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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第十七章

 信恵は二日前の李の告白を聞いてから、丸一日、心の整理をしようと懸命に努力したが、今日になっても、心は晴れなかった。

 今日は李のお見舞いをどうしようかと、朝から思案していると、末尾四桁が0110という見知らぬ番号からの着信が携帯にあった。

「警察ね」

 直感で分かった。彼女はすぐに電話に出た。

 京都下京警察からの電話であった。内容は推して測るべしである。今回の事件の事情聴取であった。

 無論断れるはずはない。

「わかりました」

 そう言うと、彼女は身支度を整えて警察へ向かった。お見舞いに行く気分ももう一つであったから、むしろ警察へ出向いて自分の知っていることを話せば、多少の胸の閊えでも降りるのではないかと思ったのであった。

 対応した刑事は、現在、李に対する事情聴取は、まだ医師からの制限がかかっていて、思うようには進んでいないこと、また、そんな中で彼から得た情報について、友人からの情報と照らし合わせていきたいと、そんなことを淡々と彼女に伝えた。

 彼女は、対面した刑事に、自分の知る限りのことをすべて話した。無論川村妙子のことも…。

「川村妙子のことは指名手配をさっそくかけていますが…」

 刑事が言うには、妙子のことも、知人や親族もまったく消息を知らないということで、捜査は手詰まり状態だという。

「また何か新しいことが分かったら連絡をください」

 刑事のその言葉で、事情聴取は終わった。

 信恵は、自分と李との関係についてもっと詮索されるのでないかと思ってもいたので、安堵もしたが、単純な痴情のもつれ話話ではない、ということを伝えきれなかった自分にも腹立たしい思いもし、何やら複雑な思いであった。

 そうなのだ。この世の人間関係は、1+1=2、というように数式通りに関係が成り立っているのではない。

 そこを理解しないで何の犯人探しであろうか? 

 そんな思いもあって、事情聴取でも、あいりん地区の医療奉仕活動以前の李の経歴については、あえて刑事には話さなかった。ー話したところで何が分かるというのか?民族、差別、さらには民族内差別、政略結婚、純愛、悲しい別れ…。そしてさらにはその人の自殺、加えて、予期せぬストーカー被害…。

 これらすべてを李は自分のまいた種だという。「でも」と信恵は思う。

 自分にすべてを明かしてくれなかったことは確かに不誠実であろう。でも彼と学生時代に交際して、彼の人となりは理解している。真っすぐ、正直、たとえればジェット機の飛行機雲のごとく、そんな彼が、悪意を持って卒業後の人生を歩んできたとは到底思えない。

「それに…」と信恵は自らをそこで顧みた。

「私に人の人生を、その歩み方を、批判する権利なんて、それこそあるわけない。こんな呪われた人生…」

 彼女は警察署を出ると、しばらく周辺を歩こうと決意した。

 学生時代過ごした京都の町、中でもこの下京区界隈は李とよく歩いた。彼は街歩きが好きだった。そんな彼と付き合って、いつしか信恵も、街歩きが好きになっていた。

「そうだ、仏光寺に行ってみよう」

 観光地図には載っていない、京都の町中に位置する大きい寺である。境内の銀杏の木が、紅葉シーズンにはきれいに色づいて、とても美しい。そんな折でも、地元の人が散策する程度で、普段は人影もまばらで、物思いにふけるには絶好の場所であった。

 下京警察からは歩いてすぐである。思った通り、ほとんど人はいない。彼女はベンチに腰かけて境内を見渡すと、一つ大きくため息をついた。

 腰かけた瞬間、自分の人生の歩みの様々な場面が、次から次へと浮かんでは消え、それもそのほとんどは苦痛に満ちた記憶で、彼女は軽いめまいを覚えた。

 こうして過去の記憶を辿ると、楽しい思い出は、大学生活6年間、李と過ごした青春時代のものしかないことに、改めて気づかされた。

 昨年、李と再会してからは、李が学生時代の李とは明らかに変わって、常に影を引きずっているように思えたのが、今はその理由も納得できて、再会できたことに大きい喜びを感じていた自分、さらには李と新しい人生を二人で紡いでいけるのではないかという淡い期待すら抱いていた自分が、ひどく恥ずかしく、また、今やひどくみじめにも思えて悲しく、また涙するのであった。


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