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「君は誰だ?」
ぱちん、と爆ぜるように輝くミントガーネットの瞳に、ミルクをかけた苺のようなピンクブロンドの髪。
今日も美しいシュヴィアの夫は、初めて会う者を見る目で、シュヴィアにそう言った。
「だ、旦那様っ?!」
慌てたのは執事やメイドだ。シュヴィアは、思わず口元を手で押さえる。
専属医のバートンは冷静に診察し、「お身体に障りは無いようですが……」と、健康上問題がない事を告げると、夫に静かに質問をした。
「貴方のお名前は?」
「アルマティス・フォーディア」
「年齢は」
「21」
「ふむ……今日の日付は?」
「え、あ、いや、わからない」
「では、こちらの方は?」
「執事の……リカルドか? 待て、お前なんだか老けてないか?」
「ふうむ……では、こちらの方は?」
すい、とバートンはシュヴィアを指した。
それに合わせて、夫の若葉のような瞳がシュヴィアを映す。
シュヴィアが、こんなにも真っ直ぐにこの瞳に見詰められるのは、初めてのことだ。
頭を打って倒れていたにもかかわらず、活力を失わない神秘的な光を宿す瞳は、思わずため息がもれそうなほど美しい。
シュヴィアはいつも、この美しい瞳をじっくり見詰めてみたいと願い、結局、横顔を眺めてばかりだった。
他人になったからこそ正面からその瞳を見ることができる、だなんて。とんだ皮肉ではないか。
アルマティスは、そろ、と口を開いた。
「知らない……誰だ?」
「なるほど」
良いですかな、とバートンは立派なあごひげを撫でた。
ごく、と生唾を飲み込むような音は誰のものだっただろう。
シュヴィアは、どきどきと早鐘を打つ胸を押さえた。
「貴方の本当の年齢は25歳、こちらの方はシュヴィア・フォーディア様。昨年ご結婚された、貴方の奥様です。どうやら、貴方様は4年分の記憶を失っておられるようですな」
「なん、だって……?」
「頭を打った衝撃で、記憶喪失になったようです。いつ、どのように記憶が戻るのかはわかりません。翌日には記憶が戻る事もあれば、一生戻らなかった、という事例もあります」
「記憶喪失……」
ぽつん、とアルマティスの声が寝室に落ちた。
シュヴィアはその声に、そういえば、と思う。
――――そういえば、アルマティス様の寝室に入ったのもこれが初めてだわ。
シュヴィアの寝室は、扉一枚隔てた向こう側にあって、互いにこの扉を開けた事は無かった。
そんな結婚生活を、夫が、すっぽりと忘れた。
シュヴィアのことを、忘れた。
ぎゅう、とシュヴィアは押さえた胸元を握り締める。ふるり、と身体が震えた。
「……みんな、少し、二人きりにしてくださらない……?」
絞り出すように言うと、執事とメイドは心配そうに顔を見合わせ、けれども頭を下げて退室する。
バートンは、「気を付けておいた方が良いようなことや薬は、執事殿にメモをお渡ししますので、何かあればいつでもご連絡ください」と丁寧に頭を下げた。
シュヴィアはバートンに深い感謝を告げ、最後に部屋に残った自分の侍女に、多めに謝礼を渡すように頼んだ。聡い彼女は、ぺこりと頭を下げると何も言わずに部屋を出る。
パタン、と扉が閉まる音に、アルマティスは不安そうに瞳を揺らした。
シュヴィアのことを知らない、アルマティス。シュヴィアのことを知らない、シュヴィアの夫。
悲嘆に暮れるべきだろうか。悲しむべきだろうか。ああ、いや、バートンは大丈夫だとは言ったけれど、まず彼の身を心配すべきだろう。
なのに。
なのに、誠にまったくもって不謹慎なことに、シュヴィアは、思ってしまったのだ。
───これ、チャンスなのではなくって……?!
