7. お出掛け
熱い。
喉の奥が熱い。
目が眩むほど明るいのに、周りがよく見えない。
分からない。手は、足は、動いているだろうか。
行かないと。
早く行かないと。
役に立たなければ、私は役に立たなければいけない。
ああ、ああ、良かった、見つけた。
もう大丈夫だ、人間なら人間がきっと、なんとかしてくれるはずだ。
そう思っていた。
そんなことはなかった。
私が連れて帰ったそれは、もう何か分からなくなっていた。
『役立たず』
私は不快なアラームの音で目を覚ました。
気づかなかったが、どうやらずっと鳴っていたようだ。
このアラームは目覚まし時計のものではない。担当職員からの呼び出しだ。私の部屋は壁が厚く、周囲には物置しかないため、反応があるまで鳴らし続けられるのだ。
嫌な夢を見た。何故この音で起きられなかったのだろう。早く覚めてくれたら良かった。忘れたことなんてないのだから、何も最後まで見なくたって、いいのに。
ふと、昨日食べた加熱調理されたものを思い出した。あの、温かいものが喉を通る不思議な感覚。もう一度経験してみたいと思ってしまったあの感覚。早く忘れなければ。私が覚えていていいのは、きっと、何度も夢に見る、熱い空気に喉が焼かれる感覚だけなのだ。
顔を洗おうと洗面台の前に立つと、急に込み上げてきた吐き気を堪えきれずに胃の中身を全て吐き出した。透明な液体がずるずると排水溝へ吸い込まれていく。私はそれを水で流すと、口を濯いで急いで支度をし、急かすようなアラームの鳴る部屋から逃げ出した。
「遅せーじゃん」
研究室へ向かうと、担当職員と一緒に見慣れない男が居た。
研究員らしき白衣を着た彼は、不機嫌そうな表情でこちらを睨んでいる。
「申し訳ありません、予定30分前からアラームを鳴らしていたのですが……」
「いやいやお前さ、そういう意地悪するから起きて来ないんだろ。 俺なら起きない」
研究員らしき男は担当職員に吐き捨てるようにそう告げると、立ち上がりこちらに近付いて来る。背が高い。なんとなくA-1042番を思い出したが、A-1042番はもっと背が高かったな、と思った。
若そうに見えるが担当職員よりも立場が上なのだろうか。身を屈めてこちらの顔を覗き込んでくる。視線が怖いので目を逸らして下を向いた。
すると顎、というか頬を片手で挟むように掴まれて強制的に目を合わせられる。今にも殴られそうだ。
「……死体みてーなツラしやがって。 ご飯ちゃんと食ってんの? お前らこんなヒョロっちいガキ使えんのか? 管理してねぇだろ」
男はそう言うと掴んでいた手を離して、頭をぐしゃぐしゃとしてくる。
何だ何だ。怖い。
「まいっか、他のクソガキ共も居るし。 よーし、今日はお兄さんと一緒に雑用するぞ、Z-0046番」
雑用?
この人と?何を?
「いいところに連れてってやるよ」
私は十分な説明も与えられず、男にフードを掴まれて連行された。
「あー! 遅いですよ、サカキ先生〜!」
聞き覚えのある声だ。
白い服が1人、それ以外の色が5人。
「あ! 0046番くん、おはよう」
リナリアさんと、キメラ兵だ。
できればもう会いたくないと思っていたのに、さっそく遭遇してしまった。こちらに向かって笑顔で手を振っている。なんだか出会って以来遭遇率が高くないだろうか。気のせいか。
私は男に連行されて研究棟の裏に来ていた。今まで何度か乗せられたことがある、大きい車が停めてある。今日はどこへ行くのだろう。
ところでそろそろ離してくれないだろうか……と思っていたら、突然フードを掴んでいた手を離されてリナリアさんとキメラ兵集団の前に放り出された。
リナリアさんが慌てて駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫? ちょっと何するんですか!」
「ぎゃくたいだ!」
「サカキ先生酷い!」
「最低〜!」
担当職員に対してはあんなに偉そうだったのに、この場に居る全員にあまり敬意を感じない口調で責められている……。どういう立場なのだろう。仲が良いのだろうか。
「うるせえなーもう……ほら、立て立て」
私が立ち上がろうと身体を起こすと、後ろから男に両脇を捕まれずるずると立たされた。
「お前本っ当に無抵抗だな……死体かよ。 いいか、コイツらが今日お前と一緒にお仕事する連中だ。 全員じゃないけどな。ほれ、元気よく自己紹介は?」
背中をばしばしと叩かれる。
じ、自己紹介?元気よく……?
