狼谷
ローファンタジーになるのかわかりませんが、現実世界ではあり得ないことを書いたので、こちらに分類しました。
短編というには少し長いですが、よかったら読んで見てください。
狼谷
「お先に失礼します」
「おう、お疲れさん」
次々と帰って行く後輩たちに挨拶を返す。事務所内に人がいなくなると、途端にエアコンのモーター音がうるさく感じられる。額に汗が滲み、シャツがベトつく。今年の夏はエルニーニョの影響で、例年より平均して三度も気温が上がると言っていた。だが、事務所が冷えないのはそのせいばかりではない。
私はエアコンの前に立つと、会社の規定を無視して温度を一番低く設定した。途端にエアコンのモーターは、騒音といってもよいくらいの唸り声を上げ、本体もそれに合わせてガタガタと震える。老体に無茶をさせるなと、エアコンが抗議しているようだった。
生温い強風が顔にぶつかる。全体に黄ばんだ筐体に触れると、ザラザラとした劣化したプラスチック独特の感触が指先に残った。積年の汚れが付着したような気がして、ズボンで指先を拭う。以前、勤続年数十二年のベテラン事務員藤井さんに訊いたところ、自分が勤め始めた頃には既にここにあったと聞いた。この年老いたエアコンは、少なくとも私の倍はここに勤めていることになる。冷えるわけがない。
エアコンの前で少しの間涼んだ後、自分の席に戻り、机から企画書類の束を取り出す。これといって特に残ってやらなければならないほどの仕事ではなかった。自身に対して忙しいのだと言い訳を作りたかっただけなのかもしれない。
何度も読み返した書類、重箱の隅をつつくようにミスを探してひたすら読み返していく。その行為に意味はない。ただ、時間を潰すためだけの無駄な作業にすぎない。
母から電話があったのは、事務所の時計が午後十時を回る頃だった。ポケットの中で携帯電話が震える。それは、私の心に僅かながらのさざ波を呼び起こした。
青白い液晶画面には、母の名が浮かんでいる。電話の内容は聞かなくとも分かった、帰省の催促だろう。
「今年の盆は帰って来られるん?」
電話に出るなり母は言った。思った通りの台詞に口元が少し歪む。目の前の書類の字面を目で追いかけながら、私は適当に応える。頭には何も入ってこない。
「いや、ちょっと無理かもしらん。仕事が立て込んでて」
つき慣れた嘘だった。そこまでしてやらなければならない仕事はない。
「あんた、去年もその前の年も、そう言うて帰ってこんかったがな。たまには実家に帰って、親孝行の一つでもせられぇ。お父さんも、和夫は今年帰って来るんか言うてうるさいんじゃけぇ、ええ加減にして帰ってこられぇよ」
「――分かったよ。考えておくよ。それじゃあまだ仕事が残ってるから切るよ」
少し考えたように一拍置いた後、私は一息に言ってそのまま電話を切った。電話口では母がまだ何かを言っていたが、言っている内容は聞かなくともわかる。何度となく繰り返されたやり取りだ。
――実家は岡山県と兵庫県に挟まれた、中途半端な山間にあった。だからといって交通機関が発達していないかといえばそうでもなく、山を下りて少し行けば、瀬戸内海に面したJR線の駅もある。帰ろうと思えばいつでも帰れた。それなのに私は何かに付けて言い訳をして、今まで帰ることをできるだけ避けてきた、拒んできた。
携帯電話をポケットにしまうと、もう仕事をする気にはなれず、引っ張り出した書類を片付け帰り支度を始める。黄ばんだ老体の電源を落とすとそれはそれで気に入らないのか、不機嫌な唸り声を上げた。今年の気温上昇次第では買い換えもあり得る。私は哀れな視線を古ぼけたエアコンに送った。
事務所が入っているテナントを出ると、周りのビルはどこの窓にも照明がついていて、「なんだもう帰るのか、何もかもがお前は中途半端だな」と、訴えかけてきているような気がした。
「うるさいよ」
誰もいないビルの隙間に声を投げつけると、生ゴミでも漁っていたのだろう、猫が私の声に驚き、警戒するようにこちらを見ていた。
何か食べ物はないかポケットや鞄を探ると、昼食代わりに買った惣菜パンの残りを見つけた。猫にそれを与えようと思いビルの隙間を見ると、すでに猫の姿はなかった。手の中にある潰れた惣菜パンを見る。この暑さではもう腐っているかもしれない。私は通りにあるごみ箱に、惣菜パンを投げ入れた。
誰かが言った、友を見捨てる奴は最低だと。誰かが言った、約束を破る奴は最低だと。
確かにそんな奴は最低だと思う。ただそんな奴を見つけても私はそのことを注意したりはしない。なぜなら、この私こそがその最低な奴に他ならないからだ。友を見捨てる、友との約束を破る、それがどういうことかを考える。そして最後にはいつも、言い訳のようにこう考えて自分自身を無理矢理納得させるのだ。
状況によっては見捨てるつもりはなくとも、結果的には見捨てざるを得ないこともあるだろう。約束は守るつもりであっても、その約束自体を忘れてしまうこともあるだろう。最低な自分を正当化させるための言い訳だ。
だが所詮言い訳は言い訳でしかない。そんな考えに心から納得するはずもなく、仕事などに没頭することで、これまでの自分をごまかしてきた。
私は嘗て友を見捨てた。いや、見捨てるつもりはなかったのだが、結果的には見捨てることになった。そして友と交わした約束を忘れようと努力してきた。
友を見捨てた――。交わした約束を反故にした――。
全身の体力を奪うような暑いこの時期になると、必ずそのことを思い出す。そして思い出した途端に胸が苦しくなり、どうしようもない自責の念に苛まれる。あの時自分がもう少し強かったら、もう少し大きかったら、そしてもっと友を強く諌める勇気があったなら、と。
もしこの世に、タイムマシーンなる物があったとしたら、間違いなく私はあの日のあの時に舞い戻り、まだ幼い自分たちに止めておけと言ったことだろう。だがそんなことはできやしないとアインシュタインも言っている。考えるだけ無駄なことだ。
家に帰る道すがら、コンビニに立ち寄り弁当と缶ビールを買った。日中太陽に晒され焼けるように熱くなったアスファルトは、夜になっても一向に冷める様子はなく、生温い熱気を足の下からいつまでも発していた。
自分の住むアパートに着くと、一階の集合ポストでいつものように中身を一掴みにし部屋へと向う。薄い鋼板でできた階段を登ると、辺りに甲高い鉄の音が響き渡った。無機質な金属音は、なぜか私の心を冷たくさせた。
部屋の前に着くと、三つ隣の部屋の扉が開き、顔じゅう傷だらけの男が出てくるところだった。歩き方も見るからに危なっかしい。男が私のそばを通る時、なぜか声をかけてしまった。
「どうかしましたか?」
男は私に気がつかないのか、無言で通り過ぎて行く。男の目は何も捉えておらず、どんよりと濁っていて今にも死んでしまうのではないかと思った。
この男の身に何があったのか少しだけ興味が湧いたが、関わり合いにならない方が身のためではないかと、そう思った。それに私には、これ以上他人の人生は背負えない。
覚束ない足取りで階段を降りて行く男を見送ると、玄関の鍵を開けた。部屋に入り、ポストの荷物をテーブルの上に投げ置くと、そのまま服を脱ぎ散らかしシャワーを浴びる。目を閉じてシャワーヘッドから迸る水を顔全体で受け止めていると、母からの電話の内容が頭の中に蘇ってくる。
たまには実家に帰って来い。電話の声は少なからず怒気を含んでいた。母の怒った顔が目に浮かぶようだ。私は実家に帰れないわけではない。帰りたくないのだ。特にこの時期はどうしても帰りたくない。忘れようとしている約束を思い出してしまうのだ。
地元に帰りたくない近寄りたくない、その思いが高じて、大学も就職先も、わざわざ実家から新幹線を使っても四時間はかかる東京を選んだ。遠いから忙しいからと言って、もうかれこれ五年以上実家には帰っていない。私は逃げているだけだ。自らの犯した罪から逃げたいだけだ。
堂々巡りの思考から逃れるために無理に目を開く。一瞬水の粒が見えたがすぐに景色は歪んだ。目の痛みが次第に緩和され心地よい刺激に変わった時、母の声は消えた。シャワーを止め乱暴に体を拭くと、床に水滴が飛び散る。だがこの暑さだ、自然に乾くだろう。
バスルームを出ると全身に粘つく熱気を感じた。エアコンのスイッチを入れていなかったことを後悔するがもう遅い。遅まきながらエアコンのスイッチを入れ、設定温度を一番低くして送風口に立つ。会社の老体と違ってすぐに冷たい風が出る。しばらくそのまま立ち尽くし、身体の汗が落ち着いたところで部屋着に着替えた。
ソファーに座りテレビをつけると、高校野球のハイライトをやっていた。少しの間高校球児の汗や涙を眺めた後、適当にチャンネルをザッピングし、ニュース番組を放送している局でリモコンを置く。地元岡山の強豪校はすでに敗退しているし、そもそもにして野球に興味はない。
なんとなくニュースを眺めながら、冷めた弁当を肴にビールを飲む。味気ない晩飯に不満はなかった。私は弁当を片付けると二本目のビールを開けた。
ビール片手にポストから取り出したチラシを一枚ずつ見ていく。住宅情報、車の展示会、秋物新作と書かれたブランド服のダイレクトメール、全てを見ずともどれも似たようなものばかりだ。興味のないチラシほど邪魔なものはない。ビールをテーブルに置きチラシを一枚丸めると、バスケットボールの要領で部屋の角に置いてあるゴミ箱へ放った。高校時代に部活で鳴らしたコントロールは未だ衰えていなかったようだ。丸めたチラシは音もなくゴミ箱に吸い込まれて行った。
単純でくだらない遊びほど男は夢中になる。昔同棲していた彼女からも、男って本当に馬鹿だよねと何度なじられたかわからない。
夢中でチラシを丸めては投げ、そしてまた丸める。その行為を何度も繰り返した。それから何度目かの感触に、チラシではない何かを感じて投げる瞬間手元に目をやる。手には無機質なクラフト紙の封筒がしわくちゃになっていて、私は不意にコントロールを失った。
しわくちゃの封筒はあらぬ方向に飛び、ゴミ箱から一メートルも離れた床にカサリと音を立てて落ちた。
封筒? 手紙か何かだろうか。
私は腰を上げて封筒を拾うと、しわを広げ宛名を確かめる。表には私の名前、『野立和夫様』と書かれており、裏には差出人の名前が、『水川 賢吉』とあった。
「ケンちゃん……」
懐かしい名前を見て、胸の中に懐かしい感情と、ざわざわとした言いようもない不安な感情が同時に沸き起こる。
意思と関係なく手が震える。封筒の中身を取り出すと、手紙もしわくちゃになっていた。手紙に走った幾つものしわは、不吉な内容を連想させた。心を落ち着けるために、書いてある面を裏にして、丁寧にしわを伸ばしていく。内容はある程度想像がついたが、その内容が違うものであって欲しい、少しでも内容を知る時間を先延ばしにしたい、そんな思いが確かに私の中に存在した。
そんなに内容を知りたくないのであれば読まずに捨てれば良いだろうに。私の中にある卑怯な何かがそんなことを言う。できることならその甘い言葉に従いたいかった。しかしそれだけはしてはならないと、僅かながらに残った良心が歯止めを効かせる。
手紙をゆっくり裏返すと、あまりにも長くしわを伸ばし続けていたために、鉛筆で書かれた文字はかすれてしまっていた。しかし幸か不幸か、かすれた文字は読めないほどではなかった。
私は覚悟を決め、長らく会っていない友と語らうために居住まいを整え手紙と対峙した。
『和夫へ、元気か。俺は元気だ。突然の手紙すまないな。お前の住所はお袋さんに聞いた。気を悪くしないでくれ。
手紙なんて殆ど書いたことがないし、なんて書けば良いかわからないから、単刀直入に書こうと思う。
あの日の約束を果たしたい。これだけ書けば、お前にはわかるよな?
お前は忘れているかもしれないが、俺はあの日のことを一日だって忘れたことはない。
地元の夏祭りの日の正午、俺は狼谷の入り口で待っている。俺はお前が来てくれると信じている。
勝手なことを言ってすまないが頼むな。水川賢吉』
短い内容だが、手紙には何度も消しては書いたような跡が伺える。一文字一文字を慎重に選び、どう書けば私に思いが届くのかと何度も書き直したのだろう。ついにこの日が来たかという思いが胸の中に沸き起こる。
あの日の約束。約束というにはあまりにも希薄で頼りない子供の戯言。そう捉えて私は今までの人生を生きて来た。しかしケンちゃんは、あの日から今まで、ヤスと交わした約束と真正面から向き合って生きてきたのだ。
忘れようとしていた記憶が手紙を起因として仔細に蘇り、私の意識は十数年前の郷里へと飛んで行く。
陽炎が目の高さにまで登りそうな暑い夏の日、連日照りつける太陽の日差しで、私とケンちゃんは山に群生するクヌギの木の色とそう変わらないまでに日焼けしていた。
鳴り止まない蝉の声が、暑さをより一層粘着質なものへと変えている気がした。私たちはその日、身長とほぼ同じ丈にまで伸びた雑草を掻き分けながら、ある場所に向かって山の中を進んでいた。草むらから飛び出した茅で腕や足を切らないよう、靴底や木の棒でそれらを薙いでいく。それは道なき道を無理やりに造っているようなものだった。そんな私たちの後を、置いて行かれまいと必死について来るのはケンちゃんの弟のヤスだ。
私が幼い頃、家の周りには数人の子供が住んでいたが、年の近い子供はケンちゃんを除くと女の子しかいなかった。だから何かをして遊ぶ時など、私は必ず一つ年上のケンちゃんを誘った。そしてまたケンちゃんも、何かといえば私を誘った。
私たちはいつも一緒にいたずらをしては大人たちに叱られ、一緒に叱られる度に、次はどんないたずらをしてやろうだとか、どんな無茶をしてやろうかだとかそんなことばかりを考えていた。一度などは、駐車場に停めてある車の全てのマフラーに、給食の残りのコッペパンを詰めて恐ろしく親たちに叱られたこともあった。土着観の強い田舎だからその程度ですんだが、都会でそんなことをすればいたずらでは済まなかっただろう。もしかしたら夕方のニュースにでもなっていたかもしれない。
それからヤスは、ケンちゃんの三つ下の弟で、私たちの後ろをいつもついて回る金魚の糞という形容詞が最もぴったりくる存在だった。私たちはそんなヤスを疎ましく思うこともあったが、基本的には良き弟といった意味合いで、彼のことを好いていた。
「なぁ、それってほんまなん?」
薙ぎ倒した草の青臭い匂いが辺りに充満する中で、私はケンちゃんに訊いた。ケンちゃんは私の数メートル先で、やはり草を薙ぎ払いながら得意満面の顔で言った。
「間違いねぇ。ユウ君が言うとった。両手を広げたくらいあるブラックバスが、狼谷の麓にあるダム湖に泳いどったんじゃって」
ユウ君と聞いて私は顔をしかめた。ユウ君は私より四つ年上の少年で、私たちが住む集落のガキ大将として君臨していた。ケンちゃんは、ユウ君が左のものを右だと言えばそれに従うし、白いものを黒いと言えばそうだと頷いた。要するに彼に心酔していたのだ。
「でもあそこって、母さんらが行ったらおえんって言うとったよ?」
私はユウ君のことがあまり好きではなかった。彼は手にした権力を絶対のものにするため、子供たちに位を与えていた。勿論そんなものは子供の幼さが産んだ戯言に過ぎず、法的にも社会的にもなんら拘束力はない。しかし当時の私たちに於いて、それは絶対であり重い意味を持っていた。そして、私の位は低かった。
「大丈夫じゃって。ユウ君も狼谷に行ったらわいの位上がるって言うてくれたし、和夫の位も上がるって」
位が上がる。その言葉に、私は唾を飲み込んだ。ユウ君の敷いた位制度は実にユウ君に都合が良くできていて、自身の位を上げるには、ユウ君にとって利益になる何かをしなければならなかった。それは例えばヒラタクワガタやカブトムシを献上するだとか、巨大なウシガエルを捕まえるだとか、それなりに難易度の高いことをしなければならない。それを行くだけで位が上がる狼谷とは一体なんなのか。
私たちが住む集落は、四方を山で囲まれていた。そしてそのうちの一つの山を越えた処に、狼山という名の山があった。狼山の麓には、頂上の見えない長い石段があり、そこを登った先には巨大な祭壇があるのだという。
祭壇は大人たちが何かしらの儀式に使うのだそうだが、いつどうやってどんなことをするのか、それらが私たち子供に知らされることはなかった。
ケンちゃんが言うには、祭壇の側には険しい脇道があって、そこを抜けた処にあると言われている谷が、狼谷なのだそうだ。
聞いた話によると、谷には絶え間なく水が流れていて、麓には防災のためか農耕用に使うためか、巨大なダムに水が溜まって湖を作っているのだという。ブラックバスはそのダムの湖にいるらしい。
正直私には、そんな所にブラックバスがいるとは思えなかった。なぜなら狼谷は、ダムや祭壇どころか入り口の石段ですら、子供は近寄ることが禁じられている場所だったからだ。外来種であるブラックバスが自然界に存在するはずはない。それにその谷には、行けば神隠しに遭うだとか、巨大な狼が出て喰われるだとか、そんな噂がある場所だった。
危険を顧みない行為には、それ相応の褒美があるとそういうことなのだろうか。その時私はそう思ったのを覚えている。
「でも、やっぱり危ねぇんじゃねん」
「和夫は、恐ぇだけじゃろうが」
「そんなことねぇわ。でももしなんかあったら」
「あんな噂は嘘じゃ。ダムから落ちたら危ねぇから、大人が嘘の話をしとるんじゃ。現にユウ君じゃって行っとるけどなんにもなかろうが」
