第5話
目を覚ましたとき、
桃太郎は自分がどこにいるのか分からなかった。
空は白み始めている。
夜が、終わったらしい。
体が、動かない。
「……」
喉が痛い。
泣き続けたせいだと、ぼんやり思った。
昨夜の光景が、頭に蘇る。
赤い肌。
角。
歪んだ笑い声。
酒呑童子。
「……っ」
息が詰まり、
胸を押さえる。
――熊。
その名前が、遅れて浮かんだ。
「……熊……?」
⸻
立ち上がろうとして、転ぶ。
足に、力が入らない。
それでも、
桃太郎は地面に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
理由は分からない。
ただ、
行かなければならない気がした。
⸻
歩く。
真っ直ぐ進めない。
何度も木にぶつかり、
何度も転びそうになる。
それでも、
足は山の奥へ向かっていた。
「……熊……」
声は、ほとんど息だった。
返事は、ない。
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血の匂いがした。
胸が、嫌な音を立てる。
足取りが、さらに重くなる。
「……いやだ……」
目を逸らしたくなる。
でも、
体は止まらなかった。
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岩場の陰。
そこに――
熊が、いた。
岩にもたれ、
座ったまま、動かない。
「……あ……」
声が、出ない。
近づこうとして、
膝から崩れ落ちる。
這うように、近づく。
「……熊……」
⸻
熊の目が、
ゆっくりと開いた。
『……来たか』
かすれた声。
それだけで、
涙が溢れた。
「……ごめん……」
「ぼく……逃げた……」
言葉が、震える。
熊は、静かに首を振った。
『……それでいい』
『生きた』
『それが……全てだ』
⸻
熊の体は、冷たくなり始めていた。
呼吸は、浅い。
もう、時間がない。
熊は、桃太郎の手を取る。
力は、ほとんどなかった。
『……聞け』
『今しか……話せねえ』
桃太郎は、
黙って、頷いた。
⸻
『お前を……守ろうとした男がいた』
『誰よりも……強くて』
『誰よりも……笑って』
『誰よりも……無茶をする男だ』
熊の声は、途切れ途切れになる。
『坂田金時……』
その名が、
静かに落ちた。
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『人間たちは……金太郎って呼んでた』
『熊と相撲取って……』
『腹抱えて……笑うやつだった』
その瞬間。
桃太郎の胸に、
知らないはずの景色が浮かぶ。
大きな背中。
豪快な笑い声。
温かい手。
涙が、止まらない。
⸻
『あいつは……最後まで、戦った』
『お前を……守るためにな』
熊の目が、
わずかに揺れる。
『お前は……』
熊は、はっきりと、言った。
『あいつの……息子だ』
⸻
世界が、遠のいた。
音が、消える。
「……」
何かを言おうとして、
言葉が出ない。
胸が、壊れそうだった。
⸻
『……優しかったな』
『泣き虫で……』
『だから……』
熊は、力を振り絞る。
『強くなれ』
『憎しみじゃねえ』
『守るためだ』
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熊の呼吸が、
ゆっくりと、止まっていく。
『……立て』
『逃げるな』
『……生きろ』
それが、
最後の言葉だった。
⸻
熊の目が、閉じる。
もう、開かない。
風が、山を渡る。
鳥が、鳴き始める。
世界は、何事もなかったように動き続けている。
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桃太郎は、
しばらく、その場から動けなかった。
やがて、
静かに立ち上がる。
剣を、握る。
手は、震えている。
それでも、
目は、まっすぐ前を向いていた。
「……酒呑童子」
声は、低く、静かだった。
「ぼくは……逃げない」
「守るために……強くなる」
山が、
その誓いを、飲み込んだ。
⸻
桃太郎の旅は、
ここから始まる。
もう、子どもではいられない。
それでも――
涙を知った者だけが、
本当の強さに辿り着く。




