。その場のペースを掌握しようと言動を選んでいる由弦からすると幸いな反応とは言い切れないが、主導権を奪われないなら問題ないと判断した。

 二人が足を止めたのを確認し、長谷部はメールで鷲見たちに住所を伝えた。何も答えない高校生と緩やかな笑みを浮かべたままの由弦の動向を注意深く観察し続ける。

「兄として六花を分析するとね、夜ひとりで外出することも絵を描きに行ったというのもありえない。小さいころから間接照明が無いと眠れないくらい、暗いところは苦手だったんだ」

 由弦が告げると、

「満月に近かったですし、ムーンテラス周辺はライトアップされてましたよ」

 暗いから外出しないという前提に対して、夜だったが暗くなかったと主張しているらしい。内心、由弦は反駁に安堵した。まだ全貌が把握できていないから理解も納得もできていないだけだ。今からひとつずつ測れば良い……努めて笑みを浮かべる。

「たしかにこれだけでは根拠が弱いね。じゃあ、本当にあの時間に六花は絵を描くために外出したと思う? さあ、これについて考えてみようか。六花の荷物はリュックサックだけだったけれど、絵を描くために必要なのはジップロックに入れたノートとペンの一式があれば十分だった。わざわざ二泊三日分を詰めなおしたリュックサックを背負って絵を描きに行こうとするのは不自然きわまりない。それに、君らは六花が夜にひとりで絵を描きに行ったと判断するために、二つ――二日目午後の休憩時間に六花が絵を描きに外出したと発言したこと、小さいころ夜遅くまで外で絵を描いていたら怒られた経験があると話していたことを根拠にしているわけだけれど……一旦、少なくとも君は――君だけはこの時点で六花が絵を描くために外出したのではないと把握していたことは置いておこう。まずは、前者について、久藤くんの証言と警察の聞き込みによって覆った。久藤くんと六花で熱海プリンを買ったり近くの店を軽く巡ったりしたらしい。実際、事件発覚の翌日早朝に私は久藤くんから六花が選びそうな栞を受けとったよ」

「……」

 得意げに話して見せているものの、無反応ではどこか心許ない自覚があった。あいにく暗がりでは相手の表情はよく見えない。表情に現れた感情を拾い集めてやり取りを進めていくつもりだったが、相手は拒否するように暗がりの中にいる。こうなっては、暴力も逃走も選択しないかぎり話を聞いているのだと認識するしかない。仮に話している内容が事実と異なるならば、さきほどのように反駁すれば良い。

 由弦は好戦的な心情とともに言葉を続けた。

「後者は、単純に日本じゃないから成立したことだった。私たちはスイス出身でね。白夜が見られるほどの緯度ではないけれど、サマータイム期間なら二十二時でも昼間のような明るさなんだ。だから祖母があまりにも帰りが遅かった妹に激怒したんだ。妹いわく暗くなったら帰ろうと思っていたらしいけれど、いつまでも日が落ちないから時間を見誤ってしまったらしい。それ以降はあの子、時間制限にはうるさくなったよ。テスト勉強はギリギリのときもあったけどね」

 試験当日の数時間前にわからないところを質問しようとしてきた六花を、改めて思い出す。由弦は唇を噛み締め、ひとつ深呼吸をすると話を続ける。

「これで、夜に外出して絵を描いていたという目的が崩れるわけだ――ここまで良いかな?」

 すると、

「はい。あの夜、六花さんは絵を描きに行ったわけでは無かったんですね」

「そう。ならば、なぜ夜遅くに外出したのか……初めから明確だったんだ。荷物をまとめて出てきたんだから……単に帰ろうとしただけだ」

 静謐。

 あいかわらず表情は見えないが、影すらも身じろぎひとつなかった。

「驚かないんだね」

「驚いてますよ」

 影の中で上体が右へ傾けられたのがわかる。

 六花の仕草が重なって見えて嫌悪を抱いた。

「しかし、お兄さん……彼女が発見されたとき、ルームキーを持っていたんですよ? 部屋に戻ってくるつもりだったからカードを持って行ったのだと思いますけど」

「固有チップで宿泊先のもとだと確認されたらしいね」

「そうですよ。五人とも確認しました」

「どのように?」

「はい?」

「そのままの意味だよ。園田さんと古舘さんは男子の部屋にいるときからそれぞれ一枚ずつ持っていたんだろう?」

 今一つ意図が読めていないのか質問の内容がしっくり来ていない相手に説明を重ねる。

「じゃあ、男子は? あの暑さで冷房をつけていなかったわけがない。消していなければならない理由もない。同じ部屋に割り当てられた三枚のルームキーのうち一枚は入り口付近のシステム制御のポケットにセットしていたはずだ」

