【3】
検査も含め、吉海はしばらくの間入院することになった。
医者が言うには、
「栄養失調と貧血もあるので、一カ月は入院生活になると思います」
とのことだ。
会社に連絡をすると言い出した吉海に、
「何言ってるの」
と都は呆れ顔になる。
「連絡なら誠くんが、倒れた日に入れてくれてたよ。いい子ねぇ、あの子。しっかりしてるし。息子になってくれないかしら」
「それは、誠くんが迷惑でしょ」
苦笑しながら言い返すと、「え」とカーテンの奥から声があがった。
カツカツと靴音を響かせながら、当の誠が姿を見せた。
聞かれてたのか、と吉海は耳を赤くする。都は何事もなかったかのように、しれっとした表情で「あら誠くん。来てくれたのね」と話しかけた。
「あ、はい。え、それより今、名前……」
「名前?」
と親子二人して首をかしげる。その仕草がそっくりで遺伝を感じさせる。
「はじめて名前で呼ばれました」
と顔をほころばせる誠をまじまじと見つめ、
「誠くん、やっぱりお婿にこない?」と都は真顔でいう。
「ちょ、おかあさ……ッ!」
興奮した吉海はお腹を押さえて涙目になる。
「あらあら。だめよ、おとなしくしとかなきゃ」
わざとらしく頬に手を添える母親を恨めしそうに睨みながら、「誰のせいよっ」と吉海は呻く。
「あ、お父さんは明日来るそうよ。仕事が忙しすぎて、抜けだせないんですって」
母親の一言に、吉海は一瞬呼吸が止まったように感じた。
肺が乾燥してスカスカして、胃はグラグラ煮えてるんじゃないかと思うほど熱くなっていく。
吉海の異変を察した誠は、「都さん」と服の裾をつまむ。
都は軽く目を見はったものの、特に口を出すことなく腕時計に視線を落とす。
「……あら、もうこんな時間。二人の邪魔するわけにはいかないわね。じゃ」
と荷物を手早くまとめ、病室を出ていった。
室内に、衣擦れの音が響く。
「……わたし、そんなわかりやすい?」
「うん」
率直な感想に、吉海は「素直か」と眉じりを下げて笑う。
「何も聞かないの?」
笑みを浮かべたまま、吉海は指先をいじる。
「俺は、吉海さんにとっての部外者だよ」
「そっか」
再び、室内に静寂が落ちる。
開いた窓から、さわやかな風が入ってくる。吉海は、
「気持ちいいね」
と目を細める。陽が当たる顔の前に細い腕をかざしながら、
「時間、ある?」
と目だけを誠に向けながら尋ねた。
「今日は店、定休日なんで」
大丈夫ですよ、と誠は応える。
吉海は「そっか」とうなずき、かすかに震える声で言った。
「じゃ、ちょっとだけ付き合ってくれない?」
吉海はまだ万全な体調ではないため、車椅子での移動が義務付けられていた。
「もうすっかり春だよね」
木漏れ日を浴びながら、吉海は目を閉じる。
「明日はまた真冬みたいな気温になるそうですよ」
と言いながら、誠は病院近くの散歩道に沿って車椅子を押す。
「それは嫌だなぁ。あ、あそこのベンチにでも座ろう」
備え付けられているベンチを指し、吉海は頭だけ振り向かせる。
「車椅子押すの、ほんとうに大変じゃない?」
遠慮がちに上目遣いになる吉海に、
「平気ですよ」と誠は笑う。
ベンチのすぐ横に車椅子を並べ、「ここでいいですか」と声をかける。
「うん、ありがと。誠くんも座って」
促されるまま、誠はベンチの隅に腰を下ろす。
吉海は「何から話せばいいかな」と唸る。
「私、中学までこの辺に住んでたんだ」
想いを馳せるように、吉海は空を仰ぐ。
「あの時私は正義感が強くて、まぁ人からウザがられてたってことね。けど他の人から否定されても、両親は肯定してくれたから」
だから私は正義のヒーロー気取りだった、と吉海は声を落とす。
「煙たがられることもあったけど、でもやっぱり感謝されることも多くて。私調子乗ってたんだよなぁ」
持ってきていた水筒を傾け、付属のコップに白湯を注ぐ。
「私とその他大勢の人って、全員が全員違う思考を、感情を抱いてるってことをわかっていなかった。だから、一人の女の子の人生を変えてしまった」
白湯が容器の中でかすかに揺れる。
ふっと息を吐き、
「その子にとっての『最善』を、私は勝手に決めつけていたの」
とカップに口をつける。
誠は無言で手を組みなおした。
「この説明じゃよくわかんないよね」
と朗らかに笑い、
「年が明ける、ほんの数日前のことだったな。受験期で、私は遅くまで塾で勉強してた。その帰り道に、ちょっと変わった女の子に会ったの」
話しながら、吉海はカップを握る手に力を込めた。
「とても汚れていて、髪はぼさぼさ。しかもガリガリで、毎日ご飯食べてるのかなって感じだった。その子にね、話しかけたの。家に帰らないのかって。そしたら、遊んでるだけっていうの。明らかにお腹すかせてたし、お風呂しばらく入ってなさそうだしで、放っておけなかった。でも連れ帰ったら誘拐犯になっちゃうから。できることなんて思いつかなくて、とりあえずその子の話を聞いてた。そしたら」
