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♪ ふわっふわに泡立てた淡雪のようなメレンゲに、真白な小麦粉と丁寧に挽いて粉にしたエーメルチーズをふんわり混ぜて。
♪ 予め焼いておいたタルトレットケースに詰めましょう。
♪ フィリングの表面を均してオーブンに入れたら暫く待って、
♪ その間に蜂蜜と檸檬を合わせ練り上げて……
整えられているけれど小さなキッチンに可愛い歌声が響く。
小さな少女が歌声と供に可愛い手を動かし、歌の通りに手際よく材料を混ぜ合わせていく。
「あら? 」
棚の上に伸ばした小さな手が戸惑うようにさまようと同時に少女の口から出ていた鼻歌が止る。
「ねぇ、ケイト。
この棚にあった蜂蜜知らない? 」
振り返ると側に控えていた年若いメイドに訊いている。
「蜂蜜って、あのクマミツバチのですか? 」
少女の問いに全く心当たりがないと言いたそうにメイドのケイトは首を傾げた。
「それでしたら昨日、奥様がお持ちになりましたよ。
切らしてしまったので、お借りして行くと! 」
小さなオーブンの前にかがみこみ薪を調節していたキッチンメイドのモリーが声をあげた。
「またお母様なの? 」
少女は眉を寄せた。
「申し訳ございません。
直ぐに戻すと仰っていたものですから」
メイドの言うところの奥様の『直ぐに戻す』は正直充てにならない。
何しろその食材が旬になって手に入ったら『直ぐに』って意味だから。
「どうしよう? 」
少女は親指を口元に持ってゆくと軽く噛む。
「他の蜂蜜をお使いになったらいかがですか?
ほら、ハナミツバチのレンゲ蜜、モモミツバチの果実蜜なんかも合うと思いますよ」
ケイトが取り成すように言う。
「いやぁよ。
このチーズタルト、ケネスはあの蜂蜜でなくちゃ食べてくれないんだもん。
でも、明日のお茶会には絶対このお菓子じゃなきゃダメなの! 」
少女は口を尖らせる。
「判りますわ。王子様は好き嫌いが激しいお方ですものね。
でも、困りましたね。
今はシーズンオフですから、出入りの商人にお願いしても物があるかどうか」
ケイトも困惑顔を浮べた。
その時、窓から入ってきた一匹の蜂が鼻先を掠める。
「まぁ、刺されたら大変!
お嬢様、下がっていてくださいませ」
モリーが羽箒を振り蜂を追い出すと慌てて窓を閉める。
「今の、もしかしてクマミツバチ? 」
蜂から遠ざけるようにケイトの後ろに追いやられた少女はそのスカートの陰から訊く。
「ええ、きっと蜂蜜の匂いに寄って来たんでしょう。
このお邸のお庭にもたくさんいますからね」
メイドのその言葉に少女は目を輝かせる。
「ちょっと行ってくるね」
少女は言うと材料棚を離れる。
「あっ、お嬢様? 」
「すぐに戻るから、ケイトとモリーはそのタルト焼きあがったらオーブンから出しておいて!
くれぐれも焦がさないでね」
言いつけて庭に出る。
「お待ちください、お嬢様!
どこに行くおつもりですか? 」
少女付きのまだ若い従僕の少年が慌てて少女を追いかけて来た。
「決まってるじゃないレスター。
蜂蜜を集めに行くのよ」
足を止めることなく少女は庭の奥へ進んでゆく。
「ちょ、冗談じゃありませんよ。
蜂は巣に害を加えられると攻撃してくるんですよ。
もしお嬢様が…… 」
「もぅ、うるさい!
黙っていてよ、レスター。
でないとあんたなんか首よ! お父さまに言いつけてやるんだから」
少女は足を止めると、くるりと振り返り少年の顔を見上げて言い放つ。
ついで、間をおかずに一気に走り出した。
塀近くに整列したトピアリーの一つを前に少女は足を止める。
ぶーん。
軽い羽音を立てて一匹の蜂が少女の前を横切ってトピアリーの中へ舞い込んでゆく。
暫くするとまた一匹、その次には別の一匹がトピアリーの中から飛び出してきた。
「あった!
