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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第二十八章

 李はこの精神病院に転院して後も、心には一向に晴れ間がさすこともなく、ただ、悶々とした日々を送っていた。

 おそらく信恵の献身がなければ、ここまでもたなかったであろう。それは良く分かっていた。

 しかし…。

 妙子に刺された、あの時に自分の命はもはや絶えたのだ、と、今はただ生かされているだけだ、と、彼は確信していた。

 ただの誤魔化しの人生、いろんな人を巻き込み傷つけてきた人生、そんな偽善、欺瞞に満ちた人生に終止符を打ってくれた妙子には感謝すべきだ、と、彼は、窓の外の京都北山の景色を眺めながら一日思っているのであった。

 このまま安らかに死にたい、と日中、安らかな気持ちで過ごし、そして夜を迎える…。目をつむって死後のことを考える。

「地獄にいくのは分かっている、それはそれで覚悟は出来ているが、せめて、地獄の門をくぐる前に、天国の聖子に謝りたい。許してはくれないだろうが…」

 そんな思いに耽っていると、信恵が現れる。いつも手に弁当を持ってである。

「食べなきゃだめよ!」

 そう言って彼女は、彼が全く手に付けなかった病院食を温めなおし、また、自ら持参した弁当を開け、彼に、「さあ!」と言って、無理にでも食べさせようとする。

 最初はこれも拒否していたが、彼女から、「私はあなたに、それはそれはとっても理不尽な理由で、昔、ふられたのよ!さあ、その償いをして!今は私のために、とにかく食べて、お願いだから…」

 と、そこまで言うと泣いてしまうのである。ベッドの傍らに座っていつまでも…。

 これには李も抗えなかった。

 彼女の結婚が不幸な転帰を迎えたことに、自分の責任が全くないとは言えない。いや大いにあるかもしれない。そう考えると、信恵に差し出されたものを、一口でも食べないと言うわけにはいかなかった。

 こうして、かろうじて肉体的な健康を保てるまでに体は回復してきた。すると、次には、彼の心に、いずれ自分の人生に結末をつけるとしても。今は、信恵のために生きねば、と思う気持ちが少しずつ膨らんできた。

 ある時、彼は信恵に言った。

「信恵さん、本当にすまないね。迷惑をかけっぱなしだ。本当に僕のためにここまで頑張ってくれて、何と言っていいか…」

 すると信恵はこう答えるのであった。

「いいの、気にしないで…。私こそ、これは恩返しなんだから。ー意味もなく受験戦争を戦っていた私に、生きる意味を教えてくれたこと、そして、結婚で挫折した私に、今度は精神科医として、人生をやり直すための手助けをしてくれたこと、本当に私はあなたに感謝しているの。ーまあ、もっとも振られた時は、確かに多少はうらんだけどね…」


 そう言うと、笑いながら李の腕に手を伸ばしてつねるのであった。

「やっと出来た。ーこれはその時の仕返し!」

 この無邪気さに、李も釣られて笑ってしまう。

 こうして二人の間に、再び信頼関係が築かれ、李の病状は好転するかに見えたのであったが…。


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