シュヴィアは、湧き上がる高揚感を抑えられない。
唇の端が上がり、満面の笑みを浮かべてしまう。きっと頬は上気し、赤く染まっているだろう。
シュヴィアは、花が咲くように美しいアルマティスの手を、不遜にも両手で握り、そしてぎょっとするアルマティスに告げた。
「貴方の事を愛しています! どうかわたくしと夫婦になってください!」
「え?」
見開かれた瞳は矢張り美しく、シュヴィアは、ふふ、と微笑んだ。
「アルマティス様、わたくしたち契約結婚でしたの」
「え?」
「1年経ったら離婚しましょう、というお約束で、今日がちょうど1年目でしたの」
「なんて?」
「わたくしたちの間に愛は無く、貴方はそれを求めるなと仰いました」
「なんだって?」
「でもわたくし、貴方を愛してしまったの!」
「ま、待ってくれ! 情報量が! 多い!!!」
「愛しているわ!」
「だから待って!!!!!」
少し整理させてくれ、とアルマティスが包帯を巻いた頭を抱えてしまったので、シュヴィアは部屋の外に待機していた侍女にティーセットをお願いした。
持ってきてくれたカップとティーポットに一度お湯を注いで、茶器が温まったら別の器にお湯を捨てる。それからティーポットに茶葉を入れ、再びお湯を注いで。蓋をして茶葉を蒸らした後は、ティーポットを軽くスプーンで一回し。
最後は茶こしを使って、お湯を捨てたカップに静かに紅茶を注いだ。
アルマティスのための時間だったが、工程を一つ一つ重ね、ふわりと茶葉の香りが広がれば、シュヴィアの心も落ち着いて、ふうと息を零した。
――勢いよく行き過ぎたわね。
シュヴィアが己の振る舞いを反省しつつ、アルマティスを振り返ると、ばちりと目が合った。
見られていたのだろうか。
なぜ、と思って、いや、それは見るだろう、とシュヴィアは思い直した。アルマティスからすれば、シュヴィアは正体不明の存在なのだから。そりゃ、見るだろう。警戒するだろう。
シュヴィアは、精一杯、印象が良くなるようにと。微笑んで、紅茶を差し出した。
「どうぞ」
「あ、ああ、有難うございます」
「まあ、どうぞ先程のように気軽にお話しになって」
アルマティスは、そうか、と少しだけ笑った。可愛い笑顔に、シュヴィアの胸がギャン! と高鳴った。
「え、と。俺は貴女を何と呼べば良いだろうか」
「どうぞシュヴィアとお呼びくださいな」
にこ、とシュヴィアが笑いかけると、アルマティスは「シュヴィア」と、確かめるように呟いた。
「はい、貴方のシュヴィアです」と、シュヴィアは心の中だけでお返事した。
「ちなみに、記憶を失くす前の俺はどんな風に貴女と話していたんだろう」
「わたくしのことはいつも、君、とか貴女、とお呼びになっておられましたわね」
「最低じゃないか!」
「いえいえ、契約結婚ですから。適度な距離だったと思いますわ」
「それだよ……」
はあ、とアルマティスは項垂れた。
哀愁が漂うお姿も様になるのだから、美形というのは凄いものである。
「提案したのは俺か? 王都にほとんど顔を出さない俺を警戒した王家に、度々結婚をせっつかれていたんだが、それを回避するための結婚だろうか?」
「概ね正解ですわね」
アルマティスは、代々国境を護り続けてきた、誇り高き一族の当主である。
若くして家を継いだアルマティスは、家を継ぐその前から、滅多に王都に現れない事で有名だった。
しかも、武勇伝はあっても、浮いた話は一つも無い。
フォーディア家の血と忠誠を繋ぎとめておきたい王家は、アルマティスと王家の婚姻を結ぼうとやっきになり、恐れ多くもそれを断り続けるアルマティスの話もまた、貴族の間では有名な話であった。
王家の縁談を断れる、強大な力を持った辺境伯。
それは、シュヴィアにとってピッタリの相手だったのだ。
「わたくし、アルマティス様と結婚しないと、危うく62歳の伯爵の5番目の妻になるところでしたの」
「なんだって?」
「それも、前の奥様4人は皆、事故死や突然死という曰く付き」
「地獄じゃないか」
「地獄です」
なるほど、とアルマティスは頷いた。
「提案したのは、君、いや、シュヴィアか」
丁寧に名前を呼びなおされ、シュヴィアが嬉しくて思わず、「まあ」と微笑むと、アルマティスは気まずそうに紅茶を飲んだ。
「……うまいな」
「恐れ入ります」
ふふん。こちら、アルマティスが紅茶を好きだと聞いて、シュヴィアがこっそりメイドと特訓した成果である。
有難うララ! 貴女との特訓で飲んだ通算2016杯の苦い紅茶は無駄じゃなかったわ!
