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「アルマティス様、そろそろお時間ですわ」
「ん? ああ」
そうだな、と壁に掛けた時計を見て、アルマティスは微笑んだ。
「今日もご一緒しても良いでしょうか」
「嬉しいよ。ぜひ」
今日も夫が優しく美しいので、シュヴィアはとろけるような気持ちで、うっとりと微笑み返した。
記憶を失くしたアルマティスとの生活は、思ったよりも順調だった。
忘れられたことが、つらくないわけじゃない。さみしくないわけじゃない。
シュヴィアが居ることに慣れないアルマティスに、1年間の思い出や絆を持っているのは自分だけだという事実を思い知る度に、心に隙間風が吹くような、そんな寂しさが無いわけじゃ、無い。
でも、打ちひしがれるよりも、これ幸いと愛を押し付けることに決めたシュヴィアは、むしろ絶好調だった。
アルマティスは本当に優しい人だけれど、契約を持ち掛けたのは自分で、愛せないと事前に言われている手前、臆病なシュヴィアはどうしても正直になれなかった。
が。関係がリセットされたことで、真っ直ぐにしか走れない獣の如く、アルマティスに突進する日々を送っている。これが楽しいのだ。超、楽しいのだ。
「クッキーを焼いてみたのですが、召し上がっていただけますか?」
「今日はケーキを焼いてみました!」
「ハンカチに刺繍をしたのですが……受け取っていただけるかしら」
とまあ、このように。
憧れていた夫婦らしいことをやってみても、アルマティスは笑って許してくれるのである。アルマティスにとってシュヴィアは、妻などと名ばかりの、初対面の他人に等しい存在だろうに。
「とっても美味しい。また作ってくれるかい?」
「シュヴィアは料理上手なんだな」
「なんて見事な刺繍だ。大切にするよ」
なーんて、シュヴィアが思わず天に召されかけて、侍女のアンネに「奥様お気をたしかに!」と名前を呼ばれるほど優しい言葉までくれるのだ。これは現実か? 案ずるな、現実だ。
優しいところは変わらないけれど、以前よりも少し雰囲気が柔らかなアルマティスは、シュヴィアにつけ込む勇気をくれる。これにシュヴィアはどんどん調子に乗った。元気いっぱいである。
そんなシュヴィアが、領地管理の手伝いをしている事を伝えたのは、アルマティスが専属医のバートンにベッドから降りる許可をもらい、仕事を再開した時だ。
「君が? 仕事を?」
「ええ」
「恐れながら、旦那様がお休みの間は奥様が代行なさっておいででした」
「なんだって?」
シュヴィアがアルマティスの手伝いをするようになった切っ掛けは、結婚してわりとすぐの頃だった。
廊下ですれ違ったアルマティスが落とした書類を拾った際に、計算の間違いに気づいてしまったのだ。
指摘するのは失礼だろうか、とか。自分の方が間違っているのではないか、とか。
口に出すのが憚られ、書類を握って悶々とするシュヴィアに、アルマティスは『気になることがあるなら言ってくれ』と首を傾げた。
書類を睨むシュヴィアに、アルマティスは不快感も嫌悪感も見せず、ただ不思議そうにしていて、
『遠慮しなくていい』
と、微笑んでくれたのだ。
だからシュヴィアは思い切って、気付いた点を伝えた。
すると、なんとアルマティスは、ざっと書類を見返し『本当だ、有難う』と、お礼を言ったばかりか、『君は凄いな』なんて褒めてくれたのだ。
そんな風に言ってもらえるだなんて思わなくて、とんでもなく嬉しくなったシュヴィアは、礼を言ったアルマティスに礼を言う、という珍妙な返しをしてしまい、アルマティスに笑われた。
それからというもの、シュヴィアは女主人としての家の管理だけではなく、アルマティスの仕事を少しずつ手伝うようになった。