「っ……」

「ひとり一枚のカードがあるわけだけれど、セットしているかぎり自由にできるのは二枚だけだ。二十二時過ぎまで部屋の外にいた久藤くんは一枚確保していただろうね。締め出されたらたまらないし、カフェに集まってくれたとき、丁寧に話してくれた。あのメンバーの中で自分だけはしっかりしていないといけない矜持のようなものが言動から見えた。……さて。男子は誰がカードを持ってなかった? 持ってきていなかった子のカードはどのように確かめた?」

「……」

「刑事立会いのもと部屋から荷物を引き上げるとき、回収されたんじゃあなかったかな。それからそれぞれ三枚ともその部屋に割り振られたカードで間違いないと確認された。そうだよね?」

 直前の表情の遷移から返答が無いのは予想していた。由弦は先を続ける。

「割り振られたカードキーが人数分あるとしても、専用ではなかったんだよね? 基本的に机の上に置いておいて、誰でも手に取れるようにしていたというのは君らがカフェで話してくれたことだ」

 由弦はようやく相手が見せた同様に満足して続ける。

「あのホテルではアプリを用いた解錠も対応しているようだけれど、入れてなかったというのも教えてくれたね。だから、鍵のかかった部屋に入るには、どうしてもカードキーは欠かせない。電子機器が用いられているなら記録が残されると予想するのは容易かっただろうね。警察も扉が解錠された時間は知っているようだった。おおよそ私が知っている内容だったけれど、彼らはプロだ。ホテル側へ確認しただろうね」

 気だるげな推測を一旦区切ると、相手を観察する。焦っている素振りは無く、おとなしく話を聞いているようだった。

「部屋の外に何人いるとしても、一枚あれば自由に出入りできる。けれど、二十一時三十分ころ、女子の部屋のシステム制御のソケットからカードが抜き取られた。このとき女子の部屋において、ひとり一枚、専用のカードを保持できるようになった」

「片方の部屋に全員が集まっていたんですから。誰もいない部屋にカードが一枚もなくなるのは、それほどおかしいでしょうか?」

「カフェでみんなが見せてくれた写真はいずれも晴天だった。気温の高さはなんとなく予想がつくよ。同じように今日も暑かった。ソケットからカードを抜けば冷房は停止する。すぐに戻るつもりなら抜き取るとは思えない」

「あくまでもお兄さんの想像ですよね。実際はソケットからカードは抜かれました」

「そうだね。まあ、その点に関して特段の疑問は無い。必要なことだったから抜かれたというのも、今ならわかる。もしかして、君から事実を引き出すために呼び出したと思われているのかな。心外だな。最初から、確かめたいから呼んだって言ったのに」

「……」

「言ったとおりだよ。警察が把握しているだろう内容は、おおよそ私が知っている内容だった」

 由弦は眼鏡を外してポケットに押し込んだ。目の前にいる相手をまっすぐ見据える。

「警察には二十時四十分ころに六花と入れ替わりでシャワールームを使っていたと話したらしいけれど、私には六花が四十分ころにシャワーを使い始めて二十一時になる前に入れ替わったと話してくれたよね?」

 相手を視界にとらえたまま、声色を変えず淡々と続ける。

「曖昧さに足を掬われたね。何もかもが許容されるわけじゃあない。私が電話のことを言わなければ変えなくても、いや、一度偽ったからこそ不安だったのかな。暴かれる可能性をできるだけ低くし続けていたかったなら……普通、一般人と刑事が相互に情報共有することはない。今回は偶然、向こうが私を容疑者に数えていたらしくてね。揺さぶりをかけようと提示した事実が、最後のパズルのピースだった……私に伝えた時間、警察に証言した時間、たった数十分の差異がすべてを崩し得る瑕疵になった」

