現地と確認
良く晴れていた。
太陽は天上で煌煌と自らの役目をはたしている。このような日、決まって由弦は来日したばかりのころを思い出す。生国よりもずっと湿度も気温も高い。寒くないのは嬉しいがまったく別の憂鬱が与えられるとは想像していなかった。他方、おもしろいね、と知らない土地の楽しみかたを見つけて笑っている妹は――六花はもういない。
父親からの最後の誕生日プレゼントの、シオンと名付けられたテディベア。何を思って六花はあのくまに名前を与えたのか、なぜシオンと名付けたのか。新幹線に揺られながら考えてみた由弦だったが、納得できそうな答えは出なかった。
ふと彼か彼女を家にひとりきりにしてしまったのだと、不安に襲われて――何が悲しくてたかがくまのぬいぐるみにそこまで感情移入して心を乱されなければならないのか――途端に思考が冷えた。
なぜ六花は殺されたのか。
由弦が現時点で知りたいのはそれだけだ。どうするにしろ、すべてわかってから決めれば良い。それまではすべてどうなっても構わなかった。
深く帽子をかぶりなおした。眼鏡に干渉するうっとうしさはあったが、刺さるような日差しを少しでも緩和できるほうが嬉しい。妹に外して欲しいと言われても断って来た眼鏡を外す気はなかった。世界を間接的に目撃している感覚が消えるのは怖かった。
数日前、警察官の運手する車で移動したが、歩いてみると感覚として距離に実感が生じる。高揚感のような倦怠感とともに、六花の友人らの話をもとに彼女の足跡を追った。
熱海駅から、コインロッカー、昼食をとった店、コインロッカー、宿泊先のホテル、起雲閣、夕食を取った店、宿泊先のホテルに戻って一日目を終えた。
宿泊歳のホテルから――献花台が設置された遺体発見現場を横目に――親水公園ムーンテラス、熱海サンビーチ、海が見える近くのカフェ、宿泊先のホテル……どこかへ絵を描きに行って……宿泊先のホテル。ここから六花はどこへ行こうとしたのかわからず、献花台へ足を運んだ。
普段は率先して運動しない由弦にとって、季節柄もあいまって、想像以上に体力を奪われた。
とはいえ特に気になっていた三地点……宿泊先のホテル、遺体発見現場、親水公園ムーンテラス……それぞれの距離感覚は確かめられた。それぞれ徒歩十八分、二分といった所感だ。六花の友人らに聞いていたかぎりの内容と大きなずれは無い。あの日聞かせてくれた内容にも驚くような認識の相違は考え難かった。多少の差異については、高校一年生と大学一年生の体格差や知識量だと受け入れられる程度のものだ。受け入れられるから、小休止を取りたかった。
幸い熱海駅から離れていない、コンビニはかなり少ないが歩いて行きたくないほどの距離ではない。しかし店内飲食スペースはあるだろうか……足を休めるのが最優先であって、飲食は二の次三の次。座る場所を探すために歩き回るのは避けたかった。
いままで歩き回った経路を思い出して――海が見える近くのカフェ――適する場所に思い至った。
幸い、献花台前。親水公園ムーンテラスが近い。海は目の前にある。つまり、目的のカフェも近くにある。
お昼時を大きく過ぎていたが、店内は髪の毛が濡れた客が半分ほど埋めていた。海が見える距離だ。海水浴を楽しんでから腹ごしらえするには最適な場所。メニューを見るかぎり、食事の満足も適えられるらしいと思った。ひとまずコーヒーを頼んで待機する。
もし、当初から標的を殺すつもりではなかったとしたら?