確かに巨大なダムというからにはその高低差は大きく、落ちてしまえば命などないだろうということは、子供ながらに想像はついた。だからケンちゃんの説にも一理あると思った。
行ってはいけないと言われれば、行ってしまうのが子供の性だ。ケンちゃんはそんな場所に行きたいのだ。行ってはいけない場所に行き、巨大なブラックバスを捕らえる。もしそのようなことができたのならば、それを行った子供は子供たちの間で英雄に等しい扱いになることは間違いない。さぞかし位も上がることだろう。ケンちゃんは英雄になりたいのだ。位が欲しいのだ。そして私もその例外ではなかった。
私は英雄と、位という甘美な響きを胸に、それまでにも増して勢い良く草を薙ぎ始めた。ケンちゃんはそれを了解の証と取ったのか、私に倣い子供特有の意味不明な奇声を上げながら、草を薙ぎ倒していった。
私たちは草と泥にまみれながら、道なき道を進んだ。そしてようやく狼谷に通じる山の麓に着いたのは、太陽が空の真上に来る少し前だった。
当時の私たちは、時計など持ってはいなかった。日が出れば遊び始めるし、日が沈めば家に帰る。正に太陽が時計代わりだった。六時の夕焼け小焼けが町内放送で流れても、太陽が出ていればそれはまだ昼なのだ。
山の麓には鬱蒼と草木が茂っていて、大きく立派な杉の木が何本も立ち並び、日の光を遮っていた。地面には、深い緑の苔が絨毯のように繁茂していて、その上に落ちた木漏れ日は、緑の絨毯に散らばった宝石のように見えた。
太陽が作り出した宝石は、私たちを導くように、天然石でできた石段を照らしていた。
石段は百年も昔からそこにあったのか、シダ類や苔の絨毯に埋れていて、ジメジメと滑っていた。所々苔が薄い箇所があるが、それは大人たちがここを通った証だろう。
「すげぇな」
誰に言うともなしに、私は声を上げた。ケンちゃんはそれに応える代わりに石段の前に立つ。私もそれに倣いケンちゃんの横に立つと、その先を見上げた。
ゴツゴツとした石段は、鬱蒼とした木々に遮られていて、その頂を見ることができない。だからその時私は、この石段が永遠に空まで続いているのではないかと思ってしまった。
「これ、何段くれぇあるんじゃろうか」
「登りゃぁわかろうが」
私の問いに対してケンちゃんがすげなく答える。
「ここって、毎回こんな苦労して大人たちは来るんじゃろうか」
私は腕や足に付いた切り傷をさすりながら言った。
「いや、大人しか知らん道があるらしいいうて聞いたことがあるで。子供らには教えてくれんみたいじゃけどな」
なぜケンちゃんがそんなことを知っていたのか、その時の私は疑問にすら思わなかった。
「なあ兄ちゃん。ここほんまに登るん?」
今まで黙ってついて来ていたヤスが、不安そうに声を上げた。
「あたりめぇじゃろうが。なんのためにここまで来たと思うとるんじゃ。嫌なんじゃったらここで帰ってもえぇで」
ケンちゃんが意地の悪い声で言うと、ヤスは黙り込んでしまった。小学校低学年のヤスが、ここから一人で帰れるはずはない。それをわかっていながらケンちゃんは言ったのだ。
「和夫行くで」
ケンちゃんは私の答えも聞かずに石段を登り始めた。苔が蹴散らされ、緑の欠片と土が飛ぶ。私とヤスは顔を見合わせた。
「待ってやケンちゃん。わいらも行くけぇ」
私とヤスはケンちゃんを追って石段を駆け上がって行く。ケンちゃんはそんな私たちを見てにやりと笑った。
「ヤスぅ。おめえ帰るんじゃねんか」
それに対してヤスは顔を真っ赤にして、「行くわっ」と声を荒げる。この兄弟のいつもの掛け合いだった。
石段の両脇には、幾つもの大木が天を覆うように茂っていた。大木の幹にはいたる所に油蝉が停まっていて、私たちの鼓膜を否応なく攻撃してくる。
暑いうるさい足が痛い、幾つもの不快な要素が私たちの歩みを緩慢にさせる。それでも私たちは、石段を登り続けた。そしてそのうち樹々の天井がまばらになり空が見え始めた頃、永遠に続くかと思われた石段は唐突に終わった。緑の天井は完全な青に染まった。
「すっげぇ」
ケンちゃんは、ため息とも感嘆ともつかない声で言った。私とヤスもそれに無言で応える。
そこには、テニスコートが三つは入りそうな大きな砂利敷きの広場があり、奥には石で組まれた大きな碑と祭壇があった。
祭壇は、芋けんぴを百倍に大きくしたような歪な形の石で組まれていて、テレビか何かで見た、世界のどこかにある巨石文明の遺跡を連想させた。
その奥にある巨大な碑には、ミミズが這ったような文字で何か書かれていたが、当時の私には読むことができず、辛うじて読めたのは、『大』という文字だけだった。
「なんて書いてあるんじゃろうか」
私が呟くと、ケンちゃんは一言「わからん」とだけ言った。
なんとか文字を読み取ろうと碑を睨みつけていた私は、あれほどうるさく鳴いていた蝉の声が止んでいることに気がついた。
私たちがいくら騒いでも鳴き止まなかった蝉たちが、なぜかいま鳴き止んでいる。そのことで、この場所には何かあるのではないかと不安に思った。だがそれを私は口にしなかった。些細なことで怖れていると、ケンちゃんたちに馬鹿にされるのが嫌だったのだ。
「手ぇ合わせとこうか」
ケンちゃんは呟くように言うと、祭壇に歩み寄り手を合わせ、恭しく頭を垂れた。
いつになく殊勝なケンちゃんを見て、ケンちゃんも何かを感じているのだと思い、私も横に並び頭を垂れた。すぐ近くで砂利の弾ける音がする。横目で見ると、ヤスも同じように手を合わせていた。
「こうやって手ぇ合わしとったら、何かあっても大丈夫じゃろう」
なんの根拠もないはずなのに、ケンちゃんがそう言う。それを聞いて、私もなんとなくそんな気がしたのを覚えている。
広場の端には、なんの木かわからないが大木が数本生えていて、その下は丁度良い日陰になっていた。私たちは少しの間その場所で涼んだ。いつの間に鳴き始めたのか、耳元では蝉が騒がしく鳴いていた。
油蝉ツクツクボウシみんみん蝉熊蝉。蝉たちの鳴き声は渾然一体となって、私たちの耳を襲い、それは巨大な生き物の咆哮のように聞こえた。
「うるせぇなあ」
「しかたがねぇがん。夏じゃもん」
ケンちゃんの呟きに私はそう応えた。
ケンちゃんはおもむろに立ち上がると、近くにあった大木を蹴り飛ばした。私たちを日の光から守ってくれていた大木だ。樹齢などわからないが、大人三人を束にしても敵わないほどの太さがある。きっと何百年もの年月を、台風や大雨など過酷な自然環境に耐えながらそこに立っていたのだろう、大木はびくともしなかった。
小学六年生の不躾な行動など、樹齢何百年の大木からしてみればないに等しい。だが蝉にとってはそうではなかったらしく、鳴き声はピタリと止んだ。
「うわぁ、何しょんならケンちゃん。汚ねかろうが」
しかしその代償として、私たちは容赦のない蝉の洗礼を受けた。蝉たちは大量の小便を撒き散らしながら飛び立ったのだ。
私たちは汚いだとか冷たいだとか、その当時はやっていた汚い物に対するまじないめいた言葉など(バリアだとかエンガチョといったような、毒にも薬にもならないまやかしのような言葉だったと思う)を、口々に言い合い腹を抱えて笑い転げた。
「大人らはここで何をしよんじゃろうか」
爪先で砂利を蹴飛ばしながら、巨大な祭壇を見て私は言った。
「――知らん。それよりもう充分涼んだろうが。はようダムの方に行こうで」
ケンちゃんは少しの沈黙の後、そう言って立ち上がる。私とヤスもそれに従った。
太陽はとっくに頭上を過ぎていて、もう間もなく一日の内で一番暑くなる時間が迫っていることを知らせていた。
私たちはできるだけ祭壇から遠巻きに回り込んで、脇に抜ける山道を探した。悪いことをしているという後ろめたさがそうさせたのだと思う。
脇に抜ける山道は、祭壇を正面に見て左手の方にあった。そこは一見しただけでは小道があるとは思えないほどに、蔦や雑草で覆われていた。
「この道蝮出そうじゃな」
ケンちゃんはそう言うと、持っていた木の棒で、目の前の藪を薙ぎ払い始めた。
蝮は、人を死に至らしめる毒を持っているくせに存外臆病な生き物で、滅多なことで人を襲ったり噛みついたりすることはない。だから長い棒などで草叢や藪を払ってやるだけで、大概は逃げて行く。
蝮は山中の藪や日陰を好み、特に水辺を好んで棲息する。狼谷には水が流れている、蝮が棲んでいてもおかしくはない。
私たちは狼山の麓に辿りついた時と同じように、再び道を切り拓きながら進んだ。
そのまましばらく進むと、険しかった山道は踏み均された獣道へと変わった。しかし蝮への警戒は怠ってはならない、道の両脇にはまだ藪が茂っている。油断しているところにいきなり蝮が現れて、足や腕を噛まれてしまうことはこの土地ではよくある話だ。
私たちは藪を棒で叩き、警戒しながらさらに進んだ。
全身に汗を滲ませその道を十五分ほども歩いただろうか。道は徐々に開け始め、薄い灰色のコンクリートが樹々や藪の間から見え始めた。今日集落を出てから始めて目にする人工物だった。
私たちは、その灰色を目指して歩みを早めた。やがて景色は樹々の緑よりも人工的な灰色の方が多くなる。そして目の前に、想像していたよりも遥かに巨大なダムが現れた。
圧倒的な野生の中に忽然と現れた巨大なダムは、人間が自然に歯向かおうとして突き立てた巨大な杭のように見えた。
獣道を抜けると、そこはちょうどダムの側面にあたる場所で、川を上る山側と、川を下り村に続く村側とに谷を分断していた。
村側には天然の地形を活かす形で舗装された川が伸びており、山側には一切の人工物はなく、ここから先人間は立ち入ってはいけない場所なのでは? と思わせるほどだった。
それを裏付けるように、ダムに伸びる道の中ほどには、鍵こそつけられていないものの、頑丈そうな扉のついた鉄条網が立ちはだかっていて、扉には錆びた閂がかけられていた。
鉄条網には黄色と黒の斜線で縁取られた看板がかけられていて、『これより先危険立ち入るべからず』と書かれていた。
雀蜂は黄黒の縞模様で他の生き物を威嚇する。自分は毒を持っている、危険なのだぞ近寄るんじゃないぞ、と言っているのだ。その配色を看板にあしらう意味、それはやはり書かれている文字は重要なものなのだと、見る者に念押ししているのだ。
「ケンちゃん、やっぱりこっから先行ったらおえんのんじゃねん」
「大丈夫じゃって。大人らは大袈裟なんじゃ。確かにダムから落ちたら死ぬかもしれんけど、気をつけたらまず落ちまぁ」
ケンちゃんはダムの方を見ながら言うと、そのまま鉄条網に近より閂を外す。鉄条網は私たちの背丈の二倍ほどもあった。
「ほら行くで」
ケンちゃんが扉を押すと、錆びついた鉄の擦れる鋭い音が鳴り、神経を逆撫でした。
私たちは扉をくぐり抜け、ダムの端に立つ。そこから見る谷の山側には、今までよりも一層濃い緑が茂っていて、巨大なブラックバスがいるというダム湖は、背伸びをしたりしゃがんだりしてみても、どうやっても見えなかった。
反対に村側は、草木はそれほど茂っておらず、足がすくむほどの谷底が顔をのぞかせていた。ダムの高低差はビルの七階ほどもあったのではないだろうか。
ケンちゃんは、ダムの頂上を中心に向かって黙って歩いて行く。私とヤスもそれに続いた。
ダムの頂上は、幅二・五メートルほどのの道のようになっていて、中心に向かって緩やかに下っていた。両脇にはもちろん手摺はないため、ふざけて少しでもよろめけば、谷底へと真っ逆さまに落ちて行くことになる。当然下を覗く勇気はない。
直接日に晒されたダムのコンクリートは、火にかけられたフライパンのように熱く、行き場を見失った大きなミミズが干からびていた。
ヤスがスルメのようになったミミズの死骸を、谷底に蹴り落とす。小さな砂利と一緒に音もなく落ちて行くそれを見て、太腿の裏に大量の虫が這うようなゾワゾワとした恐怖を感じた。私はなるべく視線をまっすぐに定め、ケンちゃんの背中だけを見て歩いた。
視界を遮る鬱蒼とした樹々は、次第にダムの高さに追いつけなくなり、隠されたダム湖と山側に伸びる狼谷が姿を現し始める。そしてダムに溜まった水を見て、私たちは声を失った。
「なんなら、こりゃあ」
しばらく立ち尽くした後、ケンちゃんは呟くように言った。
そこにあったのは湖と呼ぶにはあまりにも水が少なく、せいぜい池と呼べたらいいようなものだった。
「こんな処にほんまにバスなんかおるん?」
当然の疑問が私の口からついて出るが、ケンちゃんは、「わからんわそんなもん。でもとりあえず降りて見にゃなんとも言えまぁ」と言って、ダムを戻り始める。水の溜まっている山側に降りて真偽を確かめるのだろう、私とヤスもそれに続いた。
谷の山側へは、ダムに沿って歩くだけで意外と簡単に行けた。樹々は茂っていたが、地面は申しわけ程度にだが舗装されていて、雑草は今までほど茂っていなかったからだ。
私たちは「ダム湖」改め「ダム池」の畔に立ち声を上げて笑った。池は私たちのような子供が浸かっても、せいぜい膝上くらいまでしか水がなかったのだ。当然そんな小さな池にブラックバスなどいるはずもなく、そこにいたのは小さなカワムツと、川エビが少しいただけだった。子供の噂などそんなものだろう。
しかしこの炎天下に於いて、溺れる心配のない天然のプールは、私たちの遊び心を充分に刺激したし、実際に飛び込んだりカワムツを捕まえたりして遊んだ。谷から流れ込む水は、村で見る濁った池の水とは比べ物にならないほど透き通っていて、冷んやりとして大変に気持ち良かった。
「なぁなぁケンちゃん。ここ、わいらの秘密基地にしようで」
頭の先から靴の中までぐっしょりと濡れたまま私は言った。ヤスも頭を何度も振って賛成している。
「そうじゃなぁ。それはえぇけど、秘密基地にするんじゃったらこの上も探検せん?」
ケンちゃんは、山の奥へと続く谷を見上げながら言う。
谷にはあまり雑草のような植物が生えておらず、ゴツゴツとした剥き出しの岩が連なっているだけだった。しかしその一方で、岩の隙間に根を下ろした大きな樹々だけは、谷に寄り添い深い森を作っていた。
谷の奥は樹々のトンネルで暗く陰っていて、私は思わず頭上の太陽を見上げた。太陽は少し西に傾き始めていた。時間は午後二時を少し回ったくらいだろうか。
「でも、大人らが」
私は、大人たちが言っていたこの谷の噂を思い出し、口ごもった。
「和夫、この前社会の授業で聞いたんじゃけどな、この町の歴史って言うのんで、この狼谷の話が出たんじゃ」
ケンちゃんはそう言って、この狼谷のことを話し始めた。
狼谷、その名はこの地に遥か昔より住んでいた原住民が、この谷の奥に穴倉を掘り住んでいたことに由来する。そのことを知らない者が穴を始めて発見した時、狼が住む穴だと勘違いして狼穴と名をつけた。それからこの谷は狼谷と名づけられたらしい。いかにもみたいな話だが、どうにもこじつけの匂いが隠せない話だ。しかしその話ならば知っている。私はケンちゃんにそう言った。ケンちゃんはそんな私を遮る。
「表向きはな、皆そう言うとる。じゃけどもこの話には続きがあるんじゃ。授業も終わりかけの時に、先生がぽろっと漏らしたんじゃけどな、先生が言うにはこうじゃ」
その昔狼谷は、大神谷と言う名前で、古くから山と水の神が住まう谷だと言われていた。
岡山県は、昔から雨があまり降らない土地で、日照りが酷い年などは水不足で稲も育たず、それこそ飢えで死んでしまう者もいた。当然風呂に使う水などあるはずもなく、苔で緑に変色した風呂に浸かっていたりした。
そんな時、一人の祈祷師が大神谷から現れ、「雨をもし降らせることができたのならば、この町で死ぬ迄世話をして欲しい」と言ったそうだ。祈祷師は、全身を大きな布で覆っていて、見るからに異形の者だったが、町の代表たちは藁にもすがる思いで祈祷師に雨乞いを頼んだ。
祈祷師はそれから大神谷の麓に祭壇を組み雨乞いを始めた。櫓を組み火を焚き、その前で身じろぎもせずに祈り続けた。そんな過酷な雨乞いも、一週間が経ちやはり駄目かと町人が諦めかけた頃、ぽつぽつと雨は降り始めた。始めは小雨程度のものだったが、次第に雨は強さを増し、作物を育てるのに十分なほどとなった。
町は潤った。町人たちは祈祷師に心の底から感謝した。そして祈祷師は、町の端に質素な小屋を建てて暮らし始めた。しかし町の人たちは、彼に感謝はしていても、その見た目の異形さ故に彼のことを歓迎している訳ではなかった。いや、嫌ってさえいたかもしれない。
それから月日は経ち、当時のことを知らない悪ガキどもが、祈祷師の住む家に度胸試しとして忍び込むという事件が起こった。
町の端でひっそりと暮らす異形の者、悪ガキどもの幼稚な好奇心を刺激するにはそれで充分だった。小屋は粗末なもので、軒には町人の差し入れた野菜や果物が垂れ下がっていて、嗜好品など皆無に等しかった。祈祷師は贅沢などせず、静かに慎ましい暮らしを送っていたのだ。
悪ガキどもは暗くなるのを待ち、こっそりと小屋に忍び込んだ。そこで悪ガキどもが見たものは、体を覆う布を取った祈祷師の姿だった。祈祷師の全身は狼のような毛で覆われていて、その見た目は正に異形の人間だった。それを見た悪ガキどもは、泡を食ったように逃げ出した。今でこそそのような症例は病気として認識されてはいるが、当時の町の者たちからすれば化物以外の何者でもなかっただろう。
やがて悪ガキどもが見た祈祷師の話は街中に広まり、町総出で化物狩りが始まった。それは町の代表たちの抑えも効かないほどだったと言う。
