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隋唐演異  作者: 八月河
9/10

決戦四平山

穿天寨。峻厳な山肌に抱かれた砦の主室で、羅松は一枚の飛脚文書を手に、深く眉をひそめていた。そこには、四平山にて隋帝楊広の龍舟が反王連合軍に包囲され、決戦必至の情勢が記されていた。煬帝の暴虐と奢侈、そしてそれに抗う反王軍の無謀な熱狂が、四平山の盆地を巨大な血肉の坩堝へと変えようとしている。彼の脳裏に、騎兵の蹂躙、槍戟の乱舞、血と絶叫が渦巻く地獄絵図が鮮明に浮かんだ。その飛び火が、ようやく平穏を取り戻しつつある燕雲の地、ましてや彼が守護する穿天寨に及ぶことは必至だった。


「…油断ならぬ」


羅松は低く呟き、机に向かった。硯に墨をすり、筆を執る。宛先は、遠く北平に在る父、北平王羅芸。


『父上、御健勝にてお過ごしのことと存じます。不肖の息子・松、朝廷より公認された白霊可汗として穿天寨を治めております。然るに、天下は大乱、今や四平山にて煬帝の龍舟が反王連合軍に包囲され、決戦は必至の情勢にございます』


筆運びは速く、かつ重かった。


『この戦乱の余波、燕雲の地に飛び火することは明らか。伏して、父上御配下の精鋭、燕雲鉄騎の一部を、穿天寨守護兵として御派遣賜りたく、切にお願い申し上げます』


ここで、羅松は一呼吸置いた。この要請には、深い計算があった。白霊可汗という朝廷公認の立場を利用し、表向きは


「朝廷の忠臣たる可汗が砦を守るための正当な要請」と装う。これにより、父羅芸が隋朝廷を憚ることなく援軍を送る口実を与え、同時に穿天寨そのものの防衛力を飛躍的に高める。更に、この行動自体が隋朝廷への「忠節の証」として機能する、という一石三鳥の策だった。


『くれぐれも御賢察ください。公認の可汗たる吾が要請は、朝廷への忠節を示す公的行為に他なりませぬ。どうか、堂々と送りたまえ。』


署名を終え、封を固く閉じた羅松は、待機していた屈強な使者を呼び寄せた。

「北平王府へ。父上の手に直に渡せ。遅れるな。」その声は冷徹で、眼光は氷の如く鋭かった。使者は文書を胸に厳重に納め、深々と一礼すると、疾風のごとく立ち去った。


(父の精鋭・燕雲鉄騎が砦に立てば、隋軍といえども安易には手を出せまい。これで牽制は効く…しかし、四平山か)


羅松の視線は、遠く南の空へと向かった。


(単雄信め…宇文成都に挑むとは。まさに飛蛾の灯火。愚の骨頂よ)


その頃、四平山の巨大な盆地は、数十万という膨大な軍勢がひしめき合い、殺気と熱気で煮えたぎっていた。盆地を取り巻く山々は、戦いを見下ろす無言の巨人のようだ。


反王連合軍陣営。様々な色と紋様の旗が乱立する中、ひときわ異彩を放っていたのは、瓦崗山の大魔国を掲げる「混世魔王」の大旗だった。その下で、緑林の好漢たちを束ねる大元帥・秦瓊が、岩のようにどっしりと構え、鋭い眼光で広大な陣形を俯瞰していた。その采配は冷静沈着、一糸乱れぬ指揮ぶりに、諸反王の将兵も思わず畏敬の念を抱く。


「各陣、配置を厳守せよ! 隋軍の精鋭、特に宇文成都の動向に細心の注意を払え!」


秦瓊の声は低く、しかし全軍に届く重みを持っていた。


しかし、その陣営の一角で、異様なオーラを放つ巨漢がいた。赤い髪を逆立て、目は血走り、巨大な槊を軋ませながら、獲物を求めて獰猛な視線を隋軍本陣へと向けている。単通、彼は既に狂戦士と化し、復讐の念が全身を蝕んでいた。その標的はただ一つ、天宝大将軍宇文成都。弟単達の仇だ。


