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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第二十七章

「原田先生、警察署の方が面会に来られています」

 仕事を終えて、李の見舞いに赴こうと、準備をしている時であった。ーー呼び出しを受けて面談室に向かうと刑事がすでに椅子に座っている。ー信恵はすぐに自分が事情聴取を受けた、あの時の刑事であると気づいた。

「あ、原田さんですね。その節はどうも」

 信恵は、二言三言交わしているうちに、刑事の厳しい表情を見て、「これはあまりいい知らせではなさそうね」と推測した。

 その予感は的中した。

「実は…」

 さっそく用件を切り出した刑事の言葉に信恵は耳をそばだてた。

 話は、ざっと以下のようであった。

 一つは、李に切りつけた川村のその後のことであった。依然として行方が分からないままであったが、先日能登半島の東尋坊の、ある絶壁で彼女の遺書が見つかった、と。ただ必死の捜査にも関わらず遺体は発見されておらず、彼が言うには偽装自死かもしれないとのことであった。そしてこのことを本来ならば李に伝えたいところであるが、主治医から止められたと。今の状態で、彼に伝えるのは、病状を悪化させることでしかない、と言われたとのことであった。ただ、誰にも伝えないというわけにはいかないので、あなたにだけは伝えておきたいとのことであった。

 もう一つは、こちらの消息の方が信恵にとっては大きい衝撃であったが、それは彼の娘が見つかったということであった。名前は琴湖クムホと言うと…。

「よく見つけられましたね!」

 信恵は警察の捜査能力の高さに今更ながら驚いた。「李君はどんなに喜ぶだろう」と、希望に胸を膨らませた信恵の思いは、続いて発せられた刑事の言葉により、無残に踏みにじられた。

「それがね、彼女はお父さんには絶対に会いたくないと、自分の居場所も言わないでくれと。いやそれどころか、李という男は母親を殺した張本人なので逮捕してくれと。それはもう取りつく島がないんです…。無論、こちらとしては、刑事事件でもあり、あなたの居場所は関係各所に伝えなければならないと、その点だけはくれぐれも申し伝えましたが…」

 そう聞かされて、信恵の心は悲しさで今にも破裂しそうだった。ー驚きと悲しみで顔を曇らせる信恵を見て、さすがに冷徹な振る舞いを生業としている刑事も、同情の表情を見せた。

 彼は続けた。

「まあ、このことも、当然ですが、主治医からは李さんへの告知をやめてくれと言われまして、それで、その、こうしてあなたにだけは伝えておこうと…」

 信恵はすべてを聞き終わると、脱力感から、その場にへたりこみそうになった。

「わかりました。今は私の胸にだけ留めておきます」

 そう言って下を俯いた信恵に、「それでは」と、刑事が声をかけて席を立とうとしたその時であった。信恵は去ろうとする刑事を呼び止めた。そしてこう言った。

「あの、彼女の住所を教えてもらうことは可能ですか?今後の彼の病状もどうなるか、まだまだ予断は許されませんし、私としては知っておきたいんです」

 刑事は座りなおすと答えた。

「確かに。あなたには伝える義務がありますね。ではメモして下さい」

 信恵は、しっかりとメモを取った。大阪市生野区中川町~、と刑事が読み上げるのを必死に書き留めた。

「それでは」

「ご苦労様でした」

 こうして刑事は立ち去った。残された信恵は一人になると、メモを片手に、今後李に川村妙子の事、また、実の娘の事、これらをどう伝えていけばいいのか、また、いつ伝えるべきなのか、あるいは、そもそも伝えないほうがいいのか、容易には結論を下せない自分に苛立ちをおぼえるしかなかった。

 余りにも無力であった…。

 いたたまれなくなって病院の裏庭に出た。開放病棟の患者の散歩場所として整備されていて、芝生の庭の周りを一周できるようになっている。

 もうすっかり暗くなっていた。

 そこのベンチに腰掛けた。ー空を見上げると月が煌々と輝いて見える。空は良く晴れていて、星も数多く見られた。

「自分は月…」

 信恵はいつか、そんな風に、自分と李との関係を自ら喩えたことを思い出した。

「李君が元気でいて明るく輝いていて、初めて私も輝ける…」

 空を眺めながら、あらためて彼女はそう自分に強く言い聞かせた。

 この病院に移ってからも、遅々として回復しない李の容態に、時に苛立ちを持つことも多かった。

「それでも彼の心の苦痛に比べれば…」と、常に自分に言い聞かせてここまで頑張ってきた。

 何度考えても理不尽な話である、信恵は今やそう結論付けている。ー彼は、周囲に何か毒の種を撒いてきたのか?いや違う。彼は、すべてのことを悪意を持って実行してきたのか?いや違う。彼の妻の死は彼の責任か?いや違う。彼の娘が彼との面会を拒否しているのは彼の自業自得か?いや違う。川村妙子が事件を起こしたのは彼の責任か?いやそれも違う。そして、何よりも、彼が私と別れたのは彼の無責任か?いや違う。私がその後不幸な人生を歩んだのは彼の責任か?いや違う。ーー違う、違う!

「違う!」

 思わず口に出して叫んでしまった。

 はっと我に返った信恵は、深呼吸をした。すがすがしい空気である。すると少し気分も軽くなったように感じた。そして、立ち上がり、月に向かって叫んだ。

「李君は何も悪くない!悪くないんだから!だから、私がきっと彼を良くして見せる、再び輝かせて見せる!」

 当然気のせいだろう、月のうさぎがにこりと微笑んだように思えたのは。しかし、その時の信恵の目には確かにそう映ったのである。ウサギが微笑んだと…。

 彼女は、月と、ウサギと、心で和やかに語り合いながら、病室へ戻った。 


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