白くて、白くて、白くて
仟年公園のベンチはペンキが塗りたてだったので、仕方なくブランコに座った。
曇り空がどんよりと町を包むお昼前に、なぜベンチのペンキを塗ろうと思ったのだろう。そういう日には、悩みを抱えた女子高生が、学校をサボって公園に来るんじゃないかと、どうして誰も思わなかったんだろう。それとも、悩みを抱えた女子高生なんて、制服にペンキをつけてしまえばいいと思っていたんだろうか。いっそ、女子高生のどうせ大したことのない悩みなんて、ペンキまみれになって忘れてしまえばいいと言いたいんだろうか。
ため息をつくと、白い。もう冬だ。
高校二年生の冬は、進路を決めなければならない季節だった。進路相談室の先生が各クラスを回り、進路希望書と大きく書いてあるA4の紙を配っていったのが、昨日の話。将来、何をしたいかよく考えて書くように、と漠然と念を押されたのが昨日の話。進学でも就職でも、希望を出来る限り具体的に書け、と通達されたのが昨日の話。罫線が引かれただけの紙切れに、自分の人生を一週間以内に考え抜いて書き込め、と言われたのが昨日の話だ。
なにもかも昨日の話。そう、どんなテスト用紙でも、何を書けばいいか一瞬で理解してきた私が、初めて何を書けばいいのかわからなくなったのが昨日だ。
クラスメイトは笑いながら、東京の大学に行く、とか、家の洋裁店を継ぎたい、とか、平気で話しながら欄を埋めていた。みんなそんなに将来のことを考えていたんだと、その時に初めて知った。委員長は当然進学だよね、とみんなに言われて、曖昧に笑いながら、進路希望書をきれいに八折りにして胸ポケットにしまった。冷や汗がどんどん出てくるのを隠すために、生徒会に用があるふりをして教室を出た。そうしてそのまま、友達と一緒に帰る約束を破って家に帰ったのが、昨日だ。
なにもかも昨日のせいで、私は皆勤賞を逃したのだ。
制服の胸ポケットには、進路希望書が昨日のまま残っている。とても重い。紙切れ一枚のはずなのに、つい胸を張れずに、うつむきがちになってしまうほど重たい。それもそのはずだ。まだ何も書かれていないはずのこの紙に、もう私の残りの学生生活全てが書かれているのだから。“進学”と書けば、三年生になったとたん特進クラスに放り込まれて、難関大学の過去問を延々と解かせられる。“就職”と書けば、進路相談室の先生に呼び出されて、学年主席の私に国立大学受験をさせようと説得が始まる。そして結局、特進クラスに放り込まれて、文系なのに数学の知識を叩きこまれる。
見えている未来は重たかった。今朝、学校の最寄りのバス停で降りられなかったのも、鉛の塊のように重い紙切れが胸ポケットにしまってあって、息切れがしてしまって、バスの席を立てなかったからだ。
バスを終点まで乗ってきたのは初めてだった。よく知らない住宅地が終点だった。終点まで乗っていたのは私だけだった。運転手さんがけげんそうな顔をしているのを、目の端でなんとなく意識しながら、定期券の乗り越し分の清算をした。いつも乗るバスは「横山駅西口」行きだったはずなのに、降り立ったバス停は「仟年」というおかしな名前がついていた。
仟年というのがこの一帯の地名らしかった。せんねんなのか、これでちとせと読むのか、読み方は分からなかった。時刻表はかすれてしまって読めなかった。しばらくぼうっと立っていたが、仟年に住んでいる人々はもう朝の仕事を終えているのか、まったく姿を見せなかった。車も、バスが行ってしまってから一台と通らなかった。閑散とした住宅街を風が忍びやかに吹き抜けていった。
立っているのが疲れたので、私はどこかに座れるところがないか探して歩き始めた。そうして、この仟年公園と、ペンキ塗りたてのベンチと、茶色い鎖でぶら下がっているブランコを見つけたのだった。