彼は何をした訳ではない。ただ町のために雨を降らせ、そこに静かに住んでいただけだった。しかし雨を降らせることができる、それは異形の者故の異常な力として、人々の心に恐怖の種を植え付けるに十分な理由だった。
町人は彼を元いた大神谷のある山へと追いやり、大神山は狼山へ大神谷は狼谷へと、その呼び名を変えた。
その翌年のこと、町は未曾有の集中豪雨に襲われ、甚大なる被害に見舞われた。彼はやはり神だったのか、それは分からない。
町の代表たちは、狼谷の麓の祭壇に立ち祈祷師を呼んだが、祈祷師は現れなかった。町の代表たちは困り果て、祭壇のあった場所に碑を建て毎日食べ物などを供えた。
祈祷師は相変わらず現れなかったが、毎日供え物がなくなっていることで、どうやらいることはいるらしいと、町の者たちはお供えを続けていった。
何日そんなことが続いたのだろうか。やがて雨は止み、町は救われた。その後供え物はなくならないようになるまで続けられたそうだ。
彼が死んだのかどうかは誰にも分からない。噂では死んでしまったとか、神になり谷と同化したなどという嘘か本当が分からない噂が流れた。
そんな時、いつの時代にも莫迦な輩はいるもので、それを確かめると言って谷に入って行った者がいた。その輩は帰って来なかった。そればかりか、次の年には再び豪雨が町を襲う事態となった。
町の代表たちは再度供え物をし始め、祈祷師のために祭りを行った。そして水害は収まり、それからも年に一度町は祭りを行うようになった。それがこの町の夏祭りなのだそうだ。
夏祭りの日は毎年なぜか雨が多いが、どういうわけか夜には雨が上がり、祭りが中止になったことはない。
「まぁ先生も、『全部聞いた話じゃけぇほんまかどうかは知らんけど、大神様に攫われるけぇ行ったらおえんで』とか言うとったわ。わいにはそれがぎゃくに行けぇいうていう風に聞こえたで。ほんでこの谷の上の方には、その祈祷師が住んどった洞窟があるらしいんじゃ。わいはほんまにそんなんがあるんか、もしあるとしたらそこに行って確かめてみてぇ」
ケンちゃんの話を聞いて私は驚いた。その集中豪雨も水害も、社会の授業で習ったことのあるものだったからだ。そう、ケンちゃんの本当の目的はブラックバスなどではなく、この伝承の方だったのだ。
ケンちゃんの話を聞いた私は、やはりここに来てはいけないのではないか危ないのではないかと言ったが、ケンちゃんは譲ろうとしなかった。
「そんなん迷信に決まっとるが。あのダム見たじゃろうが。落ちたら死ぬくれぇ高ぇ。じゃけぇ大人らは、近づかんように嘘を言うとるだけじゃって。それに、人が来たらおえん処になんであねぇなでけぇダムがあるんなら。おかしかろうが」
ケンちゃんの言うことはもっともだった。人の立ち入ってはいけない場所にも関わらず、このような巨大なダムを建設するとしたら、一体どれくらいの作業員が必要になるのか、どれだけの人間が谷に立ち入るというのか。私とヤスは、渋々ケンちゃんに従うことにした。
「でもやっぱり危ねぇのは確かなんじゃけぇ、日が暮れる前には帰ろうで。あと、危ないと思うたらやっぱり帰らにゃわいはついて行かんで」
私は剥き出しの岩や、見るからに危なそうな崖を指して言った。
「わかっとるわ。ヤスも連れて来とるんじゃ。はよう帰らんと親に怒られるけぇのぅ」
ケンちゃんは言うが早いか、木の棒を持つと先頭に立って歩き始めた。
谷は下から見上げた時に感じたよりも遥かに険しく、両手両足を使わねばとてもではないが登れたものではなかった。当然木の棒はすぐに捨てた。
「兄ちゃんこんな岩登れんわ」
私やケンちゃんよりもさらに背の高い岩の前で、ヤスは泣きそうな声を上げた。ヤスは私たちよりもかなり身長が低い、登れなくて当然だ。
「先にわいと和夫が登るけぇ、それからおめぇは引っ張り上げちゃるわ」
ケンちゃんは岩の出っ張りに手と足をかけ器用に登る。私もそれに倣い岩の上に登った。ヤスの身体は思いの外軽く、簡単に引っ張り上げることができた。
ダムに注ぎ込む小さな川は、岩の下を潜ったり顔を出したりしていたが、その細い流れを絶やすことはなかった。私たちはその小さな川に沿って、谷というよりは岩山のような処を登って行った。
「ちょっと休憩しょうやぁ」
どれくらい登っただろうか、頭上に茂る樹々で多少日陰になっているとはいえ、やはりそこは暑く、喉の渇きと疲労に耐えられなくなった私は声を上げた。
「そうじゃな。あそこに休憩できそうな処があるけぇ、あそこまで登ったら休憩しようか」
ケンちゃんは、丁度畳が二枚入りそうな広さの岩棚を指した。岩棚の横には清流といっても良いくらいの、澄んだ小川が流れていた。
私たちは気力を振り絞りその岩棚に登ると、川に流れる水を飲み喉を潤した。その水は水道から出るものとは全く違い、驚くほどに甘かったことを覚えている。
「うめえ、この水すげぇうめえがな」
ケンちゃんが驚いたように声を上げるが、私もヤスも応える暇もないくらい夢中で水を飲んだ。
喉が乾いていたせいもあるが、その水の美味さは言葉では言い表せないものだった。水が身体の隅々に行き渡るのがわかる。全身から汗が噴き出し身体が歓喜している。身体中の水分が川の水と全て入れ替わるような気がする。そんな感覚といえば少しは伝わるだろうか。
川の水をたらふく飲んだ私たちは、しばらくその場で休んでいた。
「なぁ和夫。ここ、ほんまにすげぇな。水はうめえし食べ物もあるで」
岩棚に寝そべって緑の天井をぼんやりと見ていた私は、ケンちゃんが指す方向を見た。そこには橙色に熟れた枇杷が実っていて、すぐ近くには、時期は早いが柿やアケビの木も生えていた。
この場所を秘密基地にできたらどんなに素晴らしいだろうか、そう思った。ヤスを見ると、興奮しているのだろう目を輝かせていた。
「兄ちゃん、あの枇杷獲れる?」
ケンちゃんはヤスの問いを聞いて、少しだけ考えたように黙った後、「獲れそうじゃな」と答えて立ち上がった。
枇杷の前に立ちはだかる岩山の前に立ち、品定めするように眺めた後、ケンちゃんはカエルのように張りついて、するすると登って行く。そして岩の頂上に立つと、背伸びをして枇杷を五つ六つ捥ぎ取り私たちの方へ放った。
枇杷を受け取ると、手に果汁が附着する。果汁から甘い香りが立ち上った。その香りはなぜか桃のような匂いだった。
ケンちゃんが岩山から飛び降りると、三人で枇杷を食べた。この谷の水で育った果実だからだろうか、その枇杷は今まで食べてきたどんな枇杷よりも甘く美味しかった。あまりの美味さに何度もお代わりをしたほどだった。
喉を潤し高級なおやつで腹を満たした私たちは、ケンちゃんの呼びかけで再び先に進み始めた。
それから谷は次第に険しくなり、その幅を狭めていった。私たちの背丈の二倍ほどもある岩壁が両脇から迫り、なんとなく息苦しさを覚えた。岩壁や足下の表面は水で濡れていて、触るとヌルヌルとした苔で覆われていた。
「うわぁ」という突然の叫び声が谷に反響する。見ると苔に足を取られたのだろう、ヤスが尻餅をついて泣きそうな顔をしていた。
「何をしょんなおめぇは」
「兄ちゃん手が痛ぇ」
ケンちゃんの言葉にヤスが応える。ヤスの声は震えていた。ヤスの腕を見ると血が滴っていた。転んだ拍子に岩で切ったのだろう。
「ちょっと待っとけ」
ケンちゃんはヤスに言い、辺りを見回した。そして岩の切れ目に茂みを見つけると、そこで何やら雑草を採り戻って来る、ヨモギだ。
ヨモギには殺菌作用と止血作用がある。摘んだ生葉を口に含み数回噛んだ後傷口に塗りこむ。山で怪我をした時の応急処置だった。
ケンちゃんはヨモギの上から掌ほどの葉を巻きつけ、岩壁に伝う蔓でヤスの腕を縛りつける。
「これでしばらくしたら血は止まるはずじゃ」
ケンちゃんの優しい言葉に、ヤスは涙ぐんだ笑顔で頷いた。私たちはヤスが落ち着くのを待って再び歩き始めた。
思えばあの時、ヤスの怪我を見てなぜそのまま帰らなかったのかと不思議に思うが、その時の私は何か脅迫にも似た使命感を感じていて、帰ろうとは言わなかった。もしかしたら位という呪縛に縛りつけられていたのかもしれない。ケンちゃんもヤスも帰ろうと言わなかったことから、二人とも同じようなことを考えていたのだと思う。
しばらく進むと谷はさらに幅を狭め、人が一人やっと通れるくらいの幅になった。足下には常に水が流れていて、背の高い岩と樹々は太陽の光を遮り、いつの間にかそこはジメジメとした洞窟のようになっていた。しかし完全に太陽の光が遮られているわけではなかったので、私はまだそこは谷なのだという認識でしかなかった。思えばそこが、狼穴と呼ばれる洞窟の始まりだったのかもしれない。
私たちはその洞窟のような谷を進むうちに、妙な違和感を感じ始めていた。何がどうと言われてもはっきりと口にできるほどのものではないのだが、三人のふとした言葉の端々に、違和感は滲み出すように現れていた。
無意識に口走る言葉、普段ならば気にも留めない言葉の羅列。何か獣のような臭いがする。岩の上の木がざわつく音が聞こえた。あの岩の影で何かが動いた気がする。何か動物の鳴き声がした。山の中に於いて、それらはなんら不思議な出来事ではないにも関わらず、思わず口をついて出る。それは確信ではないが、うっすらとした気配への警戒の言葉であった。
次第に私たちは闇を恐れるようになり、次の角を曲がったら何かいるのではないか、後ろを振り返れば何かがいるのではないか、そのような妄想に取り憑かれ始めていた。
「もう帰ろうや」
始めにそのことを言い出したのは、やはりヤスだった。当然のことだと思う。ヤスは当時小学三年生、体力的にも精神的にも限界だっただろう。寧ろそこまでよくついて来たものだと感心するほどだった。それにヤスは腕に怪我を負っていた。応急処置を施したとはいえ、もしかしたら縫わねばならないほど深い傷かもしれない。だとしたら、やはりここいらが潮時だった。
「なんでじゃ。ここまで来たんで? ここまで来てなんにもせんと帰ったら、わいら何しに来たんかわからんが」
「何しにてケンちゃん。わいらはブラックバスを見に来たんじゃねん? ブラックバスはおらなんだし、目的は果たしとるが」
「目的なんか果たしてねぇわ。狼穴見つけにゃおえんが」
ケンちゃんはなぜか、頑として首を縦に振らなかった。
「狼穴なんか後で言い始めたんじゃが。わいらはブラックバス見に来たんじゃねん? それにヤスだって怪我しとるし、もしかしたら病院に行かにゃおえんかもしれんが」
私の言葉にヤスが顔をしかめる。それから心配そうに傷を見て、泣きそうな顔になった。
「見つけにゃおえんのじゃ」
「始めに危ねえと思うたら帰ろうて約束したが」
「見つけにゃおえんのじゃ!」
ケンちゃんは怒鳴り、私の言葉を遮った。
「それにまだまだ日は高かろうが、ヤスの怪我も看たけどそねぇ酷くねぇ。そねぇに言うんじゃったら、わい一人で行っちゃるわ」
ケンちゃんの声は、狭い谷に反響して、樹々のざわめきの中に消えていった。三人の間に沈黙が横たわる。蝉や鳥の鳴く声が、妙に大きく聞こえた。
「もうええけぇ喧嘩せんといてや。腕もそねぇ痛とうねぇし、わい、大丈夫じゃから」
自分の怪我のせいで揉めていると思ったのか、ヤスは申し訳なさそうに言った。私は何も言えなかった。
「ほしたらもう少しだけ進んで、何もなかったら帰ろうや、な? それじゃったらええじゃろ」
ケンちゃんの提案に、私とヤスは黙って頷いた。
なんとなく気まずい雰囲気の中、どれくらい進んだだろうか。私の中で幽かな違和感だったものは、すでに確実なものへと変わっていた。しかしケンちゃんの背中から放たれる異様な雰囲気に、私は何も言えずにいた。
太陽はいつの間にか谷へ光を射すことをやめていた。光の射し込まない谷はもはや完全に洞窟と同じだった。
闇が深くなるにつれて、違和感が強く感じられるようになっている。私はそう感じていた。私たちのものではない呼吸音。私たちのものではない足音。長く洗われていない犬が放つような生臭い獣の臭い。それらの気配は、つかず離れずの距離を保ち、うなじにまとわりつくような不快感を伴って、後ろからついて来ていた。
ケンちゃんはこの気配に気づいていないのだろうか。迷わず進むケンちゃんの背中からは、違和感に対する何かを感じ取ることはできなかった。
不意に後ろから服の裾を引っ張られる。振り向くと、服の裾はヤスが引っ張っていた。ヤスは怯えたような表情できょろきょろと辺りの様子を伺っていた。それを見て、ヤスも違和感に気づいている、そう私は思った。
もう帰ろう、そうケンちゃんに言おうとした時だった。ケンちゃんは足を止め、私とヤスはその背中にぶつかるようにして急に足を止めた。
「どねぇしたんなら急に」
私は非難の声を上げる。ケンちゃんはそれに応えず洞窟の先を指していた。
「あれ見てみぃ。泉じゃ」
私がケンちゃんの肩越しに覗くと、確かにそこには泉があった。
泉は少し大きめの子供用プールくらいの大きさで、中心辺りの水面が盛り上がりうねっていることから、水が湧き出ていることがわかる。
泉のある場所はそこで行き止まりとなっていて、永い年月湧き出た水に削られたのだろう、八畳程の広さがあった。天井は岩と樹々が複雑に絡み合ったもので、その高さは三メートルほどもあった。
水、岩、樹々、それらが作り出した天然の空間は、私に少なからず感動をもたらした。しかしここが行き止まりだということで、不安な気持ちも同じくらい感じた。
その時私は、何かの気配を感じて天井を見上げた。そこには何もなかったが、樹々の隙間から薄らと光が見えた。まだ太陽は沈んでいないようだ。だがはたして山の日が落ちるのは存外早い。いつ日が沈んでもおかしくない。私はさらなる不安に胸をざわつかせた。
「うめぇ……」
感嘆の声を聞き見ると、ケンちゃんが泉の端にひざまずき泉の水を飲んでいた。私はケンちゃんの横から泉を覗き込んだ。
泉の水は恐ろしく澄んでいて、そこに波紋がなければ何もないと錯覚してしまいそうなほどだった。ケンちゃんは両手で水を掬い、脇目も振らずに泉の水を飲んでいた。掬っては飲み掬っては飲み、何度も何度も何度も繰り返し飲んでいた。
あまりにも美味しそうに水を飲むケンちゃん、それを見て私は唾を飲み込んだ。激しい喉の渇きを感じた。
ひざまずき水の中にそっと手を挿し入れる。泉の水は驚くほどに冷たい。水を目の高さに持ち上げると、手から零れた雫が泉の表面に波紋を立てて、澄んだ音が鳴った。澄んだ音は洞窟内に響き渡り、私の耳に届くと自然に心が震えた。
恐る恐る水に口を付ける。すると水は生き物のように口の中にするりと入り込み、喉を通る時に今までに感じたことのないような快感と感動をもたらした。
私は信じられないものを見るように泉を見つめた。泉の表面には複雑な波紋が乱れ交っている。気がつけばヤスも夢中で水を飲んでいた。
淡い光が波紋に反射して、辺りにゆらゆらと金色の模様が映し出されている。それを見て、あまりの美しさに私は心を奪われた。だがあまりの美しさに、泉を穢してはならない水を口にしてはならない、そんな背徳めいた感情も沸き起こった。
そんな思いもあって、私は始めこそ遠慮がちに泉の水を飲んでいたが、気がつけばいつの間にやら先ほどまでの違和感も何もかも忘れ去って、無我夢中で泉の水を飲んでいた。
「うめぇ、こんなうめぇ水飲んだんは初めてじゃ。わいの言う通り来て良かったじゃろうが」
ケンちゃんの言葉に頷きつつも、私は当初の目的をふと思い出した。私たちはこの泉を見に来ることが目的だったのか。いや違う、伝承にある狼穴を見つけるためではなかったか。
草や樹々の青い香りに混じった獣のような臭い。風ではない何かによって樹々が掠れる微かな音。目の端に捉えた幽かな動く影。今まで感じた違和感を思い出し、うなじに何か毛虫が這うような気味の悪い感覚が襲う。ざわざわと肌が粟立ち悪寒が走る。得体のしれないものに対する恐怖に、体が反応しているのだ。
私は水を飲む手を止め、辺りを見回した。気のせいか洞窟の岩壁がぬらりと蠢いた気がした。胸の奥で心臓が早鐘を打ち始め、胃の腑がキリキリと痛みを訴える。
「どうしたんなら」
神経を張り詰めていた私は、ケンちゃんの声に飛び上がりそうなほど驚いた。
「何かが、動いた気がしたんじゃ」
私はなるべく平静を装って応えた。
「カズちゃん変なこと言わんでや」
ヤスの声は震えていた。
「山犬かなんかじゃろうか」
ケンちゃんは言うが、私は違うと思った。なぜなら、私たちが登って来た岩山の数々は、とても犬が登って来れるようなものではなかったからだ。
小さな岩の取っ掛かりを掴める手を持ち、四本の手足を器用に使える人間や猿などでなくば、岩山を登ることは難しい。
会話で紛れていた恐怖が急速に膨らみ始める。山犬でないのなら一体なんなのだ。あまりに突然のことで、私は、私たちは、誰一人として、声を出すことができなかった。
頭上から射す僅かな光が一瞬遮られ、大きな黒い影が降って来たと思った時には、それは目の前に立っていた。
柔らかなものが砂を踏む微かな音。深く大きな呼吸音。むせかえるような獣の臭い。異形、私が頭に思い浮かべたのはケンちゃんから聞いたその言葉だった。
ケンちゃんが「なんじゃあ」と叫ぶ。ヤスが大声で何か意味不明な言葉を吐き出す。私はその場でただ立ち尽くしていた。何かしなくては。そう頭の中で考えるが、意思に反して身体は何も反応しない。ただ冷静に、そのものの姿形が目の中に飛び込んで来る。
