Kiss me. Kiss me as if it were the last time.
Kiss me. Kiss me as if it were the last time.
キスしてくれ。キスしてくれこれが最後かのように
窓の外で、年端もいかぬ少女が花を摘んでいる。ふと、少女が窓を見上げて、目が合った。はにかみながら、こちらに手を振る。恥ずかしさと喜びに赤らんだ頬が可愛くて、微笑みながら手を振り返す。
そんな、少女とのたわいのないやりとりを喜ぶ私を、射殺しそうな眼で睨み付ける男がいる。先ほどまで、執務机の上の書類を睨んでいたというのに、目敏い男である。
「おい、ヘラヘラと誘惑するな」
「人聞きの悪い。ちょっと手を振っただけじゃないか」
「あいつに手を出したら殺す」
愛らしい笑みを向けてくれる少女は、彼の娘だった。男には他に、二人の息子がいるのだが、唯一の娘である末の子どもを、いっとう可愛がっていた。
「はいはい」
「王族の女はみな、お前に叶わぬ恋をする」
それは、ちょっと誇張しすぎではなかろうか。
「年上のお兄さんへの憧れみたいなものじゃない?」
「オレの姉も、叔母も。祖母はいまだに、お前のツラを見ると恋をする生娘のような顔をする」
「可愛いよね」
彼の眼光が鋭くなり、私を詰った。
「お前は、王のものなのに」
そう言って、彼ーー今代の王は忌々しそうに舌打ちした。
……
………
…………
私は王のために存在する。それは、忠誠心とかそういった話ではなく、ただの純然たる事実なのである。世の理のようなものだ。遥か昔、王の祖が獣の姿をとり、私が鳥の姿しか持たなかった時分からずっと。
とはいえ、大それた力を持っているわけではない。不老不死であることと、死をもたらすこと、そのくらいである。民たちは私を浮世から離れた存在にしたてあげようとするが、とんでもない。不老不死といえども、私としては、“ちょっと長生き”くらいの感覚なのである。なにせ、私は記憶力が乏しく、二百年ほどの出来事しか憶えていられない。たとえば、創世の日のことなど、忘却の彼方でぼんやりとも思い出せないくらいなのだ。
そんな、たいした力を持たない私が、王のためにあれかしと世に定められたのは、ひとえに、私のささやかな異能ーー安らかな死を与える力が、王に必要とされたからだ。
王は、一族の中で王として即位した時から、群れを統べる力を持つ。誰よりも気高く、誰よりも優れ、誰よりも強靭な生きものとなるのである。そして、稀有な能力には、代償を伴うのもまた、世の摂理だった。
「ーーッ」
王が執務の手を止める。親の仇のように一点を睨み付け、食い縛った歯が、ぎしりと音をたてた。
「……痛むのか?」
王の護衛として側に侍ることを許されている私が静かに尋ねると、王はひと呼吸のうちに苦痛を呑み込んで「いつもの頭痛だ」と素っ気なく言った。机の上にペンを放り投げ、立ち上がった。
「今日はもう休む。王妃を呼べ」
肯いて、王を寝所まで送り届ける。王は、「絶対に入ってくるなよ!」と言い置いて、分厚い扉をバタンと乱暴に閉めた。王は、王妃の他に、寝所に誰も入れたがらない。それは、私も例外ではない。幼い頃は、そんなことはなかったのだが。ぐずる幼子を膝に乗せて、髪を撫でて寝かしつけていた。思春期に、寝台の上で自慰をする様子をうっかり覗いてしまったのを、未だ根に持っているのだろうか。
とはいえ、成人男性の思春期ムーブを生温かく見守るばかりの私ではない。人の姿に馴染み過ぎている私ではあるが、本来の、鳥の姿をとることもできるのだ。瞬きのうちに平凡な鳥となった私は、野を棲家とする鳥に混じって、王の寝所の窓枠に降り立った。
窓の外から、王の様子を伺う。
王は、寝台の上で苦しみもがいていた。獣のような咆哮が、絶え間なく、ビリビリと窓ガラスを叩いている。王妃が涙を流しながら、しかし気丈に、暴れる王を抱きしめて、いくつもの薬を王に飲ませている。王妃は優秀な医者であり、薬師だった。この国で随一の腕を持っている。そんな王妃であっても、王を蝕む壮絶な痛みを取り去ることはできず、気休めに、痛みを和らげるだけだ。それでも王は、人としての矜持を取り戻し、無力さに嗚咽を漏らす王妃を優しく慰めていた。
