紫
赤と青
ゆらゆら混ざって、紫
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一部の隙もない、雨空。
灰色の空が惜しみなく雨を落とす。
僕は雨の中、ふらふらと彷徨い歩いていた。
透明なビニール傘が雨を弾いてパタパタと音をたてる。
衝動に身を任せ、出てきた為に、僕は僅かな所持金以外、何も持ち合わせていない。
と、見知った姿が街中にあった。
出会った偶然に僕は驚いて、それから思わず呼びかけた。
「一条、夕嘉…。」
休日でも制服姿で肩から鞄を提げている彼女は振り向いて、特に驚くでもなく言った。
「篠塚真紘か。」
彼女は、鞄以外に何も持ってなかった。
もちろん、彼女にだけ雨が降らない訳は無く、いつもより黒々見える髪からは雫が滴り落ちる程に濡れそぼっていた。
「傘は?」
「…ないが?」
ないのは見ればわかる。
暗に、濡れたままでもいいのか?と聞いたのだが彼女のことだ。
このまま気の済むまでここに居そうだ。
「来て。」
僕は、少しの躊躇いの後、彼女の手を掴んだ。
初めて触れた彼女の手は冷たくて、自分の手が熱く感じた。
僕は手を引いたまま、近場のファミレスに入った。
僕の後ろに立っているびしょ濡れの彼女を見て案内にきた店員が嫌そうな顔をしたが、僕は気づかないフリをした。
彼女は気づいているのかいないのか、店員の顔を見ることもなく、指し示されたテーブルに行く。
互いに向かい合って座ってから僕は彼女に尋ねた。
「濡れた髪、拭くものある?」
「ハンカチがある。」
ハンカチで、拭き切れるようなものではないが、拭かないよりはマシだろう。
彼女は鞄から取り出すと素直に拭き始めた。
ノリの効いたきっちりたたまれた無地の白いハンカチだった。
「なんであんなところにいた?」
「雨は、嫌いじゃない。」
ハンカチをしまいながら、彼女は言った。
まるで答えになっていない。
僕はそれ以上の追求を諦めた。
彼女は徐に鞄をまさぐり出した。
まるで何かを探しているかのように。
「中身も濡れた?」
「…いいや。」
答えながら彼女が出したのはクレヨンとスケッチブック。
スケッチブックは見覚えがある。
いつも持っているものだ。
「見せて?」
「…構わないが。」
意外にもあっさりと彼女はそれを僕に手渡した。
厚い画用紙の表紙は、たしかに濡れてはいないものの湿気を含んでいた。
僕はパラ…と表紙をめくった。
パッと目に飛び込んでくる
色、色、色。
見入る僕に向かって彼女がポツリと呟いた。
「それは観察記録、だ。」
「観察記録…!」
つまり、これが、僕…?
初めの方は青が多かった。
ごく稀に黄色や緑も塗られている。
円や、ぐるぐると次の紙に色が移ってしまうほど塗りつぶされたものや…
「それが私の見た君だ。」
「…。」
僕がなにも言えないでいると彼女は少し立ち上がり僕の手からそれを取るとパラパラとページをめくった。
「そうだな。今日は…」
なにも書かれていない、真っ白なページ。
彼女はそこに、青、確実に一際短いソレを子供のように握り、手が汚れるのも厭わず塗り込めて行く。
そして満足がいったのか、それを置き、もうひとつクレヨンを取り出した。
青の中に、確かに混じりこむ、紫。
「私には今日の君はこう見える。」
彼女はひた、と僕を見据えた。
「不安定な混ざり色。」
ー今日も行く訳?
ーだから違うって言ってるだろ。
今日は会社の上司との約束が
ー…っ嘘。あのメールの女のところに行くんでしょ。
バタンッ
ー父さん。
ー…なんだ。
ーあのさ、この前テストがあって、さ。
それで、これ結果
ー悪い、父さんは忙しいんだ。
グシャリと自分の手で握りしめられたテストの結果表はズボンの裏ポケットに入ってる。
80、90の数字が羅列した紙は、もう読めないかもしれない。
「わからないんだ…。」
僕は独白のように呟いた。
彼女はスケッチブックから顔を上げた。
「何が悪いのかが、わからないんだ。」
浮気をしている父さんが悪いのか。
父さんを信じきれず、叫んでいる母さんが悪いのか。
それとも、何もできない、僕が悪いのか。
ただ、僕は頑張った。
今更かもしれないが、父さんが喜ぶような息子になるために。
必死に勉強して。
…なのにその努力は陽の目を見ることすら叶わず、消えた。
僕の思考を堰き止めるように、彼女はポツリと告げた。
「私にそれを言ってどうする?」
「別に慰めて欲しかった訳じゃない。」
同情が欲しいわけではなかった。
「…ただ、誰かに聞いてもらいたかったんだ。」
誰にも言えないし、自分も上手く言葉に出来ない。
そんな想いを得体の知れない彼女なら、受け止めてくれるような気がしたから。
「そうか。」
彼女はそう言ったきり、口を閉じた。
明るい店内を閉じ込めるかのように、雨はさぁさぁと降り続いていた。