仟年公園は、サッカーコートがすっぽり入りそうなくらい広かった。でも遊具は、ブランコと、滑り台と、あとは砂場しかなかった。それぞれが、ぽつん、ぽつん、と離れていた。砂場にはブルーシートが掛けられている。滑り台は入り口から一番遠い場所で小さく錆びついている。ブランコはちょっと揺らしてみるだけで音を立ててきしむ。ブランコの鉄の鎖は、冬の空気を存分に吸っている。試しに触ったら、背骨まで響きそうになったほどよく冷えていたので、手は膝の上に置いた。
ため息をつくと、また白い。
胸ポケットから進路希望書を取り出して、八折りのしわを丁寧に伸ばした。
随所に書かれた希望の二文字と、無機質な罫線。
この公園に、他に人がいないことをもう一度確認した。
思いっきり、紙をくしゃくしゃにする。両手でおむすびのように握りしめる。握力をこれでもかってくらいにふりしぼって、立ち直れないくらいのしわをつけてやる。片手に乗るくらい小さくなった進路希望書は、それでも、力を抜くと、ゆっくりと広がるようなそぶりを見せた。地面に叩きつけて、ローファーのかかとで踏むと、進路希望書は、くしゅ、と最後の悲鳴を上げた。それから何度か踏みつけてみたが、もう声もあげられなくなったようだった。
残骸を、つま先でつつく。いびつな楕円形に潰れて、黒ずんだ砂がしわの間に入り込んで、見る影もない。そのくせに、潰れた紙くずの真ん中のところで、希望の二文字はしっかり見えていた。憎たらしい紙くずをそのままつま先で蹴っ飛ばすと、ちょうど風が強めに吹いて、どこかへさらっていった。
砂が舞い上がって、目にしみた。涙がにじんだ。目を閉じて、風がやむまで待つ。
マフラーの端が風に舞っているのが感じられた。スカートがめくられた。右手でスカートを押さえながら、体が飛ばされないように左手で冷たい鎖を掴んだ。どんどん風は強くなる。袖口や服の隙間から風が入りこんで、ものすごい勢いで体温を奪っていく。全身に力を入れる。体を前かがみにする。左手はもう凍りついたように冷たい。マフラーが首からするりと外れてしまった。とっさに捕まえようと思ったが、右腕も左腕もかじかんで動かせなかった。マフラーが無くなると、寒さはさっきの比ではなく容赦なく襲ってきた。全身がものすごい勢いで震えだした。歯がカチカチ鳴って、体は勝手にくの字に折れた。
このまま凍え死んでしまうかもしれないと思うくらい寒い。ブランコから立ち上がって、風上に背中を向けた。そして、風に押されるままに、よろよろと歩き出した。目を開けられない。スカートがとんでもないことになっているせいで、風が太ももに直接吹きつける。冷たいを通り越して、数千の針で刺されているように痛い。その痛みから逃げるように、前へ歩くしかなかった。
「もう、さむっ、無理っ」
思わず口に出した瞬間、風がいきなりやんだ。後ろからの力が急になくなって、今度はそのまま尻もちをついてしまった。お尻がとても痛い。ぼさぼさになった髪の毛を手櫛で整えながら、ゆっくりと目を開けた。
十歳くらいの男の子が、私のマフラーを首に巻いて、前に立っていた。男の子は、私の顔を指さして嘲笑っていた。
「うわ、だっさ」
耳が一瞬でじゅっと熱くなった。ついさっき、冷たい風に体温を全て奪われたような気がしたのに、今度は耳から全身にどんどん熱が広がっていく。恥ずかしくて体を動かせないでいると、男の子は、今度は指の先をほんの少し下に向けた。
男の子が手を叩く。指をチョキにする。オーケーサインを作る。目の上に手を当てて、私の顔のちょっと下くらいのところをじっと見ている。
五秒くらいしてから、ようやく男の子の仕草の意味を理解した。もうここから消えていなくなりたかった。恥ずかしすぎて、耳の近くに心臓が移動したんじゃないかというくらい鼓動の音が大きく聞こえた。慌てて立ち上がると、男の子はけらけらと笑った。
