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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第十一章

 信恵は次の日、吉田山にいた。

 山とは言っても、小さい丘のような山である。京都千都大学の裏手に位置し、周辺には学生のための下宿やアパートが多くあり、近隣の人にとってはいい散歩コースでもあった。そして李と二人、よく語り合いをした場所でもあった。

 前日、”すべて”を李から聞かされた。

 卒業後のことは、つまり別れてからのことは詳細を一切語らない彼であったし、また、彼女からもあえては聞かなかった。

 はっきりしていることは、在日コリアン学生運動に身を投じるまで、すべてに楽天的で人懐っこかった彼が、卒業時には何事にもひどく懐疑的で、すべてに思いつめ、時に他者に攻撃的なふるまいを見せるまでに性格が変化していたことである。そして、昨年再会を果たした後は、人格が丸くなったというのであろうか、そのようなとんがった面は消えさり、表面上は明るく見えるが、内面には恐ろしく暗い何かを隠しているように、時にさみしい表情を見せるのを、信恵は見逃してはいなかった。

 だから、前日”すべての”事実を聞かされた時には、妙に納得している自分を感じて、ある意味、すっきりした感じすらあった。残酷な彼の運命にひどく同情的にすらなった。しかし半面、一度は捨てられたーー少なくとも彼女はそう感じていたーー自分から見ると、彼にもう少しの慎重さがあれば、この悲劇は回避できたのではないか、と、彼にも責任の一端はある、とも思うのであった。

 この吉田山は、卒業を控えた2月、彼から別れを告げられた場所であった。今日、ここに来ようと思ったのもそれを思い出してのことである。

 遠く京都の市街を見渡すと、彼との出会いから、別れまでの学生生活のすべての記憶が怒涛のように押し寄せてくる。この吉田山にも何回来ただろうか。そしてこれは運命の悪戯だろうか、20年後の運命の再開も、この吉田山のふもと、吉田神社に隣接する大学の正門であった。だから今日は迷わずにここへ来ようと、朝から決意し、バスに飛び乗ったのである。

 李は、再会後にも、大阪同胞の杜病院の話こそすれ、そこを退職するに至った理由は口をつぐんで語らなかった。「まあ、いろいろあって…」とだけしか言わない。また、そこを退職後、大阪あいりん地区で、地域医療に関わったことについても、また、そこを退職した理由についても、多くを、いや、ほとんどと言っていいだろう、語らなかったのである。

 さらには、内科医であった彼が、精神科医に転身した、その理由についてもその核心を語らなかった。

 だから、昨日、そのすべてを聞かされた、彼女は、日本人は所詮、在日コリアンの生き様について、口でこそ、共感とか、同情とか、連帯とか、いろいろ美辞麗句を並べても、本当のところで、根源的なところで、彼らのことを理解など出来ていないのだ、ということを深く思い知らされたのであった。

「もっと早くすべてを伝えてほしかった」

 そう思いつつも、彼が抱えてきた悩みを、すべて聞かされていたとしても、本当のところで共有出来ただろうか、と自分の人間の未熟さにも思いを馳せるのであった。

「もう少し歩こう…」

 彼女はそう決めると、吉田山から竹田稲荷神社に向かう小道を歩み始めた。


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