「……続けても構いませんよ?」

 言葉が少ないのは、決して動揺しているからでは無いらしい。高校生とは思えない笑みを前に、由弦は寛ぐように背を壁に預けた。

「お言葉に甘えて――警察は、君らは外に出られないから六花を殺すのは不可能だと話していた。まずはそこを崩そうかな。事実とは異なるなら、反論しても構わない。ただ、私が参考にしているのは君らがカフェで話してくれた内容だ。修正したいなら、相応の理由が欲しいね。勘違いしていました、というのはあまりにもナンセンスだ」

 由弦は数秒間だけ件の録音を流した。相手はいくつか目を瞬いたが、

「ええ。不用意に訂正して四人との話が食い違う可能性もありますからね……気をつけます」

 落ち着いた声色だった。

 由弦は話しを続ける。

「六花は誰にも止められないように部屋を出たつもりだった。同室のふたりのうちひとりは眠っていたしシャワールームから水の音が聞こえていればもうひとりも追いかけてくることは無いと安心しただろうね。けれど、君は服を着たまま水を流していただけ。鍵が閉まらないようルームキーに細工していたのか六花が開けた扉が閉まる前にシャワールームから出て開けたままにしておいたか、いずれにしろほぼ同じタイミングで部屋の外へ出た。しかし、六花はエレベーターホールへ向かったが、君は非常階段を使用して一階を目指した。戻ってきたときに非常階段の扉から宿泊階へ戻れるよう何か物を挟んで閉じないようにしながら」

 推測を離しながら、由弦は両手を握りしめる。

「六花が荷物を持って向かう先は熱海駅以外になかったんだから、少し遅れても走って追いかければ追いつけたはずだ。このとき六花がどこかに電話している姿を確認できていれば最初からそれを考慮した証言を警察にもできただろうから、追いついたのはその後だったんだろうね。その後だったとしても……ネットニュースの情報を用いるのは遺憾だけれど……二十一時ころに言い争うのは可能だよ。五分くらいで引き返せば次のフェーズにも間に合う」

「いくつか段階があるんですね」

「スマホのアラームだよ。古舘さんは自由時間にはずっと眠っていたらしいし、経過時間的にもまだ眠りは浅かった。だから、アラームで起きれた。部屋は冷房で乾燥していただろうから喉が渇いただろう。だから、自販機へ飲み物を買いに行くため内側から扉を開けた。そのとき園田さんとすれ違ったと話していたね」

「……」

「このとき、古舘さんはスマートフォンや財布は握っていただろうけれど、カードキーは持っていなかった。そして、渡してもらわなかった。そのまま自販機に向かった。直後、制御ソケットからカードを抜き取り、扉を閉める。そのカードを使って外側から解錠してサイドテーブルに乗せておいたカードとベッド近くのスマートフォンを回収して、部屋の外に出れば良いだけだ」

 しだいに相手が口元浮かべている笑みが不快に感じ始めた。夜空を見上げ、視線を戻す。

「カードキーは誰かが財布にいれたりしてキープしていたわけでは無く、サイドテーブルに乗せておいて使う人が持って行くようにしていた。場所がわかっていれば暗がりで手探りでもカードは見つけられる……以降は、なるべくひとりきりにならないようにしておけばほかの四人との記憶の齟齬なく容疑者から外れることができる。これを実行するには古舘さんの記憶の性質を知っている必要がある。古舘さんはヴィジュアルシンカーの気質が強い。順序立てて説明するのは苦手だった。四月からクラスメイトで夏休みの旅行で友人として関係性を憂慮できるくらいには彼女のことを知っていたなら、曖昧さに説得力を持たせれば納得させて記憶を書き換えることすら可能だと予想できたんじゃあないかな」

 由弦は一旦咳払いをしてから喉を湿せた。

「高校受験から間もない。上位校に名を連ねる修桜大学付属高校で学びをともにするならわかっただろう。得てしてクラスメイトたちはプライドが高いことに。自分の納得できないことには反発するけれど、反対に納得させてしまえば自分からそうだったと思い込んでくれるということに。プライドの高さとの相関は証明されていないけど、認知に関しては多くの実験が行われてその曖昧さが嘆かれる結果も少なくない。そして、曖昧さに説得力を持たせるためには、素早さが必要だった。でなければ、古舘さんを騙せても警察まで煙に巻けない……運も愛も大胆に振る舞う者の味方をするとは言い得て妙だね」

