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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第十九章

 信恵の主治医はとても型破りな精神科医であった。

「私は極力薬を使いません」と初めて会った時に告げられた。

 診察は、平服だった。白衣を着ない。そして、ベッドの傍らに来ると、座り込んで長い時は30分でも話を聞いていく。いや、時には一人でずっと話し続けている時も多い。

 それでいて、ぴったりと彼女の悩みに寄り添ってくれるのである。口に露骨に表してそう言うわけではない。しかし頷き方一つを取っても彼の姿勢は伝わってくる。時には共に涙してくれることさえあった。

 そんな主治医の下で、彼女は徐々に回復した。そして、退院時には次の道を決めていた。

「先生、私も精神科医になります」

 主治医の彼はひどく喜んでくれたのを今でも覚えている。彼は早速彼女に地元の大学病院の精神科医局を紹介した。教授もとても人格者で、早速、彼女を大学の関連病院に派遣した。そこで彼女は精神科医としての修練をつんだ。そして研修を終え3年目、修練医として転勤を大学から命じられた。転勤先は、京都の精神病院であった。

 信恵はひどく驚いたのを覚えている。

「何かの運命のいたずらね」

 彼女は青春時代を過ごした町へ帰ることに、即ち、楽しい思い出と悲しい思い出の同居する町に帰ることに、少なからず心の動揺を覚えはしたが、意を決して帰ることを決めた。

「一からやり直せという、これは何かの暗示…」

 彼女はそう固く信じて、京都行を決意したのであった。

 この地を去るにあたって、彼女は自分の主治医を務めてくれた医師に、お世話になりました、と報告をしに行った。彼は、立派に精神科医として育った、かっての”患者”に、ねぎらいの言葉をかけると、こう言った。

「そうだ、京都へ行ったら、面白い先生がいるから一度会えばいい。かって地方の病院で仕事を一緒にしたことがあるんだけど、とても変わった、いや、これはいい意味でだけど、精神科医で、学会活動など見向きもしない男だが、型破りの精神医療を京都で実践しているらしい。そんなことで、正統派の精神科医師達からは総スカンを食らっているがね…。彼も元は内科医で、精神科医に転身した男だ。風変りだけど、あなたのような人は彼から学ぶことがきっと多いはずだ。僕から、君が行くことは連絡しておくよ…」

 信恵は黙って聞いていたが、続けて彼から発せられた言葉を聞くと、その衝撃の大きさに、めまいを感じて、目の前が真っ白になるのを感じた。

「ーー名前は、李、と言うんだ。在日のコリアン医師で…」

 最後までは聞き取れなかった。

「あの李君が京都にいる!」

 何という運命のいたずらだろう。ーー信恵は、この偶然を、いい知らせと捉えるべきか、悪い知らせと捉えるべきか、ひどく困惑して、再会できるかもしれないという喜びも湧き上がったが、思いは複雑になるばかりであった。

 困惑した心を抱きつつ、彼女は新しい勤務先に向かうべく、3月のある日、新幹線に飛び乗った。かっては受験生として…。そして20数年を経て、今度は精神科医として…。

 その車内で、彼女は、京都での李との再会を待ち望む自分と、いや会ったところで辛いだけだ、と躊躇する自分と、葛藤を心で繰り広げながら、車窓の外をずっと眺めやっていたことをはっきりと覚えている。

「そして、私は結局彼と会うことを選んだ…」

 そして、今、ここ京都の仏光寺境内で、彼女は涙しながら、京都での李との再会後の2年間を振り返っていた。銀杏の木を眺めつつ…。


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