3
シュヴィアは、とても献身的だった。
朝から晩まで、アルマティスの為に働いてくれている。
空き時間すら、隣で刺繍をしたり本を読んだりしているものだから、アルマティスは思わず「息が詰まらないか」と聞いてしまった。
すると、シュヴィアの顔が真っ青になったので、アルマティスは随分慌てた。
「わ、わたくし、やっぱりお邪魔でしょうか……?」
「違う! やっぱりってなんだそんなわけないだろう!」
良かった、と胸を撫でおろすシュヴィアに、俺は一体どんな扱いをしていたんだ、とアルマティスは頭を抱えたくなるが、記憶を失くす前の自分を否定するな、と言われているので考えない事にする。
それは数少ない、シュヴィアからの「お願い」だ。
いや、数少ない、というより唯一のお願いだった。シュヴィアは、アルマティスに何も望まない。
こんなにも、アルマティスに尽くしてくれるのに。
「シュヴィア、君からすれば、俺は君を忘れた薄情な人間だ。傷付けることもあるだろう? 無理をして側にいることは無いんだ。君自身をもっと大事にしてほしい。何か欲しい物や、したいことは無いだろうか」
「まあ」
シュヴィアは、ころころと、あたたかい陽ざしのように笑った。
「わたくし、契約という言葉にずっと縛られておりましたの。ご迷惑なのでは、不快にさせるのでは、と臆病になっておりましたから。今は、アルマティス様がなんでも受け入れてくださるから、むしろ申し訳無いくらいですわ」
「申し訳無いなんて……そんな事は無い。俺はむしろ感謝しているんだから」
「そう仰ってくださるから……。記憶の無いわたくしといても、それこそ気詰まりでしょうと、これでも一応、思っていたのですけれど、許してくださるからつい、お側によってしまいますの」
駄目ね、と眉を寄せて笑うシュヴィアに、アルマティスは、ぐ、と胸が詰まった。
たしかに。
たしかに、アルマティスは目を覚ました時に初めて、シュヴィアと顔を合わせた。アルマティスにとっては、初対面の相手だ。
けれど、アルマティスは妻であるシュヴィアと良い関係を築きたいと思っているし、何より、シュヴィアの側は居心地が良かった。
当然だ。
記憶の無いアルマティスが過ごしやすいように、不足が無いようにと、心を尽くしてくれている、アルマティスの事を一心に想ってくれている人がつくってくれる環境だ。
居心地が悪いわけが無い。
「シュヴィア、君の言う通り、今の俺は君と会ってそう日は経っていない。いきなり妻だという人が目の前にいて、自分でももっと違和感を覚えるかと思ったんだ。だが、」
シュヴィアは、不思議そうに首を傾げた。
さら、と顔の横に垂れる薄いブラウンの髪が日に透けて、とても綺麗だった。
「君が俺の為に心を砕いてくれるから、俺は君と居てとても楽しい。だから、君の願いを叶えさせてほしいんだ」
「願い、なんて」
ふふ、とシュヴィアは、うっすらと頬を染めて微笑んだ。
「アルマティス様のお側にいたい、それだけですわ」
あまりにあまりな言葉に、アルマティスの心臓が止まりかけた。
「アルマティス様?」
「な、なんでも、ない」
なんでもない事は無いのだが、君が健気すぎて笑顔が愛らしすぎて心臓が止まりかけたのだ、とは言えない。
胸を押さえたアルマティスが言えたのは、
「シュヴィア、そろそろ散歩に行かないか」
なんて誤魔化すような一言で、それに瞬いたシュヴィアは、やっぱり愛らしく微笑んだ。
「ええ、喜んで」
「君を愛せないと言った理由はなんだったんだろう。君はこんなに素敵なのに」
「まあ」
綺麗に整えられた庭園で、シュヴィアは光を浴び、アルマティスを見上げた。
複雑に編み込んでまとめられたブラウンの髪に、花弁のような青い瞳。薔薇色の頬に、快活そうな唇。
目を見張るような美人、というわけではないが、生命力に溢れた、生き生きとした美しさがあるレディには、好感しか無い。何より笑顔がとても愛らしい。
その愛らしい笑顔で、アルマティスを、好きだと言う。
アルマティスの、妻なのだという。
「俺は、君の何が不満だったんだろうか」
「あら、まあ」
