臓腑の花
辻に倒れた男の腹は未だ温い。連日の雨で土が黒く、ぬめりを帯びた泥が草履の裏に纏いつく。
私は男の脇にしゃがみ込んで裂いた身体から肝を取り出した。夜気に晒された臓物は鈍く照り、指先に吸いつくようだった。
私自身はこの男に恨みなどない。ただ斬ることを頼まれたので斬る。それを為す報酬に肝を得る。人が夜に米を炊くように私は闇の中で人を裂き、肝を喰らう。それだけだった。
肝を噛み切ると濃い血が舌の裏へ広がった。幾分か走らせたので筋に疲れの熱が残り、若さゆえの張りもある。悪くない夕餉だ。
不意に背後から声がかけられる。
「それで足りるのか、鬼」
振り向くと辻の端に女が立っていた。雨雲の切れ目から落ちる半端な月明かりに、頬の線だけ青白く浮いている。一見すると武家の娘らしい立ち姿だったが、袖口は薄く擦れ、草履の鼻緒も切れかけていた。落ちぶれた身なりに視線だけが鋭く研がれている。
「何が」
「そんなものを啜って、生きるのに足りるのか」
私は指についた血を舐め取った。満ち足りることなどそうないものだ。鬼であれ、人であれ。
「足りる日もある。足りぬ日もある」
女は死体を見、その腹の中身を見て、最後に私を見た。惨い有様に吐き気を堪える顔ではなく、値踏みする目だ。商いの席で布を撫でるように私というものの値を見ている。こういった肝の据え方をする女は大抵、美味だ。
「辻斬りを請け負っているのだろう」
「ああ」
「私の依頼を受けろ、鬼」
「斬ってほしい者がいるのか?」
女は些かも臆さず私につかつかと歩み寄った。
「斬る必要はない。私に剣を教えろ。報いとして、いずれ私の肝をくれてやる」
私は少し笑った。追いつめられると人は時に冗談の形をとる。だが、この女は笑っていない。喉元まで迫っている死を飲み干す気がある者の放つ、乾いた匂いがした。恐れを通り過ぎた先でもっと硬いものだけが残った匂いだ。
「女の身で何を斬る」
「男だ」
「差し詰め家族の仇といったところか」
「そうだ」
御家断絶にでも追い込まれたか。剣を佩く権利ごと帰る家もなくした。謀略が渦巻く都ではよくあることだった。
「習った剣では斬れぬかもしれぬぞ」
「斬れずに死ぬならそれまでの肝だ。どのみち惜しむものではあるまい」
己の命を肝の鮮度で語る女。私はそこで初めて興味を持った。人は普通、自分を自分として惜しむ。だがこいつは違うらしい。腹の中の一片まで目的のために差し出せる。
「いいだろう。お前の剣を見てやる。その肝、喰い頃にしてから貰い受ける」
女は鷹揚に頷いた。それで契りは済んだ。互いの名を告げることもせず、礼も言わなかった。
***
廃寺の床はいつも冷えている。朝には木刀を振らせて筋を鍛え、昼には真剣で斬り合い、夜には縄を打たせて肉を鍛える。私は女に人を斬る順序を教えた。肩から入るな、脇を割れ。首を狙うな、喉を裂け。骨を断とうとするな、腱を断て。美しい形は要らぬ。人は壊れれば死ぬのだから、壊しやすいところから壊せばいい。
女はよく吐いた。最初の頃は木刀を振る数が千に届く前に胃の中の水を撒いた。手の皮は剥けて血が滲み、足裏が裂け、指は腫れた。だが一度も泣かなかった。泣けば私が興醒めすると知っていたのかもしれず、あるいは泣くだけの湿り気がもう残っていなかったのかもしれない。
私は折れた竹で彼女の脇腹を突き、崩れた姿勢を打ち、倒れたところへ砂を蹴りかけた。
「遅い。今の隙でお前は仇に腹を割かれているだろう」
女は唇の端から血を垂らしながら、また立った。
「次は割かれぬ」
その声を聞くたび、私は腹の奥に空きを覚えた。飢えとは何かが違っていた。冬の川面の下で魚が身を返すような、目に見えぬ動きだ。
月が二つ三つ欠けるうちに女の剣筋は変わってきた。無駄が削げ、肉を断つ音が乾いて響く。廃寺の裏に吊るした猪へ打ち込ませると、最初は皮に止まっていた刃が次第に脂を裂き、筋を断ち、肋の間へ沈むようになった。
「猪肉を斬って鍛錬になるのか」
「人も猪も同じだ」
私が言うと、女は猪の腹に手を差し入れてまだ温い臓腑を掴んだ。
