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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第二十五章

 次の日、彼女は稲荷山へと向かった。ここは李との京都での再会後、次に時間を共にした処である。

「どうですか、次は稲荷山登山でもしませんか?いや登山と言ってもたいして高い山でもないし、山の裏手からね、東福寺まで歩くトレッキングコースがあるんですよ。気分転換には最適なんです…」

 彼の提案に信恵は当惑した。学生時代に、いろんな寺社仏閣を廻ったが、すべて散歩程度のもので、本格的山歩きではないにしても、トレッキングというのであろうか、たとえ軽いハイキングでも、そのような趣向を李は持っていないことをよく知っていたからである。ー20数年という月日は人の趣向も多少は変えうるんだな、と信恵は少しおかしくもあったが、自分もそういう気分転換ならしてみようかと、「はい」と、気安く返事したのである。

 それでも山歩きだから、とリュックやら登山靴やら何やらと買いそろえ、稲荷神社の前で待っていたら、どこか近くのコンビニにでも行くような、ジーンズにスニーカー姿で李が現れて、「すごい気合が入っていますね」と揶揄われたことを今でも覚えている。

 昨日、病院の相談室から稲荷山が見えて、そんな懐かしい記憶が呼び戻され、「そうだ、稲荷山へ行ってみよう」と思い立って来たのだ。

「あの時と同じように、東福寺の裏まで抜けてみよう」

 信恵は京阪稲荷の駅で降り、神社の境内に入ると、早速、千本鳥居から、山の頂上へと向かった。

 登山と言っても山道ではない。整備された石段を登っていく。ーしばらくして頂上に着いた。京都市内を一望する眺めが心地よい。

 そこで一服すると、お参り目的ではないので、山頂の社めぐりはせずに、そのまま反対側の石段を降りる。そして降りきったところからがトレッキングコースの山道の始まりとなる。とは言っても、平坦な道なので足にそんなに負担はない。

 その道を、李といろいろと語らいあいながら歩いた。

 ーー様々な記憶が蘇る。

 信恵は、そうして彼と話を続けているうち、彼の表面的な態度、表情、物言い、などは別として、内面については、李は学生のころとはすっかり変わってしまっていることを改めて強く感じた。ーーいや、信恵はこの時、そのことを強く確信した、と言っても過言ではないかもしれない。

 まず気づいたのは、彼が、政治と民族のことについては全く話題にしなくなったことである。学生時代なら、これらのテーマについては一度話し出したら、しばらくは止まらない、いや止められない、そんな勢いで、情熱的に語るのが常であったのだが、この日、共に過ごしていて、そちらの方向に話が行こうとすると、「まあ、それはそれとして」という感じで、話題をそらすのである。

 次に信恵が気づいたのは、時折表情に見せる暗い陰りである。ー学生時代の彼は常に輝いていた。明るかった。

 それが今はどうだろう。つとめて明るくふるまってはいるが、どこかぎこちないのである。

 最後に決定的に学生時代と変わったのは、時に「スピリチュアル」な発言をするようになったことである。

 学生時代は、資本論やらそんな岩波文庫の白本ばかりを読んでいたのだから、今や、仏教、キリスト教、の話をはじめ、精霊、木霊、の話などを積極的に語る彼を目の当たりにして、信恵はひどく戸惑いを感じたのでもあった。

「きっと、数多くの困難な経験をしてきて、人間が丸くなったってことかな…」

 信恵は、これらすべての変化について、決して悪いことではないとむしろ肯定的に受け止めた。

 翻って、自分を見れば、自分も随分と暗くなったと、人から言われるようになっていた。

 誰しも辛い経験があれば、そうなって然るべし、と信恵は、妙に納得して安心したものであった。

「こうやってね、山道を歩いていると、木霊の息吹を感じるんですよ。木々のざわめきも、何かを自分に語りかけているんだって、だから必死に耳を傾けるんです。するとね、時に聞こえるんだ…。いや、普段はこういうことは誰にも言わないんですけどね、こうやって信恵さんなら、隠さずに話ができる、何の抵抗もなくね、うれしいな、また会ってもらえますね?それとも、こんなばかな話をしている僕に幻滅しましたか?」

 信恵は、学生時代と違って、ある意味人間の深みを増したと思える、今の彼に、また新たな魅力を感じつつも、かっての彼との違いに戸惑いも覚え、心が妙にざわつくのであった。

 そんな会話を交わしているうちに、二人はあっという間に東福寺に到着した。

「本当に楽しかったですね。今日はありがとうございました」

 信恵は、そう正直に、その時の気持ちを伝えた。

 そんな信恵に李は笑顔を見せて返答した。

「いーや、何、疲れませんでしたか?ーそうだ、いつもトレッキングが終わると、僕はビールを飲みに行くんです。行きつけの店がありましたね。一緒に行きませんか?前回はお互い暗い話でしたから、今夜は楽しい話限定にしましょう!」

 信恵は断る理由もあろうはずは無かった。いやむしろ誘われたことがひどくうれしくもあり、躊躇なく同意すると、李に従った。

 その夜、遅くまで、二人は学生時代の思い出や、また、今後の精神医療のありかたなど、時間が過ぎるのも忘れて語り合った。

 こうして二人の物語は新たな章を迎えることとなったのであったが…。

 今は試練の時期を迎えている…。

「負けないわよ」

 山道を歩きつつ、その一歩一歩ごとに、決意を新たにし、信恵は東福寺へと進んでいった。


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