3. Don't bite
『お礼を言いたかったんですが、先輩に聞いても所属が分からなくて……』
一般職員、それに新人とあれば、分からなくて当然だ。
Z-0046番。
本来なら処分されているはずだった。
瘴気の蔓延する環境下における人類の生存可能調査研究は政府の判断により中止を余儀なくされた。
同研究により生み出された個体は全て廃棄されるはずだったのに。
私は小さな紙を取り出した。
名前が書いてある。
アリカ・リナリア
声に出して読み上げる。
名前。
私の名前は。
◇
「ごめんね、最近人手が足りなくて。来てくれて助かったよ」
目の前の男が爽やかな笑顔で話し掛けてくる。かなり背が高いが、手脚が長く、大柄という感じではない。かと言って細長い訳でも無い。そしてなんだか見覚えのあるような印象を受ける。
黙って見上げていると、男は首を傾げて微笑んだ。
「うん?」
首を傾げると同時に、耳がぱたぱたと動いた。
耳……?耳が動いた……?
よく見ると少し大きめの耳はふさふさとした毛に覆われている。
そうか。分かった。
「犬……」
思わず小声で呟いた。
「そうだよ。僕は犬の……正確にはハウンドのキメラと狼のキメラから造られたんだ」
驚いたことに聞こえていたらしい。
私はマスク越しで無くともまともに声を出せない上に、彼とは結構な身長差がある。
耳がいいのか。犬は嗅覚が優れているとは聞いたが、耳もいいのか。そしてハウンドは分かるがスコルとは一体。
後で訊いてみよう。
今日私は、珍しく日中から外に出ていた。
ある種類のレムレスが繁殖期らしく、他のキメラ兵と一緒に駆除してくるようにと言われて来たのだ。
繁殖期は特に気性が荒く、駆除担当兵の負傷者が多いらしい。そういう訳で私は駆り出されたのである。
「よし、じゃあさっそく行こうか。あ、自己紹介がまだだったね。A-1042番、コールネームはサジット。よろしくね」
これから駆除対象の縄張りに向かうというのに、こちらを向いて呑気に自己紹介している。余裕があるのだろうか。そうであればぜひ頼りたい。何せ私は余っているから使われているだけで戦闘能力は一般人並みなのだ。
ところで、今日は何が駆除対象なのだろう。
突然A-1042番が立ち止まった。
「……気をつけて。成体だ。まだこちらには気づいてない」
A-1042番は私を後ろ手で制し、体制を低くしてある方向を睨んでいる。彼が見据える方を見ると、其処に居たのは大きな……
茶色くて、角が大きな細長い牛のような……
「鹿だ」
鹿だそうだ。
鹿というのか。角が凄いと思った。枝みたいだ。体高は3メートルほどありそうだ。
「衝突したら車の方が壊れるくらい丈夫で、今月に入ってもう5人が突進されたり踏まれたりして重傷を負っているらしい……普通の人間なら即死だ。なるべく横か上から近づいて素早く息の根を止めよう」
そんなことを言われても。
こちらに視線を寄越したA-1042番を、そんなことを言われてもな顔で見つめ返す。
「大丈夫、作戦を考えたんだ」
さすが犬のキメラ、やはり犬は賢いのか。
山に入ってからも随分余裕を持っていたし、この人はとても頼りになるようだ。
いつも不足人員の代わりとして任務に参加しても単独行動しかしてこなかったため、誰かと一緒に行動するのは初めてでとても不安だったが、作戦を考えていてくれたなら安心だ。よし、囮でも何にでもなろう。
さて、どんな作戦だろうか。
私は期待を込めてA-1042番を見上げた。
彼は神妙な面持ちで口を開いた。
「まず、どっちかが仕留めに行ってどっちかがここで待ってる。失敗したら待ってる方が回収して逃げよう」
……。
…………。
…………作戦?
