初陣
第七連隊第三大隊将兵は塹壕にあった。砲声が彼らの耳をつんざく。辺りには硝煙が漂っている。
松田は歩兵銃を抱き雪子は息災だろうかと心の中で呟く。同連隊の二つの大隊は彼らの眼前にある要塞を攻撃し壊滅に近い打撃を受けていた。故に彼らは皆死を覚悟している。
「おい松田どうした顔を青くして」兵長はニヤニヤと笑った。この男は食堂にて松田と田中に出会ってから両名によく絡むようになった。松田は赤面し、「真柄兵長は戦場になれてらっしゃいますね」と言った。彼の声は震えている。
「こいつを吸え。そうすりゃちっとは心が落ち着く」真柄は小さくなった煙草を差し出した。「はぁ頂きます」松田はそれを呑む。ふぅと吐き出される息と共に恐怖や緊張が放出されたように思われた。
松田は右横の田中をちらりと見る。この美丈夫はほとんど動揺していないようであった。彼は精悍なる顔を敵陣に向けている。
俄に砲撃が止んだ。連隊長は徐に立ち上がり、サーベルの切っ先をある一点に向け、「目標前方トーチカ躍進距離七十突撃」と絶叫した。
突撃ラッパが鳴り響き、将兵が一斉に駆け出す。百余りの銃口が光り、無数の弾が射出された。断末魔を上げ、多くのと士卒が倒れる。ダイナマイトで以て目標を沈黙させた時には三分の一が死傷していた。
より要塞中枢に近づいたため銃撃は更に激しくなった。そんな中、真柄はキョロキョロと辺りを見回している。どうやら何かを探している風情であった。それは直ぐに見つかった。彼は松田と田中に俺についてこいと小声で言う。彼が求めていたのは敵の死角であったようだ。しかしと二人は中隊長を一瞥した。両人が躊躇うのはもっともだ。真柄が行おうとしていることは独断専行である。元亀天正の頃とは違い、近代以降の軍隊に於いてそれは許容されていない。まだ士官がやるのなら分かるが、真柄は只の兵に過ぎない。
「中隊長殿を説得していては戦機を逸するわい」真柄のこの言葉を聞き、そんなものかと半ば納得した二人はわかりましたと同意した。
三人はあるひとつの機関銃陣地を目指して進む。それは土嚢を積み重ねただけの簡素なものに過ぎなかった。幸いこのことに友軍は気づいていない。
敵は他の日本軍将兵に気をとられている。三人は彼らを背後から急襲した。
ロシア軍の士卒は不意の攻撃に対処できず、撃たれあるいは銃剣を突き刺されほとんどが戦死した。
しかし瀕死のロシア軍士官が撃った拳銃の弾が松田の胸部に吸い込まれた。真柄は松田と叫びその士官を突き殺し、松田に近づく。田中もまた松田の元へ駆け寄り、彼の名を呼んだ
松田は痛みを感じないことをいぶかみ右胸に手を遣る。彼はやっと胸ポケットの銀の煙草ケースが弾を防いだことを知った。
彼は雪子の愛が己を守ったような気がしてならなかった。何故ならそのケースは彼女からの贈り物だったからである。
ふと松田が攻撃軍本隊に目をやった刹那、一人の男がまるで糸の切れた操り人形の如く倒れた。
「連隊長殿」周りの士卒が叫ぶ。軍服の胸元には血が滲んでいる大内連隊長は最後の力を振り絞り「攻撃の手を緩めるな」とうめくように言い、事切れた。
この事は彼らに取り、衝撃的であった。同時の日本陸軍に於いては連隊とは一つの家族であり連隊長はその父だったからである。
されど銃撃は止まない。