どうすればいいか分からず、彼の方をちらりと窺う。相変わらず不機嫌そうな表情でこちらを見ていた。怖い。
思わず顔を背けてしまい、そのまま地面を見つめた。どうすればいいのだろう。
「サカキ先生、意地悪しないでください……」
リナリアさんが私の様子を見兼ねてか、隣にやってきて肩に手を置いた。
「はい、みんないいかな? この子は今日お手伝いしてくれる、Z-0046番くんです。 お喋りとかあんまり得意じゃないから、グイグイいかないようにね……サカキ先生もですよ!」
「なんで俺も」
リナリアさんがキメラ兵達に向かってそう言うと、キメラ兵達は声を揃えて返事をした。
リナリアさんはそれを見て満足げに頷くと、ぐしゃぐしゃになっていた髪を梳くように私の頭に軽く触れた。
「だって1番遠慮しないタイプなんですもん……ごめんね、怖がらなくていいんだよ。 サカキ先生、口調も顔も怖いけど、割と子どもとキメラ兵には優しいから……」
「なんだと、どっからどう見ても優しくてカッコイイお兄さんだろうが!」
どう見ても優しくは思えない口調でそう言うと、男……サカキと呼ばれているこの男はリナリアさんから私を引き剥がし、人質を取るように片腕で首を挟んできた。苦しい。
それを見たキメラ兵達が聞こえる程度の声でコソコソと喋り始める。
「いや全然優しく見えないし……」
「しっ! ほら先生目悪いから……」
「ああ〜……」
「うるっせえぞお前ら! 今日は誰がついて来るか決めたのか? ん?」
サカキはキメラ兵達に向かって怒鳴ると、キメラ兵達は楽しげに話し合いを始めた。
「私行く!」
「じゃんけん〜」
「え〜、こないだ行ったじゃん!」
「……車のりたい」
「何人だっけ」
こんなに統率の取れない集団があるのか。
そう言えば、よく見ると全体的に幼い感じがする。現在の規定では任務に出せるのは18歳以上とされているはずだが、それよりは年齢が低そうだ。訓練兵だろうか。ちなみに私は職員の指示に反する危険性が無いと判断された為、その規定は適用されていない。
「お前らさぁ……決めておけって毎回言ってるよな!」
苛立ってきたのか首に回した腕に力が入る。く、苦しい……。
「はいはい、決まらないなら私が決めちゃいますよ〜!」
リナリアさんがサカキから私を引き剥がそうとしながらキメラ兵達に声をかける。
「モルトとラジーは前に行ったからお留守番! フォルは今月まだ行ってないよね? シュピカは宿題まだ出してないから私と一緒にやりましょう。 よし、フォルとグリッタの2人で決定! はい決まりー!」
リナリアさんが早口でそう言うと、3人が不満そうにその場に残り、犬らしきキメラの少年が車の近くに駆け寄って行く。もう1人の何か分からないが全体的に白いキメラの少女はこちらに歩いてきて、サカキから強引に私を引き剥がした。
「なに、ぐり子。 ヤキモチか」
「妬いてないですし。 もう、サカキが締め上げるからなんだか、こう、顔色が悪いわ」
「元々こんなだろ」
「元々こんなだったらもっと丁重に扱ってください!」
歳下と思われる女性2人に責められている……。白いキメラは丁寧語すら使っていない。ぐり……何だろう。リナリアさんが呼んだ名前とも何だか違う気がする。呼び名がたくさんあるのだろうか。職員に敬語を使わず、呼び名がたくさんある……もしかしてとても優秀な個体なのだろうか。
サカキが2人に責められている様子を黙って見つめていると、車の周りを尻尾を振りながらうろついていた犬らしきキメラが近寄ってきた。私の周りを1周してから正面に立ち、手を差し伸べてくる。
これはもしかして、ハウンドがよくやらされている「お手」だろうか。もしやあの行為は挨拶だったのか。いや、ブリーダーとの上下関係を示す行為なのかもしれない。つまり私に対し「自分の方が立場が上である」と示しているのでは。私は敵意が無いことと立場を弁えていることを示すために、目を合わせないようにして差し出された手にそっと手を置いた。
「え……?」
え、と言われてしまった。え、違うのか。
思わず顔を上げると、無表情な少年と目が合った。
「え、握手……。 よろしく…………」
「あ、あくしゅ……?」
「握手……。 フォーマルハウト、カニスキメラ、A-1059番。 フォルでいい」
よく分からないが一瞬手を握られ、すぐに離された。
「……名前。 コールネーム、なんていうの」
私は謎の挨拶行為と突然の自己紹介に驚き声を出すことができなかったため、静かに首を横に振った。カニスキメラは必ず自己紹介をしなければならないという教育を受けているのだろうか。
A-1059番は私を見て首を傾げた。
「……? なんて呼んだら……」
コールネームは無い、Z-0046番でいいと言えばいいだけなのだが、何故か声が詰まってしまった。何故だろう。
「よし、そろそろ行くぞ。 車乗れ」
いつの間にか近くに来ていたサカキが私とA-1059番の頭を掴んできた。
頭は痛いがとりあえず助かった。
A-1059番は大人しく従い、車のドアを開けた。私も後に続こうとすると、サカキにフードを引っ張られる。
「お前は助手席な。 助手だから」
助手席ならこの間乗ったばかりだが。
助手、とは?
私が首を傾げると、サカキは凶悪そうな顔で微笑んだ。
「今日のお仕事は瘴気測定指定区域の瘴気濃度調査だ。 フォルとぐり子は周囲の警戒、お前は荷物を持って俺と一緒に測定しような?」
瘴気濃度調査。
どうしてそれに私を。
嫌な予感がする。
今まで何度も、その調査なら、いや、私は、どうして私を、まさか。
サカキは助手席のドアを開けて私を押し込み、シートベルトを着け、ドアを閉めた。
白いキメラを後部座席に座らせると、運転席に乗り込む。
私はエンジンをかけるサカキの方を見た。
その顔はもう笑っていなかった。