王を王たらしめる能力の代償は、想像を絶する痛みである。歳をおうごとにその痛みは強くなり、痛みに耐えきれず気狂いとなる。痛みから逃れる術はただひとつ、死があるのみ。ゆえに、代々、王は短命となる。今代の王は三十半ばで、歴代の王に類を見ないほど長命だった。並外れた精神力と、生への執着。痛みは増すばかりであろうに、周囲にそれを悟らせない。王が弱みを見せるのは、王妃の前でだけであった。
寄り添う二人が眠りに落ちたのを見届けて、私は窓枠から飛び立った。
……
………
…………
王が例の如く寝所に篭り、暇を持て余してふらふらとひとり散歩をしていた時のことである。私の髪の毛と戯れていた鳥たちが、一斉に、怯えた様子で飛び立った。何事かと振り返れば、王妃が泣き喚き、髪を振り乱して城内をひた走っている。私の姿を見つけると、奇声をあげて近づいてきた。あまりの恐ろしさに、後ずさる。王妃は、常軌を逸した様子で、私の足元に縋り付いた。
王より先に、王妃の気が狂ってしまったのだと、私は悟った。
「ころして!」
喉が張り裂けんばかりに、王妃が叫んだ。
「ころして! あのひとを殺してあげて! 王がわたくしに縋るのです、痛みにのたうちまわり、赤黒い血反吐を撒き散らして、死にたい、死にたいと、わたくしにーーわたくしだけに!!!」
私はしばし呆然とする。王妃を宥めるのを忘れ、疑問が口をついた。
「王が、死にたいと望んだのか……?」
王妃が答えようと口を開く。
「いいや」
王妃の声をかき消して、その否定は凛と響いた。唯一無二の王の声に、顔を上げる。王は、いつものように、私を睨み付けて立っていた。気が狂いそうな痛みすら嘲笑う不遜さで、気高く、美しく。
「余は死なぬ」
王の瞳は、ギラギラと光っている。生への渇望が色鮮やかな焔となって、瞳の奥で爆ぜているのだ。あまりの美しさに、私は恍惚と見入っていた。
すい、と瞳が動いて、王妃を捉えた。ヒッと、王妃が悲鳴をあげる。
「こいつに触れるな」
感情を削ぎ落とした声色だった。乱暴な物言いをする王を見たのははじめてだったのだろう、王妃は愕然としていた。私から王妃を引き剥がそうとする王の手を制し、膝をついて王妃の涙の跡をハンカチで拭ってやる。王が私を憎々しげに睨みつけた。気にせず、乱れた髪もついでに直してやる。王妃は、王の大切な人なのだ。王に、ひと時の憩いをもたらす人なのだ。だから私は、王妃を怯えさせぬよう、“優しそう”“爽やか”と一部の女性から定評のある微笑みを讃え、「君の頼みは聞けないよ」と伝える。自明の理を、幼子に教えるように。
「私の死は、狂った王のたったひとつの安らぎ。ーー王が私に望み、私が王にもたらすのだ」
できるかぎり優しく、穏やかな口調で語りかけた。それなのに、得体のしれない生きものを見るように、怯えた目を向けられたのは、何故だろう。
王に手を引かれ、寝所の扉をくぐる。中へと入るのは、久方ぶりだった。血の匂いがする。ベッドを見る。真っ白なシーツはグシャグシャで、黒い染みがいくつも付いていた。ジャリ、何かを踏んづけた。足下を見る。割れたカップが転がっていた。他にも、手当たり次第に投げつけられたものたちの残骸が、散乱していた。
「くちづけしろ」
王が命じた。迷うことなく、くちづける。このくちづけは、王に死をもたらさなかった。私の満足げな吐息を、王が飲み込んだ。唇は、すぐに離れた。私は、王の頬にそっと両手を添えて、そのかんばせを覗き込む。ベッドに腰掛ける王に乗り上げるようにして、顔を寄せる私を、王は咎めない。ただ、強く、強く、睨み付けていた。私は、ギラギラと輝く瞳の奥をじぃっと見つめる。そこに宿る光のひとつ、ひとつに目を凝らす。王の、正気と、狂気の傾きを、見定めていた。驚くべきことに、これほど生き、比例する痛みに曝されてなお、狂気の光はまだ遠い。そのことに、私は安堵した。
「やすらぎ」
王が、私の名を呼んだ。
「お前は、誰のものだ?」
「私は、お前のものだよ。お前が王であるかぎり」
王は、私を睨み付けている。その雄弁な目は、王の望む答えを寄越さぬ私が憎いと、告げていた。王は、私を誰よりも愛している。そして、己の死である私を、誰よりも憎んでいる。
「他のヤツにはやらねぇよ。オレが死ぬより先に、お前を殺してやる。そうして、骸のお前にくちづけて、オレも死んでやる」
王はそう言って、幼い日のように、私の膝に額を擦り付けた。私はくすくすと笑って、王の髪を撫で、「待っているよ」と答えた。
ああ、待ち遠しい。待ち遠しい。永遠の命を終わらせるのは、この男なのだと、私は確信していた。彼を愛おしいと震える心によってもたらされた、錯覚かもしれないけれど。