不意に思考を過ぎった。父親が射殺された事件について考察がここに至ったとき、今まで見逃していた化石を発見した考古学者のような素晴らしい心地だった。これがカタルシスと呼ばれる経験に該当するならば、なるほど、人間は悲劇から離れられない宿命にあるのかと信じられた。
三分間でどれほどの金属が宙を舞い、いくつの命が散らされただろう。
明らかに狂気だと確信した。犯人の狂気に思考が至ったのだとすれば、由弦自身も狂気に苛まれているということになるだろうか。
拒絶。
抑えがたい好奇心。
相反する性質のふたつが由弦に巣食う。
狂気には陥りたくなかった。正気だと客観的に証明しうる範囲を逸脱してしまえば、狂気を測れなくなってしまう。あくまでも狂気を測るために狂気に触れていたに過ぎない。
由弦は正気を保ち続けていると自負し続けてきた。いまさら疑ってしまえば今までのすべてが疑わしく思えてしまう。人生の三分の一を費やしてきたもののために自らを疑えば遠くないうちに抑制が効かなくなる予感があった。だから、正気を証明するために記録した。
由弦はトートバッグのポケットからスマートフォンを取りだした。熱海に到着してからは使っていないが、それまでに目的地の経路を頭に叩きこもうと充電を消耗していた。足元にコンセントが無いか探して、諦めた。充電器系は持ってきたが、コンセントがなければいずれ尽きる。ようやく宿泊先すら決めていないと気がついた。
「宿泊先……」
調べてみると、六花たちが宿泊したホテルには部屋の空きがあった。事件の影響だろうか。由弦には幸運だった。一部屋に三人泊まれそうなところは二種類あるが、一方はファミリールーム仕様らしい。もう一方の部屋にしようと、クレジットカード情報を入力して予約を完了させた。狙ったわけでは無いものの相場より安かった。
充電はまだ半分程度ある。
由弦はドキュメントアプリを開いた。アカウントを同期させているため、六花からの電話を無視したとき必死になって文字に起こしていた思考の軌跡に触れられる。
――犯人は標的を生かしておくつもりで引き金を絞ったのだと仮定する――妙な感慨深さが心を包む。しかしこれは当日のカタルシスだと信じようとした感覚とはまったく異なっていた。
事件は就業時間内に起こった
標的に関する下調べをしていた
襲撃時に同じ空間に居合わせた
事前の調査で標的の居場所を正確に知ることはできたのか
正確とはいえ座標で小数点以下までは不要だ、
少なくともどの建物にいるのか分かれば十分だ、
標的の仕事や立場から特定の時間に特定の順路を用いる可能性も考慮できる、
待ち伏せすることは出来ただろうか、
待ち伏せしたなら警備や警察が到着するまでに標的を殺せた
けれど殺さなかったのは何故だろう、
殺すつもりが無かったのに銃は乱射されて死傷者が二十八名
標的の行動パターン推測可能
移動ルート出発点到着点わかれば推測可能
……
構造化しないまま全力で出力したそれらをスクロールしながら眺める。
魅せられたのは――自分は何に魅せられたのか、わからなかった。
半日以上かけた。文字数は十万を超えている。大学の、課題で出されるレポートや定期試験の論述の比ではない。圧倒的な熱量が保証している当時の興奮はなんとなく察せられる。何がここまで自分を突き動かしたのか……妹の次は、自分までわからなくなった……そんな馬鹿らしさが腹の底から嘲笑を誘う。
お前のせいで殺されたんだ――犯人が標的に刻みこみたかった悪意であり、目的。
二十四名が死亡、四名が重軽傷を負った――その責任は紛れもなくお前にある。お前が殺したも同然だ。
自らの憎悪を標的に思い知らせるためだけに、母国が永く悲惨な経験とともに培い守ってきた平和観念を揺るがした男がいた――いたから、何だ?
この思考にたどりついたとき満たしてくれたはずの、純粋な興奮は文字の奥に見つけられなかった。
何が違うのか。何が変わってしまったのか。
考えるまでもない、六花の生死だ。
六花が生きていると信じていたときに感じられた熱は、六花の死を知ってしまったことによって失われてしまった。見えなくなって、触れられなくなった。
答えが見つけられず苦しむより、どのような理由であれ、責任の所在が証明されてしまったほうが楽な気がした。
暗闇で立ちすくんでいる今だからこそわかった。
錯覚だったのだ。
幼い日に見た、流れてきた事件に関するニュースや専門家により綴られた考察のように。
解けるかどうかわからない何かに挑むのは、もはや自分自身への呪いのような決意は解ける方法を知らなかった。
不意に、自らの空腹に気がついた。やりたいことは、為すことはもはや明確だ。空っぽの間ままでは必要なときに全力を出せないだろう。それでは困る。
コーヒーを運んできた店員に、お勧めを聞いた。
「じゃあ、ナポリタンで」
店員は笑顔で承知を述べて足早に去って行った。
壁代わりの窓の奥。由弦は、青空を反射して悠々と広がる海から目を逸らしてカップを傾けた。




