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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第三十章

 その週末の朝、大阪行きの新快速電車の中に、信恵の姿があった。

 表情は厳しく、口を真一文字に結んで、窓の外をじっと眺めやっている。

 昨日の事であった。テレビのニュースで川村妙子の消息が取り上げられ、能登半島で遺言書が発見されたことや、遺体は発見されていないこと、さらには、自死偽装の疑いもあることなど、詳細に伝えられたのだ。

 信恵は動揺した。すぐに、このことは李の知るところとなるだろう。ー病院はもちろん李の耳に入らぬよう、職員にこれらの情報について緘口令をしいてはいるだろう。

 しかし…。

「いずれは彼の知るところになる」

 信恵は確信していた。人の噂というのは恐ろしいものだ。広がるスピードもだが、どんどん修飾されてしまう、李の耳に届くのはあっと言う間であろうし、妙子は死んだ、と誤った情報が伝わる恐れもある。

「一刻の猶予もない」

 彼女は、翌朝、意を決し、消息不明だった李の娘に会いに行こうとしているのであった。

 会って、何とかお父さんを励ましてほしいと、生きる望みを与えてほしいと、そう懇願するつもりであった。ー無論、前提として、彼女の父への赦しがあってのことだが…。

「しかし、そもそも会ってくれるだろうか?」

 住所だけを内密にと、刑事が教えてくれたのであった。あらかじめ連絡をとる方法はない。直接そこへ行ってみるしかないのだ。ー不安がよぎる。玄関で塩をまかれるかもしれない。ひどい怒声を浴びせられるかもしれない。

 しかし…。

「行くしかない!」

 そう強く言い聞かせて、不安を打ち消す。ーそんな作業を繰り返しているうちに、気が付くと大阪駅に着いていた。

 大阪駅で環状線に乗り換える。ーここからは一気に大阪らしい雰囲気になる。目指すは今里である。環状線鶴橋から近鉄戦に乗り換え一駅のところである。ーもっとも李が生まれたのは、そこから歩いて15分ほどであろうか、「中川」という町である。

 そこへは一度、学生時代に李と訪れた記憶がある。信恵が、李の生まれ故郷を一度見てみたいと申し出て、それならと、彼が了解し実現したものだった。

 どこまでも、のどかな下町風景が続く町であった。

「昔はね、全部長屋だったんだよ。お隣さんの声なんか全部聞こえるんだ」

 快活に声をあげて、町を案内する李の姿を見て、信恵は、李が生まれ故郷に強い愛着を持っていることをあらためて知ると共に、在日コリアンが多く住む、いわば、「コリアンタウン」なるものが、この日本にもあったのだということを、実際に目で見て知り、ひどく驚いたのを覚えている。

 東京にも在日コリアンが多く住む所はあるが、話として聞くだけで、信恵はそう言う所を訪れたことは無かった。お嬢様として育てられた彼女が、そういう場所とは無縁な青春時代を送ったのは、もちろん彼女の責任でも何でもないが、「何もしらなかった」と、信恵は改めて、自分が一般世間についていかに無知であるかを思い知ったことのでもあった。

 ただ、李がその時語った次の言葉が、ひどく印象的であったことも覚えている。

「中川ってね、不思議なところでね。在日コリアンが確かにたくさん住んでいるんだけど、何ていうのかな、日本人と、言わば、”モザイク状”に暮らしているところなんだ。共存しているんだね。だからかな、僕の友達って、ほとんど日本人だったし、僕自身が、ここで暮らした12年間、差別にあったことがないんだよね。住んでた長屋も、僕の家以外はほとんど日本人で、本当に優しくしてくれて、食事を取らせてくれたり、だから僕は日本人に悪いイメージって全く持ってないし、ここで育った他の在日コリアンたちも同じ気持ちだと思うよ」

 そう言うと、李は続けてエルサレムのユダヤ人、アラブ人のことに言及した。「彼らも長い年月ね、お互いに助け合って、町で共存してきたんだ。中東戦争が起きるまではね。ー僕は思うんだけど、差別って、本当に作られたもの、意図的に誰かが作ったもの、そうじゃないかって思うんだ」

 そんな李であったが、コリアン学生運動を続けていくうちに、「反日本」「嫌日本」的言動を見せるようになる。信恵は、そんな彼の発言に、時にひどく悲しんだこともあった。

 そして、ついには別れを迎えた…。

「今は、日本人もコリアンも関係ない。これは人間、家族、親子の情愛の問題…。そうよ、私は一日本人として、いや、一人間として、そして、彼の一友人として、彼の娘さんに会いに行くの!もっと堂々としなきゃ」

 彼女は心を奮い立たせると、持参のメモに目をやった。李の娘の住所が書かれたメモだ。大阪市生野区今里ーー、とある。無論初めて訪れる所だ。

「鶴橋~。鶴橋~」

 車内にアナウンスが流れた。

 胸の鼓動を抑えて、彼女は鶴橋駅に降り立った。

「さあ、これからだわ」


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