1. 餌
「Z-0046番、大至急研究棟A1階東側まで向かってください。女性職員の保護と脱走した実験動物の処分をお願いします」
警報が鳴り響く中、ちょっとゴミ出しておいて、とでも言うような落ち着いた口調でそう告げると、職員はこちらの返答を待たずに通話を切った。
私の扱いはそんなものである。
ここでの私の立場は、今から処分しに行く実験動物と同列だ。必要な内は使われて要らなくなれば処分される。当然どんな新人職員よりも立場は下な訳で、しかし自分よりもか弱い人間は保護しなければならない。
今日は偶然研究棟Aに用事で訪れていたため、突然の激しい物音と職員の悲鳴を聞いて既に現場へ向かっていた。速やかに指示を実行できて何よりだ。
研究棟の地下にはそれぞれの棟で管理する実験動物の飼育スペースがある。
研究棟Aで管理しているのはイヌ科の動物だ。使役犬から実験用まで、カテゴリごとにスペースを区切られて飼育されている。実験用は特に、気性が荒い個体が檻を破壊して脱走することがよくあるらしい。
飼育されているハウンドは従順な個体が多いが、暴れられれば人間の手に負える大きさではない。職員の手に負えない個体は処分しなければならないのだ。
なんとも身勝手である。
しかしそれが此処のルールだ。此処で造られたからには従うしかない。
しばらく廊下を進むと、床に血痕が続いているのに気がついた。地下からの非常階段から続いており、ところどころ毛が混ざっている。
足跡の向きからして、この血痕は処分対象のものだろう。檻や扉を破る際に牙や爪が傷ついてしまったのか。
足跡を辿って着いた先は資料室だった。
資料室のドアは開いており、入口付近だけ少し明かりがついていた。
職員が資料を片付けに入っていたところにたまたま処分対象が逃げ込んだということだろうか。
私は中に職員がいないか確認するべく、声を出そうと息を吸い込んだ。
声を出すのは苦手である。
普段喋る機会が与えられていないせいで、最近は小さな声もまともに出せなくなってしまった。
喋り方を忘れてしまった私は、なにやら失敗したらしく激しく咳き込んだ。
「あ……」
どこかで小さな声がした。
「だ、誰ですか? 大丈夫ですか……?」
女性の声だ。
保護しに来たのに何故か心配されてしまった。
割と高い位置から聞こえた気がする。棚の上にでも避難しているのだろうか。
資料室の奥の方は薄暗く、視力が人並み以下の私には見つけるのが困難である。
仕方がない、先ずは処分対象を探そう。
いや。
探さなくてもそこに居た。
女性職員が小さく息を飲む音が聞こえた。
暗闇の奥から、黒い大きな塊がこちらを見ている。微かに唸り声を上げながらこちらに近づいてくる。
獣の臭いがする。
私は静かに支給品の刃物を鞘から引き抜き、そして背を向けて廊下へと逃げ出した。
処分対象が勢い良く追いかけてくる。
そういえば研究員が使役犬のハウンドを敷地内のスペースで走らせているところを見たことがある。身体が大きな分、かなりの運動が必要らしい。
当然ながら直ぐに距離を詰められたが、少し走っただけでも疲れているように見える。きっと外に出してもらったことなど無いのだろう。実験動物はそういうものだ。
処分対象は私に追いつくなり腕に噛み付いてきた。太い牙が肉に深く突き刺さり激痛が走る。そのまま彼は私をあっさりと引き摺り倒し前足で押さえ付け、腕を噛みちぎろうと首を振る。前足の爪が胸部に食い込み、肋が軋む音がする。
腹が減っていたのだろう。処分が決まった実験動物は食事を与えられない。
下敷きになったままぼんやりとその光景を眺めていると、処分対象は腕を噛みちぎるのを諦めてその場で私の腕を食べ始めた。
二の腕の辺りの肉を小さく引きちぎっている。
私は彼が落ち着いて食事できるように、声を押し殺しゆっくりと呼吸を整えた。
出血と共に徐々に体温が奪われていく中、少しベタついた硬い毛の温かさを感じる。
殺されかけているにも関わらず謎の安心感を得てしまう。なるほど、研究棟Aが人気なわけだ。
視界の全面を毛で覆われることなどこの先無いのだろうな、などと考えながら、しばらくの間食事する処分対象を見届け、そして、空いた手で刃物を持ち直し、首に回して素早く横に引いた。
耳についたタグが目に入った。
Z-1058。
ああ、私と同じ失敗作だったのか。
警報はもう止んでいる。
私は辛うじて骨で繋がっている腕を押さえながら、重い足取りで資料室に戻って行った。
よく見えないので奥の方の電気を付ける。
すると小さく悲鳴が聞こえた。
だいたい声が聞こえたと思われるあたりに向かって声をかける。
「……終わりまし……」
割と大きな声を出したつもりだったが、喉がつっかえて再び咳き込んでしまった。
「あ、ありがとうございます……!」
割と大きな声が返ってきた。
声が聞こえた方に向かうと、女性職員は壁際の本棚の上に縮こまっていた。
彼女は私を見るなり慌てて降りてこようとする。
「え? あ、大変……!」
1番上は台が無ければ手が届かないくらいの高さである。棚に足をかけて登るならまだしも、そこから降りるのは危険だ。
案の定、半分くらいの段で足を滑らせた彼女をなんとか受け止める。
衝撃で思わず声が出そうになったがなんとか堪え、彼女を支えて立たせてやる。
彼女の白衣は血塗れになってしまった。
この制服は確か医療補助員だったか。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい……あの、応急処置しますね」
「え……」
「え?」
「…………」
少し困ったような顔で見上げる彼女と目が合った。
若い、というより少し幼い顔をしている。髪の毛から指先まで全てが柔らかそうで、肌の色が眩しい。
若い女性を至近距離で見たことなどなかったが、女性は皆こういうものなのだろうか。別の生き物のように見えて、私のような人間が同じ空気を吸っていることに罪悪感のようなものを感じる。
「……大丈夫です」
「え、でも」
「片付け、あるので……」
私は素早く後ずさり、そのまま逃げ出した。
何故だか動悸が収まらなかった。