これね!
脅かさなければ大丈夫、なんでしょ」
「お嬢様、待ってください! 」
追いついてきた少年の声を耳に少女はトピアリーの中へその小さな手を突っ込んだ。
途端に植え込みの中から無数の蜂が羽ばたきだして、向かってきた。
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
……なんだろう、この夢。
なんか、随分リアルな夢だよね。
リアルなような気がするんだけど、ありえない。
ヨーロッパの時代映画のようなアンティークな家具や、お城のような建物。それから宮殿に付随しているような広大な庭園。
女の子の着ているドレスや髪型も、その時代に則している。
そんな映画を自分が見ている図、なら判るんだけど、その女の子自身に自分がなったような。
蜂に刺された、その痛みまで、リアルに感じていて、他人事のようじゃない。
それより、うーん、頬が痛い……
痛いって言うか、腫れぼったいっていうか、熱っぽい?
とにかく、じんじんと痛みが走って、寝てなんかいられないよぉ。
うめきながらぼんやりと目を開ける。
視界に広がるのは真紅の壁紙と、金色に塗りたくられた家具。
しかも唐草模様って言うの?
うねうねとうねった植物模様に猫の足を模した家具の足。
無駄に広い室内。
まるで、さっきまで見ていた夢の中の部屋と同じ。
……あたし、どこにいるんだろう?
こんな場所、知らない。
少なくとも、毎日寝起きしているアパートの一室じゃないし。
どこかのホテル?
いや、ここまで豪華な家具のホテルって今時あり?
ま、ないことはないんだろうけど、わたしの手に届く範疇じゃないな。
「お嬢様! 」
寝かされていたベッドの中で起き上がりぼんやり考えていると、突然ドアが開き呼びかけられた。
床まで届く黒い長いスカートに白いエプロン、簡単に結い上げたピンクの髪にレースのカチューシャ。
まるでマンガに出てくるメイドさんのような衣裳を纏った若い女。
年は十七・八ってところかな?
「だれ? 」
思わず口から出る言葉。
だって、この人初対面だし、何より『お嬢様』って何よ?
今一通りこの部屋見渡したけど、あたし以外に誰もいないし。
だけど、あたしお嬢様なんて身の上じゃない。
ごく普通の高校生。
「まぁ!
また一段と腫れましたねぇ。
ダメですよ、まだ冷やしていないと」
言いながらベッドの端に近寄ると、手を出してあたしを横にして持ってきた冷たい布を頬に当ててくれる。
ひんやりして気持ちがいいんだけど、この人の手、なんだかやたら大きくない?
手だけじゃなくて躯も。
って言うか、ベッドもお部屋も家具も無駄に大きすぎっ。
なんなんだろう?
このサイズ。
「まだ、痛みますよね。
痛み止めの軟膏、もう一度塗っておきましょうね」
ベッドサイドに置かれた小さな容器を取り上げると中からクリームみたいなものを指で掬ってあたしの頬に近づける。
「自分でやるから」
たかが顔、自分の手が届く位置に薬を塗るのに人の手を借りるのが気恥ずかしくて、容器を受け取ろうと差し出した自分の手がやけに小さい?
それもただ小さいんじゃなくて、白くきめの整った肌にふっくらしてピンク色の小さな指の爪は薄い、大人の手と言うより子供、しかも幼児の手みたい。
ん? 幼児?
