第二十九章
衰弱する一方の李の病状が、ようやくこうして上向きだしたことは、誰よりも信恵を喜ばせた。
「しかしまだまだ油断はできない…」
確かに少し食欲を見せたかと思えば、次の日には全く食べなくなるなど、いまだに病状は不安定で、少し笑顔を見せる日があるかと思えば、翌日には一言も発しないなど、予断は許せない状況は続いていた。
それでも、信恵は希望をもって見舞いに通う日々を送っていた。
李は、精神科の教科書的には、「うつ病」であり、治療も、いわゆるプロトコール通りに行われていた。信恵は、自ら精神科の研修を指導してもらった先生からも、診断の重要性をいつも言い聞かされていたので、治療には不満を持っていなかった。
しかし、それなら、なぜ、彼はいつまでも良くならないのだろうか?ー信恵は、投薬治療の限界を感ずる中で、李が、いつも口癖にしていた、彼なりの精神科治療の極意とでもいうべきものを思い起こしていた。
それは…。患者の懐に飛び込め、というものだった。
「いいかい、統合失調症、と言っても、患者一人一人、すべて症状が違う。共通性を見出して、教科書的にアプローチすることも重要だが、僕はそれ以上に、個々の症例から学びつつ、オーダーメイドの接し方をっ考えるべきだと思うんだ。今、接し方、と言ったけど、まさに接し方で、それはね、治療してやるって、そう思った瞬間から、おそらく患者との信頼関係は失われてしまう、僕はそう思うんだ」
彼の口癖であった。
京都での再会を果した後、二人は精神科医療について、素人なりに大いに論じようと、月に1-2度程度定期的に会うことにし、その際は、李の行きつけの居酒屋で、いつも酒を酌み交わしながら議論を交わした。
そんな中、信恵は、知らず、彼に再び恋心を抱いている自分に気が付いて、ひどくどぎまぎするのであった。
一方の李は、そんな信恵の心情をうすうす知ってはいたのだろうが、必要以上に親密になるのを、意図的に避けていたようであり、信恵もそのことには感づいていた。
「ひどい体験をしたのだから、無理もないわ…」
信恵はそう思って自分を慰めるのだが、顧みれば、自分もそうである。
「彼に恋心を抱くなんて、私のほうが、考えてみると不謹慎なのかも…」
と、そう自分に言い聞かせて、李とはそれなりの距離を保ちながら交際することを、やはり彼女も意識していた。
ともあれ…。
そんな居酒屋で、議論が沸騰すると、決まって、そこの女将が仲裁に入る。
「またまた、もういいから、おいしいもん食べて、おいしいお酒飲んで、さあ、おもしろい話しましょ」
そうすると三人で笑いあう。
そんな懐かしい、楽しい日々…。
「取り戻したい…。あの楽しい日々」
信恵は刑事から、事件捜査の経過報告の話を聞いた、その日の夜、家に帰るとある大きい決断をした。
それは…。
「懐に飛び込もう!」
ということ。即ち…。
彼の悩みの根源、河聖子のことをタブー視するのでなく、その苦しみを共に苦しみ、そして、共に悩んでいこう、ということ。
そして、そのためには…。
「行くしかないわね…」
彼女はある決意を胸に、不安と希望の交差する心を抱えたまま、その夜を過ごした。