シルエットそのものは、人間のそれに近い。ただ全身は、灰色の硬そうな毛で覆われていて、毛の一本一本が太く針金のように逆立っている。そして中でも特に異常だと感じたのは、その生物の目と口だった。それの口は耳まで割けていて、目は白く濁り頭の三分の一を占めるほどに大きい、まさに化物だった。
私は恐怖から逃げるように半歩ほど後退った。白く濁った目が私を睨みつける。それだけで私はその場から微動だにできなくなった。
辺りには、尚も二人の叫び声が反響していた。目の端にケンちゃんが動くのが見える。飛びかかろうとしているのだ。やめろ、その声が出ない。まるで喉の奥に布の塊でも詰め込まれたようだ。
ケンちゃんが飛びかかり、化物に弾かれる。その一連の光景を私は映画でも観ているような感覚で見ていた。頭で理解できても心がついていかない、そんなあやふやな感覚だった。
「和夫、そっちに回り込め。挟み撃ちにするんじゃ」
だから名前を呼ばれても一瞬なんのことかわからなかった。
「何ぼけっとしとるんじゃ。はようせぇ」
私は我に帰り、声に追い立てられるように回り込んだ。ケンちゃんはすでに立ち上がり、前傾姿勢で構えていた。ヤスは腰を抜かしたのか、地面にへたり込んでいる。すぐ後ろには泉がある。
化物はまっすぐにヤスを見ていた。ヤスは一番小さく力も弱い。ヤスを襲うつもりか。そう思った時、恐怖よりも先にヤスを護らねばという思いが沸き起こり、私はケンちゃんに倣って前傾姿勢を執った。
化物は様子を伺うようにゆっくりと首を回す。ケンちゃんの腰が上がるのを見て、私は地面を蹴った。目の前に灰色の毛が迫る。腕で顔を覆い歯を食い縛って衝撃に備えた。硬い毛が腕に触れた。ぶつかる、そう思った時、私は宙を舞っていた。
強い力で無理やり投げ飛ばされるというよりは、勢いを利用されてふわりと受け流されるように投げられた感じだった。
天地が反転し視界が回る。私は背中から地面に叩きつけられた。口からヒキガエルの鳴くような声が漏れる。痛みで涙が滲む。遅れて近くに重たい物が落ちる音がした。涙で歪む視界の中に、ケンちゃんが見えた。ケンちゃんは仰向けになって倒れていた。
上体を起こし頭を振る。化物はヤスと対峙していた。ヤスは怯えて声も出ないのか、口を開けてただ震えていた。
「ヤスっ、起きてこっちに来い」
いつの間に起きたのかケンちゃんが叫ぶ。
「無理じゃあ。兄ちゃん無理じゃあ」
絞り出すように言った後、ヤスは声を上げて泣き始めた。
私もケンちゃんも、ヤスに向かって「早く」だとか「立て」だとか、なんの力添えにもならないことを大声で叫んでいた。
その時化物が、ヤスの方へ足を踏み出した。ヤスの顔は恐怖に歪み、逃げるように後退る。ヤスの爪先が泉に触れた。
私は地震が来たのだと思った。低い音が鼓膜を震わせ、山全体が震えているような振動を、腹の底で感じた。だがそれは地震などではなかった。目の前の化物が吠えていたのだ。
狭い空間内で化物の声は反響に反響を重ね、空間が歪むような震えをもたらした。その声を聞いて、「怒っている」と本能で理解した。
やはりここに来てはいけなかったのだ。大人の言うことは守らねばならぬのだ。そう思った時、両の目から涙が溢れ出した。それは戦意の喪失を意味していた。
ヤスが驚き体を反らせる。足は完全に泉の中に浸かった。底に溜まった塵芥が舞い上がり、泉の水を濁らせた。化物の全身の毛が静電気を帯びたように逆立つのがわかった。
化物は軽い音を立てて地面を蹴ると、ヤスに飛びかかった。ヤスは枯葉のように宙を舞った。派手に水の弾ける音がする。ヤスの上半身は泉に沈んでいた。傷が開いたのかヤスの腕から赤いものが滲み、泉の水をうっすらピンク色に染めた。
なおも化物はヤスに襲いかかろうとしていた。それを見たケンちゃんは化物に突進した。
灰色の背中は微動だにしなかった。ケンちゃんはその場に尻餅をつくが、そのまま化物の脚に蹴りを放った。化物がケンちゃんに向き直る。私はその隙に乗じてヤスの足を掴んだ。泉からヤスを引き摺り出したかったのだ。だが化物はそれを察すると、私とヤスに向かって飛びかかって来た。私とヤスは弾かれ吹き飛んだ。
ヤスは泉から出ることはできたが、激しくむせ返っていた。口から水が吐き出され、辺りにヤスの嗚咽が反響する。
「ヤス!」
ケンちゃんは叫んだ。
化物は私たちとヤスの間に立ち塞がり短く吠えた。その声は猿と犬の鳴き声を混ぜたようなものだった。私はその声から、怒りと言うよりは憐れみを感じた。憐れみは何に対して向けられたものだったのだろうか。
どうすればいい、どうすればヤスを助けられる。今まで生きて来た中でも記憶にないほど必死に考えた。だがいくら考えても答えは出なかった。力もなければ武器もない。そして何より私たちは、幼過ぎた。
その時化物の口が開くのが見えた。何をするつもりなのか、そう考えた私の耳に、ザラザラとした声が響いてきた。「置いていけ」確かにそう聞こえた。
私はケンちゃんを見た。ケンちゃんも私を見ていた。ケンちゃんは動揺した表情を浮かべていた。目の前の得体のしれない化物が、人語を操ったことに驚いているのだ。そしてその言葉の意味を認めたくはないのだ。
「置いていけ」
その声は先ほどよりもさらにはっきりとしたものに変わっていた。それは、長い間声を出すことを忘れていた孤独な老人が発するようなものだった。
ヤスの前に立ち「置いていけ」と言うその言葉の意味。考えるよりも先に嫌な予感が悪寒となって身体中を這い回る。
ヤスを見るとイヤイヤをするように首を振り、目には涙を浮かべていた。ヤスにも言葉の意味はわかっているのだ。
私には本当に、自分が何をすればいいかわからなかった。
「和夫、とりあえず、とりあえず逃げて、大人らを呼んでこよう」
ケンちゃんの声は悔しそうに震えていた。ゲームなどの勝負事に負けた時、ケンちゃんは決まってそんな声を出した。負けたことはわかっていても認めたくはない。そんな想いが痛いほどに伝わってきた。
「ヤスはどうするんじゃ」
一刻も早くここから逃れたい。そんな気持ちがなかったかと言われれば嘘になる。逃げたくて逃げるのではない。言い訳のような思いは私の声を震わせた。
「ヤスは絶対助ける、絶対じゃ。約束するけえヤス、待っとってくれや」
「嫌じゃ! 嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ。兄ちゃん行かんとってくれぇ、お願いじゃけぇ」
ケンちゃんの言葉を聞いて、ヤスは弾けたように声を上げた。ヤスの悲痛な声は私の胸を激しく突き破り、涙腺を破裂させた。
「ヤス、これ持っとけ。兄ちゃん絶対に助けに戻って来るけぇ、ええな」
宙空を輝くものが舞う。異形のものはそれを見て、警戒したように一瞬だけ反応したが結局何もしなかった。
カツンと硬い物が跳ねる音がして、ヤスの目の前にそれは転がった。それはケンちゃんが後生大事に持ち歩いていた宝物のビー玉だった。
「嫌じゃ兄ちゃん! お願いじゃ。頼むけぇ、お願いじゃ」
ヤスはビー玉に目もくれず、ただひたすらに声を張り上げた。
そのやり取りを異形のものは静かに見ていた。手を出すことはせず、しかし私たちとヤスの間に立ちはだかり、ヤスは絶対に返さないという風に動かなかった。
「すぐに戻る。ヤス絶対じゃ」
泣き叫ぶヤスを置いて、私たちはその場を離れた。私はその時、ヤスとはもう会えないそんな気がして、唯々涙を流すことしかできなかった。
私たちは幼過ぎた。あの生物に抗う術はもう何もなかった。その時のケンちゃんの顔は、一生忘れることができないだろう。涙は流さずしっかりと口を結び、真っ直ぐ道の先を睨みつけていた。それは必ずヤスを助けるという決意の現れだったのだろう。
私たちは来た時の倍近い早さで洞窟を抜けた。樹々の隙間から陽の光が射し始める。日は西に傾きつつあった。山の昼は短い、後数刻もしないうちに辺りは闇に包まれるだろう。
崖や岩場を猿のように滑り降りた。木の枝や雑草で付く少しの傷など全く気にならなかった。谷を駆け下りる間に見た景色は、全てが灰色に見えた。鮮やかに咲くアザミや山百合も、私の目には色を失くしてどんよりと映った。登る時に食べた枇杷の実も、全く美味しそうには見えなかった。喉の渇きも体の疲れも感じなかった。ひたすらに手と足を動かし続けた。祭壇の前を駆け抜け、石段を転がり落ちるように下ると、「こっちじゃ」とケンちゃんは言って来た時とは違う方向を指した。
「なんで? こっちから来たが」
「ええけぇ、こっちに大人らが使う道があるんじゃ」
「なんでそんなこと知っとんで」
「ユウ君に聞いたんじゃ」
そう言ってケンちゃんは駆け出した。ケンちゃんの後を追うと熊笹が茂る竹林があり、丸太が階段状に並べられている坂道があった。坂道は朝来た道と比べると段違いに歩きやすく、私たちはさらに速度を増した。
「こねぇな道があるんじゃったら最初からここ使やぁ良かったが」
「おえん。この道の入り口は東奥のおっさんに見張られとるんじゃ。子供らが勝手に入らんようにの」
ケンちゃんは息を切らせながら言った。私は東奥のおっさんと聞いて、深いシワが幾つも刻まれた偏屈そうな壮年の顔を思い浮かべた。彼はいつも朝から晩まで畑に出て作業をしていた。いつか見た彼の畑の裏には、確かに山に向かって伸びている道があった。
「ほしたらわいらがここから出て行ったらバレるが」
「今はそんなこと言うとる場合じゃねぇ。はようヤスを助けに戻らにゃ」
ケンちゃんの言葉の最後の方はうまく聴き取れなかった。涙を飲み込んだのかもしれない。私は保身の言葉を恥じた。
禁じられた道から躍り出た私たちを見て、『東奥のおっさん』は驚き目を丸くした。しかしその目はすぐに鋭く険しいものに変わる。
「おめえらどこに行っとったんなら!」
声に驚いた鶏が一声鳴いた。
「おっちゃん。ヤスが、わいの弟が」
東奥のおっさんの顔が青く変わる。
「まさかおめぇら、狼谷に行ったんじゃねかろうな」
ケンちゃんはそれを聞いて泣き出してしまった。私に至っては始めから泣いていた。東奥のおっさんは唾を飲み込むと、「おんしらの名前は?」と言い、私たちはそれに正直に答えた。
東奥のおっさんが運転する軽トラの荷台には、とまとに茄子きゅうりなどが積まれていた。舗装されていない道で、それらはガタガタと揺れていた。沈みゆく太陽の色は、絶望的に赤く美しかった。
大人たちのいる集落に連れられた時には、もう殆ど日は沈みかけていた。
「馬鹿たれがぁ! おめぇらは何したんかわかっとんか」
話を聞き、ことの顛末を知ったケンちゃんの父親は、普段の優しい顔を怒りの形相へと変え、人目も憚らず私たちの頬を殴りつけた。その怒りは凄まじかった。私たちはただ泣くしかなかった。
「泣いて済む問題じゃねかろうが。なんでこねぇなことしたんじゃ」
「社会で聞いた授業の話をユウ君にしたら、狼穴なんか嘘じゃいうて、もし見つけられたら、位を上げちゃるいうて、言われたんじゃ」
ケンちゃんの声は消え入りそうに小さかった。またそれを聞いて、ケンちゃんがなぜあれほどまでに狼穴にこだわったのかがわかった。
「こけぇ薮内の倅連れてけぇ!」
薮内の倅とはユウ君のことだった。
「まあまあ水川さん。今薮内の息子呼んでも仕方がねかろう。それに子供の言うことじゃけぇ見間違いいうこともあろうが。今日は特別暑いけぇ幻覚でも見たんじゃろ。それよりはようヤスを探しに行かにゃ」
他の大人たちの助け舟により私たちがそれ以上殴られることはなかったが、ケンちゃんの父親の目は、まだ殴り足りないと言っているように思えた。
それからすぐに私たちは、大人たちを連れて再び狼穴に向かった。しかし身軽な子供と違い大人の体は鈍重だった。そんな大人たちにとって狼谷の道は険しかった。更には日が完全に沈んだことによって、辺りは深い闇に包まれた。それが災いしてその日の捜索は困難となり、私たちはヤスの待つ狼谷を下った。
次の日、町の消防団が中心となってヤスの捜索は再び開始された。私たちが化物を見たと言ったことから猟友会の人間も駆り出された。しかし泉のある場所まで大人たちを案内すると、そこには泉などなく、私たちがそこにいたことを証明するかのように、ケンちゃんの放ったビー玉だけが転がっていた。その後もヤスの捜索は続けられたが、折悪くやって来た『台風19号』の影響により、ヤスの捜索は完全に打ち切られた。そしてその台風は町に甚大な被害をもたらし、その年の夏祭りは中止となった。
台風の原因として私たちが狼谷に行ったことが関係するのかどうかは分からない。ただ町の老人たちは、皆口々に、私たちが狼谷に行ったせいだと言っていた。あれから私たちを含めた子供たちは、狼谷に近寄ることを今までよりも更に固く禁じられた。
ヤスはそれから後、見つかることはなかった。
眩暈がする。エアコンの設定温度は始めに設定した温度のままで、部屋の中は凍えるほどに寒かった。しかし額や身体から出る汗は、いつまでも止まらなかった。
私は過去の記憶を辿るのをやめ、手紙を封筒に戻そうと折り畳んだ。しわくちゃの封筒に手紙を戻すのは難しく、手紙が意思を持って戻ることを拒んでいる気がした。
あの時の約束、待っているからな。耳元で幼いままのケンちゃんの声が聞こえる。幻聴だ。私は心の中で呟き、飲みかけだったビールを一気に飲み干した。ビールは生温く、口の中には吐きそうになるほどの苦味しか残らなかった。
全身を針金のような灰色の毛で覆われ、目が顔の三分の一ほどもあり、口が耳まで裂けた化物。そんなものに遭遇し、あまつさえ友人の弟を攫われた。そんなことを言って誰が信じてくれるというのか。もしも会社でそのようなことを口走ったら、同僚や後輩たちから白い目で見られることは間違いない。もしかしたら出世に響く恐れすらある。いや、もしかしなくともだ。
私はこれまで冷静且つ現実的な目で物事を判断してきた。毛むくじゃらの化物など存在しない確固たる現実世界での話だ。勤務態度も自分で言うのはなんだが勤勉を絵に描いたようなものだった。ミスはしないし実績も上げている。誰よりも早く出社し誰よりも遅く退社した。そうだ、化物などいない。あれは幻覚だ、暑さで頭がおかしくなっていたんだ。
「野立さん大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
気がつくと後輩の岡島が、私の顔を覗き込んでいた。
「昨日遅かったんですか? 残業。目、真っ赤ですよ」
「いや、そういうわけじゃないんだが、最近ちょっと眠れなくてな」
「なんか悩み事ですか? 僕で良かったら聞きますけど」
岡島の目は冗談ではなく本気で私を心配してくれている目だった。一瞬全てを打ち明けることも考えたが、すぐに考え直した。岡島の私に向ける眼差しの色が、違った意味での心配に塗り替えられると思ったからだ。
「いや大丈夫だ、悩みなんてないよ。ありがとうな」
私は自分を偽って明るく返した。
岡島は、「そうですか、ならいいですけど」と言って、私の席を離れて行く。
「おい岡島、今日予定がなければ一杯どうだ」
私はなぜか、岡島の背中を見て声をかけてしまった。岡島は振り返ると、笑顔で「いいですよ」と言った。
「でも珍しいですね、野立さんからお誘いがあるなんて」
確かに私から職場の誰かを食事に誘ったことなど今まで殆どなかった。ケンちゃんの手紙が待つ部屋に戻りたくなかっただけなのかもしれない。
ケンちゃんの手紙が届いてからもう一週間が経っていたが、手紙は捨てていない。そして返事も送っていない。何度も手紙を捨てようと思ったが、幼い頃の親友が命を絞るような思いで綴ったであろう手紙を、どうしても私は捨てることができなかった。
手紙は今、ゴミ箱の置いてあるすぐ隣の小さな棚に置いてある。引き出しに仕舞うこともなく、ただ無造作に置いてある。ごく自然を装って、棚から半分ほどはみ出した形で。
手紙は『何か』あれば真っ逆さまにゴミ箱へ落ちて行くだろう。私はどこかでその『何か』を期待していた。地震、台風、火事、不可抗力的な何か。私は無責任で卑怯な人間なのだ。
「ここ、よく来るんですか?」
岡島は、駆けつけ一杯といった感じでビールを一気に飲み干した。それに対して私は、焼酎の水割りに軽く口を付けた。
「いやそうでもない。前付き合ってたのとちょっとな」
私は以前座ったことのあるカウンターの席を一瞥する。そこには私たちと同じようなサラリーマン風の男が二人、呑気に笑いながら座っていた。
カウンターの奥では手拭いを頭に巻いた店員が、煙で燻されながら焼き鳥を団扇であおいでいる。およそデートで来るような雰囲気のある店ではない。だが当時付き合っていた彼女はこの店が好きだった。気取らない店の雰囲気が好きなのだそうだ。この店に二人で通ううちに、私もこの店の雰囲気が好きになった。そして別れた後も一人で飲みたい時など自然とここに足が向かうことが多かった。
「へえ、野立さんて彼女いたんですね」
「そりゃどういう意味だよ」
「いや、他意はないですよ。なんとなく野立さんって硬いっていうか、他人を寄せ付けなさそうなイメージあるじゃないですか。ほら、影があるっていうか」
岡島はまずいことを言ったと思ったのか、慌てて言い訳のようにまくし立てる。
「あっ、勘違いしないでくださいよ、褒め言葉っすからね」
「もういいよ。俺が堅物なのは自覚しているよ」
私は岡島の慌てた様子を見て笑った。岡島が頭を掻いている。
「野立君?」
別れてから二三度は会ったことがある。だがそれは残っていた荷物の引き渡しだとか、彼女宛に届いた郵便を渡すためだとか、必要に応じた理由の時だけだ。お互い示し合わせて会ったり偶然にしても会ったりということはなかった。だから私はひどく狼狽えてしまった。