対する隋軍本陣。深紅の大旗が翻り、その下に仁王立ちするのは、隋朝の大黒柱靠山王楊林。その威風は衰えを知らず、老将の風格が周囲を圧する。左には、黄金の仮面で冷徹な貌を隠した無敵の天宝大将軍・宇文成都。その怪力無双の存在感だけで、周囲の空気が重くなる。右には、麻叔謀ら歴戦の猛将たちが、鎧を燦然と輝かせて並ぶ。精鋭ぞろいの隋軍の中核だ。


楊林がゆっくりと陣頭に進み出た。すると、数十万がひしめく戦場が一瞬で水を打ったように静まり返った。


「伍天錫! 出でよ!」


楊林の声は雷鳴の如く、盆地全体に轟いた。


応えるように、隋軍の陣から一騎が飛び出した。赤毛の巨漢、伍天錫だ。彼はかつて楊林の麾下にあったが、今は反王連合軍の一翼を担う。その目は、楊林ではなく、その傍らに立つ宇文成都に強烈な憎悪を燃やしている。


「伯父上、ご無沙汰しておりますな!」


伍天錫の声は嘲笑と怒りに満ちていた。


「しかし、今日は叙旧の場ではござらん! 父伍建章の仇、宇文狗を渡さぬ限り、和議など百害あって一利なし!」


楊林の厳つい顔に、一瞬の苦渋が走った。伍建章は彼の義兄弟だった。その死の真相は闇の中だが、宇文成都が手を下したという噂は根強い。


「…ならば仕方あるまい」


楊林は深く息を吐き、右手の采配を高く掲げた。


「全軍、突撃せよ───ッ!」


采配が振り下ろされるやいなや、開戦の狼煙が天高く上がった。その合図と同時に、地響きを立てて両軍が激突する。怒号と金鉄の音、馬の嘶きが入り混じり、四平山は瞬く間に修羅場と化した。


戦場の中心で、一際異彩を放つ存在があった。黄金仮面の宇文成都である。彼が手にする鳳翅鎏金鎲は、まさに神の武器。一閃、一掃するごとに、反王軍の兵士や騎馬が、まるで枯れ草のように吹き飛ばされていく。鎲の軌跡は黄金の嵐を巻き起こし、その範囲内にいる者は、鎧もろとも粉砕される。非道という言葉すら生ぬるい、圧倒的な武力の前で、反王軍の前衛部隊は瞬く間に崩れ去り、血の川が大地を染めた。


「防げ! 宇文成都を止めねば!」


秦瓊の叫びも虚しく、無敵の天宝将軍の前進は止まらない。


「宇文成都ォッ! 覚悟しろ!」


雷鳴のような咆哮が轟いた。伍天錫である。巨大な混天鎲を振りかざし、愛馬を蹴って一直線に宇文成都めがけて突撃する。それとほぼ同時に、もう二騎が側面から宇文成都を包み込んだ。一人は、雄闊海。その豪腕が振るう巨大な鉄棒は、風をも断ち割る破壊力。もう一人は、伍雲召。伍天錫の従兄弟であり、その冴え渡る素銀鎗は、一点集中の鋭さで名高い。三将、宇文成都を囲んでの壮絶な三つ巴の戦いが始まった。


雄闊海の鉄棒が天を覆い、風圧で宇文成都の馬をよろめかせる。伍天錫の混天鎲が、正面から金鎲に叩きつけられ、火花が大輪の花のように炸裂する。その隙を伍雲召の素銀鎗が、毒蛇のように金鎲の守りの隙間を穿とうとする。


ガン! ガッ! ガガガン!


金属の激烈な衝突音が絶え間なく響き渡る。三将の息の合った攻撃は、まさに必殺の連携だった。しかし、黄金仮面の下から漏れるのは、冷ややかで傲岸な言葉だった。


「三人がかりでも…此れが限界か? 虫けらどもよ」


その言葉と同時に、宇文成都の金鎲が、雄闊海の鉄棒を弾く。尋常ならざる膂力による一撃。雄闊海はまるで人形のように馬鞍から放り出され、十数メートルも後方の地面に叩きつけられた。


「闊海!」


伍天錫が絶叫する。


その刹那、一つの流星が戦場に乱入した。


「宇文成都! 俺が相手だ!」


小柄ながら、全身から炸裂するような闘気を放つ若武者。手には一対の八楞梅花亮銀鎚を燦然と輝かせている。瓦崗山の最強戦力、裴元慶である!