「話を伺うかぎり、確かに可能ですね。では、なぜこのようなことをしなければならなかったのでしょうね?」

「丁度いいアリバイを獲得するため……鉄壁が過ぎると作為を疑われやすく、瑕疵からすべてが崩されることもある。だからといって曖昧過ぎると意味を成さない。そのためにも、六花を含めて女子はちゃんと一人一枚ずつ持っていた――これを印象付けるためだ。帰るためにひとりで部屋を出た六花がカードキーを持っていないのはわかっていただろう。だから、自分が持っていたカードキーを六花に持たせた。何かの拍子に怪しまれたら、こう言えば良い……私一枚持ってたんだよ。二枚も持つ理由ないでしょう?」

 薄暗い中、相手が両手を握りしめたのはわかった。

 実際に使った言葉に近かったのだろうか……由弦は容赦なく言葉を続ける。

「この方法を実行するには、そもそも六花が早急に帰る用意を整えて部屋を出る必要がある」

「疲れ切った夜、しかもシャワーを浴びた後ですよ? 二泊三日ですから、それまでに広げていた荷物も片付けなければならないんですよ? あの子が夜に絵を描きに行っていないことはご自身で論証されたばかりですよね?」

 今までよりも強い語調だ。揺さぶれている感覚が得られて、なおさらこの曖昧な推測の正しさを信じられる。

 由弦は人差し指で天上を指しながら告げた。

「ここで重要なのは――白河六花の恋人の存在だ」

「お兄さんのお知り合いでしたか」

「いいや。あの子に恋人なんていないよ」

「……そう信じたいんですか?」

 呆気にとられたように尋ねられ、思わず「違う違う」と否定する。

「あー。これじゃあ保護者面した面倒な兄か。違うよ、本当にいないんだ。ゲンなんて恋人は」

 気づいたとき、由弦は何も言えないほど自分に呆れかえってしまった。

 あまりにも初歩的で当たり前なことだった。しかし、感覚の相違に気づけなかった自らを恥じた。

 今も、自嘲するような口調になってしまうのがわかる。

「友達だったなら知っているかな? あの子のもうひとつの本名を。日本じゃあ白河六花を名乗っているけれど、向こうでも同じ名前を使っていたわけじゃあない。そもそも向こうでは夫婦同姓にしなければならない法は無いし、私たちは都合の良い父方のバルマー姓を用いていた。もうわかるよね? クリステルが六花と名乗っているように、その兄がユヅルのままじゃあないって……ユルゲン・バルマー……ゲンは家族や友人が使っていた、私に対する愛称だよ」

 息を飲む声が聞こえた。カフェで話したときに漢字表記まで丁寧に名前を教えれば予想できたかもしれないが、音からは想像しにくかっただろう。

「そう、恋人なんかじゃない。君らはあの子が、お兄ちゃんのことだと誤魔化しているように聞こえたらしいけれどね。学校であの子が友達やクラスメイトをどう呼んでいたか知らないけど、大方、さん付けだったのかな。おかげで警察も踊らされていて馬鹿らしかったよ。下手に秘密主義なのは非効率だ」

「……白河さんに恋人がいないから、何でしょうか?」

「あいにく君ら五人のことは知らない。警察に何を話したのかも、ほんの一握りしかわからない。それでも、六花の兄を十六年してきたから、あの子のことなら少しわかるんだ。どのようなことを考えたのか……恋人はいなかった。だからこそ、どうしようもなく恐ろしかった」

 崩れない微笑みから確信した。やはりわかっていたのだと。

「どうしても三日目に唯一行くはずだった来宮神社には行きたくなかった。そのために、三日目が来る前に帰ろうとしたんだよ。縁結びが有名で恋愛成就を祈願できるパワースポットに行かずに済むように…………一度、古舘さんとの関係を揺るがした原因は恋愛関係だった。君とまで同じことを繰り返したくなかったんだ。けれど、あの夜、古舘さんが眠ってしまった後、二人きりになってから日中のことを指摘された……自由時間のとき、絵を描きに外出していたのではなく久藤くんと一緒に過ごすためだったことを……あの子がどのように何を考えるのか予想した上で、君は言ったんだろう? 園田彩結さん」