「麻衣子?」
岡島がキョトンとした顔をした後、すぐに詮索するような表情に変わった。目の前に突然現れた女と、私の関係を紐解こうとしているのだろう。
「久し振り、この店まだ来てたんだ」
「あ、ああ。たまにだけどね。麻衣子は?」
「うん、わたしもたまにね」
麻衣子は岡島のことをチラリと見ると、私の顔をまた見た。
「こいつは会社の後輩の岡島って言うんだ」
「はじめまして。後輩の岡島です」
「はじめまして。あの、野立君の友達の、井上って言います」
麻衣子の口から友達という言葉が出て、少しばかり不快な何かを感じたが気にしないことにした。
「麻衣子は一人でここへ?」
「ううん、友達と待ち合わせ。人身事故で電車が遅れてるんだって」
友達と待ち合わせと聞いてなぜかほっとした。だがそれが男だとしたらと考えた時、胸の奥にちりちりとした熾火のような嫉妬を感じた。もうとっくの昔に終わったことだ。私はそう自分に言い聞かせ、水割りを一口含んだ。甘く辛い液体が喉を通ると静かに熾火は消えた。
「先輩、良かったら」
岡島の顔には明らかな期待の表情があった。男二人で酒を飲むより多少の色があった方がいい、そう書いてある。
「友達来るまでここいいかな? 友達なのに離れて座るのも、ね」
私が岡島に応えないので、麻衣子は勝手に話を進める。そしていつの間にか私の横に座っていた。私の感情は複雑なものだった。懐かしいような嬉しいような。それでいて無神経な麻衣子に怒りを覚えるような。
「へえ、そうなんですか。大学の時の。なるほど、で、そのサークルってどんなことをするんですか?」
麻衣子は私のことをそっちのけで、岡島とばかり話していた。私も私で、二人の会話には極力参加しないようにしていた。
麻衣子が私のことを友達と紹介したことで、もはや私たちがその昔付き合っていたことを話すのは暗黙の了解的なタブーとなっていた。
「山岳サークルっていっても可愛いものよ。ピクニックに毛が生えたようなものね。ただなんていうか、野立君だけは結構真剣だったわね。やってることが殆どフリークライミングだったもの」
「そうなんですか? そんな話聞いてないですよ先輩」
「そうよ。なんか、山が憎いんじゃないかってくらい真剣な目で壁を睨んでいたわね。ね? 野立君」
「ああ、そうだな」
「すげー。なんか野立先輩のこと尊敬するな。あっ、そうだ。今度一緒に行きません? 山。僕にそのフリークライミングっての、教えて下さいよ」
これ以上ないアイデアだといわんばかりに、岡島は声を張った。しかし私はなぜだかわからないが非常に苛々していた。店の中はどの席も愉快そうな笑い声が上がっている。自分だけが孤立している、そう考えると更に苛立ちは増した。
「いいわね、久し振りに山登ってみたいかも。ねっ、野立君行かない?」
こんなことなら会社で残業でもしていた方がマシだった。
「友達はまだなのか?」
険の籠った声に二人は黙り込んだ。それを見て少し後悔したが、私は続けた。
「人身事故にしても遅過ぎるだろう。それに麻衣子はいつまでここにいるつもりなんだ」
「先輩そんな言い方は」
「岡島は少し黙っててくれ。麻衣子お前ちょっと勝手過ぎるぞ。偶然とはいえいきなり現れて、何勝手に話し進めてんだよ。自分がどういう立場なのかわかってるのか?」
岡島も麻衣子も口を開けて私のことを見ていた。麻衣子の目には怯えもあった。その目を見て過去を思い出し、少し冷静になる。
「すまん疲れているんだ。今日は帰るよ。岡島、誘っといて悪いな」
私は、カウンターの上に一万円札を置くと席を立った。
顔を見なくとも、二人の私を見る目に訝しいものがあることはわかった。わかっている、悪いのは自分なのだ。
去り際に小さく、「変わってないんだね」という麻衣子の声が聞こえた。一瞬激情にも似た怒りの気持が湧き起こったが、店の扉にあたることで自分をごまかした。
帰宅の途中いつものコンビニで缶ビールを買った。結局いつもと同じ時間に家についた。
ケンちゃんの封筒は相変わらず棚の上にあって、非現実的な物語を、その中に留めていた。
そそり立つ岩肌には、山で育った者しにか見えない道がある。それはどんな岩や崖でも同じことだった。一見しただけではわからない僅かな突起も、岩肌に寄り添い見る角度を変えることで、確かな手がかり足がかりとなる。どの突起から手をかけるか、それが重要だ。始めの一手で全ての道筋が決まる。途中分岐は幾つかあるが、それでも大筋は一つしかない。
山を登る岩を登る、それは陳腐な例えだが人生に似ていた。どんな家のどんな土地に生まれるか、それで始めの一手は決まる。それから数多くの分岐点を手探りで決めていく。後戻りは許されない。
垂直にそそり立つ岩壁を一歩でも戻ることは即死に繋がることがある。なぜなら、体全体を岩壁に密着させた状態では、自分がさっきまでかけていた足がかりなど見えはしないからだ。
見えもしない足場を頼りに道を戻ることは不可能だ。勿論プロのクライマーからすれば、それは間違っていると言われるかもしれない。熟達した技術があれば、やり直しは可能だと言われるかもしれない。だが私はプロのクライマーではないし、プロのクライマーに教えを乞うたこともない。ともかく私は、方々のクライムポイントを渡り歩いた。そうすることで、自分の人生に言い訳をして来たのだ。ヤスや化物の幻影から逃げて来たのだ。
容易い道にフラフラと逃げ込み、その場その場に行き着いた自分をごまかし、言い訳をするために険しい山を登る。自分の選んだ道は間違っていない。そう自分に言い聞かせるために。
私は山を憎んではいない、憎んでいたのは自分の人生そのものなのだ。
私は岩壁にへばりついていた。鼻先にある岩壁を見つめていると、不自由な人間を嘲笑うかのように、小さな蟻がやすやすと登って行く。
背中にジリジリとした熱を感じる。衣類以外何も遮る物がないからか、太陽に直接皮膚を焼かれる感覚に陥る。手の平を伝う汗で指が滑らないよう常に気をつける。次の一手は右手斜め上の突起に決めた。
腰袋に手を伸ばしチョークを指先に付けた後、全身をバネにして振り子のように体を振ると、右手を一気に伸ばす。掴んだ瞬間力がかかりすぎないよう全身の筋肉を張り詰め、体重を残りの手足に分散する。右手が岩を掴む。爪が白く変色し、確かな岩の硬さを感じる。
私の選んだ道は間違っていない。そう心の中で呟いた時、不意に右手が空を切ったような感覚に陥った。岩を掴んでいたはずの手足から、岩の感覚が消える。その瞬間頭の中に電気が走ったように、白と黒のノイズが視界を埋め始めた。やがてノイズは黒一色に塗り潰される。
私は暗い暗い世界の中を、どこまでもどこまでも落ちて行った。途中岩を掴んだはずの右手を見ると、しわくちゃの茶封筒が握られていた。
身体から伸びているはずの命綱は、鋭利な刃物で切られたようにすっぱりと切断されていた。
「なんか悩みがあるんなら言ってよ。わたしたち一緒に住んでるんだよ。何をそんなに怯えているの」
暗闇の中、どこからか聞こえて来た声は、夏の終わりに麻衣子が放った言葉だった。
怯えという言葉に感情的に返してしまう。二人の間に気まずい沈黙が横たわった。さほど広い部屋ではない。険悪な雰囲気に耐え切れなくなった私は、「なんでもないよ。山に行って来る」そう言って部屋を出た。
山から帰って来た時には、麻衣子も麻衣子にまつわる荷物も殆ど消えていた。テーブルの上には、一言『ごめんついて行けない』と書かれたメモがあった。
太い油性マジックで書かれた短い手紙は、麻衣子の揺るぎない意思を感じた。
私は一手を読み誤ったのだ。
どこまで落ちて行くのだろうか。暗闇は、時折過去の過ちを突き付けては、私の心を蝕んでいった。大学時代高校時代中学時代、そしてあの夏の日。
「あの日の約束。和夫、待っているぞ」
暗闇の中で聞こえたケンちゃんの声は、どの過ちの声よりもはっきりと聞こえた。
耳の中でケンちゃんの声が反響する。次第にその声は音量を増していき、最後には頭が割れるのではないかと思うまでになった。頭が痛い、私は耐え切れず目を開けた。そこは暗く、頭痛も消えていなかった。
ほんの一瞬自分がどこにいるのかわからなくなったが、すぐに自分の部屋だと気がついた。
テーブルの上には飲みかけのビールが置いてある。いつの間にか自分はソファーで眠ってしまったようだ。
全身が汗でべとつく。口の中が乾いて唾を飲み込むのも苦労する。視界の端で何かが光った気がした。見るとなぜか冷蔵庫の前で、携帯電話のLEDが点滅していた。携帯電話には、岡島からの着信履歴が一件あった。
着信の時間を見ると、私が店を出てから一時間ほど経った頃だろうか、電話が鳴った記憶はない。きっとすでに眠ってしまっていたのだろう。
私は携帯電話をソファーに放り投げると、シャワーを浴びて再び眠りに就いた。
「昨日は悪かったな」
岡島を見つけると、私は開口一番そう言った。朝の事務所は気怠い雰囲気が充満していて、皆少しだけ寝ぼけたような顔をしていた。
「いやいいですよ。それより言ってくれれば良かったじゃないですか。井上さんと昔付き合ってたって」
「あいつに聞いたのか」
「ええ。あの後なんとなく気まずくなって、井上さんから話してくれました。昔野立さんと付き合ってたって」
うなじにチリチリと不快な熱を感じる。
「他には何か聞いたか?」
「いや特に何も聞いてないですよ。あの後すぐに井上さんの友達が来たんで、なんとなく野立さんの話題はしづらくなって……、あっ、友達は女の人でしたよ」
「あいつの友達が男だろうと女だろうと俺には関係ないよ」
そう言いながら、心のどこかで私は少し安心していた。麻衣子に男がいるのが嫌なのではない。その男に嫉妬する自分を見るのが嫌なのだ。
「そうなんですね。でも、井上さんはそうでもなかったぽいですけど。なんか、電話かけて来るようにって言ってましたよ」
そう言って岡島は、小さな紙切れをよこした。十一桁の数字の羅列を見て、心臓が不整脈を打ったようにリズムを崩した。私はそのことに少し戸惑う。
「ところで、昨日誘ってくれてありがとうございました」
急に岡島が声の調子を変える。私が不思議そうな顔をすると、岡島は続けた。
「井上さんの友達、僕、正直好みだったんですよ。だからあんな子と知り合えてラッキーでした。連絡先も交換できたし。本当野立さんには感謝してます」
私がなぜ岡島を誘ったのか、今わかった気がする。いつも悩みとは無縁そうに生きている岡島を見て、羨ましく思ったのだ。岡島と時間を共有すれば、自分の悩みが薄まるのではないかと錯覚したのだ。
私は笑顔で「役に立てたのなら光栄だよ」と言った。
麻衣子もこのような男と付き合えば、要らぬ心配や悩みなど感じずに済んだだろうに。それにしても今更電話をよこせとはどういうことなのだろうか。
コールが十回以内で出なかったら切ろう。そう決めて携帯電話のボタンを押した。麻衣子はコールを数える間もなく電話に出た。
〈ごめんね。岡島君を伝言板に使っちゃった〉
もしもしも言わずに麻衣子は言った。ごめんの相手は私なのかそれとも岡島なのかわからなかったが、私は大丈夫だと応えた。
「それより昨日は悪かったな。あんなこと言って」
〈それはもういいよ。わたしも悪かったしね。それよりさ、昨日の話なんだけど、どうかな?〉
麻衣子は何を言っているのか、それがわからず私は黙り込む。
〈ダメ?〉
「いや、ダメも何も何を言っているのかわからないよ。昨日の話ってなんだ?」
〈山だよ。岡島君と三人で話したじゃん。あの後本当に登りたくなっちゃってさ〉
私が席を立つ前確かにそんな話をしていた。今改めてそんな話を聞いても腹は立たないのに、なぜあの時あんなにも私は苛ついていたのだろうか。
「あれ本気だったのか?」
〈本気じゃなかったけど、なんとなく話してたら懐かしくなっちゃって。どうかな、久し振りに〉
「岡島も一緒にか?」
〈いやいや岡島君は要らない。あのこ山なんて興味ないよ。わたしたちと話し合わせてただけ。調子いいよね、なんか世渡り上手って感じ。相手によって話題がコロコロ変わるの。あれは現代のカツオ君だね〉
麻衣子はそう言って笑った。相手によって、麻衣子の友達のことだろう。電話口の麻衣子は昔と何も変わらなかった。私たちは少しだけ昔に戻ったように話をして、電話を切った。
「登山道具は押入れの中だったな」
独りごちて時計を確認すると、休憩の時間はすでに終わっていた。
高尾山が世界的に有名な観光ガイドの三ツ星観光地に選ばれてから、年間の登山者数は二六○万人を超えたという。比較的標高の低い山にも関わらず、富士山、エベレスト、マッキンリーなどの名山を越えて、世界一登山客が多い山となったのだそうだ。あと三四ヶ月も経てば秋となり紅葉のシーズンになる。そうするとさらに人出が増すことだろう。
都心からのアクセスが良い。大都市で普段触れることのできない豊かな自然が溢れている。閉塞的な都会の喧騒から逃れたい。人々はそんな思いから「癒し」を求めて高尾山に群がる。結果同じような考えの人間が集まり、喧騒を逃れて来たはずが逆に喧騒にまみれてしまう。
トイレに並び昼食を摂るにも並びあらゆる公共施設に並ぶ。都会の澱を捨て癒した心を持って帰るはずが、持って帰るのはストレスと疲労のみなのだ。本末転倒というより他ない。そんな思いなどしなくとも、少し探せば同じような条件の山はほかにもたくさんあるのだ。中でも私が好きなのは、高尾山の兄貴分のような山、陣馬山だ。
東京都八王子市にある陣馬山は、高尾山の山頂から西に向かって延びる山道を抜け、二つの山と四つの峠を越えた場所にある。高尾山より少し標高は高いが、アクセスも悪くなく私鉄やバスなどを乗り継げば簡単に麓へいけるし、ハイキングコースの入り口から一時間半も歩けば頂上に辿り着ける。
国土交通省が選定した『関東富士見百景』の山頂からは、富士山をはじめ、南アルプス、奥秩父、大菩薩、丹沢、日光連山、さらには新宿の高層ビル郡までが容易く見えた。そこから見る景色は、日常のしがらみを全て忘れさせてくれた。そして何より良いのは高尾山に比べて人が少ないことだ。
登山客同士の挨拶は清々しいものがあるが、ゴミゴミと人が大勢いたのでは、挨拶を交わす気力も失せる。何もない山の中で不意にすれ違う人間同士の温もりがあるからこそ、気持良く挨拶もできるのだ。
お互いを知らない安心感。そこに責任や気遣いは必要ない。最低限のマナーさえ守れば、極めて良好な関係を築ける。
「ここって来るの久しぶりだな。わたしのこと放っていつもここに来てたの?」
麻衣子は軽く息を切らせながら言った。付き合っていた頃には一度たりとも訊ねられたことのない質問に、私はどきりとした。
「いや、ここに来たことはないよ。俺が行っていたのはこういった縦走コースじゃなくて、フリークライミングのスポットだよ」
「そうなんだ。――それってあんな場所?」
麻衣子は、三○メートルほど離れた崖を指した。その崖は土壁でできていて、一見しただけで登れるような場所ではないとわかった。もし登ろうとしようものならば、道筋も何もなく、すぐに滑落してしまうだろう。
「いや違う。もっと頑丈な岩でできた崖を登るんだ」
麻衣子はそれを聞いて「ふーん」と言ったっきり黙ってしまった。沈黙が息苦しさを助長させる。何か言わねば、そう思って口を開きかけた時、麻衣子の額から玉のような汗が流れているのを見て、ただ辛いだけなのだと思い口を閉ざした。
それから私たちは殆ど口を利かずに山頂までの道を歩いた。そしてようやく山頂に着いたのだが、そこから望む景色は生憎の曇り空で、遠くの山影が幽かに見えるだけだった。
「やっぱり体力落ちてるね。最後に登ったのが大学三年の時だったから、八年前だもんね」
麻衣子は額に噴き出した汗をスポーツタオルで拭きながら言った。まとめ忘れたのかわざとそうしているのかわからないが、額から伸びる前髪の先に汗が一雫垂れ下がっている。その向こう側に、二重で切れ長の大きくはないが小さくもない目が覗いている。目尻には、別れる時にはなかった小さなしわが幾つか刻まれていて、私はそれらを無意識に眺めていた。
「お互い年をとったものだな」
「何それジジ臭いなあ。まだ三十前じゃない。そういうのは五十とか六十になった時に言うものだよ。二十代でそんなこと言ってたら人生諦めてるみたいじゃない」
「そういうものなのか?」
刻まれたしわは、年をとった証拠とは言えないのか。それを訊こうと思ったが辞めておく。多分麻衣子が言っているのはもっと違った、精神論的なことだろう。それに、女性に訊く質問ではない。
私はさりげなく麻衣子から視線を外して煙る山影を眺めた。麻衣子と別れてから六年が経つ。つい先日偶然出逢うまでは、もう一生涯会うことはないだろうと思っていた。それはお互いが憎いだとか会いづらいだとかそういうことではなく、なんとなくそう思っていた。なのに私たちは今、なぜか陣馬山の頂上から二人並んで曇った景色を眺めている。
「はい、どうぞ」
視界に水筒のコップが割り込んで来る。そこには薄く濁った液体が並々と注がれていた。多分スポーツドリンクだろう。ナップザックの中に自分の分もあったが、私は麻衣子の好意に甘んじた。
「ありがとう」
コップを受け取ると一息に飲み干した。
美味い。市販のものと違ってレモンや蜂蜜など色々な物の味が複雑に絡み合っていて、体の隅々に染み渡っていくような気がする。