「黙れ小童!」


宇文成都が金鎲を振るう。


「来い!」


裴元慶が銀鎚を迎え撃つ。


ドゴオオオオオーンッ!!!


銀鎚と金鎲が、天地を揺るがす轟音と共に激突した。衝撃波が周囲の兵士を吹き飛ばし、砂塵が舞い上がる。その中心で、宇文成都の愛馬が、グイグイグイッと数歩、後ずさったのである。


「な…なに!?」


「宇文将軍が…押されている!?」


「あの裴元慶が…!」


隋軍兵士から驚愕の声が上がった。宇文成都が正面からの一撃で後退を余儀なくされるなど、前代未聞の出来事だった。黄金仮面の奥で、宇文成都の目が、初めて驚きと苛立ちの色を浮かべた。


「ふん…小僧、なかなかやる。」


宇文成都は金鎲を構え直し、真の実力を解放せんとする気配を漲らせた。裴元慶は無邪気に、しかし鋭く笑い、銀鎚を回しながら次の一撃を待ち構えた。二人の間に、火花が散る緊張感が走る。


その戦況は、はるか後方の龍舟、玉座の間にもたらされた。絢爛豪華な室内に漂うのは、もはや驕りではなく、恐怖の気配だった。


「な…なんだと!? 宇…宇文成都が劣勢だと!? 裴元慶に押されただと!?」


楊広は、伝令の報告に顔面を蒼白に染め、玉座の肘掛けを掴む手が震えていた。彼の絶対的な守護神である宇文成都の不利は、彼自身の命が危ういことを意味した。


「陛下! どうかご安心を!」


宰相・宇文化及が、狡猾な笑みを浮かべて進み出た。この危機こそが、彼の権勢を更に固める好機だった。


「確かに裴元慶は厄介者。しかし、我が大隋には、天宝将軍に匹敵する、否、それ以上の勇将が二人も控えております!」


煬帝が血走った目を宇文化及に向ける。


「誰だ!? 早く名を言え!」


宇文化及は、声を潜め、しかし確信に満ちて奏上した。「一人は、唐国公李淵の四子、西府趙王李元覇。その剛勇は天下一、まさに人を以て敵と為さず! そしてもう一人は…陛下も洛陽の天宝将軍選抜の武試でご覧になったはず。穿天寨の主、白霊可汗羅松!」


「羅松…!」


煬帝の目が、狂喜の色に一瞬で変わった。洛陽の武試で、羅松が放ったあの神技、穿天槍の一閃は、皇帝ですら息を呑むほどのものだった。


「そうだ! 羅松! あの槍があれば…!」


「その通りでございます!」


宇文化及が声を弾ませる。


「李元覇様と羅松可汗。この双璧を四平山に召喚なされば、反逆軍など烏合の衆! 瞬く間に殲滅できるでありましょう!」


「よし! よしぞ! 速やかに勅命を出せ!」


煬帝は玉座から半身を乗り出し、痙攣するような笑みを浮かべて叫んだ。


「李元覇と羅松を、即刻、四平山に召還せよ! 朕の前で、その力を示させろ!」


宇文化及は「畏まりました」と深く頭を下げ、目に一瞬の得意の光を走らせた。勅命は直ちに使者に託され、李淵の陣営と穿天寨へ、それぞれ急を告げて飛んでいった。


煬帝の勅命は、矢よりも速く四平山の両陣営に届いた。


隋軍本陣では、伝令が声を張り上げる。


「天聴、届かずや! 勅命下る! 唐国公四子李元覇様、並びに白霊可汗羅松様、御召しに預かり、直ちに四平山へ馳せ参じ、賊軍を討伐せよ!」


その報せに、隋軍兵士からはどよめきと歓喜の声が沸き起こった。


「李元覇様だ!」


「羅松可汗も来られる!」


「これで安心だ! 天下無双の双璧ぞろいだぞ!」


「反逆軍、滅亡は必至!」


士気は一気に沸騰した。宇文成都の一歩後退による動揺は、この二人の名前に吹き飛ばされた。


一方、反王連合軍陣営では、この報せが絶望の冷気となって走り抜けた。


「な…なんだとッ!? 羅松が!? 羅松が敵に回るだと!?」


瓦崗山の主・程咬金は、陣中に設けた簡素な椅子から転げ落ちんばかりの衝撃を受けた。彼の丸々とした顔は一瞬で血の気を失い、大きな口がぽかんと開いたまま固まった。


「まさか…」


軍師徐茂公の扇子が止まり、鋭い目が細くなった。


「羅松が動くとは…」


大元帥・秦瓊の顔は蝋のように蒼白になった。彼はかつて羅松の槍を間近で見たことがある。その神速無比、穿天の名に恥じない技は、戦場の常識を超越していた。「彼の槍があれば…戦術も陣形も意味をなさぬ。全ての『隙』が、その一撃で消し飛ぶ…」彼の呟きは、指揮官としての絶望を隠せなかった。