 少女は何も言わず、何も知らないような年相応の無垢な笑みを浮かべた。

 由弦は両手を握りしめた。

「咄嗟に六花は否定したかもしれないけれど、その直後、部屋を抜け出したのが答えだ。君にしたって、私に話したそのときのことと警察に証言したそのときとで十分間の齟齬を生じさせる理由は無い。遺族と警察が情報交換する機会なんて普通は無い。それぞれに最大限疑われず五人にも疑われないよう計算したのだろうけれどそれが契機だったよ。実際、私が警察に疑われていなければ一生わからないままだったかもしれない」

「そこまでわかっていらっしゃるなら、もうご自身の罪もわかりますか?」

「罪……?」

「わからないんですか?」

 妹の苦悩に寄り添いきれていなかったこと、旅行を許したこと、電話を無視したこと……思考を過ぎったものはいずれも耐え難い後悔だが、罪という表現には引っかかった。

 所詮、由弦が六花の死について自らを責める理由付けに過ぎないのだ。他人に責められるような内容ではない。

 園田は蔑むように「わからないんですか?」眉を下げて声に困惑と落胆を滲ませる。

「あの子の死は共有されるべきだったのに、怠ったじゃないですか」

「……殺したのは君だろう?」

 困惑のまま問い返した。

「そうですよ、けれどお別れができるほどの猶予はありませんでした。だから通夜が行われるのを待ち望んでいたのに」

 目を瞬かせるのは、由弦の番だった。

 間違いなく日本語は聞き取れている。しかしながら内容が理解できない。早朝の電話も同じような感覚だったと思い出しながら、何をすれば良いのかわからず、祈るように両手を握りしめて微笑む園田を眺めた。

「眠るように目を閉じたままの彼女は、きっと、童話のお姫様そのものごとく美しさだったでしょうに……」

「最初から六花を殺すために追いかけたんだね。手間をかけて警察を欺いたわりには殺人を認めているけれど、捕まることすら理解してなお犯行に踏み切ったのかな?」

 園田はその問いを鼻であしらい、しまいにはお腹を抱えて笑い出した。

 由弦はそれを眺めながら、全身の力が抜けるのを自覚した。

「違いますよぅ、それなら自分で話してもお兄さんが警察に話しても変わらないじゃないですか! だいだい、なぜこんな時間に公園へ行ったか、わかりませんか?」

 後ろ手に取りだしたそれが月下に煌めいた。

「妹さんと似た殺されかた、あるいは、罪の重さに耐えられず自殺……どちらにしますか?」

「急だね」

 明確な危機と相対しているのは認識しているが、目の前にある強烈な未知が思考を奪ってしまい、由弦を冷静にさせている。もはや、共通言語が不在だった。

「ふふっ……私、捕まりたくないんです。だって、私が捕まったらリッカが奪われてしまうんですもの」

「奪ったのは君だ」

「仕方ないじゃないですか、彼女の美しさが失われてしまうよりはずっと良いですもの。ええ、そうです。だって私は、世界の損失を防いだ立役者としての栄誉があるなら、いかなる不名誉だって受け入れられます。けれど、いいえ、だからこそ、リッカを盗られるのだけは耐えられません」

「……あの子は誰のものでもないよ。恋人がいないっていうのも話したとおりだ」

「そう、そのはずだったんです! けれど、その均衡を崩そうとする身の程知らずさんがいらしたのは事実です。今はまだ問題無くても、いつか誰かのものになってしまう――それだけは避けなければなりません! お兄さんならわかりますよねっ?」

 同意を求められても由弦は何も言えなかった。全く知らない言語で熱弁されても内容を、まして核心など理解できるはずがない。煮え切らない態度の由弦に憤慨したのか、園田は肩掛けバッグの中から小さな紺色の容器を取りだして叫ぶ。

「日本は火葬だからですよ!」

「……は?」

「どうにかしないと六花を保存できないでしょう? すべてを美しいまま保つことができないならせめて一部だけでも残しておかないと! 本当は毛髪が欲しかったのですが、調べられたとき切られた箇所があったら不自然にみえかねません。だから彼女の首を刺しました。彼女のお気に入りのペンだったら痛くても許してもらえるから、ジップロックの中からお借りして……缶の中に溜まっていく彼女の温もりは何よりも尊く、これ以上なく素晴らしかったです」

 恍惚とともに両手でボトルを抱える園田を眺めながら、由弦はどうにか思考を試みる。


 こんな理由のために殺されたのか。怒りや恨みを抱かれていたのならまだ受け入れられたのに……六花はあの子らしく生きていただけだったのに?


