ダダリオ・カマロの恋人
ダダリオ・カマロの恋人
壁に描かれた熱帯魚と目が合った。射竦められた気がして、顔を背ける。
「痛いの?」
低い声が降ってくる。天井の歪な星空を背にして、名前も知らない男が私を見下ろしている。返事をせずに、その顔をゆっくりと観察する。すっとした鼻梁、整えられた眉。シンメトリー。
「綺麗な顔してるのね」
掠れきった声で私は言った。男が目を細める。笑っている。笑うと左の目だけが閉じる。何かに似ている。そこだけが奇妙な非対称。
「集中して」
男はそれだけ言って口を噤む。ゆっくりと男の体温が伝わってくる。動くたびにシーツに皴が増える。体中が弛緩する。男の首に腕を回して、ぎりぎりと爪を立ててみる。堪えた様子も無く、男は私の髪を触る。
梟だ。動物園の檻にいた、片目を怪我した梟に似ているのだ。そこまで考えたところで、思考がばらばらになって消える。
壁の熱帯魚は、息苦しいから口を開けて泳いでいるのかもしれない。
「モラルって何だと思う?」
私はベッドの上をごろごろと行ったり来たり転がりながら訊いた。
男は煙草を取りに立ち上がったところで、ちょうどこちらに背を向けていた。男の背中の真新しい引掻き傷が、二人の関係を物語っているようだった。痛い癖にすぐ消えてしまうような、そういう傷だ。
「モラルって、なにそれおいしいの?」
男は小さく肩を震わせて言った。笑っているようだった。自虐か、私に対する皮肉か。
「さあ?そういう歌があったの。何の歌か忘れちゃったんだけど」
「少なくとも、君にはない感覚だろうね」
「あなたにだってないと思う」
「そんなことはないさ」
男はそう言ってベッドの縁に腰かけ、煙草に火を付けた。私は相変わらずベッドの上を転がりながら、男が煙草を吸うのを眺めた。
「知り合って3時間の女の子をホテルに連れてきて、モラルがあるって自分で言うの?」
咎めるようなことを言いながら、悪戯っぽく笑ってみせる。
「普段はしないんだよ、こういうこと」
男は急に真面目な口調になって言った。
「そう?」
「そうだよ。でも君はいつもこんなことしてるんでしょ?」
「……平和って難しいことね」
私は唐突に言った。
「何の話?」
「ピースよ、ピース」
「ああ、煙草か」
しばらく考えた後で、男は納得したように頷いた。黒い箱のPEACE。フィルター無し。ヘビースモーカー御用達。
「平和を名乗って肺ガン患者を増やすなんて、世界侵略もいいところよね」
「世界侵略?」
「侵略されてるって気がしない?この煙草、世界中に普及してるのよ」
「よくわからないな。君は変わってる」
男が煙を吐き出す。転がっている私を一瞥する。
「……さっきから何してるの?」
不思議そうに男は言った。
「芋虫ごっこ」
私はそれだけ答えると、ベッドの端まで転がって行った。男は首を傾げてから、煙草を消して横になった。
広いベッドだった。二人で寝ても広すぎる。余った部分の空白は、私たちの間にある奇妙な孤独を象徴している気がした。
休みの日はよく、突然思い立ってふらりと街に行く。駅には人が沢山いて、吐き気がする。うじゃうじゃうじゃうじゃ、まるで蟻のようだ。その蟻に混ざって、日本の未来や明日の学食のメニューについて考えてみたりする。
大音量で、恋はギャンブルだと歌うビジュアル系バンドの曲を聴きながら、行く当てもなく彷徨うのが好きだ。
「どこ行くの?」
知らない男に声を掛けられても、上手くあしらう術など知らない。必要が無い。
「うーん?」
「じゃあさ、カラオケ行こうよ」
「8時までなら」
モラルやその他善良な感覚は、そんなことをする度に削がれていった。
お腹空いてない?と男は訊いた。パフェが食べたいと私は答えた。起き抜けの頭は正常な思考を放棄していて、断片的な感情だけが唇を動かしていた。
「なんだか大げさね」
目の前に出されたパフェを見て言う。喫茶店はがら空きで、客は私と男の他に3組だけだった。
「甘いもの好き?」
「全く」
私は答えて、やたらにチョコレートのかかったアイスを口に入れる。
「どうしてパフェが食べたいって言ったの?甘いもの嫌いなんでしょ?」
「気分。嫌いでも食べたくなるときってあるじゃない。怒ってるの?嫌いなのにパフェが食べたいなんて言うから」
「いや、俺は振り回されるのが好きだから」
「変な人」
しゃりしゃりとアイスを咀嚼する。男は満足そうにそれを眺めている。沈黙。BGMのマイケルジャクソンだけが、BEAT IT!と叫んでいる。
「クリスマス、なにするの?」
パフェが半分減ったところで男は尋ねた。
「クリスマスはツーリングに行くの」
私は言った。
「バイクに乗るの?」
「ブラックバード」
一昔前まで世界最速だった大型バイク。ブラックなのに、私の愛車は赤だ。
「似合わないよね」
「そうね」
「誰と行くの?」
「ひとりで」
「寂しくないの?」
「ライダーはいつだって孤高にかっこよく登場するものよ」
私はそう言うと、スプーンを置いた。
「君はやっぱり変わってるよ」
男は言った。
「光栄ね」
私は答えた。
「これからは、自分を安売りしないほうがいいよ」
よく言われる台詞だ。マイケルジャクソンは相変わらずBEAT IT=ずらかっちまえと叫んでいる。今日はなぜだか、歌の通りどこかへ逃げてしまいたい。
「私は私に従ってるだけ」
人を好きになるのは簡単だ。世の中にはこんなに多くの人間がいるのに、一人しか愛してはいけないという思想が理解できない。そんなことを言うのは所詮、大儀を振りかざしたいだけの大人だ。感情はそんな風に世間を批判してみたりする。理性はそれが間違っていることを知っている。そして人を嫌いになるには10倍の時間が必要になることもよく知っている。それでも私は感情にしたがって生きていたいと思う。
「彼氏とかは作らないの?」
「私が愛するのは、ダダリオ・カマロだけかな」
こんな話をするのは、滅多にないことだった。
「それ、誰?」
「ROSSOの『シャロン』に出てくるキャンディをくれる人」
毎日必ず聴く歌だ。憧憬について考えるために、毎日5回はこの歌を聴く。そしてなにかに憧れるのが、どれだけ虚しいかを知ってささやかな絶望をする。
「何人?」
「知らない。日本人じゃないでしょうね」
私はそう言うと笑った。
「ダダリオ・カマロはキャンディをくれるの?」
男は左右非対称な笑い方をした。何か考えているようだった。馬鹿な女と寝たと、後悔しているのかもしれない。
私は男の目をじっと見た。怪我をした梟。猛禽類の癖に、愛嬌がある。そんな目だ。
「これあげようか」
男はポケットをごそごそやって、ぐしゃぐしゃになった飴玉を出した。さっきのホテルから拝借してきていたらしい。
「本当に変な人」
私は立ち上がり、座っている男の頭を撫でた。想像していたよりずっと柔らかい手触りだった。
「君もね」
男は煙草を取り出した。人を好きになるのは簡単だ、とやはり思う。
熱帯魚のことを思い出す。息苦しいのではなく、お腹が空いているから口を開けて泳いでいたのかもしれない。どうでもいいことだった。
これから私が考えなければいけないのは、平和と受動喫煙についてだ。
私たちは立ち上がり、店を出る。
マイケルジャクソンはいつの間にか、スリラーを歌っていた。