「それで」
にこにこと微笑むシュヴィアにアルマティスは、こほん、と咳払いを一つ。ハッとしたシュヴィアは「はい」と、シュヴィアとアルマティスの、愛のメモリーについて続きを語ることにする。
「1年前、珍しくアルマティス様が王都の夜会にお見えになった時ですわ。その時わたくし、たまたまアルマティス様をお見かけいたしまして……驚きましたの」
「何に?」
「なんて立派な逃げっぷりなのかしら、と」
「……陛下と第二王女殿下だな……」
「はい」
それは、王家主催の夜会での一幕である。
主催者である国王陛下の元へ挨拶に伺う事は当然なのだが、この辺境伯様は、なんと巧みに王と王女の進路を避け、壁際をうろうろしていたのだ。
これだけ目立つ容姿をしているにも関わらず影に徹する事ができる見事な動きに、シュヴィアは感心してしまった。なんて能力と執念だろうか。
「さっさと挨拶をして、適当なところで切り上げて帰れば良いのにそれをしなかったということは…………」
アルマティスは口元を手で覆い、す、と目を伏せた。
頭の回転が速く、勘の鋭い男だ。
失われた4年間を想像し、計算し、埋めているのだろう瞳は、長い睫毛で一つ瞬き、そしてシュヴィアを見た。
「ああ、なるほど。いよいよ逃げ切れないところまで追い込まれたか」
ふ、とアルマティスはいびつに微笑んだ。
紡がれた言葉以上の事実に辿り着いたのだろう。
シュヴィアは何も知らない顔で、にこりと笑んだ。
「アルマティス様はお優しく思慮深い方ですから、人前で婚約を持ちかけ、王女と噂の一つや二つ流せば絆されるだろう、と思われたのかもしれませんね」
「君の評価は過分だと思うが……人前で露骨に断われんだろうし、自分と噂になった王女を無下にはできんな」
それを優しいと言うのよ。
シュヴィアは思わず目を細めた。この1年間だって、なんだかんだと、シュヴィアを気遣ってくれたおかげで、シュヴィアはすっかり骨抜きだというのに、なんて罪な男だろう。
もう! とシュヴィアが内心腹を立てていると、思案していたアルマティスは、なるほど、と呟いた。
「そこでヒーロー登場というわけか」
ふ、と眉を下げて笑う顔に、シュヴィアは思わず胸を押さえた。
なんって可愛らしい笑みかしら……! ほんとに罪な人!
「どうした?」
「お、お気になさらないでくださいちょっと被弾しただけですわ」
「被弾?」
「いえ、まあ、そういうわけで、事情を察したわたくしは、同病相憐れむと申しますか、良い利害関係を築けるのではと、契約結婚を申し出たわけです」
夜会が終わるまで、というか国王陛下に捕まるまでに逃げ道を見つけたかったアルマティスには、実質選択肢は無かった。
シュヴィアもまた、顔も知らない、命の危険を感じる好色おじいちゃんとの結婚の逃げ道を探していた。
とどのつまり、お互いに必死だったのだ。
『フォーディア辺境伯様! わたくし没落寸前貴族令嬢のシュヴィア・イロイスと申します! わたくしもこのままですと望まぬ結婚を強いられますの! どうか1年! 離婚ができるようになるまでの1年で良いので結婚してください! 妻の権利も愛も求めませんから! お屋敷の隅っこで暮らしますから!!』
『それは……』
『はい!』
『ちゃんと契約書を書いてくれるのか?』
『勿論です!!』
「ロマンティックですわよね」
「どこがだ」
「夜空の下、噴水が美しい庭園で、己の欲望をむき出しにしたプロポーズでしたもの」
「あ、ううん? いや違うだろ」
一瞬流されそうになったアルマティスは、胡乱気に言った。
冷静な男なのだ。
ちなみにシュヴィアは、アルマティスのそんなところも好きだ。シュヴィアは深く考えず勢いで生きることをモットーとしていたので。
自分に無いものばかりを持つアルマティスは、シュヴィアにとって、眩き太陽のような存在だった。
シュヴィアという、ちっぽけな野草を大地に据えてくれた、決して手が届かぬ眩き太陽。
なんてね。
シュヴィアは、にこりと笑んだ。