私は不意にあの時の泉の水を思い出した。身体に染み入る液体。飲んでも飲んでも飽くことのない不思議な水。
「どうしたの難しい顔して。美味しくなかった?」
麻衣子の声にはたと意識が戻る。
「いや美味いよ。これ、自分で作ったのか?」
「そう、昨日の晩に作ったんだ。わたしがブレンドしたスペシャルドリンク。これを飲んだら疲れなんかすぐに吹っ飛んじゃう」
「凄いな」
私は麻衣子にコップを返した。麻衣子はコップを受け取ると、自分の分も注いで一口飲んだ。ゆっくりのと波打つ白い喉元を見て、私はなぜか急に麻衣子の事を愛おしく思った。感傷的な気持ちではなく、当たり前で自然な仕草を見てそう思ったのだ。
昔付き合っていた赤の他人。そんなあやふやな距離感になって、初めて一人の人間として見られた気がする。
もう一度、もう一度やり直すことはできないだろうか。ケンちゃんの手紙のことなど忘れてしまえばいい。ヤスは山で遭難したのだ。灰色の化物などこの世には存在しない。
「あのさ」
私が口を開きかけた時だった。麻衣子はぽつりと呟くように言った後、無理に明るく振舞ったように続けた。
「今度わたし結婚するんだ」
突然の告白に、私は間抜けな声を上げた。かけかけた梯子が、実は泥で出来た物だったのだと気がつく。
「いつ、いつ結婚するんだ?」
動揺を悟られまいと、私はできるだけ平静を装った。
「来年の春かな」
麻衣子は他人事のように応える。
「そうか、そりゃあめでたいな。それで相手はどんな人なんだ」
「うーん、普通の人、かな。本当に普通。明るくもなく暗くもなく、普通に大学出て普通に社会人。実を言うとね、あの日あの店に行ったの、偶然じゃないんだ。――あっ、野立君と逢ったのは偶然だよ。ストーカーとかそんなんじゃないからね」
私の顔が不審なものに取れたのだろうか、麻衣子は慌てて付け足した。今私はどんな顔をしているのか、それが気になり顔の筋肉が定まらない。笑っているのか怒っているのか、きっとどちらとも取れない世にも間抜けな顔なのだろう。
「なんか結婚決まってさ、なんとなく感傷に浸りたいっていうか、自分の歴史を振り返ってたのよね。で、野立君のこと思い出して、野立君と言えばあの店かなって思って。そしたら野立君がいたからびっくりしちゃったよ」
「そうなのか、そりゃあびっくりするな。一気に歴史が二つも片付いちまった」
私はできるだけ皮肉っぽくならないよう気をつけて話した。頷く麻衣子の表情は、相変わらず笑っていたが、先ほどよりも輝いて見えた。麻衣子は今、幸せなのだ。
「だからこの山も、わたしの歴史。これから結婚するまでの間、自分が生まれる時まで遡って行くんだ、わたし」
麻衣子は霞んだ山影の奥に自分の過去でも見ているのか、目を細めていた。
「ところで、野立君はそういう人いないの?」
突然の質問に、一瞬言葉が出てこなくなる。
「……いるよ。小さな頃にさ、約束してたんだ。だから今年の夏は、実家に帰るんだ」
私は自分の口から出た言葉に驚いた。
「へえ、そんな人いたんだ。そっか、そうなんだ。じゃあ、わたしと付き合ってる時、絶対に実家に帰らなかったのってもしかしてわたしに遠慮してた?」
驚いたが、一度口にしてしまうと、それは揺るぎのない事実となって、言葉が口から淀みなく流れていく。
「そんなんじゃないよ。ただ、帰りたくなかっただけなんだ。その約束だって、子供同士の拙い口約束みたいなものだし、俺自身ついこの間まで忘れてたんだ」
「そっか。じゃあ二股してたわけじゃないんだね。安心した」
「俺がそんな二股なんかかけられるほど器用じゃないって知ってるだろ」
麻衣子は少し黙った後、「知ってる」とだけ言ってまた黙った。
麻衣子の表情に陰りが見える。なぜそんな悲しそうな顔をしているんだ。訊きたくとも訊けない雰囲気が、その顔にはあった。
もしかしたらまだ私のことを好きなのかもしれない。都合のいい妄想、それはわかっているが、やはりそう考えてしまうのは私が男だからなのだろう。男は女よりもはるかにロマンチストで、叶わぬ夢ばかり追いかけては落ち込むという愚行を繰り返す生き物なのだ。
「なんで急にそんな約束思い出したの?」
思い出したように麻衣子は私に訊ねる。頭の隅っこで、茶色の封筒のかさつく音が聞こえた気がした。答えは決まっていた。
「手紙が来たんだ。今年の夏祭り、約束の場所で待っているってね」
「一途なんだね、その子」
「そうだな。ずっと背負ってきたんだ、今まで、重い荷物を、ずっと一人で抱えて生きてきたんだ。その荷物を、俺が取り除いてやらなきゃいけないんだ」
「そっか。幸せになれるといいね」
麻衣子はそれっきり黙ってしまった。私は麻衣子の顔を見ない。麻衣子も私の顔を見ない。他の登山客が私たちのことを時折チラリと見るが、私と麻衣子は一体どんな顔をしていたのだろうか。
しばらくそのまま二人並んで座っていると、気の良さそうな老夫婦が近づいてきて、「大丈夫? 顔色悪いわよ」と声をかけてきた。
「大丈夫ですよ。お腹が空いちゃって。座り込んでました」
麻衣子は明るい声で言った。
老夫婦は「若い子は元気ね」と、麻衣子の言った言葉をどう捉えたのかわからないが、そんなことを言いながら去って行った。
「ねっ、野立君。あそこの売店でご飯食べようよ。わたしお腹が空いちゃった」
麻衣子の顔に陰りはもうなかった。いや、もしかしたら陰りだと私が勝手に思っていただけで、本当のところはただ腹が減っていただけなのかもしれない。
「そうだな。あそこの売店のうどんが美味いんだ。結婚祝いに俺がおごるよ」
「安い祝いだなあ」
麻衣子はケラケラと愉快そうに笑った。
別れ際麻衣子は、「お幸せに」と控え目に言った。かけ違ったシャツのボタンのような会話に、結局麻衣子は最後まで気がつかなかった。
これでいいのだ。思えば私の人生は、あの時からかけ違ったまま進んで来たようなものだ。ボタンを一つずつ丁寧に外して、もう一度正しい箇所に止め直さなければ、私の人生もケンちゃんの人生も狂ったまま不幸に終わる。もう一度あの谷に行き、全てを清算するのだ。
地元の駅を降りると、海の塩気を含んた熱い風がねっとりと体を撫で回した。途端に毛穴がチクチクと痛み始め、引いていた汗が急に吹き出してきた。
ほぼ無人の改札には、観光案内のパンフレットが無造作に置いてある。駅を出ると、小豆島行きの巨大なフェリーが出港の準備をしていた。何台もの車がフェリーの前部に開いた口の中に吸い込まれて行く。皆帰省客だろう。
私はゆっくりとした足取りで港に入る。最後に見た時は土の地面だったのに、観光客を意識したのか足下は綺麗なアスファルトで固められていた。
港の駐車場では、夜の祭りに向けてたくさんの人たちが、テントの下を右往左往していた。ここは夏祭りの会場でもあるのだ。
軒を連ねたテントの正面には、コミカルにデフォルメされた蛸の絵が描かれていたり、素人が描いたような人気アニメのキャラクターが描かれていたりする。
たこ焼き、ベビーカステラ、クレープ、かき氷、私はそれら屋台の前をゆっくり抜けると、腕時計を確認した。ケンちゃんとの約束の時間にはまだ二時間ほどあった。今日地元に帰って来ていることを両親には言っていない。もし全てが何事もなく終われば顔を見せようと思っている。
私は駅近くのスーパーで、必要になりそうな物を買い揃えナップザックに放り込んだ。禁じられた道が使えないのなら、それなりの装備は必要だ。
その時レジカウンターから視線を感じて、見ると中年の女性がこちらを見ていた。その女性に見憶えはあったが、名前はわからなかった。
私が会釈をして曖昧な笑みを向けると、女性は「あらー久しぶりじゃねぇ」と声をかけてくる。
「こんにちは。お久しぶりです」
「ほんまじゃね。元気しとった?」
女性の顔に、中学時代の級友の面影を見つけた。彼の名は萩本だったか、確か相当に頭が良く、東京の有名大学に入ったと聞いたが、彼が今何をしているのかは全く知らなかった。
「萩本くんは元気ですか?」
「元気じゃで。もうすぐ結婚するんよ。せぇじゃけぇ今年の祭りには、その相手の彼女を連れて来るんじゃって言ようったよ」
「そうですか。それはおめでとうございます」
私のことを知る人間がいる、私の過去を知る人間がいる、やはりここは地元なのだ。当然のことを今更知ったふうに考える。私はこの町に帰ってきたのだ。
「あの、これから予定がありますので失礼しますね」
まだ話し足りない、自慢の息子のことをもっと聞いてくれ、そんな雰囲気を感じた。なるべく角が立たぬよう丁寧に礼儀正しく断ると、私はスーパーを後にした。私の両親にとって、自分は果たして誇れる存在なのだろうか。そんなことをふと考えた。
太陽が容赦なく照りつける中、私はゆっくりと歩いていた。額から滑り落ちた汗が、ひび割れて薄白けたアスファルトに黒いシミをつける。
幼い頃に通った通学路は、あの時のまま変わっていなかった。道路の端を蹴り飛ばすと、カラカラに乾燥したアスファルトの欠片が簡単に崩れ落ちる。崩れた箇所から黒く小さな無数の蟻が次々と溢れ出してくる。もしかしたらこの乾燥した灰色の地面の下には、びっしりと蟻がつまっているのではないか、そんな妄想に駆られた。
きっとこの道は、私が生まれる前に舗装されてそれきりなのだろう。と、くだらない妄想を現実的な思考に塗り替えた。ほどなくして、私たちが東奥の池と呼んでいた池が姿を現した。池の水は水田に粗方引き入れられたのか、ほとんど残ってはいなかった。この時期になると、池の水が残っていることの方が珍しかった。池の中心には、元の池と比べると水溜りと呼んだ方がいいような、申し訳程度の池があった。池の真ん中で魚が跳ねる。ここでいつも泳いでいた臆病なカイツムリは、どこへ行ったのだろうか。
池を横目にさらに歩くと、赤くて大きなトマトの実が成っている畑が見えてきた。ケンちゃんと一緒に幾度となく盗んでは食べたものだ。私は今まで生きてきて、あの時食べたトマトよりも美味いトマトに出会ったことはない。
赤いトマトの向こうに鍬を振るう老人の姿があった。面影は残っている。
「こりゃあおめぇら、何をしよんじゃ。こけぇきちゃあおえん言うとろうが。クチナワにかぶられても知らんど」
「東奥のおっさんじゃあ、逃げぇ!」
奇声と笑いの混じった声を上げながら、数人の子供たちが、私の横を駆けて行く。彼らの手には数個のトマトが握られていた。
眩しいものを見るように目を細め彼らを見送る。しかしすぐに刺すような痛みが肺を貫き、一瞬呼吸を忘れた。一番後ろを走っていた子供が、なぜかヤスに見えたのだ。
私はうずくまって呼吸が整うのを待つ。ナップザックからペットボトルの水を取り出し口いっぱいに含むと、ゆっくりと飲み下した。もう大丈夫だ。
「おい、あんた大丈夫か。あの悪ガキどもになんかされたんか」
太陽の光をバックに老人が覗き込んでくる。逆光で表情は見えないが、老人が息を呑むのがわかった。
「おめぇ、野立方の倅か」
「はい。その節はお世話になりました」
「ほうか、けぇって来たんじゃのう。大きゅうなって」
膝に手をつき立ち上がると、嘗て見上げた老人の顔は私の胸の辺りにあった。私の背が伸び老人の背が縮んだ。否応なしに時の経過を突きつけられた。
「ケンはもう上がっとるで、はようおめぇも上がれえ」
老人は禁じられた道を鍬で指す。
「いいんですか?」
「ええも何も、管理人が上がれえ言うとるんじゃけぇ、はよう上がれぇ。それにもうおめぇは子供じゃねぇしの」
そう言うと老人はまた鍬を振るい始めた。管理人とは誰なのかと訊こうと思ったが、老人の頬を伝う汗を見て辞めた。
あの日転がり落ちるように降りて来た山道の前に立つと、私は意を決してナップザックの肩紐に手をかけた。
「おーい、これ持って行けぇ」
五○メートルほど登ったところで老人の声が追いかけてくる。振り返ると、老人が手にトマトを持って追いかけて来ていた。
「これ、ケンと食え。ほなの」
息も切らせずに言うと、老人は来た道を戻り始めた。
私は老人の背中に「ありがとうございます」と大きな声で呼びかけた。老人は何も応えなかった。
熊笹の茂るトンネルを歩いていると、一足踏み出すごとに青臭い空気が濃ゆくなっていく気がする。四方八方から藪蚊が襲いかかってくるが、虫除けスプレーのおかげかあまり咬まれることはなかった。中には薬品をものともしない強者もいたが、もれなく叩き潰した。強い者の方が先に死んで行く。皮肉な話だ。掌に滲んだ赤い血とバラバラの灰色を見て思う。
蝉の鳴く声が次第に大きくなっていく。あの祭壇に続く石段は、すぐそこに迫っていた。
熊笹のトンネルを抜けしばらく進むと、あの日見た緑の絨毯が私を導くように姿を現し始めた。
深い緑の中に光る太陽が作った宝石は、あの日見た時と同じように、私の歩く道の先を照らしていた。
ケンちゃんは石段の一番下でうつむき腰掛けていた。暗くてよくわからないが、目を瞑っているように見える。カーキ色の七分のズボンと、白いティーシャツを着ている。すぐ横には、私が持っているのと似たようなナップザックが置かれていた。
緑の絨毯は足音を全て吸い込む。ケンちゃんは、私が声をかけるまでそのままでいた。あまりにも動かないので眠っているのかと思ったほどだ。
「ケンちゃん」
私の声に、ケンちゃんはゆっくりと頭を上げ目を開けた。十数年ぶりに会うケンちゃんの顔は、最後に見た時とあまり変わらなかったが、口元と顎に髭を蓄えていた。そのせいか少し精悍な顔つきに見えた。
「和夫、来てくれたんじゃのう」
私は黙って頷く。ケンちゃんへの負い目が顔に出ていないだろうか。そればかりが気になった。
「それは?」
ケンちゃんは私の持つトマトを指した。
「これは、東奥のおっさんがくれたんだ」
「東奥のおっさんが? めっずらしい」
何年経とうとも、私たちの中であの老人は、「東奥のおっさん」のままだった。二人の間で変わらぬものがある。そのことは少しだけ私の負い目を軽くさせた。
「あのおっさん、俺にはくれたことねえのに」
ケンちゃんは目を瞑って口だけで笑う。ヤスを喪った後、ケンちゃんはこの独特な笑い方をするようになった。皆から顔が笑っても目が笑っていないと言われるようになったからだ。目が笑っていないのならば目を瞑って隠せばいい。ケンちゃんはいつだったかそう言った。その時私は、それに対して何も言えなかった。
「ケンちゃんと一緒に食べろって言ってたよ」
私はトマトをケンちゃんに一つ渡した。
「和夫、なんかおめぇ都会のもんみてぇなしゃべり方になったのう」
「まあね。高校を出てからずっと東京に住んでるから。それよりトマトは食べないのか?」
トマトを手に持ったまま見つめているだけのケンちゃんを見て、私は言った。
「食べるけど。とりあえず上に行こうや」
ケンちゃんは立ち上がりながら、石段の上を親指で示した。あの時見た永遠に続きそうな緑の石段は、やはり大人になってから見ても永遠に続きそうに思えた。
都会の山と比べて思う。ここの空気は重い気がする、いや、濃いと表現した方がよいのか。とにかく酸素が濃く、空気に緑の甘い味がするように感じた。
「和夫、しんでぇか?」
ケンちゃんの息は全く乱れていない。ズボンの裾から覗く脹脛は、屈強な男が持つそれだった。一歩を踏み出す度に、しなやかに筋肉が動いている。その筋肉は、一朝一夕でできるものではない。
「いや大丈夫だよ。こう見えて大学では山岳サークルに入っていたんだ。フリークライミングもやっていたよ」
「そりゃあ心強えな」
心強いとはどう言う意味なのだろうか、そう考えていると「おめえ結婚はまだか」とケンちゃんが訊いてくる。
「まだだよ。良い人がいなくてね」
一瞬麻衣子の顔が思い浮かんだ。
「ケンちゃんはどうなんだ」
「俺もまだじゃ。ちゅうか結婚なんか考えられんわ」
ケンちゃんの声には寂しい響きがあった。ヤスを置いて幸せになることが罪のように感じられるのかもしれない。なんとなくだが私にはわかる。見捨てた友を置いて自分だけが幸せになる。そんなことが果たして許されるのだろうか、そう考えたことは一度や二度ではない。
「……ヤスか」
「ほうじゃのう。でもまあ、俺みてえな辛気臭ぇ男の嫁になりてぇモノ好きはおらまぁ」
ケンちゃんは自嘲気味に笑った。私にはそれ以上何も言えなかった。呼吸を荒くして登るのが辛く見えるよう演技をしてごまかした。
「山本、帰って来とるらしいで」
はじめ、ケンちゃんが何を言っているのかわからなかった。
「ほれ、おめぇが昔好きじゃった奴じゃが。俺がコオロギを背中に入れたら泣きよった女じゃ。覚えとらんのか」
昔私が好きだった、山本、コオロギ。朧げながら幼い少女の顔が頭の中で像を結び始める。
少女は座り込んで泣いていた。ブラウスの裾から、エンマコオロギが迷惑そうに悶えながら飛び出した。
「ごめんって。もうコオロギ逃げたけぇ大丈夫じゃから泣かんといてや」
ケンちゃんがコオロギを入れたにも関わらず、なぜか私が謝った。
「和夫はよう逃げぇ! 松下先生が来た!」
泣いている少女を置いていけず、私は松下先生に捕まり職員室でこっぴどく叱られた。ケンちゃんのことは言わなかった。
職員室を出ると少女が心配そうな顔で待っていて、「大丈夫?」と声をかけて来た。名札には『5年ろ組山本茜』と書いてある。
おかっぱ頭で少し鼻が上を向いていて、綺麗とは言えないがどこか愛嬌のある可愛らしい少女だった。
私は恥ずかしくなり顔を真っ赤にしてうつむいた。
「和夫、はよう帰ろうで。て、おめぇ山本と何しょんなら」
