五話 誰かにとってのDEADline・下上
「お嬢様、もう時間ではないのでしょうか?」
「もう少し待て」
ある老婦人のご好意で、私は小屋……もとい、お屋敷の一室を借りている。
今の私はあられもない姿、端的に言って下帯一つで腕を組んでいた。
外は薄暗い曇り空。 風は強い。
「これか」
「……決闘って、そんなに服にこだわる必要があるのでしょうか?」
「馬鹿め」
私は選んだ衣服を着るために、胸にサラシを軽めに巻いていく。
身体の線があまり出ない服でもあるし、胸を潰し過ぎても美しくない。
かと言って、サラシを巻かないでいると、跳ね回った胸が勢いよく肋骨を殴りつけてくる。
自分の胸でうずくまりたくなるような痛みを覚えるとは、女の身になってみなければわかるまい。
そして、はしたないが胸をテーブルの上に乗せる姿勢が一番、楽だという事を私は学んだ。
「人生で最後に見る人物が見目麗しい戦乙女と、髭がもじゃもじゃのむさ苦しいで不潔なおっさんとではどっちが心安らかにいけると思う」
「そ、そりゃあおっさんよりは……って、お嬢様、今さらりと自分を見目麗しい戦乙女と言いましたね」
「おや、爺。 私が美しくないとでも? ……というか上手く巻けん! 何を黙って見ているんだ、巻け!」
強過ぎず、弱過ぎずという微妙な線にならん……!
これは爺でなければ駄目だな。
「はいはい、わかりました……」
爺の手付きには遠慮がない。
だが、その熟練の技は私の思っていた通りの大きさに、胸をサラシの中に押し込めてくれた。
「うむ、見事だ。 褒めてやろう」
これならば斬られたとしても、無残なだけの屍を晒す事はあるまい。
身なりに気を使うのは、何も相手のためだけではないのだ。
「褒めてくれるより……どうかご無事で」
勝敗は兵家の常。
相手に十に九勝つ腕があろうと、一で負ける事がある。
普段なら不安げな顔で、私を見上げる爺に何も言う事はない。
だが、
「心配するな」
「お、お嬢様!?」
爺の整えられた髪をぐしゃぐしゃにするようにかき回してやる。
「勝つさ、私は」
相手は死に魅入られた亡者。
斬って捨てるが慈悲だ。
まぁその慈悲で極楽に行けるとは思っていないが。
「ほぅ……これはまた」
「賞賛の言葉なら受け付けているぞ」
一本松と呼ばれる場所は誰かに聞かずともわかった。
村から少し離れた小高い丘の上に、一本だけぽつんと松の木が生えている。
その周りだけが平らで戦うのに苦労はしそうにない。
「最後に看取っていただける、と喜ぶ所ですかな」
「いいや、眉をしかめて怒ればいいさ、もう勝ったつもりか、と」
教会のシスターが好んで着る服を、私は纏っていた。
灰色のロングスカートと、特に纏めていない金色の髪が風に揺れる。
「シスターに看取っていただける最後を迎えられるとは思っていませんでしたからな」
「似非だがね。 マゾーガは見届け人、爺は……なんでいるんだ?」
「あるぇ!? ぼ、僕も見届け人ですよ!」
「との事だが、構わないだろうか」
「ええ」
静かに頷いたグレゴリウス氏の周りには誰もいない。
仕立てはいいが、特に魔力の匂いのしないローブを纏い、手には何も持たず、ただ立っている。
その佇まいに武芸の匂いはせず、斬る気になればいつでも斬れるだろう。
「さて、始めようか」
「そうですね。 私とソフィア殿の間に、語るべき何かがあるわけでもありません」
グレゴリウス氏は右手を虚空に突き出し、一言呟いた。
「来たれ」
雷が走るわけでもなく、ただ最初からそこにあったかのように、一本の剣がグレゴリウス氏の手の中に現れる。
「これが私の最高傑作」
複雑怪奇な紋様がびっしりと刀身に刻まれ、脈打つように青く輝く。
柄は奇妙に、蔦のようにねじくれ、グレゴリウス氏の腕に深く突き刺り、鮮血を地面に滴らせていた。
「炎剣イフリート」
赤い炎が剣にまとわりついた、と思った瞬間、赤が蒼に変わった。
グレゴリウス氏の背後にそそり立つ松の木。
青々とした葉を蒼い炎が不思議なまでに、ゆっくりと包んでいく光景は、なかなかに美しい。
「狂っていますな」
「狂っていますとも」
だが、その炎は自らも焼いていた。
干からび、老いばさらえた皮膚が焼け、少しずつだが、グレゴリウス氏は燃えていっている。
「遣い手から魔力を吸収し、その全てを熱量へと変換する」
防御用の拵えもなく、ただ相手を焼くためだけの、魔剣。
これは確かに素晴らしい。
これだけの炎、受けようと思えばどんな魔術が必要だろうか。
「だが、それは剣ではない」
言うまでもない事を言った、という悔恨を足底で踏み潰し、私は前に出た。
技もなく、駆け引きもなく、ただ前に。
左手に魔剣を相手取るには、少しばかり頼りないナイフが一本。
私は一足一刀の間合いに、平然と足を踏み入れるが、
「爆ぜろ、イフリート」
「遅い」
ここに死の匂いはない。
突き出したのは右拳。 狙うは燃え盛る刀身。
自らを焼く炎は鋼の刀身すら溶かし、打てば折れる。
「なんと、まあ」
グレゴリウス氏は呆れたような呟きを漏らし、その胸に私はナイフを全力で打ち込んだ。
勢いあまり私の手から離れたナイフは、松の幹にグレゴリウス氏の身体ごと突き刺さった。
「冗談、のような話ですな」
磔にでもされたかのようなグレゴリウス氏の足元に、滝のような血が流れていく。
グレゴリウス氏は確実に死に致る。
「冗談のような世界に生きるのが武芸者というやつでして」
斬れば、斬れるのだ。
それは当たり前の話だが、無駄に我が身を傷付けるような力は必要ない。
「くっ……」
苦痛の声ではなかった。
「ククク……今更ながら、武芸者という存在が理解、出来ました。 これでは駄剣と呼ばれても、仕方ない」
口から逆流した血を吐きながら、グレゴリウス氏は笑った。
陰のない、すっきりとした笑みだった。
「チィルダを、持って行ってくださいませんか」
「……どういう意味だ」
「この……駄剣を鍛える事に、生涯を賭けた、私の……最低傑作です」
「どういう意味だと聞いている!」
「我が名が歴史に残らずとも、貴方の名は、必ず残る」
それがグレゴリウス氏の最後の言葉だった。
松の木に絡みついていた蒼い炎は魔力を失い、ただの熱となり、赤い炎へと生まれ変わる。
風が炎を煽り、グレゴリウス氏の身体を焼いていく。
私はその光景を最後まで見る気になれず、背を向けて走り出していた。