ちょっと前のこと
3
「せ、関根さん、そういうのやめましょうよ」
僕は、恐る恐る声をかける。
「うるせえ! 全部、お前のせいじゃないか!」
僕の声など届かないように目の前の男性は激高するのみ。
関根太。長髪を後ろで結い、ポニーテールのような髪型にしている男は、調教師である僕に馬を預けてくれる貴重なオーナーだ。そして、同時に、今現在、僕を部屋に監禁し、警察を相手に立てこもっている立てこもり犯でもある。
「大体、てめぇが良いと言ったから買った馬なのに、出走すら覚束ないじゃないか。いくらしたと思っているんだよ」
「いえ、サラブレッドビジネスってそんなものじゃないですか……」
そう、競馬というのはどの段階でもギャンブルだ。生産者は生産者で、育てた馬が売れるかどうかわからない。馬主は馬主で、いくら高額で馬を勝っても怪我一つで全く賞金を稼いでくれないこともある。そして、僕ら調教師もまた、預かった馬が走るかどうかで生活が決まってしまう。
そんなことは競馬に関わる人は皆知っているはずなのだ……。しかし、それでも……
「うっせぇ! こっちは工場の再興も賭けて、お前が勧めた馬を買ったんだ。重賞を勝てば、不渡りになった手形の損失も取り返せるからな。それなのに、それなのに……」
関根の経営する工場は、倒産の危機にあった。取引先が倒産し、手形を不渡りを出してしまったらしい。資金繰りが悪化し、連鎖倒産の可能性が高い。
そんな時だ、関根が僕とサラブレッドセールへ顔を出したのは。
「この馬、良いと思いますよ。兄弟に活躍馬はいませんけど、叔父には重賞を買った馬がいますし、父は今、人気が急上昇中。何より、身体のバランスがすごくいい。この値段からのスタートなら絶対にお勧めです」
あのときの発言がまさか、こんなことになってしまうとは……
まさか、工場が傾いて、倒産するかどうかという危機を迎えているときに、競り市を見るために北海道まで出張してくれるとは思わないじゃないか。
いや……
「そうか! じゃあ、この馬を買おう。なぁに、多少、値段が張っても構わん。絶対に競り落としてくれ!」
妙にテンションの高い反応に何かを感じるべきだったのだろう。金策がうまくいかず、一発逆転の数少ないチャンスがこの馬だったからこそのテンションだったのだ……
それがわからなかった僕は、調教師として二流だ。
関根に監禁され、すでに五時間以上が経過している。周囲には警察車両、さらにはマスコミが山のように陣取っている。すべて監禁場所である関根の工場に置かれたテレビから流れてくる中継で知ったことだ。
「もう、俺はおしまいなんだよ! 親父の代から続いていた工場は倒産。借金ばかり残って、しかも、しかも……」
先ほどまでの激高から一転、今度は泣き始めてしまった。
結局、資金集めは上手くいかず、僕が勧めた馬も出走することすらできない現状。その中でついに、工場は倒産に至ってしまった。夕刻、委託料について話し合いがしたい、と呼び出された僕は、そのまま監禁された、というわけだ……
「関根さん、もうやめましょうよ。今、出頭すればまだ間に合いますって」
先ほどよりも落ち着いた感のある関根に、僕は説得を試みる。
「何がだよ! 会社は倒産して、俺は立派な凶悪犯罪者。家族にはたっぷりの借金。どうやり直せっていうんだよ!」
再び激高する関根。……説得失敗……
それからも数時間、気落ちの上下を何度か繰り返した関根も大分、疲労がたまってきたようだ。「ちっくしょう……」と、誰にともなくつぶやいている。そんな関根に振り回されている僕も限界が近い。目隠し用にと閉じられたカーテンの背後からはうっすらと朝日が感じられる。
静寂が工場を包む。
ガチャン!
そんな静寂を破ったのは小さな金属音。換気口の蓋が外れ、そこからスプレー缶のようなものが落ちてくる。
「なんだ……?」
よろよろとその物体をのぞき込みに行く関根。刹那、そのスプレー缶から濃い煙が噴き出す。
「うおっ!?」
驚いた関根の声に合わせるように響く「突入!」の声。工場をかこっていた警官隊が突入を開始したようだ。ザッ! ザッ! とこれまでの静寂とは真逆の足音が響く。すっかり煙に覆われた工場内は、混沌と呼ぶにふさわしい状態となった。そのような中で聞こえるひときわ大きな声。
「ちっくくしょう!!!」
それは関根の叫び声。煙幕により、どこに誰がいるのかもわからない中、それは近くにいるようでもあり、遠くでもあるように感じられた。そして、その煙幕から何とか発見させた関根は、ナイフを構え、僕に迫ってくる。そして、その刃は、僕の胸へと突き刺さり……
僕の意識はブラックアウトした。