「なんもしょうらん」
ケンちゃんのからかうような声に反発した私は、山本のスカートを勢いよくめくって駆け出した。後ろの方で少女がまた泣いていた。怒った松下先生の声が追いかけてくる。私とケンちゃんは笑いながら逃げた。ヤスが校門から私たちのことを見ている。この頃にはまだ、ヤスはいた。
「ああ、あのおかっぱの」
「今はおかっぱじゃねぇで。町役場の生活課で働いとる。もしかしたらすぐにおめぇも会うかもしれんで」
ケンちゃんのいたずらっぽい笑顔に、過去の少年の面影を見た気がした。目は相変わらず瞑っていたが、私にはケンちゃんが本当に笑っているように見えた。
視界がだんだんと明るくなってくる。石段の終わりが数十メートル先に迫っていた。天井の緑が次第に青い空の色に取り変わっていく。
「もうすぐじゃの」
そう言うとケンちゃんは、石段を二段飛ばしで駆け上がって行った。私も慌てて後を追う。
石段を登り切ると、ケンちゃんは祭壇の前に立ちトマトを供えているところだった。見るとそこにはトマトだけではなく、様々な夏の野菜や地元特産の魚の干物などが供えられていた。
「今日は夏祭りじゃけぇのう」
私も横に並んでトマトを供えた。ケンちゃんはあの時と同じように、手を合わせ頭を垂れる。私もそれに倣った。
目を瞑り手を合わせると、周りの音が遠退く気がする。プールに潜って外の音を聞くようなくぐもった音に聞こえる。蝉の鳴声、鳥のさえずり、風で樹々が揺れる音、その全てが渦を巻いて体を包み込むような気がする。砂利の擦れる音で私は目を開けた。
「あそこで食おうや」
ケンちゃんはトマトを私に放り、あの日休憩した木陰を指した。
熟れているのに張りがある。吸い付くように収まったトマトは、手の中で赤く光っていた。
「東京いうたら何があるんなら」
ケンちゃんを見ると、トマトの果汁で濡れた手を首からかけたタオルで拭っていた。
「なんでもあるよ。なんでもあり過ぎて自分でも何が欲しいのかがわからなくなる」
「ほうか。でも、俺の一番欲しいもんはねかろうのう」
今日見た中で最も暗い表情だった。長く蓄積された怨嗟が、ケンちゃんの中からこぼれ出てしまいそうだった。この表情を見て、私は何を思えばいいのか。高校を出て東京に逃げ、のうのうと大学生活を送り、その上麻衣子という彼女を見つけ同棲していた。その間の生活が自分にとって幸福だったか不幸だったかはわからない。だが、この地に残ったケンちゃんから見れば遥かに眩しいものだったに違いない。
なんでもある。自分の考え足らずで軽薄な言葉に吐き気がした。ケンちゃんはずっと闇に対峙しヤスの亡霊と向き合ってきたのだ。
「懐かしいのう、このトマトの味。よう盗みよったがなあ。俺と和夫は逃げられるけど、ヤスはよう捕まって、東奥のおっさんに怒られよったが。あの頃とおんなじ味じゃ」
寂しそうに遠くを見て笑うケンちゃんの顔を、私はまっすぐに見ることができなかった。
「ケンちゃん、今日俺をここに呼んだのはなぜなんだ」
ケンちゃんは口元に浮かべた笑みを止め、遠くからゆっくりと近くのものへ視線を移し、最後に焦点を私に合わせた。そのゆっくりとした所作は、見ているものを過去から現在に手繰り寄せているようだった。
「なんで言うて、手紙に書いとったじゃろう。ヤスとの約束を果たすんじゃ」
ヤスとの約束? 私はそう思ったが、口にはできなかった。ケンちゃんの目はいたって真面目だったからだ。
ヤスとの約束とは、この祭壇に供え物をして手を合わせることではなかったのか。今はもういないヤスを、私と一緒に弔うことではなかったのか。
「約束って、ヤスはもう」
「生きとる。ヤスは生きとるんじゃ」
ケンちゃんの声には僅かな怒気が含まれていて、私は言葉の先を失った。
「俺はのう、あれからずっとこの祭壇に供え物をしてきたんじゃ。祭りの時だけじゃねえぞ、三日に一回は、必ず食いもんやらなんやらを供えてきた」
屈強な脹脛は、十数年もの間この祭壇に続く階段を登り続けて出来上がったものなのだ。そう理解した。そしてヤスに向けるケンちゃんの想いの深さに、私の罪の意識はいやました。
「和夫、あの時俺が話したこの谷の伝説、覚えとるか?」
忘れるはずはない。ここであった全てのことは、いくら忘れようと努力してもその努力が過去の記憶を呼び戻す引き金となり、けして忘れられない記憶として色濃く刻み込まれていた。その色は褪せることなく、今も頭の中で鮮明な色を湛えている。私はうなずいた。
「のうなっとるんじゃ」
「なくなってる?」
「そうじゃ。供物がのうなっとる。供えた日の翌日、供物は一個も残らんとのうなっとるんじゃ」
「そんなの、野良犬とか猪の仕業じゃないのか?」
そう言いながら、私はあの時見た異形の化物のことを思い出していた。ケンちゃんから聞いた伝説では、供物を祈祷師が持って行ったのではないかという話だった。祈祷師は、灰色の毛で全身を覆われた化物だ。
あの時感じた緊張が、確かな重みを持って胃に垂れ込める。口の中に苦いものが広がった。
「違う、それはねぇ。野生の生き物が持ってったんなら食い散らかしたような跡が残るはずじゃ。でも、そんな跡はねぇどころか、包装紙や瓶なんかも綺麗さっぱりのうなっとる。誰かが持って行っとる証拠じゃ。俺はそれがヤスなんじゃねえかと思うとる」
それはヤスではなく、あの時の化物ではないのか、そう言いたかった。しかしケンちゃんの目は、私が何かを言うことを許してはくれなかった。
「それを確かめるんじゃ。和夫、狼穴に、俺と一緒に行ってくれんか」
ケンちゃんは、私の目をまっすぐに見ながら言った。目の色は恐怖を覚えるほどに真剣なものだった。誰であれ、その目を見て断れる者はいないだろう。私は首を、ゆっくり縦に振った。首筋を伝う汗が、妙に冷たかった。
私たちはあの日と同じように、祭壇脇にあるダムに抜ける道を進んだ。しばらく進むと見覚えのある鉄条網が見えたが、そこにある扉には頑丈そうな南京鍵がかかっていた。以前来た時には鍵などかかっていなかった。
「あの事故があってからここには鍵をかけるようになったんじゃ」
私の心を読んだように、ケンちゃんはそう言ってポケットから鍵束を取り出す。
「俺は高校を出てからずっとここの守り番じゃ。この谷の管理人を任されとる」
麓の老人が言った、管理人が良いと言っているのだから上がれという言葉を思い出した。私はてっきりあの老人が管理人だと思っていた。
「ここの管理人って、ケンちゃんのことだったのか」
「そうじゃ。もちろん仕事とは別にじゃけどな。あの時と同じようなことが起きんように、今は俺が見張っとる。でも、その守り番が掟を破っちゃあいけんよなあ」
ケンちゃんは言い訳するように頭を掻き、笑いながら南京錠を外すと扉を押し開いた。扉の軋む音はあの時と変わりなく、私の心をざわつかせた。
私たちはダムに沿って歩く。巨大なブラックバスがいると言われていた池には相変わらず川エビとカワムツしかいなかった。
不意に何かの気配を感じた気がして谷の奥を見る。そこには何もいなかったが、暗い森の奥から何かが見ている、そんな気がした。
「和夫、どねぇした恐ぇ顔して」
気のせいだ、何もいない。自分に言い聞かせるように胸の中で呟いた。
「なんでもないよ」
谷の奥から吹く風に、植物の腐った匂いを感じる。その中に獣が発するような生臭さを嗅いだ気がして、私は身震いをした。
張り詰める腕と脹脛の筋肉、四本の手足を使って振り子のように身体を跳ね上げ岩の頂きに立つ。
「さすがじゃのう。フリークライミングサークルは伊達じゃねぇな」
「こんなのはフリークライミングとは言わないよ。ただの山登りだよ」
この山の、谷の感覚を忘れたかった。なのに私は、なぜ山岳サークルになど入ってしまったのか。それが唐突にわかった気がする。
忘れたいのに愛しているのだ。山の音や匂いや空気、ゴツゴツとした岩の感触、目の前にある岩山を越えた時の高揚感、それらは幼少期から自らの身に染み込んでいて、それらなくして今の私が形成されることはなかった。心が否定しても体が欲しているのだ。腹が減れば飯を食う。それと同じにして私は山に登り続けていた。一手を誤ったからそれを取り返すためにだとか、そんな言い訳じみた理由ではなかった。ただ、山を登りたかった、それだけの理由だったのだ。
「この匂い懐かしいな。まるで子供の頃に戻ったみたいだよ」
得体のしれない化物が待っているかもしれない、そのことをわすれたわけではなかった。どこかでそんな化物はいない、自分はもう大人だ、もし何かあったとしても、今の自分ならうまく対応できるはずだ。そんな油断があったのかもしれない。私は、時折顔にぶつかる風を感じながら呟いた。
「ほうじゃのう。でも、あの頃にはもう戻れんのじゃ」
「ごめん。つい」
ケンちゃんの暗い声にはっとして私は謝る。
「謝らんでええよ。俺もそう思っとった。ただ、昔を思い出したらやっぱりヤスのことを思い出すでのう。それより、あそこの岩棚覚えとるか?」
ケンちゃんは谷の上に張り出した大きな岩を指した。その奥には、あの時と同じように橙色に熟れた枇杷がたわわに実っている。
「覚えてるよ。あんなに美味い枇杷は食べたことがなかったからね」
「よっしゃ。あの時みてぇに俺が獲って来ちゃるわ」
言うが早いかケンちゃんは、岩に飛び付き登り始めた。
あの頃は難なく登れていたのに、大きくなった体が邪魔をしているのか、ケンちゃんはことの他岩山に手こずっていた。
「ケンちゃん。俺が登ろうか?」
「大丈夫じゃ。ここに手をかけて、次にここ」
違うそこじゃない! そう口にする間もなく、ケンちゃんは手を滑らせ岩山からずり落ちてしまった。
「大丈夫か!」
痛みに耐えているのか、ケンちゃんは右手を押さえながら苦々しい表情を浮かべていた。押さえた掌の隙間から、血が流れ出す。ケンちゃんが落ちた岩山を見ると、岩の一部が飛び出して、鋭利な刃物のようになっていた。
「手を外してくれ」
ケンちゃんが恐る恐る手を外すと、一気に血が溢れる。
「まずいな。ちょっと腕を上にあげて待っててくれ」
私はナップザックからペットボトルを取り出すと、ミネラルウォーターを傷口にかけ血を洗い流した。ケンちゃんが苦しそうに声を上げる。傷口はかなり深く、パックリ割れた箇所から白い皮下脂肪が覗いていた。早く応急手当をしなければ。
ナップザックの中に手を突っ込み乱暴に引っ掻き回す。目当てのものは一番奥にあった。簡易救急セットから止血帯を取り出し腕をきつく縛る。出血が緩んだところを見計らい、砂利などの異物がないかつぶさに調べるが、特に見当たらなかった。
「ちょっと沁みるけど我慢してくれ」
続けて抗生物質を含む軟膏を取り出し、傷口に塗り込む。水よりも痛みは強いはずだが、ケンちゃんは歯を食い縛って耐えていた。
「これだけ傷が深いと病院に行かなきゃだめだ。引き返そう」
包帯を巻きながら言うが、ケンちゃんは首を横に振る。
「だめじゃ。今日じゃねぇとおえんのじゃ、今日じゃねぇと、俺は俺の気持ちは……」
「でもこの腕じゃ」
「ええけぇ、大丈夫じゃけぇ。それにもう痛とうねえ」
痛くないはずはない。それはケンちゃんの額に流れる脂汗を見てもわかる。危険だ、引き返したほうがいい、そう言いたかった。しかし、ケンちゃんの頑なな目は、私にその言葉を口にすることすら許してはくれなかった。
「わかったよ。でも、少し休憩しよう」
代わりに出たのは、そんな言葉だった。過去の過ちを、また繰り返すのか。自分の中の何かが問うてくるが、それに応えられる答えを、私は持ち合わせていなかった。身体は大きくなり大人になったつもりでも、自分はあの頃から何も変わっていないのかもしれない。
「ケンちゃん水だ。そこの川で汲んで来た。俺も飲んだけど、やっぱり美味いよここの水は」
「あの時はヤスじゃったのう。兄弟揃ってほんまに間抜けじゃ」
私の声にケンちゃんは応えなかった。目は私を捉えておらず、どこか山の上の方を見ていた。
「ケンちゃん?」
「のうヤス、聞いとるんじゃろ? 返事してくれや。兄ちゃん怪我してしもうた。ちょっと見てくれや」
ケンちゃんの目に涙を見た。言葉の最後の方は、くぐもって聞き取れなかった。ケンちゃんの精神に限界が近づいている 、私はその時そう思った。命の重圧と責任を、十数年に渡って背負い続けてきたのだ、まともでいられる方がおかしい。
「枇杷、俺が代わりに獲ってくるよ」
ケンちゃんは、聞こえているのかいないのか何も応えなかった。岩棚に腰かけたケンちゃんの横に、ペットボトルをそっと置く。頑強に見えたその肩は、小刻みに震えていた。
岩山の前に立ち、頭の中に道筋を描く。ケンちゃんの腕を切り裂いた突起は、太陽の光を鈍く反射していた。軽く屈伸をして、身体の筋肉を解す。ここまで登ってきた疲労が僅かに感じられたが、問題ない、岩山を登るのは簡単だった。
枇杷の実に手を伸ばしかけた時、あることに気がついた。いくつか不自然に実がもがれた痕があるのだ。誰かいるのか? 不意に湧いた疑問に身体が震えた。
勘違いだ、猿か何かに違いない。そう自分に言い聞かせても、あの時見た化物の姿が脳裏にちらついて、少しの間その場から動くことができなかった。
「ケンちゃん、枇杷獲ってきたよ」
水を飲んで少し落ち着いたのか、ケンちゃんは「すまんな」と言って笑った。
「腕の調子はどう?」
「なんか知らんけど大丈夫じゃ、痛くねえ。和夫の処置がえかったんかのう」
ケンちゃんの額に流れていた汗は、いつのまにか引いていた。本当に痛くないのだろうか。
「それにしてもようけ獲ったのう」
私はビニール袋一杯に詰めた枇杷を見る。
「ああ、ちょっと小腹が空いたんだ。それに、もうそろそろ三時だしね。おやつ代わりにと思って」
太陽は少し西に傾きつつあった。
「そりゃまた豪華なおやつじゃのう」
笑うケンちゃんを見て、少し安心した。腕の傷は思ったよりも深くなかったのかもしれない。
ケンちゃんの横に腰を下ろすと枇杷を頬張る。相変わらず信じられない美味さだった。
「ほしたら行こうか。はよせにゃ日が沈むで」
十五分ほど休んだところで、ケンちゃんが腰を上げる。立つ時に少し顔を歪めていたが、「大丈夫じゃ」と言って、私が何も言わないのに制した。
怪我をしたケンちゃんの足取りは悪く、後ろから私がサポートしても、怪我をする前の半分ほどのペースになった。
西に傾く太陽の速さが、私の心を苛立たせた。夕日の赤は、足元をぼやけさせる。何度も帰ろうと言いかけたが、その都度ケンちゃんが「すまんのう和夫」と言う。そのタイミングは、私の心を読んでいるのかのように絶妙で、私は何度も言葉を飲み込んだ。
「ここじゃな」
ケンちゃんが立ち止まる。月日が経ち地形が変わったのか、前来た時にはなかった草木が狼穴の入り口を覆っていた。
草木は、私たちを拒むような形で群生していた。日は既に沈みかけ、空を不吉な赤に染め始めていた。遠くの方でグロテスクに染まった積乱雲が、この先に待つ不吉な何かを示唆している、そんな気がした。
草木を避け雑草を薙ぎ倒し、無理やりに体をねじ込んで行く。雨などで増水した時にでも取り残されたのだろう、小さな水溜りがあり、そこから黒い蚊の大群が、うわっという音を立てて舞い上がる。藪の中からはうんかが飛び出し、手や顔に群がる。
私は目と口をきつく結び、逃げるようにしてそこを抜けた。鼻の中で、数匹の虫が暴れている。でたらめに鼻から息を吐き出すと、粘ついた体液に塗れた小さな虫が、地面に落ちた。そこで蠢く虫を見て、藪を焼き払いたい衝動に駆られる。
「前はこんなのなかったのに」
「あれからもう二十年近く経っとるけえの。地形が変わっとんのかもしれん」
私のぼやきにケンちゃんは応えて、そのまま進んだ。
足元には腐葉土が堆積してぬかるんでおり、気を抜くとすぐにでも足を取られそうだった。
おかしいな、進んで行くうちに私はそう思った。以前通った時は、もっと道幅が狭く、足元には水が流れていた。あの泉は枯れてしまったのか、今は水が流れていない。それにあの時感じた違和感も、あまり感じられない。不気味な雰囲気は肌にまとわりついていたが、微かな音も幽かな影も獣の臭いもしなかった。
しばらく進むと、赤く染まった空はいつのまにか浅葱色に変わり、私たちの進む先は、暗い影に塗り潰された。私はナップザックからマグライトを二本取り出すと、ケンちゃんの手に持たせる。鋭く刺すような白い明かりは森の陰影を深くし、暗闇を際立たせた。
一体いつになったらあの泉に着くのだろうか。泉が枯れたとしても、あの場所は行き止まりだったはずだ。記憶が確かならば、もうそろそろ着いてもおかしくないはずだった。
「おかしいで、和夫。前来た時と違う気がする」
ケンちゃんは立ち止まると、周りの様子を伺った。
「前はもっと道が狭かったし、こんなに植物は生えとらんかった」
「確かに俺もおかしいと思ってたよ。少し、戻ってみないか」
「そうじゃな。もしかしたら道に迷うたんかもしれんしな」
私たちは、念のためにもう少しだけ進むと、何もないことを確認して来た道を戻り始める。
「和夫、ありがとうな」
「なんだよ急に」
「お袋さんから聞いたで。こっちに帰って来る暇もないくらい仕事忙しいんじゃろ? それじゃのに、わざわざ帰って来させてすまんかったのう」
それは嘘なのだ、とは言えなかった。私は故郷から、狼谷から、ヤスから、ケンちゃんから逃げていたのだ。
「そんなこと、大丈夫だよ」
「ほうか。でも……、いや、なんでもねぇ」