頭を下げ、言葉を切る。
「殴られたり蹴とばされたりって、明らかに虐待されてた」
吉海は、ふと横を振り返る。
「どうしたの」
誠が、真っ青な顔色になっていた。
本人は自覚がないのか、気遣いからか、
「あ、平気。続けて」
と無理に笑う。
吉海は気にかけつつ「うん」と小さくうなずき、
「その子、笑顔で話すの。自分のお父さんとお母さんのこと。私、その子が無理して笑ってるんだと思ってた」
だから、と吉海は苦渋に満ちた声を発した。
「その子を警察に連れて行ったの。警察はその子を保護した。児童相談所も動いて、ここの地域ではかなり大事になった。私は、その子と面会する機会があって……なんの疑問も抱かず、感謝されるのかな、なんて思ったりして……でも」
長い爪が皮膚に食い込む。
胃がキリキリと痛くなる。
脳みそが揺れているように、視界がぐらぐらと定まらない。
吉海は、ぎゅっと目をつむった。
「余計なことしないでよ!!」
警官に見張られた部屋の中、少女は絶叫した。
「お父さんとお母さんと離れなきゃいけなくなったじゃない!ふざけんな!ふざけんな!!」
その子は、彼女の父と母と一緒に居られるだけで幸せだったのだ。
そんな幸せを、吉海は想像もできなかった。
「あんたと会わなきゃよかった!あんたは私の人生を変えたのよ!私の一番大切なものを奪ったの!!返せよ!私の家族、返せよ……ッ!」
少女は泣き叫んだ。
部屋にいた警官は、今にも掴みかからんとする少女を取り押さえ、何か言葉をかけていた。
だが、吉海の耳には届かなかった。
――ああ、取り返しのつかないことをしたんだ。
それだけが理解できた。
吉海は逃げるように、別の地域の高校を受験した。
話し終えるなり黙りこくった吉海に、
「しってるよ」
と組んだ手を見下ろしながら、誠は男性特有の少し低い声を出す。
「え?」
怪訝そうにする吉海に、
「実はその子には、年の離れた兄がいました」
誠は指先を自身に向ける。
「なんと、それは俺です」
誠の告白に、吉海は息を呑んだ。
「吉海さんが妹を警察に連れてってくれなかったら、俺たち兄妹は売られてたか死んでたと思うよ」
誠はそう言いながら右腕の袖をまくる。
皮膚に、痛々しい煙草による火傷の跡、切り傷が残っていた。
「夏でも長そでが手放せないんだよね。暑くてホント困る」
と笑う。
吉海は顔をゆがめる。
「……私は、その時気づいた。ヒーローなんかにはなれないって。私の一言で、行動で、誰かを深く傷つけてしまうんだって」
だったら、何もしない。したくない。吉海はその日、心に誓った。
――できるだけ周りの景色を無視して生きていこう。
吉海の良心は痛んだが、自分を守るためだと言い聞かせた。
そうしたら、助けを求めることを躊躇うようになった。
道端に落ちているごみ、いじめられている男子、けがをしている少女。全部を見て見ぬふりをしているのに、自分だけが助けを求めるなんて自分本位過ぎないか。
そう思うと、前に進むことなんかできなくなった。
茨が足に巻き付いて血を流そうと、それを取り除く術すべを持たない彼女は、いつか痛みを感じることができなくなってしまっていた。
悲鳴が聞こえなくなって、限界値がわからなくなって、血まみれになっても気づかない。
「自分がしたことが正しいか、わからなくなったんでしょ」
誠の一言に、吉海は拳を握りしめた。
「吉海さん忘れてない?吉海さんがヒーローごっこしてたときに、多くの人が笑顔になってたんだよ」
誠は「ごっこじゃなくて」と顔を近づける。
「ちゃんと、ヒーローだったんだよ」
ヒーローだなんて恥ずかしい単語を、真剣な表情で言ってのける。
真剣な瞳が、真摯な心が、吉海の心に響いて目を潤していく。
「何回、泣かせる気よ……」
目元をこする吉海にハンカチを差し出しながら、
「さあ?」
と誠は意地悪く笑う。
「吉海さんて、責任感強すぎるというか……なんていうか、極端だよね」
「わかってるよ」
むすっと口をとがらせる吉海に、誠は陽だまりのような笑みを向ける。
「吉海さんのそういうとこ、かわいくて好きだよ」
「そりゃ、どうも」
とそっけなく返したが、じわじわと耳が赤くなっていく。
「……ほんとこういうの苦手なの。だからお世辞でそういうのは言わないで」
と誠を振り返るが、誠は吉海の方を向いておらず、俯いて口元に手を当てていた。
その耳は、吉海と同じくらい赤くなっている。
「じ、自分で言っておいて照れないでよ……」
吉海の頬がさらに熱を帯びていく。
互いに顔を背けて押し黙った。
そんな甘い空気に満ちた空間を、生暖かい風が遠慮がちに通り抜けていった。