そう、アルマティスは家の管理も、シュヴィアに任せてくれていたのだ。
妻の役割は望まないと言ったのに、たった1年のお飾りの妻なのに。
『契約であっても君は俺の妻だろう』とその言葉通り、アルマティスは決してシュヴィアを、ないがしろにしなかった。
だから、大丈夫。
夫の仕事に手を出す女だなんて、とアルマティス様はわたくしを軽蔑したりなさらない。
領主を代行していた、と聞いたアルマティスが何を言うのか、どう思うかが怖くて、シュヴィアはどきどきしてしまう。
けれど、アルマティスは「凄いな」と目を輝かせた。
「リカルドがやってくれているとばかり……有難う、シュヴィア」
「そんなっ、代行と言っても、簡単なものだけですから、そんな、大層な事はしておりませんの!」
軽蔑どころか、やっぱり褒められてお礼を言われてしまった。
輝く笑顔が眩しくて嬉しくて、シュヴィアは今にも天に召されそうで、思わず両手を握った。まだ死ねない。
「いや、ざっと見た限りだが、小さな領地ならすぐにでも管理できるぞ。どこで学んだのか聞いても良いだろうか」
いくらなんでも褒め過ぎである。シュヴィアは熱い頬を両手で押さえた。
「実家を仕切っていた家令ですわ。彼は、わたくしが声を掛けても笑ってくれる数少ない人でしたから、幼い頃から付いて回っていましたの。何を質問しても丁寧に答えてくれて、仕事を手伝わせてくれました」
使用人のトップであり、また両親にも頼られていた男には、怖いものなど無かった。強かで優しい男は、シュヴィアの結婚を泣いて喜んでくれた唯一の人だ。
懐かしい、と思わず笑みを浮かべたシュヴィアが顔を上げると、アルマティスとリカルドが、酷い歌を聞かされて頭が痛い、というような顔をした。
「怒れば良いのか褒めれば良いのか」
「旦那様、怒りはとりあえず忘れましょう」
アルマティスは、そうだな、と揉みほぐすように眉間を押さえて、ふうと息を吐いた。
「シュヴィア」
「はい」
シュヴィアが返事をすると、アルマティスは困ったように笑った。シュヴィアは首を傾げる。
「今の俺には知識も経験も不足している。迷惑でなければ、助けてもらえるだろうか? きっと今まで以上に働かせてしまうと思うんだが」
最愛の夫に、子犬もかくやという愛らしいお顔で言われてごらんなさい。断れる女がおりましょうか。
「お任せください!!!」
無論、全力でお答えしたシュヴィアである。
そんな風に、仕事中も夫婦の時間を持つことができてシュヴィアは幸せだったわけだけれど、もう一つ嬉しい事があった。
「散歩?」
往診に来たバートンの言葉に、アルマティスは瞬いた。
「はい。1週間ほど寝たきりでいらっしゃいましたからね。身体を慣らすためにも、お庭を散歩されるがよろしいかと。お屋敷をそうして歩いておられれば、何かの拍子にぽんと記憶が戻る可能性もございますから」
なるほど、と頷いたアルマティスに、バートンは「ただし」と言葉を続けた。
「今は普通の状態ではありませんし、記憶が戻った時に何が起こるかもわかりません。お一人で出歩いたりはなさらないように」
「はい!」
「え?」
元気よく手を挙げたのはシュヴィアである。
はっと気づくと、アルマティスとバートンが、「どうした」という顔でシュヴィアを見ていた。
気持ちが前に出過ぎたシュヴィアは、そろそろと手を下ろして、何もなかったように微笑んだ。
「わたくし、喜んで散歩のお供をいたしますわ」
「おお、それは良いですな」
「でもシュヴィア、君も忙しいだろう。良いのか?」
良いのか? ですって。
「お忘れですか?」
きょとん、とするアルマティスに、シュヴィアはくすりと笑った。
「わたくしは、貴方の妻ですもの」
貴方に恋をしているんだもの! と、言うのは流石に自重した。
アルマティスは、「そうだな」と微笑んでくれたので、多分正解だ。