シュヴィアは、楽しそうに笑った。
素直に可愛らしいな、と思うあどけない笑みだ。
アルマティスは、自分にとっては4年後の、周囲にとっては1年前の自分が、つくづく不思議でならない。
―――1年。シュヴィアの側にいて、俺は本当に何も思わなかったんだろうか。
「冗談を言っているわけじゃないぞ。君はよく気が回るし頭も良い。つくってくれるお菓子も、淹れてくれる紅茶も美味いし、とても美しい」
「そんな!」
ぼ、と頬を染めるシュヴィアは、褒められ慣れていないのだとよくわかる。
記憶を失くす前の自分は、一体何をしていたのか。アルマティスは、記憶を失くす前の自分が嫌になりそうだった。
「え、えっと、その、わたくしが少しでも見目良く見えているなら、それはアルマティス様のおかげですわ」
「……何?」
ふふ、とシュヴィアは照れくさそうに、顔の横にある髪を耳にかけた。
「わたくしの両親は、跡継ぎの兄をとても大事にしていて、兄に全てを与えていました。わたくしは、良縁を結ぶことだけを求められていましたから、夜会用のドレスはあったのですけれど、普段用のドレスは碌なものがなくて……一緒に連れて来ることができる侍女もメイドもおりませんでした」
「君の実家を潰しても良いか?」
とんでもない話に怒りを露わにするアルマティスに、シュヴィアは「放っておいてもそのうち潰れますわ。風前の灯火ですもの」と笑った。アルマティスの言葉をちっとも信じないシュヴィアに、アルマティスはちょっと傷ついた。
俺は本気なんだが。
「アルマティス様は、以前もそうして怒ってくださって、わたくしにドレスも、コートも、宝石も、化粧品も、メイドも侍女も、全てをくださいました。それは本来わたくしが手にするはずだったもので、アルマティス様の妻であるわたくしが受け取るべき全てのものだ、と仰って」
目を伏せて、頬を染めるシュヴィアの頭にいるのは、1年前のアルマティスだろう。
そんな愛しさを煮詰めたような顔で、アルマティスを語るのに。アルマティスは、何も覚えていない。
アルマティスは、思わず拳を握った。
「お仕事のお手伝いもそうですわ。実家では、わたくしが仕事に手を出しているなどと、バレればひどく叱られたでしょう。でも、アルマティス様は女のくせにとは仰らないでしょう?」
「当然だ」
顔を上げたシュヴィアに即答すると、ふふ、とシュヴィアは笑った。
「そうやって、わたくしを認めてくださったから、わたくしは高価な服も背筋を伸ばして着ることができます。だから、今のわたくしがあるのはアルマティス様のおかげなんですのよ。本当に感謝しています」
なんて、嬉しそうに言われても。
アルマティスにはその記憶が無いのだ。今のアルマティスがしたことではない。
記憶を失くす前のアルマティスがつくりあげた、シュヴィアとの時間だ。
そのことに、アルマティスは拳をぎゅうと握った。
だって、それでは。
それでは、アルマティスが目を離せないシュヴィアの微笑みは、記憶を失くす前のアルマティスがつくったものだと、そういうことではないか。
否。真実、シュヴィアの愛は、信頼は、今のアルマティスではなく、記憶を失くす前のアルマティスに向けたものであった。
薄情にも記憶と一緒にどこかへ行った、アルマティスではないアルマティスだけが持っているものなのだ。
――俺は、本当に何も思わなかったんだろうか。
シュヴィアに、記憶を無くす前のアルマティスの片鱗を見つけるだけで、アルマティスはこんなにも胸が苦しいのに。
アルマティスは、どうしてシュヴィアの前で、平気でいられたんだろう。
「俺は、君にそんなに想われていたのに、どうして愛せないなどと言えたんだろう」
腹が立つ、とこぼしたアルマティスに、シュヴィアはやっぱり笑った。
「言いましたでしょう? わたくしが貴方を想うようになったのは、貴方がわたくしを大切に扱ってくださったからで、それは1年の結婚生活の中でのお話ですわ」
それに、とシュヴィアは思案するように、顎に指を添えた。
「わたくしを、というより、あれは誰かを、という意味に聞こえましたわ」
誰かを愛する気がない?