「ぐっ…羅松…貴様まで…楊広のために…!」単雄信は、歯を食いしばり、拳を握り締め、目尻から血の涙を流さんばかりだった。羅松は、かつての友である。その羅松が、今、自分たちを殲滅すべく煬帝の麾下に立つ。裏切られたというよりも、乱世の理不尽さに魂が引き裂かれる思いだった。


「穿天槍…」


南陽侯伍雲召は、手にした素銀鎗を無意識に強く握りしめ、その先端が微かに震えた。


「あの槍を前にして…如何に戦えというのか…」


彼の心に、父伍建章の仇である宇文成都を倒せぬまま、さらに羅松という絶壁が立ち塞がった絶望が重くのしかかった。


陣営全体が、重く淀んだ沈黙と動揺に包まれた。宇文成都一騎の脅威すらも凌駕する、新たな絶望の影が、四平山の空を覆い始めた。


その勅命は、太原に本拠を構える唐国公李淵の陣営にも届いた。使者が読み上げる煬帝の勅命を聞きながら、李淵は深い思慮に沈んでいた。四子元覇の無敵の武力は、確かにこの窮地を救う切り札となる。しかし、その代償は計り知れない。


元覇は剛勇無比だが、心は純真無垢、時に制御不能な暴走を起こす危険を孕んでいた。四平山という修羅場で、我が子を放つことへの危惧。さらには、元覇のあまりの活躍が、かえって煬帝や宇文化及の猜疑心を煽り、李氏一門の禍根となるかもしれない懸念。複雑な思いが李淵の胸をよぎった。


「父上、私を四平山に遣わしてください」


静かな、しかし確固たる声が響いた。振り返れば、次子李世民が立っていた。その目は澄み、若さの中に非凡な聡明さと意志の強さを宿している。


「世民…」


「元覇の力は、確かにこの戦局を一変させましょう。しかし、彼は激情に駆られやすく、時に…歯止めが利かなくなることもございます」


李世民は父の危惧を見透かすように言った。


「私が同行し、義兄や他の将たちと共に、元覇を適切に導き、制します。何より、隋軍内部の動向、諸反王の実情をこの目で確かめる好機でもあります」


李淵は長男建成の顔を一瞥したが、建成は目を伏せた。次子世民の進言は、現実的で、かつ将来を見据えたものだった。李淵は深く頷いた。


「…よかろう。世民、元覇を頼む。くれぐれも、彼を制し、我が家の為に振る舞うよう導け」


「はい。承知いたしました」


李世民は深く一礼した。彼の胸中には、単なる「抑え役」を超えた、乱世を俯瞰する壮大な構想が既に渦巻いていた。


間もなく、太原を出陣した李元覇と李世民の一行が、四平山の隋軍本陣に到着した。李元覇の姿を見た隋兵たちは、恐怖と畏敬の入り混じったどよめきを上げた。その巨体は常人を遥かに超え、両手に提げた巨大な擂鼓甕金鎚らいこおうきんついは、その存在感だけで周囲の空気を歪ませるようだった。赤い甲冑に身を包んだ姿は、まさに降り立った雷神そのもの。傍らには、落ち着いた佇まいの次兄李世民が控えている。