そんなわけで、シュヴィアは毎日アルマティスとお散歩をするという、素敵な時間を手に入れたわけである。
「寒くないか?」
「ええ。このコートも、アルマティス様が買ってくださったのですよ」
「……そうか」
一拍置いて、アルマティスはやんわりと微笑んだ。
何か気に障ったのだろうか。
シュヴィアは、コートを見下ろす。
白いファーが付いた、濃紺のコートは暖かいのに軽くて、とっても可愛らしい。
この素敵なコートは、シュヴィアにとって思い出の品だった。
実は、アルマティスが治めるこの領地は、北の国境にあり、とても寒い。のだけれど、「良い結婚相手を見つけてこい」と送り出される夜会用のドレスを除けば、禄なドレスも持っていなかったシュヴィアが、冬用のコートなど持っているはずもない。
王都から帰るアルマティスと一緒に領地に行くことになったシュヴィアがそれを告げると、『コートの一着も無いとは!』と、アルマティスは大層お怒りになった。
『申し訳ありません』
反射で頭を下げたシュヴィアに、アルマティスは『君に怒っているわけじゃない』と首を振った。
『跡継ぎであろうとなかろうと、君もあの家の子供に違いないだろう。君はもっと、自分を大事にしなかった家族に怒るべきだ』
アルマティスはそう言って、街でシュヴィアにこのコートと、冬用のドレス、だけではなくそれらに合う、靴と帽子と宝石を買い占めた。
商品を並べさせて、それを全部くれ、なんて言う人をシュヴィアは生まれて初めて見た。
『領地に戻れば、もっと用意する。あまり荷を増やせぬし、まずはこれで我慢してもらえるだろうか』
暖かい気候の王都の品揃えはアルマティスの納得のいくものでは無かったらしく、これだけか、少ない、既製品はサイズが合わないだろう、とぼやき、申し訳無さそうにシュヴィアに頭を下げた。
『我慢だなんて! もう十分ですわ!』
いっそ殺してくれ! とシュヴィアこそ申し訳無さに叫びだしそうだった。
出発が遅れただけではなく、こんなに散財させて、更にだなんて! とんでもない話である。
けれど、アルマティスは恐縮しきりのシュヴィアに、冗談だろう? と笑った。
『君はフォーディア家の女主人になるのだ。俺に恥をかかせないでくれ』
言葉は尊大だけれど、浮かべられた笑顔は、とても優しいものだった。
この人のためになんでもしよう。1年後には全て置いてお返ししよう。素敵な奥様をお迎えできるようにお手伝いしよう。
シュヴィアが、そう誓うには十分な、優しい笑顔だったのだ。
――まあ、残念ながら、すっかり恋する女と化してしまったシュヴィアは、今も優しい色で満ちたこのお屋敷でのうのうと生きているわけだけども。
己の欲深さに辟易するばかりであるが、アルマティスのために働くのだという決意だけは変わらない。
したがって、このコートもお気に召さないようであれば着ない方が良いだろうか、とシュヴィアは思案する。
大事なコートなので捨てはしないが、クローゼットに大切に保管しよう、と思ったところで、アルマティスが「シュヴィア」と名を呼んだ。
「はい」
シュヴィアが顔を上げると、アルマティスは視線を彷徨わせ、それから、赤い頬でシュヴィアを見た。
「その、気にさせたならすまない」
「え、あ、いえ。次からは違うコートにしますわ」
「いや、良いんだ。その、なんだ。記憶を失くす前の俺が贈った物だと聞いて、少し、その、さみしく、なった、だけ、だから」
「え?」
今なんて?
聞き間違いだろうか、とシュヴィアは目を見開き、アルマティスは、赤い頬を尚赤く染めた。びっくりするほど可愛らしい。
「俺も、君にコートを贈ったら着てくれるだろうか」
「喜んで!!!!」
さみしがり屋さんなアルマティスも、これはこれで大変に良いなとシュヴィアは満面の笑みでお答えした。