「契約をした後は、二人で『結婚します♡』と陛下と王女殿下にご挨拶して万事解決です。陛下は、驚く、というか疑っておいででしたが、それこそ、王が人前で理由なく辺境伯の結婚を認めないなどできませんし、不名誉な噂を流すわけにもいきません。何より、本当に私たちが愛し合っていたとしたら、結婚の邪魔をしてアルマティス様が離れていっては意味が無い、とご判断されたのでしょう。陛下は祝福してくださり、実は隣国の王子と良い感じな王女殿下はほっと胸を撫で下ろされ、アルマティス様が持参金は要らないと仰ってくださったばかりか、両親が伯爵から受け取った金貨を代わりに返金してくださったので、わたくしの両親も納得しましたの」
晴れてわたくしたちは望まぬ結婚から逃れたわけですわ、とシュヴィアが清々しい気持ちで笑みを浮かべると、アルマティスの眉がぴくりと跳ねあがった。
「待て、今何と言った」
「王女殿下ですか? 王女殿下も望まぬ結婚を強いられていた仲間と考えるとお可哀そうですよね……」
「そうだが、そうじゃない」
はて、とシュヴィアが首を傾げると、アルマティスは眉を寄せた。
鮮やかな緑に滲む怒りの色に、シュヴィアは瞬きをする。何か、不快にさせてしまったのだろうか。
「シュヴィア、それでは君は売られたようなものではないか!」
「まあ」
シュヴィアの記憶の中で、髪を撫でつけたアルマティスが、どん、と庭のティーテーブルを叩いた。
シュヴィアの欲深な両親は、二人の結婚に反対だった。
なんと、まあびっくり。伯爵から金銭を受け取っていたのである。
しかも、すでに手を付けていたので貰った金を返せば良い、というわけにもいかない。返せる金など、没落寸前の愚かな家には無いのだ。
そもそも、欲に目がくらみ、娘と金貨を交換するような親なので、返金するための金を用意する気など微塵も無い。
王家との縁談が持ち上がるほどの力を持った辺境伯との縁より、受け取った金貨を選ぶと言うのは、なんとも恥ずかしい話であるが、それがシュヴィアの両親で、それがシュヴィアの生まれた家だった。
アルマティスは、夜会の翌日にシュヴィアの家を訪問してくれたが、これまたお恥ずかしい事に、両親はアルマティスに会おうともしなかった。
仕方が無いので、こっそり庭にご移動いただき状況をご説明すると、アルマティスは、どん、とティーテーブルに拳を打ち付けた。
こっそり用意した茶器が、ガチャン、と跳ねる。
『それでは君は売られたようなものではないか!』
『ような、というか、売られたのですわ。お恥ずかしながら、本当にお恥ずかしながら、金遣いの荒い父と母と兄がおりまして……家の事は全て家令が仕切る無能ぶりで、金銭的な理由で我が家は没落寸前ですの』
『それでも親か!』
『あんなのでも、親なのです。ええ、まったくお恥ずかしいことに』
ふふ、とシュヴィアは思わず笑った。
家の恥部を晒す情けなさと、親に売られた惨めさと、我が事のように怒ってくれるアルマティスの優しさに、笑うしかなかった。
『君はもっと怒るべきだ! 君の家はおかしい!』
『っ』
――わかってはいたのだ。
変だな、と。思ってはいたのだ。
跡継ぎの長男と違い女は役に立たぬと。
優しい言葉を掛けられた記憶すら無い、自分が異物のような居心地の悪さしかない家に、シュヴィアだって疑問と憤りはあったのだ。幼い頃は、なぜどうしてと、それを口にしたことだってあった。
けれども、何も変わらなかったから。
シュヴィアはそれを、当たり前だと思うしかなかった。
シュヴィアはそれが、当たり前だと思いたかった。
深く考えてはいけない。
明日を、明後日を考えてはいけない。
鈍感であれ。
鈍感であれ。
でないと、どうやって生きたら良いのかわからない。どうやって受け止めれば良いのか、わからない。
泣いても喚いても現実は変わらない。
ヘラヘラしていた方が、傷は浅く、体力も使わない。
阿呆だ知恵が足りん、そうやって笑われた方が、頑張って走って無駄だと笑われるより、ずうっと良かったのだ。