「ほら、このマフラー、ださ姉ちゃんのでしょ」
男の子は自慢げに首のマフラーを指し示した。
「あ、うん。ありがとう、拾ってくれたんだね」
手を伸ばして受け取ろうとすると、男の子は驚くほど俊敏に後ろにとびすさった。
「誰も返すなんて言ってないよーだ」
「ちょ、ちょっと!」
思わず追いかけると、男の子は仟年公園の真ん中の方へ、少し長すぎるマフラーをなびかせて走り出した。つむじ風が巻き起こって、私のスカートをまためくろうとした。スカートをぎゅっと押さえながら、捕まえようと二、三歩踏み出して、虚しくなって足を止めた。ローファーのつま先を見つめた。
「ださ姉ちゃんのマフラーもらっちゃうよー」
遠くから男の子の声が聞こえた。もうマフラーはいらなかった。くるりと体を回すと、ブランコまで歩いて、乱暴に腰を下ろした。さっき地面に打ちつけた時にお尻にあざが出来ていたらしく、とても痛かった。でも、そんなことはどうでもよかった。ガジャン、と悲痛にきしんだブランコは、漕いでもいないのにぐわんぐわん揺れた。先ほど紙くずを踏みつけた地面をにらみつけた。風が今度は前から吹きつけた。今度こそ目を閉じてなるものかと、思いっきり目に力を入れて地面をにらみ続けた。
「ほんと、ださいね、姉ちゃんは」
男の子の声がすぐそばで聞こえて、驚いて顔を上げた。男の子はブランコの支柱にもたれかかって、こちらを見ていた。ついさっきは遠くの方で聞こえていたのに、もうここまで走ってきたのだろうか。あきれるほど足の速い子だった。
大きなため息をつく。真っ白。
私は何も答えないままブランコで揺れていた。男の子の気配が支柱から消えた。帰っていったのかな、と思った瞬間、背中をとん、と押された。振り向くと、男の子がにかっと笑った。糸切り歯が抜けていて、隙間がぽっかり空いていた。
男の子は、私の背中を何度も押した。そのたびに、ブランコに勢いがついていく。耳元で風を切る音が大きくなって、小さくなって、また大きくなる。
「えっ、わぁっ」
いつの間にか、ブランコはとても大きく揺れていた。鎖と支柱の繋がっているところが嫌な音を立てている。バランスを崩しそうになって、慌てて両手で鎖をつかんだ。かき氷を急いで食べた時みたいに、背筋から頭まで一気に冷たさが走った。
「もっと速い方がいい?」
男の子の声がして、また背中をグイッと押される感じがあった。もう、ブランコが一番後ろに来た時は地面しか見えなくて、一番前に来た時は曇り空に手が届きそうになるのに。
「止めて、止めて!」
「だめだよ! もっと!」
ついに、ブランコは地面と水平より高く上がった。嘘でしょ、と思う暇もなく、空がひっくり返って落ちてきた。みぞおちの奥が引きつるような感覚は、ジェットコースターに乗っている時と同じ。空中に響いていった甲高い音は、私の喉から出たものらしい。次に目に映ったのは地面、落ちる! でも落ちない。体はそのまま風にさらわれて、私の目はまた空を見た。
曇り空だ。
どんよりとしている。
「えっ」
気づくと、視界がぐるぐるしなくなっていた。
「うそ」
手に、持っていたはずの鎖の感触がない。
「やだっ」
体の重さを感じない。
「なんで!」
そして、その状態がずっと続いているのだった。
「あははは! 姉ちゃんださーい! パン、ツー、マル、ミエ」
「うるさい!」
もがいて体をねじると、私を指さして笑っている男の子が、四メートルくらい下に見えた。
「笑ってないで助けて!」
腹の底から叫んだ。仟年の家の人たち全員に聞こえるんじゃないかっていうくらいの大声だ。近くの木から、カラスが驚いて飛び立った。滑り台の近くで、歩いていた野良猫が尻尾の毛を逆立てた。公園の隣の家では、二階の窓際にインコを飼っていた。どんよりとしていた曇り空に、裂け目が一つ出来ていた。
「景色はどーうー? 周りが見渡せて気持ちいいでしょー?」