「お前は最初から、人ではないものを教えるのだな」
「私は人の斬り方を教えている」
女は肘まで血に濡れた腕を死骸から抜き、臓物をじっと見つめた。
「お前が教えているのは生き物を壊す手つきだ」
「つまりは同じことだろう」
私は人の理を知らぬ。知る必要もない。だが彼女は、理の内側からそこを踏み外しつつあるのだ。元は人の娘であったものが復讐のために形を変えてゆく。その変わりゆく様は、見ていて飽きなかった。
夜、火も焚かずに座っていると、女が隣へくることがあった。肩が触れるか触れぬかの距離に膝を抱えて座り、ただ黙っている。体温が布越しにじわりと伝わる。人の体は小さく脆い。だが壊れるまでの間、ひどく熱い。
「鬼。お前は何年生きた?」
「数えていない」
「寂しくはないのか」
「腹はいつも寂しい」
女は喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。欠けた鈴のようだった。
「ならば私の肝は、少しは役に立てるな」
彼女は日に日に良くなっていた。腕も、脚も、肺も、肝も。復讐の火に焙られた肉は、よく熟れる。
女が眠りに落ちたあと、私は時折その横顔を見ることがあった。睫毛が頬へ影を落とし、喉が静かに上下する。そこに刃を入れれば終わる。今喰えば、若く張った肝が手に入る。
だが私はそうしなかった。未だ早いと思ったからだ。それだけのことだった。
***
梅雨の終わり、女の仇の居所が知れた。雨が細く、廃寺の軒から切れ目なく落ちていた。女は濡れた髪を背へ貼りつけたまま刀の手入れをしている。布で拭われた刃の上を、灯のない部屋でも鈍く冷たい光が滑った。
「あの腕では足りぬ。死ぬぞ」
私がそう言っても女は顔を上げなかった。
「知っている」
「屋敷には用心棒がいる。お前が狙う男の前へ出る前に、肉になる」
「知っている」
私は柱にもたれて腕を組んだ。彼女の首筋に一筋、汗とも雨ともつかぬ水が流れて襟元へ消えた。
「代わりに殺してやろうか」
女の手が止まった。
忘れるほどの年月、辻斬りを生業としてきた。人の頼みで人を斬ってきた。私ならば釣りあげた魚を捌くように容易く女の仇をとれるだろう。
「代価は同じだ。お前の肝を喰って、それで終い。男の首は明朝の辻へ転がしてやる」
女はゆっくりと顔を上げた。その目に浮かんでいたのは怒りでも驚きでもなく、侮蔑に似た薄い笑みだった。
「お前が殺して何になる」
「望みは果たせる」
「果たせぬ」
膝の上に置いていた刀を取り、鞘へ収める音が雨音へ重なった。
「復讐など、己の手で為さねば意味がない。あの男の臓腑を私の手で引きずり出さねば、私のこれまでは無いも同じだ」
「くだらんな」
「くだらぬことにこだわるのが人というものだ」
お前とてそれを喰らって生きてきたのだろう、女はそう笑った。確かに、人の執念というものはしばしば理屈より濃い。
女は刀を腰へ差した。戸口で一度だけ振り返る。
「しかしまあ、もし私がしくじれば、お前があれを殺してくれてもいい」
それで女は去った。軒の外へ出ると、雨の幕がたちまちその小さな背を呑んだ。
追って助ける義理はない。ただ雨の匂いの底に、彼女の皮膚の温い匂いが長く残った。
***
屋敷の裏塀を越えた時には三人が死んでいた。
木の上から庭を見下ろす。湿った葉が肩を打つ。女は一人、灯籠の影に立って息を荒げていた。左の袖が断ち切られ、二の腕からとめどなく血が流れている。だが、右手も足もまだ生きていた。呼吸も、目も、先を見ていた。
用心棒が二人、間を置いて構える。女は先に右の男へ踏み込み、喉を割いた。血が噴き出し、崩れ落ちるよりも早く振り向きざま左の男の膝裏へ刃を通す。二人が蹲って瞬く間に体温が冷えてゆく。
よく鍛えた動きだった。速く、無駄がない。だが数の差は変わらない。屋敷の中、渡り廊下、灯篭の陰。人の気配がいくつもある。屋敷とはそういう場所だ。囲いをひとつ壊せば、別のひとつが顔を出す。女の付け焼き刃で越えてゆけるほど甘くはない。
