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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第五章

 「米原地方大雪のためただ今より新幹線は徐行に入りますこのため京都到着は遅れる見込みです…」

 信恵はアナウンスを聞いて、「遅れるのか…。まぁそれも仕方がないか」と、自分に言い聞かせると、時間つぶしにカバンの中から1冊の本を取り出した。それは世界史の教科書であった。当時世に広く使われていた山川出版社の教科書である。信恵は英語と理科系の科目を得意、いや大得意と言うべきか、としており絶対の自信を持っていた。だから今回の受験も英語および理系科目に関して合格点は間違いないと自負していた。ただ国語と社会は偏差値的には合格ラインは上回ってはいるものの、元来苦手であり、気休めに、唯一の弱点である世界史の勉強でもするかと軽い気持ちで教科書を開いたのであった。ー当時の国立大学受験は五科目すべて必須であったのである。

 すると突然隣の席にいた男性が声をかけた。

「あれひょっとしてあなたも受験生ですか?いやーこれは偶然ですね」そう言いながら彼もカバンから本を取り出した。なんとそれは同じ山川の世界史の教科書だった。

「同じ教科書ですね、笑っちゃいますね」と言うと、彼はクスクスと笑い出した。そのまま、彼は勢いに乗ると自らのことを色々と語りだした。

「僕は京滋大学を受験するつもりなんです。あなたは京都ですか大阪ですか?名古屋は過ぎたから名古屋大学ではないですね、ははは」

 明るく語りかける彼に、警戒心も少し緩んで、信恵は答えた

「私は京都千都大学です。医学部です」

 すると彼は驚いた表情を見せるとすぐに問い返した。

「いやー、京都千都大学医学部ですか!これはすごいなぁ。僕も医学部志望なんです。本当は千都大学受験したかったんですが…。いやいやとても偏差値的に手が届かなかくってね。ー昨年は関東周辺の医学部を受験したけど討ち死にでして、でも浪人は1年だけだと両親から強く言われて、それで今年は京滋大学の受験を決めました。模試的にはそこがぎりぎりなんです。キャンパスが大津でしょ。家が貧乏で下宿代は出せないって言われたんですけど、それはアルバイトで何とかするって、大見得を切ってね、だから背水の陣なんです」



 信恵はいささか驚いた。「我が家は貧乏なんで」って、何の警戒もなく自分の家のことを明け透けに話す、そんな彼の心の純粋さを感じたことで、信恵は彼への警戒心を少し緩めた。そうして見ると、彼の人懐っこい話し方、彼の見た目の爽やかさ、受験生らしからぬ明るさ、などは、とても新鮮で、自分の根暗さからは対極の存在であり、そんな彼に少し惹かれたことも確かといえた。

 普段人見知りをする彼女であったが、思い切って、彼女は話を続けることにした。

「私は実は三浪なんです。だから私も背水の陣かな?私は本番に弱いタイプで…」

 そう言った信恵だが、素直に自分のことを話せる自分に驚いてもいた。こんな経験は初めてだった。いつもいつも相手を警戒して生きてきたのである。物心ついた時から、医学部受験を強いられてきた今まで…。常に周囲は敵だったのだ。心を許せる相手などいなかった。ー親に対してすらそうだった。

 そんな感傷に浸っていると、彼はまた明るい声で、彼女に返答してきた。

「えー根性あるな!それに三浪まで許すなんて、ご両親も理解あるんですね」

 ご両親、と聞いて、信恵の心は動揺した。過去の様々な記憶が脳裏に浮かんできた。受験戦争は、彼女にとって、両親との戦いでもあったのである。

 彼女の沈黙をよそに、彼は話し続けた。

「僕は李と言います。よろしく!ーどうでしょう、背水の陣同士、もし合格したら祝勝会を二人でしませんか?ーそうですね、四月の第一日曜日、円山公園の枝垂桜の下で待ってることにしましょう。相手が来なければ、相手の再チャレンジを祈ることにしましょう。と言っても、おそらくあなたは大丈夫でしょう!僕は危ないかな?顔を忘れることはないでしょうけど、念のため目印にこの山川の教科書を手に、待ち合わせましょう。時間は夕方六時に、丁度で、いいですね」

 勢いよく一方的に話されて、信恵は「否」とも言えなかった。怪しい誘いでもない。何かの縁だと言えば確かに縁である。彼女は答えた。

「いいですよ。私は原田と言います。お互い頑張りましょう、健闘を祈ってます」

 これを聞いて李はにこりと頷いた。そして右手を挙げてガッツポーズをしてみせた。

「何と明るい人だろう…」信恵は、彼の提案をなぜだかうれしく思っている自分に気が付いて、少し戸惑った。

 外を見ると雪は小止みになっている。新幹線も速度を上げた。

 京都駅には1時間遅れで着いた。その間も、李は、自分は京都が好きで、今回の受験先を決めたことなど、自らの京都愛を信恵に詳しく語り続けた。

 二人は京都駅の新幹線出口で別れた。李はさらに東海道線で大津へと向かわねばならなかった。

 李は別れる直前に、再度、こう言った。

「いいですね!約束ですよ!是非とも会って、祝杯を上げましょうね!」

 信恵はタクシー乗り場に向かいながらも、爽やかな心持ちになっている自分にひどく驚いてもいた。

「この気持ちのまま受験に臨みたい」

 4月の再開を楽しみにしている自分にも戸惑いを感じつつ、彼女は宿泊先のホテルに向かうのであった。


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