 園田の手には、今は刃物が握られていない――行動は早かった。由弦はその手から容器を取りあげた。中身が音を立てて揺れる。取り返そうと手を伸ばす園田を制して、容器を地面に叩きつけた。

 ガラスが割れる音とともに液体が飛び跳ねて広がる。

「君の言葉を借りると、生きているときのほうが六花は圧倒的に美しかったんだよ……。ああ、愚かしいね。美しさを保つために殺したのに、そのせいで醜く枯れることになったんだ」

「あ……ああ…………」

 ボトルの破片を乱暴に踏みつけて責める。

「純粋に君の愚かな行為によって! 切り取った一部ですらいつかは朽ち果てるのに」

 アスファルトの表面をなぞる液体をどうにかその場に留めようとする彼女を見下ろす。

「妄言吐いてないで目を覚ませよ。お前がその手で白河六花を殺したんだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 冷たく言い捨てながら立ち上ってくる強烈な臭いにむせ返りそうになる。

 缶に溜めた血液を、その容器に移動させたのだろうか……ふとカフェで聞いた話を思い出した。男子部屋に集まった後、園田はお手洗いのために女子部屋に戻っている。その際にでも入れ替えられる。持ち物を確認されたとしても中身まで確認されたわけではなかっただろう。

 もし確認されていたならごまかしようもない。

 すると、地に伏せるように肩を震わせていた園田は、突然立ち上がる。

 腹の底から何かを叫びながら由弦に体当たりする。体格は由弦のほうが悠に勝っているが、勢いは往なしきれなかった。倒れた拍子に地面に後頭部を強く打ちつけ、次第に鈍い痛みを知覚する。

 銀色が月光を反射する。

 視界が揺れる。園田が両目から涙をあふれさせながら両手で握りしめた刃を振り下ろそうとした、次の瞬間――――突然姿を現した髙橋が、園田を取り押さえた。彼女は抵抗しながら何か喚き続ける。


「怪我は?」

 手を差し伸べてきた人物――鷲見を見上げた。問いに対して由弦はゆるゆると被りを振った。

「頭ぶつけてただろ」

「すべて聞いてたんですよね、最初から。私の話、どれくらい正確でしたか?」

「想像に任せる」

「任せたからこうなったんですよ」

 鷲見は由弦の隣に膝をつくと、質問を変えた。

「知りたいだけというのは、本心だったんだね?」

「……真相がわかれば気が晴れると信じてたんですけどね」

「自棄になるな。止めなかったらどうなっていたか、わかるだろう?」

「メロスが帰って来なかったら、セリヌンティウスだって友を恨むものですよ」

 由弦は言ってから自分の言葉に笑った。小さかった笑いが長引き、少しずつ大きくなる。

 事件後、初めて心から面白いと感じて笑った。妹を信じていたのに現実に裏切られた。結局、約束は守られず、リュックサックは返してもらっていない。

 本人すら三日間の期限は守れなかった。果たして暴君は何をすれば良いのだろう。

 由弦は体を起こして立ち上がろうとする。それを遮ったのは、鷲見ではなく髙橋だった。

「安静にしているんだ。救急車は呼んだからここで」

 髙橋の手を外そうとしながら「大丈夫です」と立ち去ろうとしたが、「何かあったら寝覚めが悪い」と引きとめられる。

「死なせてすらくれないんですね」

「……遠回しな自殺か」髙橋が言う。

「これからどうしろと?」

「まだ若いんだ。考える時間は長い。きっと何か見つけられる」

 鷲見は頭部の打撲を刺激しない程度に由弦の肩を軽く叩いた。すると、


「他に何がありますか」


 唐突に理解した。

 かつて証言を無視してしまった少女の、あの表情……あれは悲しみや不満などの負の感情が煮詰められたものだったと理解した。怒りに近い何か表層に現れたものだった。

 清水のような声色の彼に返せる言葉を見つけられなかった。じんわりと穏やかに、しかし確実に寒気を自覚する。自らの言葉が宙を空回ったのも遅れて理解した。

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