そんなことを気にしている場合ではなかった。腕をバタバタ動かしながら、ジェットコースターの感覚とめまいと動悸に必死であらがった。やっと地面に足が着いた時には、膝小僧は大爆笑で、上手に体重を受け止められなかった。産まれて初めて立ち上がるキリンのように四つん這いで震えている私を見て、男の子も大爆笑だった。
「はい、マフラー返すね」
男の子は涙を拭いながら、マフラーを私の首に巻いてくれた。目と鼻の先にある男の子の笑顔を見ていると、私もつい笑ってしまった。
「遊んでくれてありがとう、ださ姉ちゃん」
「もう、どういたしまして」
ようやくしっかり立てるようになったので、私は歩み寄って男の子の頭をなでた。くすぐったがって首を曲げる男の子の髪を、さらにくしゃくしゃとなでてあげる。
「お姉ちゃんも楽しかった。ありがとう」
「じゃあ、そろそろ帰らないとだね」
男の子がにっこり笑いながら言う。私も、マフラーに顔をうずめて笑った。
バイバイ、と手を振って、私は仟年公園を出ようとした。後ろからつむじ風が巻き起こって、狙ったように私のスカートをめくり上げようとした。慌ててスカートを押さえて振り向く。今度は男の子が悔しそうな表情だったので、私の手の方が先だったようだ。ベーッと目の下に指をおしあてて、ふと足元を見ると、丸まった紙が転がっていた。
「忘れもの!」
男の子が声を張り上げた。私はしゃがんで、その紙を拾った。へしゃげた楕円形の真ん中には、希望の文字が見えていた。胸ポケットにしまって、うーんと伸びをする。それから、もう振り返らずにバス停まで歩いた。もっとも、振り返ったって、きっと男の子は姿を消していたはずだ。
仟年のバス停では、一分と待たずにバスが来た。誰も乗っていないバスに乗り込むと、また運転手さんがけげんな顔をしていた。ペロッと舌を出して、一番後ろの席に座る。
しばらくしてバスは、よく知った学校最寄りのバス停で停まった。運賃の精算をしている間、運転手さんがしきりに首をかしげていたが、結局何がおかしいのか分からないようだった。
学校まで歩いていく途中で、昨日一緒に帰る約束をしていた子に会った。
「おはよう、委員長」
元気に声をかけてくれる。もう遅刻だろうに、ゆっくり歩いていていいんだろうか、と思ったが、よく考えてみれば私も同じ立場だった。
「おはよう、昨日はごめんね」
「えっ、昨日? なんのこと?」
「一緒に帰ろうって約束破っちゃった」
「あれ? そうだっけ? ごっめん、私も忘れてたー」
キャハハ、と二人で笑い合う。そうしていると、他のクラスメイトもちらほら現れた。
「おはよー」
「あ、おはよー」
「みんな遅刻? どうしたの?」
「えっ?」
「委員長こそどうしたの、まだ八時だよ?」
「遅刻じゃないよー。寝ぼけないでよ委員長」
びっくりして、慌てて携帯電話を開いてみる。確かにまだ八時だった。
「どうしたの委員長、今日ちょっと寝ぼけてるねー」
「そういえばなんか髪の毛ぼさぼさじゃん。時計見間違えたの?」
「委員長でもそういう日あるんだ!」
「意外と天然なところあるよねー」
「これは、その、仕方なくて、だって」
「ほら委員長、学校着く前にまとめちゃいなよ。ゴム貸してあげる」
「あ、ありがとう」
髪の毛をまとめたあと、そっと胸ポケットに手を入れてみた。触ったものを取り出すと、進路希望書はきれいな八折りだった。
ドキドキしながら開いてみる。随所に書かれた希望の二文字と、無機質な罫線。
それから左上の名前欄に、えんぴつで“ださねえちゃん”と書かれている。
風がまとめた髪を舞い上げる。風音はなんだか知っている笑い声に聞こえた。空はいつの間にか、抜けるような青空で。
私は進路希望書をきれいに折りたたんで、胸ポケットにしまった。
ふうっと息をつくと、白い。もう冬だ。