第三十一章
近鉄戦に乗り換えて一駅である。信恵は今里駅で降りると改札を出た。
住所が書かれたメモを片手に道行く人に尋ねながら、李の娘の住まいを探した。
この近辺は、李と学生時代に歩いた記憶はある。しかしその頃とは随分街の景色も変わってしまっていることに驚いた。李と歩いたころは、当時の建物など、かっての色街の風景を一部垣間見ることが出来たが、今はもうすっかり古い建物も無くなって、おしゃれなカフェに化けたりしている。
とは言っても、やはりそこはコリアンの多く住む町である。韓国料理の店や、韓国風カフェ、焼き肉屋などもそこかしこに見られ、独特の町の匂いを醸し出していた。
「ここだわ」
ようやくたどり着いたのは、ワンルームマンションの4階の一室であった。
「一人暮らしをしているのね」
幸い、オートロックの玄関ではなく、そのままマンション内に入ると、信恵はエレベーターを使って、4階へと上がった。
いよいよ部屋のドアの前である。
彼女は大きく深呼吸をした。
「とにかく包み隠さず正直に全てを話そう、誠意を尽くして」
あらかじめそう決めていた。無論、会ってくれないかもしれない。居留守を使われるかもしれない。インターフォン越しに罵声を浴びせられるかもしれない。玄関で塩をまかれるかもしれない。
「でも、誠意を尽くすしかないわ」
信恵は改めて覚悟を決めると、インターフォンのボタンを押した。すると「はーい」とインターフォンのスピーカーから声がする。
信恵は動悸が激しくなって、胸苦しさを覚えるのを必死に堪えながら、「こんにちは、私は原田と申します。こちらは李さんのお宅で間違いなかったでしょうか?」と、目に見えぬ相手に語りかけた。
すると、しばらく相手は押し黙ったままでいたが、少しして、「確かにそうですが、何のご用件でしょうか?」と、尋ねてくる。
信恵は胸の鼓動の高まりを感じた。心臓の一拍、一拍ごとに、それこそ心臓が口から飛び出してくるのでないか、と決して誇張ではない、そんな感覚を感じ、言葉に詰まってしまった。
不安で、心はくじけそうであった…。
しかし、彼女はありったけの勇気をふり絞って、ついに声を発した。
「あのー、私はあなたのお父さん、英彦さんの友人のものです。今日はお伝えしたいことがあって参りました。少しお話し出来るでしょうか?」
そう言い切ると、彼女は全身の力が抜けるのを感じた。めまいで今にも倒れそうであった。「でも、踏みこたえないと」ーそう自らに言い聞かせ、また自らを鞭打つと、彼女は手を壁についてめまい感と戦いながら、何とかそこに立ち続けた。
息苦しさが彼女を襲った。過呼吸、と思った瞬間、彼女は自らの過去の家庭トラブルを思い出した。ー何度この過呼吸発作に見舞われたことだろうか!フラッシュバックとして、辛い記憶が脳裏に浮かび上がってきた。
「もう立っていられない…」
そう彼女が感じた直後であった。
ドアが開いた…。
「あっ」と思うと同時に、彼女は姿勢を立て直した。ーここで倒れるわけにはいかないのだから…。
少し開いた玄関ドアの向こう側に、小柄な女性が立っている。「この人が、彼の娘さんなのね」と思うと、再び体に緊張が走った。
「しっかりしなければ」
信恵は強く自分に言い聞かせると、彼女に話しかけた。
「李さんの娘さんですね、ありがとうございます。私は原田と言って、彼の友人です。例の事件の事は、おそらく警察の方からも聞いておられると思います。この場所は刑事さんが教えてくださって、それで本日伺いました」
そこまで一気呵成に言うと、緊張が少しほぐれた。言葉も滑らかになってくるのを感じた。そこで彼女は、続けた。
「お願いです。少しお話をさせていただけませんか?決してご迷惑はおかけしません。彼の友人として、彼の病状のことなどお話しさせていただきたくて、こうやって訪ねてきただけです」
こうして要件を伝え終わると、彼女は李の娘に向かって、深く頭を下げた。「お願いします」という意思表示であることは言うまでもない。
しばらく李の娘は黙っていたが、真摯な信恵の態度に警戒が少し緩んだのであろう。
「中にお入りください」と言うと、ドアを大きく開けた。そして信恵を招き入れた。
信恵は自分の誠意が伝わったことを喜びつつも、室内に入ることで、また、緊張感が体を襲うのを感じた。再びめまい感が強まる、そんな体に鞭打って、彼女は、李の娘の招くままに、リビングルームへと入った。
「どうぞ、おかけください」
勧められるままに、床の上に座った。6畳一間のワンルームマンションである。見渡すと、女子の部屋らしく、こざっぱり整理されていて、掃除も行き届いている。「荒れた生活をしているということはなさそうだわ」と、思うと、信恵は自分の娘でもないのに、そんな安心感を抱いている自分をひどく可笑しく思うのでもあった。
李の娘は、自分はソファベッドに腰かけると、落ち着いた様子で、信恵に言った。
「用件は何でしょうか?詳しいことは警察から聞いています。また、私自身が、父の、今は日本での唯一の血族だということも聞かされています。いや、もっと言えば、確かに父の娘ではあるが、彼とは関わりを持ちたくないこと、また彼と会うつもりもないこと、そのことも警察にはすでに話しているはずですし、多分お聞きになっているのでは?」
彼女はそこまで語ると、口を閉ざした。そしてじっと信恵を見据えている。
信恵は気がくじけそうになるのを、必死に堪えながら、彼女の視線から目を反らしてはいけないと、気力をふり絞って、目と目を合わせ続けた。ーこうして落ち着いて彼女を見ると、とても端正な顔立ちで、目鼻立ちも派手さはなく、普通に日本人のように見える。何より李と瓜二つである。信恵は、李が彼女に会えれば、どれだけ喜ぶだろうかと想像すると、何とか彼女を説得して李に会ってもらるように頑張らねば、と改めて強く思うのであった。
そこで、再び深呼吸をすると、彼女にここまで訪ねてきたのはなぜか、その件について語リ始めた。ーまずは李の容態、また、彼の抱いている強い自責感、後悔の念、さらには、彼自身も自ら望んだわけではない、過酷な運命に弄ばれた、私から見れば、やはり犠牲者の一人だということ、などなど、を心を尽くして、語った。無論、李の妻、つまり彼女ー琴湖ーの母の自殺の件についてお悔やみを述べたのは言うまでもない。加えて、李がそのことを一生の重荷として、自らの背に背負い、今まで、自らの命を縮めることにもなりかねない、過酷な精神医療の現場の最前線で働き続けてきたこともである。
すべてを聞き終わると琴湖は徐に口を開いた。




