第七章
こうして再開を果たした二人の交流は
その後も続いた。
幾度か会ううちに、李の家庭は、父が韓国からの移民一世、母は日本で生まれ育った韓国人二世であり、彼はそういう言い方が許されるなら、韓国人移民の1.5世であると言えた。日本独特の言い方をすれば、いわゆる「在日コリアン」であった。
両親は大阪で長く町工場のさらに下請けのような仕事をしていて、裕福ではなかった。その後、親族に呼ばれ、東京へ引っ越し、居酒屋を任され経営していたが、ここ数年は赤字続きの状態で、そんな有様であったから、学校は全て公立、進学塾も行ったことなしで、そんな事情で、大学受験は一浪まで、さらに私学は絶対駄目と固く言われていたのであった(ちなみに当時の国立大学授業料は年間4万8千円であった)。
加えて、彼は医学部進学を強いられた。ーというか、これは両親が教育熱心だったせいではない。両親はどちらかというと放任主義だった。ーいや、仕事に全神経を集中していて、放任せざるを得なかった、と言った方がいいだろうか。 医学部進学を考えざるを得なかったのである、李英彦は。ーそれは今では考えられないほどの職業選択の不自由さがあったためである。
当時、いわゆる在日コリアンは、大学を卒業しても、大会社に就職することなどほぼ不可能であった。東京大学、京都大学を卒業しても、公務員にはなれないし、教員にもなれない、弁護士にもなれない、そんな無いない尽くしの社会だったのである。
そんな中で、李は文系志望だった。高校3年の卒業前までどこか文学部へ行って、国文学など専攻したいと漠然と思っていた。しかしいよいよ大学受験を目の前にすることになると、そこへ一気に現実が押し寄せた。国文学やって、在日コリアンがどうして生計を立てるのか?誰から言われたのでなく、自分でそういう命題を自分に突きつけた。高校3年ともなれば、時代の空気を読むことは十分に出来ていた。ー教員免許は取れない、では大学で研究の道を進むか?しかし当時在日コリアンが大学で講師以上の職を得るなんて、夢の又夢、という時代であった。一生貧乏暮らしの研究者として生きるか?考えれば考えるほど暗い話になってくる。彼は、それでも好きな道を選んで、あとは自分の人生は運命に任せるか、あるいは別の道を模索するか、最終の選択を迫られていた。
そんな時、ふと兄に相談した。兄とは決して仲がいいというわけではなかったが、ほかに頼る人もいなかった。
兄はすぐさま返答した。実は彼は医学部目指して浪人中であった。
「それってさ、お前、医学部へ進学すればいいじゃん。医学部行って、それで飯を食って、文学は趣味でやればいい。それだけのことじゃない?考えてみろよ、森鴎外、サマセットモーム、みんな医者だろ?お前なら出来るよ、今から理系に志望を変更しろよ」
と、いとも簡単に言ってのけたのである。
「医学部か…」考えてもみなかった。しかし言われてみればなるほどである。当時の都立高校は文系理系とカリキュラムは分かれていなかった。かつ、国立大学は五教科点数は均等配分である。「今からでも医学部志望しても遅くはない」彼はそう確信した。無論現実はそう甘くない。現役合格は果たせず、そのまま彼は浪人生活へと入った…。