十三話 「ただの人間」 下中中
本気を出した魔王がすぐ目の前にいる。
一瞬たりとも気が抜けず、余計な物に割くリソースはひとかけらもない。
「なあ、リョウジ」
ソフィアさんの声は、いっそ穏やかと言ってもいいくらいで。
「は、はいぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
だというのに僕は反射的に振り返ってしまった。
「教えてくれないか、リョウジ」
「な、何をでしょうか……」
ソフィアさんは笑顔だった。
白い歯が輝き、目は細められて、一見笑顔に見える。
彼女は刀も納め、ただ立っていた。
「誰かに守られる剣士なんて、何の意味がある?」
「そ、それは……」
「いや、お前に答えを求めていない。 結論は出ている」
僕を見つめると、彼女は更に笑みを深める。
「お前に悪気がないのはわかってるんだ」
でも、と続くはずの言葉はない。
それが逆に背骨を引っこ抜かれて、氷柱をぶち込まれるような現実的な痛みすら感じてしまいそうな怖さを呼び起こす。
「そして、ここまで相手にされないのは久しぶりだ」
「あ?」
「いや、魔王にも悪気がないのはわかってるんだ。 斬る事が出来ない私は、貴様の敵にすらなれない」
誰から視線を外しているのか思い出した僕は、慌てて顔を戻した。
魔王もどこか戸惑っているのか、しきりに首を傾げている。
今、魔王は未知と遭遇しているんだ。
「ここまで舐められるのは久しぶり過ぎて、ちょっとどうしていいかわからないな」
「ソ、ソフィアさん……僕はそんなつもりじゃ」
「黙れ」
穏やかな声は反転し、白刃を首筋に突きつけられているかのような、張り詰めた一本の絹糸のような、そんな声だった。
「ここまで真っ正面から、私の誇りを傷付けた奴らは初めてだ」
『ら』!?
複数形になってるのは、なんでですか!?
そう聞きたくても、聞けるはずがない。
今、僕が感じている悽愴な剣気……悽愴な殺気はただの余波だ。
肌が強い死の予感に触れ一瞬で泡立ち、つむじの辺りがムズムズして、あっという間に胃に穴でも空いたんじゃないかと思うくらいキリキリする原因の、この殺気はただの余波に過ぎない。
「……カカカ、マジかよ」
魔王は強い。
全てを破壊する最強の矛を持ち、全てを防ぐ最高の盾を持とうとも、魂まで強くなるわけではないんだ。
本人の言葉を信じるなら、生後半年。
たったそれだけの期間で、ソフィアさんという存在を受け止められるはずがない。
「今日で終わりでいい」
彼女は笑っていた。
「私という存在がここで終わっても、いい」
穏やかな、津波が押し寄せる前の海が、さーっと引いていくような笑み。
「だが、お前を斬る」
「ふざけんなよ、おい……!」
拳で聖剣を殴り、痛みを覚えた様子もなかった魔王が、ただの殺気で一歩。
たったの一歩だが、確かに下がった。
「魔剣チィルダが主ソフィア・ネート」
より一層、笑みが強くなり、三日月のように歪む口元。
目に光はなく、夜の海のような暗い色合い。
彼女の身体は、いっそ風に吹かれて倒れてしまいそうなくらいに力の存在を感じさせず、ふらふらと左右に揺れている。
しかし、極限まで引き絞った弓を見てこの矢は撃たれないと思う馬鹿はいないように、その力の無さは一切の力を無駄にしないための動きだろう。
「貴様の身に、この名を刻んでやる」
ゆらり、と揺れるソフィアさんの一歩は魔王を言うに及ばず、僕よりもゆったりとした動きだ。
しかし、その一歩は何故か目に映らない。
実は瞬間移動していた、と言われても信じてしまいそうな距離の詰め方だ。
「まさか……!」
人間の意識という物は連続しているものではなく、メトロノームがリズムを刻むようにカチ、カチ、カチと僅かな空白があるらしい。
本人すら、本人だからこそ意識出来ないその意識の空白。
その意識の空白を突けば、八十歳を過ぎた老人が屈強な若者を苦もなく倒す事が出来る。
そんな剣道、いや、剣道だけじゃない、ありとあらゆる武術の極み。
棒立ちでソフィアさんを迎える魔王、そして僕。
「あ、あれ……!?」
催眠術にでもかけられたように身体が動かない。
ソフィアさんを意識出来ない僕は、ソフィアさんが近付いてきても、それが何なのかわかっていないらしい。
頭ではわかっている事が、身体には全く情報が行ってないせいで反応出来ないんだ。
そんな武術の極致と言ってもいい技を二人同時に使うなんて……なんで僕まで?
え、ひょっとして僕まで斬られ……そんなまさか。
「お嬢ちゃん……!」
言葉を返さないソフィアさんに、魔王はとりあえずといった様子で拳を振りかぶった。
ただ目標が定まっておらず微妙にズレていて、すでに当たる気配が微塵も感じない。
それに対し刀を抜いていないとはいえ、ソフィアさんが抜けば必ず当たるはずだ。
「だけど……」
あれだけ斬りつけても一筋の傷も与えられなかった魔王の防御を、一体どうやって抜くというんだろう。