ところが、シュヴィアの命の期限が迫っていた。
これはさすがに笑ってはいられない。なんとか逃げ出さなければと、藁にも縋る思いで、無礼を承知で、シュヴィアはアルマティスに声を掛けたのだ。
だから、初めて、笑いもせず、当たり前だとも、諦めろとも言わず、「おかしい」と言ってもらえて。
ようやくシュヴィアは、自分は間違っていなかったのだと、ほっと息をつけたのだ。
「……笑っているのか」
目の前にいる、包帯を巻いたアルマティスに問われ、シュヴィアは「はい」と微笑んだ。
「アルマティス様、以前もそうして怒ってくださいましたのよ」
「良かった、4年後の俺は思ったよりもまともだったようだ」
「貴方はいつも、お優しい方でしたわ」
「……夫としては最低だったように思うが」
「いいえ。間違いなく、わたくしにとって幸せな1年間でした」
だからシュヴィアは、アルマティスに恋をしたのだ。
シュヴィアの心はじわりと温められ、まるで普通の娘のように、ゆっくりと花が開くように、シュヴィアは恋をしたのだ。
心の底から、シュヴィアは幸せだった。
穏やかな日々を思い浮かべ微笑むと、アルマティスは目を見開き、それから、顔を逸らした。
紅茶を口に含み、ふ、と息をついたアルマティスは、再びシュヴィアと視線を合わせる。
「シュヴィア、その、聞いてもいいだろうか」
「なんなりと」
「君は、まだ屋敷に居てくれるんだろうか」
「あら」
不安そうなお顔の、なんとお可愛らしいことだろう。なんて。
ぽんと4年の空白を手に渡されたアルマティスの不安を考えれば呆けてばかりはいられないが、愚問であった。
それは聡明で冷静なアルマティスらしからぬ、愚問であった。
この屋敷や、仕事について把握している人間は、1人でも多い方が良いだろうし、ただでさえ忙しくなるだろうアルマティスに、このうえ離婚の手続きや後始末までさせるほど、シュヴィアは薄情ではない。
というか、シュヴィアには離婚をする気はこれっぽちもないんだから。
「お忘れですか、アルマティス様。わたくし、貴方をお慕いしておりますの。1年の契約を反故にしてほしいと、屋敷に置いてほしいと、わたくしはお願いを申し上げる立場ですわ」
幸せなばかりの日々で唯一、胸がじくじくと痛む日があったとすれば、それは契約の終わりを考えた時だった。
家に帰りたくなどないし、何よりアルマティスの側を離れたくはない。
もしもアルマティスに、今度こそ王家の手でどこぞのご令嬢と結婚されたりしたら、シュヴィアは泣き暮らす自信がある。
だから、シュヴィアはこのチャンスをものにしたい。
アルマティスとの結婚をやり直したいのだ。
シュヴィアは、1年の想いを込め、アルマティスに微笑んだ。
「どうか、わたくしの夫になってください」
「っっ」
アルマティスは、ぎゅ、と目を閉じて胸を押さえた。
あら?
シュヴィアは瞬きする。
ぎゅうと歯を食いしばる、アルマティスの、真っ赤なお顔の愛らしいこと!
これはもしかして押せばいけるのでは、とシュヴィアが首を傾げると、アルマティスは「その」と口を開いた。
「シュヴィアの気持ちは、とても、嬉しい。とても、だ」
ぽん、とシュヴィアは自分の周りに花が咲いた気がした。
良かった不審者扱いされなくて。
「だが、申し訳無い事に、今の俺は自分の事で手一杯だし、君に対して酷い扱いをしていた事を棚に上げて頷くのもいかがなものかと思う。だから、少し待ってもらえないだろうか。その上でこの屋敷に居てほしい、と頼むのは、その、君の気持ちを利用しているようで、本当に申し訳無いんだが」
アルマティスの眉は、いつもキリッとしていて、意志の強さと潔癖さを表すようなそのお顔が、シュヴィアは大好きだった。
ところが今。アルマティスの眉は、しゅん、と下がってまるで雨に濡れた子犬のよう。
なんということだろう。
シュヴィアは巷で話題の「ギャップ萌え」を知ってしまった。
これか。これは、凄い威力だ。吐きそうなほど苦しい。心臓が張り裂けそうではないか!