……まさか。
とは思うけど、それなら目の前の女性や部屋が全部サイズが大きく見える説明がつく。
「あ、お嬢様? 」
あたしはベッドから飛び降りると部屋の片隅に見えた鏡に向かう。
「何、これ…… 」
鏡に写っていたのは、紫がかった黒い巻き毛に青紫の瞳、白い肌に異様に膨れた真っ赤な頬を持つ五六歳の子供。
「大丈夫ですよ、お嬢様。
蜂に刺されて腫れているだけですからね。
直ぐによくなります」
見慣れない姿に呆然としていると、先ほどの女性が駆け寄ってきて取り成すように言った。
きっと、この異様に腫れた頬にびっくりしたんだと思ったんだろうな。
だけど、あたしの驚いたのはそこじゃない。
あたしの髪は真っ黒で、瞳もこげ茶、肌は黄色の黄色人種。
なのに目の前の子供は、白い肌や紫の瞳はあるにしても、あたしの常識じゃ世界中さがしてもありえない紫の髪。
何が、どうなって……
「さぁさ、ベッドに戻って下さい。
蜂毒のせいで熱も出ているんです。
もう暫く安静にしていませんと」
メイドの恰好をした女性に促されるままにあたしはベッドに戻る。
えっと……
確か、親友から勧められたソシャゲの三度目をクリアしたあの日。
寝坊して、登校途中で近道しようと横切った公園で、突っかかった立ち木の根元から大スズメバチが何匹も飛び出してきて、無数に刺されて。
そこまでは記憶があるんだけど。
気がついたらこの状態。
蜂に刺されたのは変わらないけど、躯がちっちゃくなっていた。
蜂に刺されて躯が小さくなるなんて話聞いたこともない。
それにこの環境。
広い部屋と、豪華な家具にメイドさん。
どう見てもお金持ちのお嬢様か、貴族かお姫様の部屋みたいなんだけど。
異世界転送? それとも転生?
躯が小さくなっただけじゃなくて、人種も完全に違っているみたいだから転生のほうかな。
転生にしたらこの世界の記憶がないんだけど。
見たところ五歳児くらいだから、まぁ妥当?
「ロレッタ!
大丈夫かっ! 」
突然ドアが開くと三十台前半くらいの身なりのいい男性が飛び込んできた。
「蜂に刺されたって?
可愛い顔が台無しじゃないか。
従者やメイドは何をしていたんだ?
止めに入るのが仕事だろう。
よくも私の可愛いロレッタの顔をこんなに腫らしてまだここにいる?
クビだ、クビ!
速攻で暇を出せ! 」
なんだか知らないけど一人で興奮して盛り上がっている。
その言葉に傍らに立っていたさっきのメイドの顔が青ざめる。
それだけじゃなくて、傍目でもはっきりとわかる程に震えている。
「止めて! お父さま」
不意にあたしの口から意図しない言葉が飛び出した。
ってことはこの人がこの子-今のあたし-の父親ってこと?
「ケイトも、レスターも悪くないの。
わたしが勝手に蜂蜜採りに行ったの!
レスターだってちゃんと止めてくれたんだもん。
それだけじゃなくて怒った蜂さんから守ってくれたのよ」
なんか、記憶はないんだけど、まるで知っていることのようにぽんぽんと口から言葉が飛び出す。
それもなんだか五歳児とは思えないようなやけに上品な言葉使いで。
「そういえば、レスターは? 」
男の視線が動いて部屋の中を見渡す。
「はい、お嬢様を蜂から庇ったせいで全身十数か所刺されまして。
今休ませております。
もしお嬢様お一人でしたら、この程度ではすまなかったかと」
おそるおそるといった感じでメイドが説明をはじめた。
「そ、そうか? 」
あれだけ激昂していた男の様子が徐々に収まってくる。
「勘違いして悪かった、礼を言わなくては。
医者にはみせたのか? 」
落ち着いてきたら感情のままに叫んだ自分を恥じたのか、今度は少し血の気の引いた顔色で立ち上がる。
「では、これで。
お前の怪我が大したことなくて安心したよ。
父さまはまだ仕事が残っているから行くけど。
暫くは大人しく寝ているんだぞ。
くれぐれもキッチンに立って何か作ろうなんてしないこと。
いいね? 」
言い置いて、男は部屋を出て行った。