いつかとそのうち
夕刻、高く澄み渡った秋空の下。
今日もいつも通りにタケシと散歩に連れ立つ。
タケシは十歳の雄で少し小柄な体つきをしている。
やんちゃな性格をしているためか、急に走り出したかと思えば今度は急に立ち止まったりと、少々手に余るところもあるのだがそこがまた愛らしい。
早く早くとせがむようにリードを引く彼の後ろにそっとついていく、それが私の大好きな日常であった。
日ごろ通っている散歩道の途中には少し勾配の急な坂道がある。
坂を上りきるとそこは小さな土手となっており、町を一望することができる名勝であった。
時折足を運んではタケシと一緒に景色を楽しむ。
今までもそうしてきたし、これからだってずっとそうしていく、そのつもりであった。
しかしここ最近、吹きさらしの土手に登るのが骨身に応えるようになってきた。
秋の夕風は冷たく、老いた私にはそれが剃刀のように感じられるのだ。
今日もまた坂道の前に差し掛かる。
私たちは坂の上をじっと見つめながら、しばらく立ち止まっていた。
土手の上でいつか夕焼けを見たことを思い出す。
あのときもこんな秋の夕暮れのことだったか――。
それほどの月日は流れていないというのに、あの日見た情景が遠い過去のように思える。
もう日も落ちた、今日のところは家に帰ろう、土手にはまた今度行けばいい。
まるで自分を騙すかのように呟くと、気分が沈みそうになるのを堪えてリードを引いた。
勢いはつけず、されど強く、断固とした意志を込めて。
こうして強くリードを引けば気分屋の彼もこちらの意を酌んでくれる。
そうして家に帰り、いつものように食事や団欒をして温かな一時を楽しむのだ。
何も急ぐことはない、あの眺めは逃げ出したりはしないのだから。
……そのはずであった。
だがそんな悲しい強がりは彼には通用しなかったのである。
突然、タケシは坂の上に駆け出していったのだ。
あまりの勢いにつられて私も慌てて彼を追いかける。
何があったのか判らぬままに斜面を上り続けた。
片側の足で石畳を蹴りつけてはもう片側で更に強くそれを蹴りつける。
それほど長い道のりではないが、老身には些か重労働であったかもしれない。
身体の節々がギシギシと軋み合い、呼吸がひどく乱れる。
しかし不思議なことに心の内はとても軽く、また、晴れやかであった。
坂の頂上にたどり着く。
息も切れ切れであるが力を振り絞り、沈み行く夕日へと向き直る。
土手はあの日のまま、何ら変わらずに私たちを迎えてくれた。
あの日の街並み、あの日の夕焼け、そして少しばかり年を重ねた私とタケシ。
ヒュウと吹く風は身を切るほどに冷たいはずだが、火照った体にはそれすらも心地よい。
少しだけ、あの夕日が沈んでしまうまでの僅かな間だけ、ここで一休みしていこう。
きっと今このとき、すべてが私たちを祝福してくれていた。
冷え切った体をさするようにしながら歩く。
年甲斐もなく高揚感を覚えてしまい、少し長居しすぎたようだ。
帰路を急いでいると、私と同じように散歩をしているものに出くわした。
暗がりだがすぐに分かる、あれはお向かいのペチと藤井さんだ。
軽く会釈をして話し掛ける。
「こんばんは、最近はめっきり寒くなりましたね」
「こんばんは、本当に寒くなりましたねえ。今お帰りとなるとまたあの土手に行ってらしたんですか?」
「風が身に沁みるのでやめておこうって思ったんですがね、タケシのやつが急に駆け出していくものだからまいってしまいますよ」
「タケシ君も相変わらずのやんちゃ坊主ですね。逆にウチの子はおとなしくて少し心配になりますよ」
挨拶をしたと思えば話題がすぐに愚痴に移るのは年を取った証拠だろうか。
大きな病気を患っているというわけではないのだが、おそらく私も彼女もすでに先は長くない。
きっと今隣にいる家族を看取ることも叶わないだろう。
悲しいことだがそれを騒ぎ建てる気にはならない。
当然のことを当然と受け入れることができる。
やはり、私は年老いたのだろう。
「タケシ君、こんばんは」
藤井さんが恐る恐るといった様子でタケシに語り掛ける。
過去にちょっとした出来事があったおかげで、彼女たちはお互いに少し苦手意識を持っているそうだ。
タケシは挨拶なんて聞こえなかった、と言いたげに顔をぷいと逸らしてしまう。
「すみません、タケシのやつが失礼を」
「いいんですよ、私たちがどうこう言ってもこればかりはタケシ君次第なんですから」
「いやあ、どうもですね、家人が言うにはタケシは藤井さんのことを嫌ってはいないようなんですよ。どうしてこんな態度をとるのやら」
私の言葉を耳にして彼女はくっくっと音を立てて笑いだす。
何かおかしなことでも言ったかと頭を捻るが、私にはとんと検討が付かなかった。
「きっとそのうち上手くいきますよ、今は積み重ねているときである。そう信じましょう?」
タケシの考えも彼女の考えも、私には分からない。
本当に『そのうち』はやってくるのであろうか。
この年になっても将来なんてものはまったく不明瞭で見通しがきかないものである。
それでも、『そのうち』をこの目で見ることができたら、それはとても幸せな未来のように思えた。
談笑もそこそこに別れの言葉を告げ、家路を急ぐ。
結局タケシは藤井さんの言葉に軽く頭を振っただけで、ついぞ返事をすることはなかった。
返事をしないばかりか奇妙なことに、タケシの顔が朱に染まっていたのである。
夕日はすっかり沈んでしまっていたし、寒空の下にずっといた所為で熱でも出しだのだろうか?
私も早く家に帰って温まりたいものである。
「ただいまー」
長かった散歩も終わり、やっと我が家に到着する。
玄関の扉を開けるずっと前から独特の香りが漂っていたが、どうやら今日の夕飯はカレーライスのようだ。
きっとタケシが喜ぶことだろう。
私も早く食事をして、できれば湯船にでもつかって体を癒したい。
そんなことを考えているとドタドタと足音を立てて、玄関に人影が現れる。
「おかえりタケシ、ポチの散歩ご苦労様。カレー出来てるから早く手を洗っておいで」
タケシの母君はにこやかに笑いながら、私の前足をタオルで拭ってくれた。