破れた袖で腕を縛りながら女が奥へ進もうとしたその時、暗がりから一人が出た。細身の男で、刀を抜く所作が静かだった。あれは良い。無駄な力みがない。人を斬り慣れた腕の匂いがする。
女もすぐそれと悟ったらしい。肩が僅かに下がった。
二人の間で雨垂れがひとつ石を打った。次の瞬きで、女の脇腹は裂けていた。
肋の下から熱いものが溢れ、着物の色を夜より濃く変えていく。女は踏み込んで反撃しようとしたが、己の血で足を滑らせた。男の二太刀目が肩口から深く抉り、三太刀目で膝を奪った。
女は泥の中へ伏した。
屋敷の奥に仇がいるのだろう。だが女はそこへ届かなかった。障子の一枚向こうにいるのか、さらに奥か、その顔すら見ぬまま、ただ侵入者として斬り伏せられた。ひどく呆気ない終わりだった。
残る用心棒たちが灯りを掲げながら取り囲み、誰かが「死んだか」と言った。
女は死んでいなかった。泥の中で指を動かし、折れそうな首を少しだけ持ち上げる。その目を濡らすのは雨でしかなく、やはり女は涙を流さない。冷えた怒りが最後まで燃え残っている。己の無力さに対する怒りだった。
私は木から降りた。衣擦れの音で用心棒たちが振り向く。
「何者だ」
言葉を返す気はなかった。一人の喉を裂き、一人の目へ親指を入れ、一人の刀を奪って顎から脳へ突き上げた。良い腕の男も向かってきたが、鬼の目には呆れるほど遅い。肩を断ち、返す刃で胸を開く。用心棒たちは騒がしい。死ぬ時まで自分が何者かを主張したがる。
何人を斬ったか定かでないが、やがて庭は静かになった。
私は泥の中の女の傍へしゃがんだ。血と雨でその顔は冷えていたが、腹の奥はまだ温かいはずだった。
女は薄く目を開けた。焦点の合わぬ瞳の中に、いつも通り渇いた笑みが浮かんでいた。
「鬼、私の剣を見たか」
「ああ、見ていた」
「私は届かなんだな」
「そうだな」
血泡を唇の端で弾けさせながら、女は「今が一番旨いだろう」と笑った。
彼女は最後に屋敷の奥へ顔を向けようとした。だが首は半ばで止まり、代わりに私の胸を掴んだ。爪が衣を掠める。弱い力だった。
「次は、」
そこまで言って息が詰まる。
私は彼女の腹へ手を差し入れた。裂けた脇腹から開き、すぐそこにある臓腑に触れる。肝は深い紅で、破れず見事な形を保っていた。何ヵ月も憎悪の火に炙られ、恨みで研がれ、渇きで育った美しい女の肝だ。
私はそれを引き出し、口へ運んだ。噛んだ途端、舌の上にいくつもの夜が広がった。
家を奪われた怒りの味がした。泥を噛みながら前へ出ようとした脚の味がした。届かぬと知りながら刃を振った腕の味がした。女が私の隣に座っていた夜々の沈黙まで、そこに溶けていた。
人の肝はどれも紅い。だが同じ味はひとつとしてない。女のそれは深く、硬く、どこまでも底に沈んでゆく味だった。腹に入ると、そこにひとつ小さな熱が灯った。同時に女の指が私の胸から滑り落ちる。
女の頭を屋敷の奥に向けてやり、私は立ち上がった。墓など作る気はない。それは人の情念だ。女は復讐を誓って剣を取ったが、仇には届かなかった。それだけだ。そして私は契りの品を受け取った。
空になった女の身体に雨水が溜まってゆく。
数歩歩いたところで、腹の奥から声に似た熱の気配が立ち上る。
――次は外さない。
私が飲み込み、じきに溶けてゆくはずのものがまだそこで目を開いている。鬼ならまだしも、人にはよくあることではない。だが彼女ならそうしてもおかしくなかった。死んでもなお届かなかった先へ手を伸ばす。
人の執念は、しばしば理屈よりも確かなものを遺してゆく。
***
生きた人間の一人もいなくなった血塗れの屋敷を去り、夜道へ出る。雨がいつの間にか止んでいた。雲の切れた空に薄い月がかかっている。
しばらくこの辺りでは仕事がなくなるかもしれぬ。一度に多くが死に過ぎると人は辻斬りなど頼まなくなるものだ。
風が草を伏せて、野良犬さえ目を閉じて、人の世は眠っている。
私は腹の中に女を飼い、舌の上にまだその味を残したまま、次の生き胆を求めて闇へ入った。




