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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第二十章

 李の警察への事情聴取の答えも、信恵の答えたことと大きい差異はなかった。

「原田さんとの関係は?」と、聞かれたときは一瞬戸惑ったが、「友人です、精神医として」とだけ答えておいた。

 昨日、信恵にすべて秘めていたことを打ち明けて、心が少しは晴れるかも、と思っていたが、ところが、実際は心は沈んでいく一方であった。

 今日は彼女はお見舞いに来てはいない…。疲れも出ているであろう、でも、それ以上に、「きっとひどく自分に腹を立てているに違いない」とも思う。

 この2年間、彼女と過ごした日々の思い出が、脳裏を走馬灯のように駆け巡る。

 聖子の自死のニュースに触れ、絶望の淵に追いやられた彼は、その心の傷がようやく癒えると、精神科医に転身することを決めた。今後の人生を、精神を病む人の治療に捧げようと思ったのだ。それは、自死した聖子への供養でもあった。

 そして各地の精神科病院を転々としていたが、ある日、自死遺族のケアを考える、という講演会に出席した折り、京都で、在宅精神医療に力を注いでいる訪問看護ステーションの存在を知り、そこに出席していた責任者と接触、彼から、共に京都で在宅医療をやりましょうと誘われて、京都の地に舞い戻ったのであった。

 訪問看護ステーションが資金を出して、クリニックを開設し、李が開設者、兼、管理医師としてそこの院長となった。

 訪問看護ステーションとクリニックと、協力関係を維持することで、互いに大きいメリットを得られるという目論見であった。

 加えて、李は、そこでの自由な診療を約束された。

 そこで彼は、かねてより考えていた、在宅精神医療の構築を始めた。それは今までの型にはまらない、つまりは保険診療の枠組みにとらわれない、そんな在宅医療である。

 即ち…。

 精神医療で、真に困ったケースは、医療が必要なのに、介入できないケースである。

 例えば、家に引きこもっている若者がいるとする。ただ寝ているだけならいいが(もっとも将来的には両親が年老いて来た時に子供の扶養をどうするかという問題が持ち上がるが)、大抵の場合、家庭内に緊張が走る、若者のひきこもる原因が、統合失調症であれば、本人の苦痛は大きいが、えてしてこういうケースでは、本人が医療を拒否する場合が多い。また自閉症、発達障害、うつ、と他にもいろいろな原因があるが、ほとんどのケースで、本人に病識がなく、第三者の介入を受け入れないのである。

 さらには、この状況を何とか打破しようと両親が動くと、緊張は最大限までふくらみ、ついには家庭内暴力、といった形で爆発してしまうことも多いのである。

 両親の方はというと、こちらはさらに、親族、隣人からは、子育ての失敗の結果と批判され、疲弊してしまう。ついにはしかるべき機関への相談も放棄してしまうという有様にもなる。

 李はかつてあいりん地区で在宅医療を実施していたが、貧困層では経済的問題、被差別部落ではその閉鎖的構造、などにより医療の拒否を多く経験してきた。しかし同時にそれを打ち破る方法も先輩たちから学んだ。

 それは…。

 相手の懐に飛び込むというやり方である。

 とにかくその家に飛び込むのである。それはあらゆる手段を講じてである。

 拒否されてもひたすら訪問を続けるのだ。塩をまかれようが、水を浴びせられようが、犬を放たれようが、である。

 酒飲みの相手なら、酒を持参して、一緒に酒盛りまでした。食料に困っている人には、食料を持参し、鍋を共につつく、というそんな、ありとあらゆる方法を用いて、相手の懐に飛び込むのだ。

 こういった手法は、相手の同意を得るまでは、保険請求はできない。つまり完全にボランティアとしての活動になるのだ。

 李は精神科医を志し、各地の精神科医療機関で学び、研鑽を積む中で、いかに多くの精神障碍者が見捨てられているか、を知り、いずれはこれらの人たちに光を当てたいとひそかに考えたのである。

「それこそが、自分が犯した人としての過ちを償う唯一の道…」

 彼は京都でそのチャンスを掴んだのだ。

 信恵との別れという苦い記憶がある京都、ここでの活動を躊躇する気持ちもあったが、今回のクリニック開設の話は自分の夢を叶えるチャンスである。

 こうして彼は京都の地を再び踏んだのだ。


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