なにかこう、もっと具体的な指示があるのかと……。
「どっちが行く?じゃんけんでいい?」
神妙な面持ちのまま言われた。
私は首を振った。
じゃんけんてなんだ。
「……あの、体格差が」
「体格差?」
A-1042番がきょとんとした顔で首を傾げる。私は身振り手振りしながら何とか伝えようとした。簡単に「回収する」などと言うが、私は彼を抱えて逃げられる気がしない。
「……失敗したら、運ぶの、体格差が……」
「……ああ、確かに!僕は重いから運ぶのが難しいかもしれないね。君は賢いな」
それは賢いとは言わないし、貴方は思ったほど賢くないのかもしれない……。
「……私が行きます」
私は支給品の刃物に手をかけ、目標付近に安全に近づけるルートを考える。
「気をつけてね。大丈夫!失敗しても骨は拾ってあげるよ」
「……」
後始末はしてやる、という意味なのかもしれないが、なんだかその言い方だと不穏な感じがする。
さて、どうやって近づいたらいいものか。
私はこの……鹿?鹿のレムレスを、今日初めて見たのだ。どういう動きをするのかが分からない。眺めていると、豪快に木の皮を剥がして食べ始めた。怖い。
助けを求めるように振り返ると、A-1042番は「君ならできる」と言わんばかりに自信に満ちた笑顔で親指を立ててきた。そうではなくて。
なんだか頼りにならないような気がするので、私は目標が食事に夢中になっている隙を狙うことにした。
音を立てないよう、ゆっくりと距離を詰める。
近づけば近づくほどその大きさがよく分かる。これに蹴られでもしたらひとたまりもないだろう。しかし私はその程度では死なないので、いつも通り捨て身で行くつもりだ。
狙うならばやはり顎、頸椎か。刃が通ればいいのだが。
ある程度の距離に近づいた。
ここから一気に距離を縮めて――
その時。
木の影から何かが現れて、それは私に衝突した。
私の身体が吹き飛ぶと同時に、それも地面に転がる。というか、驚いて転んだようだ。
鹿の、小さいやつだ。
子供だろうか。大物に夢中になりすぎて気づかなかった。まあ、この個体も十分大きいのだが。
子供の鹿は慌てて起き上がり逃げていった。攻撃ではなく、たまたま通りかかっただけのようだ。私も慌てて立ち上がるが、少し遅かった。
私の身体が再び吹き飛んだ。
「Z君!!」
A-1042番の声がした。
Z君てなんだ。
私は蹴り飛ばされた流れでそのまま樹に叩きつけられた。肋が粉々になっていそうだ。咳込むと同時に口の中に血の味が広がった。内臓もどうかしていそうだ。
既に走り出していたA-1042番は、凄い速さで私の元に駆けつけると、私の身体を拾い上げ小脇に抱えて目標から距離を取った。やはり犬は凄いのか……。
「ふぅ……子供がいたね」
「…………」
はい。いましたね。
「普通なら人に気づけば逃げるって聞いてたけど……見て、まだこっちを見てる。ここ数日キメラ兵に追い回されてたせいで警戒してるみたいだ。僕らを仕留める気だぞ」
A-1042番はこちらに向かい頭を下げる鹿を見て、あれはたしか威嚇のポーズだね、と真似しながら呟き、私を地面に下ろした。
「とりあえず子供は放っておこう。襲ってこないなら当分は追い払うだけで大丈夫だ。後で始末する。今日はあの1頭だけでも駆除して帰ろうか」
「……どうしたら」
「よぅし、分かったぞ」
A-1042番は再び神妙な面持ちで。
正直あまり期待できないが……いや、今度こそ何かいい案があるのかもしれない。もともと彼は優秀だと聞いていた。しかも犬だ。猟犬のキメラである。猟犬であれば野生動物には強いに決まっている。
私は期待を込めて見上げ
「紐でこう……ギュッとして動きを止めて、その隙に急所をズバッとしよう!」
……。
…………。
……何て?
というか、紐があるなら最初からそうすればいいのでは。
「……どうやって縛ったらいいと思う?」
それは私が聞きたかった。
「ひも、とは……どのような」
「ほら、あっちにいっぱいかかってるよ」
私物ではないらしい。
そうか、今見つけて思いついたのか。
私は少し安心して、A-1042番が指差した方向を見た。
……防獣ネットだった。
管理番号:A-c-1042
登録名:サジタリウス
年齢:23
性別:雄
種族:カニスキメラ(ハウンド異種交配)
繁殖者:アンナ・N・カエルム
父:A-c-1009 ハウンド交配種
母:A-c-1013 スコラ交配種
――研究棟Aカニスキメラ科登録情報より