それは、人を好きになることを恐れているようにアルマティスには聞こえた。
「チキン野郎か」
「あら」
口が悪いわ、とシュヴィアは笑った。
「誰かを愛する気はない、という意味では、あの時点ではわたくしも同じでしたし、本当に気になさらないでください」
「だが、戦で血を浴びたから髪が赤いのだ、などと恐れられている俺が、誰かと恋をするのは怖い、などと。とんだお笑い草じゃないか」
「人間味があってよろしいじゃありませんか。それに、わたくしは貴方のミルクをかけた苺みたいな髪も好きですわ」
「君、趣味が悪いぞ」
「あら」
お顔が赤いわ、とシュヴィアは嬉しそうに目を細めた。
輝くような青い瞳には、アルマティスへの愛情がたっぷり溶けていて、弾けるように愛らしく、美しい。
1年。
1年もの間、アルマティスはこの笑顔の隣にあったのだという。
「……いいな」
「アルマティス様?」
思わず漏れた声に、シュヴィアがきょとん、とアルマティスを見上げた。
記憶を失くす前のアルマティスは、シュヴィアの、もっといろんな顔を、今のアルマティスの知らないシュヴィアを、たくさん、たくさん知っていることだろう。
羨ましい、とアルマティスはシュヴィアの青い瞳を見詰めた。
「シュヴィア、君が、俺とまだしていない事はあるか?」
「え?」
「俺と君だけの記憶が欲しい」
アルマティスがそう言うと、ぼ、とシュヴィアの顔が赤く染まった。
熟れた苺のような、赤くて甘そうで、可愛らしい顔を、以前のアルマティスは知っているのだろうか。
「え、えっと、それなら、すでに、いろいろ実行済みですのよ」
「?」
シュヴィアの口から出た予想外の言葉に、アルマティスが首をひねると、シュヴィアは赤い顔のまま笑った。
「わたくし、臆病だったと申し上げたでしょう? お菓子をつくったり、なんでもない時間を一緒に過ごしたり、紅茶を淹れたり……そういう、夫婦らしいことは、その、今のアルマティス様にだけ、ですわ」
馬鹿だ。
馬鹿だなあと、アルマティスは笑いそうになった。
記憶を失くす前のアルマティスは、あんなに心地の良い時間を、美味しいお菓子を、紅茶を、知らなかったのだ!
ざまあみろ、とでも言いたい気分で、それはもう最高の気分で、アルマティスは笑った。
「とても良い事を聞いた。ではもっと二人の時間を持とう」
「い、いまも二人ですわ」
「もっとだよ」
ええ、と顔を赤くして眉を下げるシュヴィアに、すっかり気分を良くしたアルマティスは「他には?」と、にこにこ微笑んだ。
「君が俺としたかった事。まだ記憶を失くす前の俺がしていない事はないだろうか」
「ええ? ええっと」
うろ、と考えるように視線を動かしたシュヴィアは、はたと、目を見開いた。
す、と睫毛を下ろして、ぱちん、と瞬きをする。
それからアルマティスを見上げた瞳は、風に揺れる水面のように、不安に揺れていた。
「なんでも良い」
アルマティスがそう言うと、シュヴィアは苦笑して、口を開いた。
「では、アルマティス様のご両親のお話を聞いても良いでしょうか」
「…………両親の?」
ええ、とシュヴィアは静かに頷いた。
「アルマティス様は、ご両親の事を一度も口になさいませんでした。……いいえ。アルマティス様だけではありません。この屋敷では、誰も、先代と奥様のお話をなさいません。公には、事故死と発表されておりますが、絵すら無いのは……」
「不自然だな」
ええ、とシュヴィアは困ったように笑った。
「記憶を失くす前の俺は、君と両親の話をしなかったんだな」
「はい。わたくしはあくまで契約上の妻ですから、誰も口にしない事をあえて聞くのもどうかと思って、わたくしも聞かなかったのです。でも、今、改めて違和感がありますの」
シュヴィアは、真っ直ぐにアルマティスを見詰めた。
揺れていた瞳は、強く、温かく、アルマティスを導き、気遣う光に溢れている。
「アルマティス様は記憶を失くす前も今も、変わらずお優しくて、聡明で、お美しくていらっしゃいますが、雰囲気が、少し、違います」
「それは良い意味で?」
シュヴィアの賛辞が嬉しくておどけると、シュヴィアも「もちろん」と笑った。
くすくすと笑って、それから、また顔を上げた。
「わたくしが初めてお会いしたアルマティス様より、雰囲気が柔らかいのです。初めは、年齢が違えばそういうこともあるだろうと思いましたが、21歳のアルマティス様と25歳のアルマティス様とで決定的に違うのは、妻を迎えた事だけでは無くて、ご両親が亡くなっていらっしゃることです」
「……そうだな」
賢い女性だ。それに、思慮深く、思いやりがある。アルマティスは改めてシュヴィアを好ましく思った。
「アルマティス様、どうしてご両親の死を、今の貴方はそんなにも容易く受け入れていらっしゃるのでしょうか。どうして、25歳の貴方は結婚を嫌がっておいでだったのでしょう」
「君はずっと、それを聞かずにおいてくれたんだな」
「臆病ですから」
ふふ、と笑うシュヴィアに、アルマティスはいびつに笑い返すことしかできなかった。
記憶を失くす前のアルマティスがこの話を避けたのは、口にするのも忌々しかったからか、それとも、この美しく強い妻に弱い自分を晒せなかったのか。
いずれにしろチキン野郎だ、とアルマティスは笑った。
今のアルマティスには、シュヴィアに差し出せないものなど無い。
「君の想像通りだ。俺が両親の死をなんとも思わないのは、俺が両親を嫌いだったからだ」
記憶を失くす前の自分、それからシュヴィアとの別れ以外には。
続きはまた明日!