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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第十六章

 信恵はこうして自らの人生を振り返ると、自分の人生だって褒められたものではないと、李のことを責めている自分にひどく戸惑いも感じるのであった。

 李にしても、信恵に卒業後の医師としての半生を今回の事件が起こるまで、その詳細をあえて口にしなかったのは、自分の心の痛みが癒えていなかったからではあろうが、それもこうなってしまうと、結果としては信恵をひどく傷つけてしまったことに違いはなく、李のそんな態度が不誠実に思えて、やはり憤りを感じるのでもあった。

「でも、やっぱり、やっぱり、彼は脇が甘すぎたと思う…」

 と…。 

 信恵は、病室での李の告白をあらためて思い起こしていた。

 沈みゆく夕陽を見やりつつ…。

 それは以下のようである…。

「大阪同胞の杜病院を退職して、飛び込んだ愛隣地区での医療奉仕事業は、民族運動に幻滅を感じ、さらにその結果、妻とも離婚を余儀なくされて、落ち込んでいた自分にとって、とても魅力的で、寝食を忘れて医療活動に没頭していたんだ」

 ここまでは、以前にも信恵にも伝えていたことだ。偶然の再会を果たして今日に至るまで、その意味では何一つ嘘をついたことはなかった。

 しかし、だからと言って、それが誠実であるということに直結はしない…。

 ここから先、李の語ることは、信恵も初めて聞かされた内容で、彼女にとって、李を気の毒にも思う反面、やはり黙っていた彼の態度を不誠実であるとも思ってしまうのであった。

 その話とは…。

「---そこで彼女と出会ったんだ。川村妙子、同じく愛隣地区の医療奉仕活動をしていた看護師だ。彼女とはペアで診療にあたることが多かった。特に在宅診療、ここでは二人で常に行動を共にしていた。ーだからかな、いつからか、心を惹かれあって、気が付いたら仕事帰りに食事をしたり、お酒を飲んだりという仲になっていた。僕としては仕事の同志という感じだった。ーー断言するけど、交際をしてるつもりなんか無かったし、ましてや結婚なんて、まさか考えてもいなかった。僕の前科を考えれば当然さ。また相手を不幸にしてしまうんじゃないかってね。恐ろしくて、とても交際なんて考えられなかったし、ましてや結婚なんて…。ところが彼女が一方的に恋愛感情を抱いてしまったんだ。そして一気に、結婚に強いこだわりを見せ始めたんだ。そこからが大変だった…」

 信恵は黙って聞いているしかなかったが、心中は穏やかではなかった。

 李は続けた。

「僕は二人の関係を絶とうとした。しかし時すでに遅かった…。彼女は頑として僕の提案を受け入れなかった。それどころか、いわゆる”ストーカー行為”はエスカレートするばかりだった。それでも誠意を尽くして、何とか円満に別れようと努力した。しかし…」

 李はここで大きくため息をついた。そして信恵を見つめていた視線を一旦ずらすと、彼は天井を仰ぎみた。しばらくそのままで目を瞑っていたが、再び目を開くと、彼は視線を再び信恵に移した。そしてゆっくりと口を開いた。

「そんな時だった。大阪同胞の杜病院時代の知人から、ある消息を聞いた。それは…」

 ここで李は俯くと口を閉ざした。顔が青ざめている。「何かよほど辛いことがあったのね」と信恵は察した。

 しばらく沈黙の時間が流れた。

 李は再び大きく息を吸って吐いた。そして信恵の顔を見つめると、心を決めたのだろう、力強く言葉を続けた。

「彼女、別れた妻、ー河聖子が自殺したって、子供を残して…」

 そう言い終えると李はがくっとうなだれた。

 あまりの衝撃に信恵は、目の前が真っ白になるのを感じた。椅子から崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえて、彼女は気を確かに持とうと、全身に力を入れた。しかし、心は動揺したままで、まったく言葉を失ってしまった。

 信恵の動揺を見て取って、李は沈黙を続けた。

 ーーどれだけ時間が経過しただろう?

 李の言葉が沈黙を破った。

「僕は、もう混乱して、動揺して、ーー気が付いたら大阪を後にしていた。東京の実家にひとまず避難したんだ。ーー三か月かな、ほとんど寝たきりだった。両親にも事情は内緒にしていた。言ったところで、お前のわがままのせいで、一人の人が命を絶った、って、責められるに違いなかったし、実際、毎日、僕は自分を責め続けた…」

 信恵もようやく動揺が少し収まってきて、少しは李の話を冷静に聞けるようになっていた。

「本当なら彼女の墓参りにでも行かねば、義理の父にも謝罪しなければ、なんて、自分を責めつつ、そんなことばかり考えていた。どうやって償えばいいのか、そればかり考えていた…。僕も死んだほうがいいのだろうかって、自殺を考えたことも数知れない。ーしかしある日かな、心配して駆け付けた兄に、一喝されたんだ。バカ野郎、ってね。生きて償いをしろと。不思議だね、叱られてやっと自分を取り戻した。ーー償いか、なるほどな、と。そして半年もたったころかな、僕は決意した。精神科医になろうって、精神科医になって、心の病んだ人たちの治療に当たろうと、それが何よりの罪滅ぼしじゃないかって、そんな風に考えたんだ…」

 その後、李は何年か日本各地の精神科病院を転々として精神科医療の研修、さらには診療医として精神科医療に従事した。そして、最後には2年前に京都へ戻ってきた、というわけであった。

「…いろんなことがあって、ありすぎて、でも自殺した妻のことは片時も忘れたことはない…。ただ、川村妙子のことはもう過去のこととして忘れ去ろうとして、そうだな、たまに、不審な電話なんかかかってきたりすると、もしや?と思うこともあったが、もう過ぎ去ったことだ、とそんな風に勝手に思い込んでしまったんだな…。でもこんなことになってしまって、これも僕のせいだ、自らまいた種は、自らがこうやって刈り取ったというわけだ。彼女を責めることは出来ない…」

 そうである。ーあの暗がりの中、自分に向かって刃物を手に突進してきたあの女性は、川村妙子に間違いない。今、こうして手術が終わって、あの時の記憶を辿ると、その女性の顔は鮮明に蘇るのだ、そう、川村妙子、彼女なのだ…。

 李は信恵を見据えて言った。涙目である。

「君には申し訳ない、本当にこんなことに巻き込んでしまって、信恵さん、彼女とのことは隠そうとしていたわけじゃあない。もう終わったことだと思っていた。でも彼女にとっては終わっていなかった…。そこに思いが至らなかった僕が愚かだった。本当に許してほしい…」

 信恵は李の告白を聞きながら、途中から涙を流していたが、聞き終わると、一気に泣きじゃくり始もた。そして部屋を飛び出したのであった。

「ともかく今日は帰ろう…」

 気が付くと、寺の僧侶が「門を閉めます」と、参拝客を帰す声が聞こえる。閉門時間である。

 信恵は暗い心のまま、帰途に就いた。自らの人生をも振り返りつつ、自分をも責めつつ、また、やはり李を責めつつ、さらには運命という名の奔流に呑み込まれそうな、そんな巨大な闇の存在を感じつつ…。


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