目覚め、そして……
4
「……っ!?」
意識を取り戻したとき、最初に働いたのは嗅覚だった。
太陽に晒された藁の匂い。そんな匂いにかすかに混じる糞尿の匂い。厩務員、そして、調教師として働いてきた僕にはすっかり馴染んだ匂い。そう、これは馬房の匂いだ。
「……お? 目が覚めたみたいだな」
うっすらと瞳を開けた僕の視界に飛び込んできたのは一人の男の顔。誰かに似ているような気はするが……思い出せない。
「先生、こいつ、ようやく目を覚ましましたよ。随分とズ太い神経しているみたいです」
「良いじゃねぇか。出張馬房で熟睡するくらい落ち着いているなら、今日のレースは安泰ってことだしよ」
先生と呼ばれた男の声は、大レース前のインタビューなどで何度も聞き覚えがある。松永博調教師だ。そして、最初に見た男は、松永を若くしたような顔立ちをしている。
そういえば、松永の息子が、調教助手だか何だかをしているんだっけ。きっと、こいつがそうなんだろう。僕は一人、納得する。
しかし、解せないのはなぜ、僕が松永厩舎のスタッフに囲まれているのか? ということ。松永厩舎のような名門ではないにせよ、僕も一応はJRAの調教師。こんなところで寝ていることはありえない。
それに、起きてからずっと感じている違和感がある。
なぜか、視野が広く感じられるのだ。
僕の目の前にはさっきの男・松永ジュニアがいる。そして、その奥に松永調教師。ここまではわかる。顔を向けているのだから。
だが、なぜか、そこから僕の横にある厩舎の壁。さらには、僕の背後と思われる場所まで視界に入っている。いつの間に、僕の視野はそんなに広くなってしまったのだろう。
それに、手足の位置関係もおかしい。腕を動かそうとすると、顔から随分と離れたところが反応する。それに、指を曲げることができない。
……いや、その前に、僕の身体ってこんなに大きかったっけ?
おかしなことと言えば、なぜ僕は馬房の側にいるのだろう?
馬房はその名の通り、馬が暮らす場所。掃除のために人間が入ることがないわけではないが、それはあくまでもその目的のため。少なくとも、馬房を占領して眠る、なんてことはありえない。
いや、もうこのとき、僕は理解していたのだと思う。
理解しているけど理解したくないだけで。
そう、自分が馬になってしまっている、なんてことは……
5
数時間後、僕は、何万人という観客が見守る中、ゆっくりと歩いていた。目の前には、僕の口からつながる手綱を手にした松永ジュニア。
そう、ここはパドックだ。
パドック、下見所。それは、次のレースに出走する馬が、ファンの前で周回し、その姿を披露する場所。競馬ファンは、その姿を見て、「この馬は落ち着いている」とか、「この馬は毛艶が良いから体調がよさそう」などと言い合って予想をする。きっと、テレビ中継では、どこぞの競馬評論家が僕のことを見て、「この馬はこうですねぇ」とかえらそーに蘊蓄を垂れていることだろう。
あいつらの解説、結構、いい加減なのにな……
これまで、パドックで馬を引いて歩く側だった僕が、引かれて歩き、評価を下される立場になる、というのは何とも言えない気分。勿論、自分が馬になってしまった、ということに比べれば些細なこととはいえ。
目覚めてからの数時間で、自分自身について分かったことがいくつかある。
まず、僕の競走馬としての名前。
ファントムブルー
父は、無敗の三冠馬で、現在は種牡馬としてリーディングをひた走っているインパクトブルー。母は未勝利だったが、兄には重賞ホースが何頭もいる、いわゆる良血馬。確か、今週の競馬ニュースでも、「今週デビューの注目馬」として挙げられていた気がする。
ちらりと、パドックの後ろにある電光掲示板を見ると、現在、僕のオッズは三倍ほどで一番人気。一番人気にしては配当が高い気もするが、これはまだデビューすらしていない馬たちのレースなので、ファンも半信半疑なのだろう。
むしろ、オッズに比べてファンの期待は大きいような気がする。
「大声を上げないでください」
という係員の注意があるにもかかわらず、何度となく僕の名前が観客席から上がっているし、パドックと観客席を隔てる壁には「ファントムブルー」という横断幕まで掲げられている。わざわざ朝一から競馬場にきて、早い者勝ちの横断幕をつけてくれた人がいる、ということだ。
まだ馬になってしまったことを完全に受け入れられていない自分がいるのは確か。
でも、応援してくれるファンのため、このレースは勝つぞ! そう思う気持ちが芽生えてきていたことも間違いない。
……少なくとも、このときは。
数分後、僕はとんでない失態を晒したのは、先に述べたとおりだ。