「で、ではアルマティス様。わたくしのお願いを1つ、聞いていただけますか?」
息も絶え絶えなシュヴィアが言うと、アルマティスは「ああ!」と頷いた。
「なんでも言ってくれ!」
ぱあ、とお花が飛ぶような笑顔は、おつかいを頼んだリリーの息子(6歳)のリックみたいだ。
「そんなお可愛らしいお顔をしても駄目です!」
「え?」
「あ、いえ、こちらの話です」
こほん、とシュヴィアは白々しい咳払いをして、アルマティスに向き直った。
「わたくしがアルマティス様をお慕いするようになったのは、結婚生活の中でのお話です。初めは、純粋に伯爵から逃げるために、良い利害関係を築けると提案をしただけなんです」
シュヴィアはそっと紅茶を口に運ぶ。
ふうと落ち着いて顔を上げ、再び口を開いた。
「つまり、貴方はわたくしがうっかり恋をしてしまうほど、良くしてくださっていたのです。あくまで契約でしたから、世間一般の夫とは違ったでしょう。けれど、わたくしたちは良いビジネスパートナーであったし、貴方は人として、わたくしに尽くしてくださった。……ねえ、だって、他人のために大金を支払うだなんて、お優しすぎますわ」
「……契約を結ぶと約束した以上、君は他人ではなく、俺の妻だろう」
『契約を結ぶと約束した以上、君は他人ではなく、俺の妻だ。ならば、夫のプライドを守る手伝いくらいし給え。結婚の約束をしたレディを老いぼれにみすみす渡したなど、末代までの恥だ』
なんて。
尊大に言ったのは、彼にとって3年後。シュヴィアにとって1年前のアルマティスだ。
契約は無かったことにしよう。他人のために大金を支払うなんてあり得ない。
アルマティスの申し出を断ったシュヴィアに、アルマティスはそう言って、シュヴィアをあの家から連れ出してくれたのだ。
「貴方のそういう優しさを、わたくしは愛さずにいられなかったの。わたくしとアルマティス様の間にあったのは、思いやりで繋がれた契約でした」
友人のような、共同経営者のような、温度のある、一線を引いた関係。
『俺はきっと君を愛せないから、それを求めないでほしい』
契約を交わすあの夜、アルマティスはそう言ったのに、優しさが嬉しくて、恋しくて、勘違いをして、その一線を踏み越えたくなったのは、シュヴィアの勝手なのだ。
「ひどい扱いだなんて、受けた事が無いわ。わたくしが愛した貴方を否定しないで」
「……君は、本当に4年後の俺を想っているんだな」
「ええ、とても」
4年後のアルマティス。不思議な表現だ。
シュヴィアにとっては同じ人だけれど、アルマティスにとっては違うのだろうか。
まあ、たしかに。
自分の妻だという人間が目の前にいて、その間のやり取りも、そこに至るまでの4年間の記憶も無ければ、他人事に思えるのかもしれない。
シュヴィアはふと思う。
ずっと告白できずにずるずると期限の日を迎えた臆病者のくせに、これ幸いと関係のやり直しを要求する自分は、もしかして最低なんじゃないだろうか。
いや、いやでも何も知らない顔で「貴方の妻です」って顔をするのもどうかと思うし、かといって「期限なので」とメソメソ屋敷を出ていくのは、シュヴィアはやっぱり嫌だった。
だったら、契約を忘れたなんてラッキー! もう一度始めましょう! と詰め寄った方が、いくらか健全な気がするのだ。いくらか、だけれど。
「シュヴィア」
「はい」
ふいに声を掛けられ、シュヴィアは慌てて返事をした。
不安だろうアルマティスを置いて思案にふけるなど、と居住まいを正す。
「最後に1つ、質問をしても良いだろうか」
「そのような確認は不要ですわ。いつでも何でも聞いてくださいな」
そうか、と少しだけ笑って、それから、目を伏せたアルマティスは、顔を上げた。
「俺が陛下から逃げられない、と考えるほど陛下が焦っておられたのはつまり、」
感情の読めない、しん、と風の無い夜のような顔を、シュヴィアは真っ直ぐに見詰めた。
「フォーディア辺境伯は、俺か」
先代が。
アルマティスの父が、そして母が亡くなったのは、ちょうど、4年前だったと、シュヴィアは聞いている。
つまり。
「はい」
「……そうか」
つまり、今のアルマティスには、もう1つ、重大な記憶が抜け落ちているのだ。
「俺の両親は、死んでいるのだな」
はい、以外の答えを持たないシュヴィアに、アルマティスは「そうか」とだけ呟いた。