ケンちゃんが言い淀む。でもの先は、何を言おうとしたのだろうか。表情を伺おうにも、暗くてよくわからない。ただその先は、聞きたくないようなものの気がした。
マグライトの小さな光の円を頼りに、ひたすら来た道を戻る。空の色も紫紺になり、太陽の名残は完全に消えた。代わりに現れたのはぶちまけられたような星々で、その一つ一つは眩しいほどに輝いていた。
足元を照らす白い光の輪の中には、明るい色は存在しなかった。朽ちた葉の栗色、剥がれ落ちた樹皮の灰色、流されて溜まった土の焦茶色、そんな暗い色ばかりだった。だからその色を見た時、初めはなんだかわからずに通り過ぎてしまった。
「ケンちゃん、ちょっと待って」
「どねぇした和夫」
「ちょっと戻ってくれないか」
「でもそっちは違うかったが」
ケンちゃんは怪訝そうな声で応える。
「いや、少しだけでいいんだ。何か変なものを見た気がするんだ」
「変なもの? そりゃあなんでぇ」
「わからない。でも、あってはいけないものがあった気がする」
背筋を不快な感覚が這い上がってくる。このまま入口まで戻り帰ってしまえばいいではないか。そんな思いが不意に沸き起こるが、「わかった」とケンちゃんが応えた。私は不快感を、唾と一緒に飲み込んだ。
私たちは来た道を戻りはじめる。足元の光に意識を集中する。焦茶色、灰色、栗色、黄土色、深緑色、――橙色。
それは、まだ剥いて間もない枇杷の皮だった。何かが枇杷の皮を剥き、食べた証拠だった。
何かが捥いだ枇杷の実の跡。あの時枇杷の木の前で感じた、不安な感情が蘇る。
「なんでこねぇなところに枇杷の皮が落ちとるんじゃ」
ケンちゃんは枇杷の皮を拾い上げる。
「まだ新しいのう」
ケンちゃんは、マグライトで枇杷の皮を拾った付近を照らした。
「こんなところに」
そこには、藪で見えにくくなってはいたが、嘗て私たちがくぐった狼穴の入口があった。草木に侵されていない岩でできた道。足元には水が流れ、大きな樹々が天蓋のように上部を覆っている。間違いなくあの時通った道で、その先には、恐ろしいほどに透き通っている、嘘のように美味いあの水を沸き立たせる泉があるはずだった。
ケンちゃんは無言で藪を掻き分けると、そのままくぐって行く。眠りを妨げられた羽虫が、マグライトの明かりに群がる。私は一旦ライトを消した。途端に辺りは闇に包まれ、明かりはケンちゃんの持つマグライトだけになった。その明かりを頼りに藪を抜けると、嘗ての記憶がまざまざと蘇る。岩の壁も樹々の天蓋も足元を流れる水も、何もかも全てが変わっていなかった。暗くともそれがわかる、それ程までに変わっていなかった。あまりに変わらなさ過ぎて、私は時間を超えてしまったのかと思ったほどだ。
ふと気がつくと、羽虫がケンちゃんの明かりに群がっている。それを見て 私は慌ててライトを付けた。羽虫の半分が私の元に集まる。もうケンちゃんだけに責任を負わせてはならない。そんな私を見てか、ケンちゃんは不思議そうな顔をした。
「どうしたんなら。怖ぇんか」
怖いか怖くないか、それはわからなかったが、ケンちゃんに対する罪の悔恨を、どうにか悟られまいと口ごもった。
「そうか、俺は怖くねぇ」
私の曖昧な返事を恐怖ととったのだろう、ケンちゃんはそう言って前を歩き始めた。置いて行かれまいと私も慌てて後に続く。
本当の狼穴に続くと思われるこの道に入った途端、あの時感じた違和感が、体を色濃く包むのがわかる。あの化物のテリトリーに入ったのだと思った。
道を進むに連れて、違和感が確かなものに変わっていく。ケンちゃんは怖くないと言っていたが、この違和感に気づいていないのだろうか。
どこからかあの化物が様子を伺っている、そう考えただけで、胃の中に不快な痛みが広がる。大人になったから怖くない、体が大きく成長したから怖くない、そんなものはまやかしだ。得体のしれないものに対する恐怖に、大人も子供もない。人間が持つ根源的な本能が、この場所は危険だと訴えかけてくる。恐れる理由はそれだけで十分だった。
「ケンちゃんは、なぜ怖くないんだ。あの音が聞こえないのか。この臭いに気がつかないのか。あの影が見えないのか」
逃げろ、私の中の何かが言う。私はそれに従いたかった。
「あれからのう、俺はこの谷のことを、地元の文献から伝承、果ては爺婆の話まで聞いて調べに調べ尽くしたんじゃ」
質問の答えになっていない、そう思い声を上げるが、ケンちゃんはそれを無視して続ける。
「水害とこの谷との不思議な因果関係、確かにこの谷に悪さしたもんがおった年や、その次の年なんかにゃあ水害が多いことも確かじゃった。でもな、この谷に足を踏み入れたもんがおる年でも、水害がねぇ年があることに、俺は気が付いたんじゃ」
ケンちゃんが何を言っているのか理解はできても、意味がわからなかった。今ここでそれを言う意味はなんなのだ。得体のしれないものを把握し識ることで、恐怖が薄れることはある。だがそれは、あくまで知識の上の話であって、実際の身に危険が及ぶ段になっては全く意味をなさない。知識で病気が治るのならば誰も苦しみはしない。今私たちがすべきことは、早々にここから立ち去ることなのだ。
「ケンちゃん、ここは危ない。あの時の化物が襲ってくるかもしれない。早くここを出よう。――聞いているのか」
歩みを止めないケンちゃんの肩を掴み、前後に強く揺すった。二つの光の輪があちこちに暴れまわる。私の目は、その輪の中に何かの影を見た。灰色の影、あの化物ではないか、そう思った時、全身の毛が粟立った。
「ケンちゃん、早く行こう。この谷から出よう」
私の声が辺りに響きそれに驚いたのか、遠くで雉の鳴く声がした。ケンちゃんの目は虚ろだった。ケンちゃんが何か得体のしれないものになったような気がした。私は肩から手を離し、唾を飲み込む。自分の喉が鳴らす小さな音でさえも、恐怖に感じた。
この谷は、山は、ここにある全てのものは、ケンちゃんであれなんであれ、私に害をなすものだ。
「和夫、何をそねぇに怯えとんなら。話は終わっとらん」
ケンちゃんが振り返る。ケンちゃんの肩越しに、あの恐ろしく透き通った泉が見えた。泉からはコンコンと水が溢れ出している。
「俺はこの谷に踏み入ったもんがおった年で、水害がなかった年に何があったか知りてかった。じゃけぇ爺婆に、その時の奴はどこにおるんじゃ言うて訊き回った」
「そんな話はどうでもいいじゃないか、早く」
「ええけぇ黙って聞けぇ!」
ケンちゃんの怒号に私の声は立ち消えた。
「ほしたらのう二人だけおったんじゃ。一人は頭がおかしなってしもうとって話しにならんかった。年でボケとったんかもしれんけど、それはまあえぇ。問題はもう一人じゃ。それは爺さんじゃったんじゃけど、泉は見つけたけど怖なって、そのまんま帰ってしもうたて言いおるんじゃ。分かるか? 俺らが前にここに来た時との違いが」
私はケンちゃんの目に宿る怪しい光に身を竦ませ、何も言うことができなかった。
「分からんのんか、泉じゃ。俺らは、泉を穢してしもうたんじゃ」
黙っている私に苛立ったように、ケンちゃんは言った。
「穢す?」
「そうじゃ。穢い手でこの泉の水に触れ、水を飲み、ヤスに至っては体ごと泉に入ってしもうた。怪我した腕から血まで流した。そねぇなことは、ここでは絶対にしちゃぁいけんことなんじゃ」
泉に流れ出した、薄らピンクに染まったヤスの血の色を思い出した。
「さっき俺は、文献も伝承も調べた言うたじゃろ。俺が調べたんは地元の文献や伝承だけじゃねえ。日本各地には、水分と書いてミクマリて読む地名や神社がいっぱいあるんじゃけど、和夫は知っとるか?」
始めて聞く言葉に、私は首を振った。
「まぁ、知らまぁな。水分言うんはな、諸説あるんじゃけど、総じて水源地や水源地におる水と山の神さんを指すことが多いんじゃ。ほんでその水源には神の化身として、やれカッパが住んどるじゃの物怪が住んどるじゃの言われとる。俺はな、その物怪のことも調べたんじゃ」
ケンちゃんが物怪と言った瞬間、頭上で樹々の擦れる音がしたが、もう勘違いなどとは思えなかった。その音が聞こえたのか聞こえなかったのか、ケンちゃんは続ける。
「ほんである時、ある文献を偶然見た時じゃった。俺は震えたわ。そこには、あの日見た化物そっくりな生き物が描かれとった。更に俺の知りたいことが全部書いてあったわ。俺はこれでヤスを救える、そう思うた。じゃけぇ和夫、おめえを今日ここに呼んだんじゃ」
その声には、怒りや悲しみ諦めなど、あらゆる負の感情が込められている気がした。中でも強く感じたのは、全てを賭してでも、事を全うするという決意の思いだった。
ケンちゃんは持って来ていたナップザックから、木製の風呂桶のようなものを取り出し、水に直接手が触れないよう慎重に泉の水を汲んだ。泉に波紋が広がり湧き出す水の山が乱れる。
その時だった。頭上で木が大きくしなるのが見え、黒く大きな影が宙を舞った。黒い影は岩の壁を蹴り、静かな着地音を立てて地面に降り立った。獣の臭いが辺りに濃く立ち込める。あの時ヤスを捕らえた異形の化物、それに間違いなかった。私は恐怖で一歩後退る。
「来たな、ヤス」
ケンちゃんの意外な言葉に、一瞬私は耳を疑った。
「なんだって?」
「何を驚いとんなら和夫」
ケンちゃんの目は、どこか狂気にも似た色を湛えていた。
「ヤスはなあ、この泉の水を浴びてしもうて、先代からこの谷を守る役目を引き継いでしもうたんじゃ。ほんでヤスを救うためには、こうするしかないんじゃ」
ケンちゃんの狂気染みた目が怪しく光り、手に持つ桶を高く掲げたその瞬間、私は目を瞑った。
「やめてや兄ちゃん!」
洞窟内に響く化物の声。洞窟内に響き渡る水の弾ける大きな音。小さな飛沫が顔にかかる。
どれくらいそうしていただろうか。それは短い間に違いなかったが、私には、永遠の時のように感じられた。ゆっくり目を開けると、目の前には、頭から泉の水を被ってびしょ濡れになったケンちゃんがいた。
「ヤスぅ、こうするしか、こうするしかおめえを助けることはできんのじゃ」
ケンちゃんはそう言うと、崩れるようにその場でへたり込んだ。私はケンちゃんのいる場所へ駆け寄ろうとしたが、それよりも早く化物が駆け寄る。この化物が、本当にヤスだと言うのか。
「ヤス、でえれぇ長ぇこと待たせたのう。兄ちゃん、約束忘れたわけじゃねかったんじゃで。ほんの少し、勇気が出んかったんじゃ。すまなんだのう」
「えかったのに、約束なんか忘れてくれてえかったのに、なんでこねぇなことしたんじゃ」
ざらついた声は、幼かったヤスのものとは似ても似つかなかった。だが、ケンちゃんにかける声には、信頼と親しみの響きがあった。他人などでは決してない、姿形は違う、それでも二人は兄弟なのだ。
「ケンちゃん、最初からこのつもりだったのか」
私は、二人を見ながらその場でうな垂れた。熱く苦い思いが、胸の中に沸き起こる。
「和夫、多分ヤスはこの後、消える。今度は、俺がこの谷を守る番じゃ。おめぇをここに呼んだんはな、この谷のことを知った上で、俺の代わりに谷の入り口を守ってくれるよう頼むためじゃった。勝手なことを言うとるんはわかっとるつもりじゃ。仕事もあるじゃろう。でも、こんな悲しいこたあ、俺で終わりにしてぇんじゃ。俺の最後の頼みじゃ思うて、頼まれてくれんか」
ケンちゃんの声には、申し訳ないという響き以外、なんの感情も感じられなかった。それを聞いて、私はただ涙ぐみながら、頷くしかできなかった。
「和夫、ありがとうな。ほんならもう、行ってくれぇ。俺はもう、なんかしらんけど、すげぇ、眠いんじゃ」
ケンちゃんは、途切れ途切れに消え入りそうな声でそう言うと、ダムの入り口の鍵を、私に向けて放った。私は暗さと涙で、鍵を受け取り損なう。足元に転がった鍵が、甲高い音を立てた。
鍵を拾うと、私は二人のために、ナップザックの中にある食べ物や飲み物、医療品など全てをそこに広げ、その場を後にした。二人にかける言葉は、何もなかった。
狼穴を抜けると、辺りは鼻を摘まれてもわからないほどに暗く、小さなマグライト一つではかなり足元が頼りなかった。それでも私はなんとか谷を下り、ダムの脇を抜けて祭壇の前にたどり着いた。
私は空になったナップザックを足元に置いて、ケンちゃんがしていたように手を合わせ深々と頭を垂れた。目を瞑ると重い疲労が私を襲い、頭の中に靄がかかったような感覚になる。あたりは静寂に包まれていた。
しばらくして目を開けると、祭壇の脇にあの時のビー玉が置いてあるのに気がつき、私はそれをそっとポケットに忍ばせた。その時谷の奥の方で、遠吠えのような声が聞こえた気がした。
私はそのまま歩いて実家に帰ると、急な帰郷を訝しむ母たちを遮り、そのまま自室にこもって死んだように眠った。
夢を見た。細かく覚えていないが、悲しいような。幸せなような夢だったと思う。
翌日ポケットに入っていた鍵とビー玉を見て、昨日の出来事は全て現実のことだったのだと悟った。
御欠席の『御』に斜線を引き、文字全体を○で囲む。どうせ斜線で消さなければならないのなら、初めから印字などしなければ良いだろうに。そんなことを思いながら、町役場の入口にあるポストに葉書を投函した。初め葉書が来た時、過去の同棲相手に結婚の案内を送るとはどういう了見だと思ったが、麻衣子らしいな、とも思った。
岡島が、この間泣きながら電話をしてきた。麻衣子の友人にはふられたらしい。誰かいい人はいないかと言っていたが、自分で探せと言っておいた。
〈そんなこと言わないでくださいよ先輩。そっちにいい子いないですか?〉
「漁師の娘で河村って奴がいるがな。婿を探していたぞ」
〈いいですね! 僕ちょうど漁師に憧れてたんです。その子可愛いですか?〉
私は河村の屈強な体格を思い浮かべる。可愛いかどうかと訊かれると少し自信がないが、島育ち独特の彫りの深い顔は、整っていると言えなくもない。
「可愛いかどうかはわからんが、整っているとは思うぞ。健康的な娘さんだよ」
週末行きます。そう言って岡島は電話を切ってしまった。
河村の親父さんは娘以上に屈強な体躯を持っている。岡島の涙する顔が思い浮かんで、私は苦笑いを浮かべた。
「何笑っとんよ。早くこことここ、それからここに判子。うちも忙しいんじゃけぇさっさとしてや」
生活課と書かれたプレートの列には、私しか並んでいなかった。というよりも、町役場自体に、私以外では職員しか人間がいなかった。目の前のカウンターには、山本と書かれた名札を付けた女が座っている。髪型はおかっぱではない。
「忙しいって言ったって、他に誰もいないじゃないか」
「何その気持ちわりいしゃべりかた。おかまみてぇじゃ」
「和夫、帰ってきたんじゃのう。ケンから話は聞いとるで。これからはおめぇがあの谷を見るんじゃの」
団扇をパタパタさせながら、中年の男が近づいて来る。父の級友であり、この役場に勤めている坂本さんだった。
「いいんですか主任、こんな得体のしれん男に任せて」
「得体のしれん言うて、山本さんあんた、和夫が帰って来る言うてちょっと喜んどったが」
「主任! いらんこと言わんでもらえますか」
坂本さんが言い終わらないうちに、山本は大きな声を上げた。
「判子、押したよ? これでいいかい」
差し出した書類を、山本はほとんど見ずに坂本さんに突きつける。
「すみません、後お願いします」
山本は席を立ち、建物の奥に消えて行った。坂本さんは、そんな山本の様子をニヤニヤ笑いながら見送った後、急に真面目な顔になって私を見た。
「ケンも長ぇことあの谷を看とったけぇの。和夫が帰ってきてくれて良かったわ。あいつはもうそろそろ、自分の人生を生きにゃあおえん」
「そうですね……」
坂本さんの言葉に、私は声を詰まらせた。
「すみません、もう行きます」
「おう、みっちゃんによろしくの」
坂本さんは、私の父親のことをあだ名で呼ぶ。私は短く応えて町役場を後にした。
あの後、町に水害は起こらなかった。ケンちゃんが、泉に直接触れなかったからなのかどうか、それはわからない。だが私は、そうなのだと考えている。
ケンちゃんはあの谷に行く前に仕事を辞め、身の周りの人間には一人で旅に出ると言っていたらしい。皆からケンちゃんの行方を聞かれたが、私は知らないとだけ答えた。ケンちゃんの両親に信じてもらえるかわからないが、折りを見てあの日のことを話したいと思っている。あの怒ると恐ろしいケンちゃんの父親に、また殴られるかもしれないが、私はむしろ殴られたいと考えている。
「ケンちゃん、今年も祭りの日が来たでのう」
祭壇には、この町で獲れた農作物や海の幸などが、山と供えられている。太陽はとっくの昔に沈み、空には満点の星が瞬き、辺りには虫が鳴いている。
「東奥のおっさんのトマト、今年もうめぇぞ。今度、一緒に酒飲みてえなぁ。なあケンちゃん」
私はビー玉を取り出すと、祭壇の端に置いた。月の光がビー玉を通って、光の影を落とす。
「今日はここで、一晩飲んでもええかのう、ケンちゃん」
少し生温い風が頬を撫でる。樹々が応えるようにざわついている。
「ほうか。んじゃ遠慮なく」
祭壇に供えてある一升瓶を取ると、手酌でコップに注ぐ。私はそこで、何杯も、何杯も、酒を飲んだ。
空に浮かんだ月が消え、太陽がまだ、東の空を飲み込む前、私はまどろみ、目を閉じた。
夢か、現か、遠くの方で、二人の、はしゃぐような、声を、聞いた気が、した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
自身が幼い頃に過ごした村が舞台になっていて、記憶を呼び起こしながら書きました。
田舎の風景など感じていただけたらと思います。




