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命の水の満つる夜に  作者: 中川聖茗
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第十章

 ピー、ピーという電子音を聞きながら、英彦は信恵と過ごした大学生活のことを思い出しつつも、彼女との別れから始まった、挫折の数々を思い出していた。

 ふとしたことで関わった在日コリアン学生運動、これはこれで楽しい思い出であった。しかし、今思えば、あれって何だったんだろう、と思ってもしまう。そのために信恵を失った。いや裏切ったと言ってもいいのかもしれない。ーその天罰が下ったのだろうと思う。それからの彼の人生は希望と挫折の繰り返しであった。そして今もそうだ!

 希望に胸を膨らませて、”同胞医療”に身を投じた。大阪鶴橋に作られた病院は、その名を”大阪同胞の杜病院”と名づけられていた。彼はそれこそ不眠不休の研修医生活をそこで送った。その熱心さは目を見張るものがあった。

 そしてしばらくすると、その同胞医療機関の立ち上げに尽力した在日コリアン一世の資産家に気に入られ、その娘と見合いをし、結婚した。今から思えばこの結婚も打算的であったと

、そう誹りを受けても否定しきれない、そう李は思うのであった。

 実は同胞医療機関とは言っても、実質はその中身は、北朝鮮系の運動家(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国こそが朝鮮半島唯一の正当国家であり、韓国はアメリカが作った傀儡国家である、という主張の上に、日本で北朝鮮支持の運動を広げる人々)が牛耳っていた。集まった医療関係者は中立の立場からこの運動に参加したのだが、その核心部分は、北朝鮮系運動家、医療関係者が支配していた。

 当時は北朝鮮系、今では死語かもしれないが、いわゆる”総連(在日本朝鮮人総連合会)系”の運動が在日コリアンの運動の主体であった。当時の韓国は軍事政権が民主化運動を弾圧しており、それへの反発から北朝鮮に対する信頼、期待が在日コリアンの間では多数派であったのである。ー今では考えられないことではあるが…。

 だから同胞医療への参加という李の選択は

、決して間違っていたわけではなかろう。そしてこの結婚についても、見合いから始まりはしたが、最後は二人が相思相愛となり、二人の自由意思で結婚したものであった。それゆえ非難される筋合いのものではなかったろう。

 しかし李の心に全く打算が無かったかというと、それも違うと、今では李はそう考えている。

 どういうことか?

 李は”韓国籍”であった。当時のコリアンには、朝鮮籍の人たちが多数いた。それは、日本の敗戦後に、日本に在留していた朝鮮の人々(当時の朝鮮は日本の敗戦まで日本の植民地であったから、朝鮮の人々も日本国籍を有していた)に、日本政府が自動的に”朝鮮”と言う国籍を付与したためである。

 大韓民国の独立により、韓国籍を取得する人もいたが、先に述べたように、当時は北朝鮮を支持する人がまだまだ多く、その人たちは韓国を国として認めていなかったから、日本で生きていくのに有利であっても、韓国籍への変更を潔しとしなかったのである。

 ただ、日本政府は韓国だけを国として認めていたので、法律的に朝鮮籍というのはひどく不安定であった。

 たとえば当時、朝鮮籍の一世が子供を産んでも、韓国の戸籍に登録することは不可能であった(そのためには韓国籍への変更をしなければならない)。血筋や家系、出自にこだわるコリアンにとってこれは死活問題であった。また、韓国にある祖先の墓へも墓参りは出来なかった。韓国政府が入国を認めないのである。祖先への供養を何よりも大切にする民族であるから、このことも大きい苦痛であった。これらのことを言わば人質に、韓国系の団体、”民団(韓国居留民団)”は例えば、朝鮮籍でも参加できる、墓参団なるものを組織し、総連系コリアンらを切り崩しにかかった。

 そんな時世の中、韓国籍を持つものは、総連系の人々からは、わが祖国、朝鮮民主主義人民共和国を裏切った同胞、とそんな半ば”裏切者扱い”の目で見られていたのである。

 2世にしてみれば何の罪もない。親たちが勝手にいがみ合っていたわけだが、”総連系”の人々からは、韓国籍の二世は、血筋的に祖国を裏切った親の子供であるから、”弱い゛血を引き継いでいると見なされたのである。

 今から考えればとんでもない、こんな話が当時はまかり通っていたのだ。ーそして、李は学生時代には知りえなかったこういうコリアン社会の裏事情を、社会人になって初めて知ったのであった。

 そこへ助け船が現れた…。

 彼が韓国籍なのを知る、病院事務長が、個人的には彼のことを好いていて、総連組織資産家との見合いを設定したのである。

 相手は朝鮮籍で総連社会でその名を知らない者はいない、李にとって、北朝鮮系コリアン社会で生きていくのに、彼の娘婿であることは大きいプラスになることは間違いなかった。また、その資産家にとっても、医者を婿に迎えることは、李が韓国籍であることに目さえ瞑れば、こんな鼻の高い話はなかったと言えた。

 無論、当時の李は決してそんな打算を働かせたわけではない。しかし、と今は思う。「やはり心の底のどこかで、いい話かも、とは思っていたに違いない」そう思うと、この見合い話を受けたことを大いに後悔もするのだった。

 ただ、見合いそのものは大成功だった。当事者二人が意気投合したのであるから…。

 しかしこの意気投合の結果が、つまりは”結婚”であるが、実は重大な事態をもたらすであろうことに、若い二人は全く気が付いていなかったのである。

「……」

 李はここで回想を中断した。ーーそして機械の電子音を聞きながら、強く決意した。

「ともかくすべて真実を信恵に伝えよう」

 話さねばなるまい、李は改めて自分にそう言い聞かせると、かたわらの看護師に告げた。

「すいません、付き添いの原田さんを呼んでいただけますか?」


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