「おお! 李元覇様ご到着!」


「これで安心だ!」


「雷神様だ! 雷神様が来られたぞ!」


歓声が渦巻く中、李元覇は無邪気に、しかし野性的な笑みを浮かべていた。彼の目は既に、遠くにひしめく反王軍の旗印を捉え、獲物を見つけた獣のように輝いていた。


着陣するなり、李世民は行動を起こした。姉の夫であり、自身の義兄でもある柴紹を呼び寄せた。


「紹兄、至急、瓦崗陣営の秦瓊殿、程咬金殿の下へ赴いて欲しい」


李世民の声は低く、急を告げている。


「何か御用か?」


柴紹は鋭い目を光らせた。


「元覇のことを伝えよ」


李世民の視線は、傍らで腕組みをし、戦場を貪るように見つめる弟へと向いた。


「『雷神』は、最早、誰の手にも負えぬ。彼が戦場に立つ時は、その周囲一帯が文字通り『無差別』の修羅場となる。決して近づくべからず、と」


柴紹は一瞬、息を呑んだ。李世民の言葉は誇張ではない。彼もまた、李元覇の恐るべき破壊力を知っている。


「…了解した。秦瓊たちには、十二分に注意を促す」


「頼む」


李世民は深く頷いた。柴紹は軽く一礼すると、敏捷に馬に飛び乗り、瓦崗陣営めがけて駆け出した。この警告が、どれほどの命を救うか、あるいは救えぬか。李世民の心に一抹の翳りが過ぎったが、彼は表情を崩さなかった。乱世の選択は、常に残酷な重みを伴う。


翌日。夜明けと共に、再び戦端が切られた。隋軍は、李元覇という切り札を得て、攻勢に転じようとしていた。


「元覇! 行くぞ!」


李世民の声がした。


「うおおおおおッ!!」


李元覇の雄叫びが、戦場の喧騒を一瞬で圧倒した。彼は愛馬万里煙雲罩を蹴り、巨大な金鎚をぶんぶんと振り回しながら、反王軍の前線へと一直線に突撃していく。その突進は、まさに地を這う雷。前方に立ち塞がる兵士も騎馬も、鎧も盾も、金鎚の一撃で粉砕され、吹き飛ばされていく。血しぶきと断末魔の叫びが、彼の通り道に花を咲かせた。反王軍の兵士たちは、眼前で起こる非現実的な惨劇に恐怖で凍りつき、逃げ惑う者も金鎚の嵐に飲み込まれていく。


「怪物だあああ!」


「雷神が来た! 逃げろ!」


混乱は瞬く間に広がった。


李元覇は獲物を求めて縦横無尽に駆け巡る。その目が、名のある反王軍の将旗を捉えた。


「お前の名前!?」


李元覇が轟くような声で問う。


「俺は…」


名乗ろうとした将は、次の瞬間、金鎚の一撃で馬もろとも地面に叩き込まれた。


「弱い!」


李元覇はあっけなく次の標的へ。次々と反王軍の主将が、名乗る間もなく、あるいは一合も交えずに、金鎚の餌食となっていった。反王軍の士気は地に落ち、戦線は大きく歪み始めた。


その暴虐の嵐の中に、一点の銀光が飛び込んできた。


「李元覇! ここまでだ!」


裴元慶である。彼は、昨日宇文成都を後退させた勇気と闘志を漲らせ、銀鎚を構えて立ち塞がった。


「お? 面白いなお前!」


李元覇の目が、初めて獲物を見るような輝きを増した。


「俺が相手だ! 覚悟しろ!」


裴元慶が愛馬を蹴る。


「来い!」


李元覇も突撃する。


轟ッ!!!


銀鎚と金鎚が激突した。衝撃は周囲の空気を破裂させ、砂塵の壁が立ち上がった。裴元慶は、宇文成都の金鎲を弾いた時以上の、桁外れの衝撃を両腕に感じた。骨が軋む音がした。


「ぐっ…!」


「ふん! まだまだだ!」


李元覇が笑う。


二撃目。より重い、より速い金鎚の一閃。裴元慶は必死に銀鎚で受け止めるが、その衝撃で愛馬が悲鳴を上げ、膝をつきそうになる。彼自身も肺の空気を吹き飛ばされ、視界が揺らぐ。


「くそっ…!」


三撃目。李元覇の渾身の一撃。それは天から落ちる雷槌の如く、全てを粉砕せんとする勢いだった。


「おおおおっ!」


裴元慶は全身全霊で銀鎚を振り上げる。


ドゴオオオオオオーン───ッ!!!


天地がひっくり返るような大音響。衝撃波が円形に広がり、周囲の兵士が吹き飛ばされた。その中心で、裴元慶の両腕の銀鎚が、高々と宙を舞った。彼の手は痺れ、感覚を失っていた。愛馬は完全に崩れ落ち、彼自身も地面に叩きつけられ、激しい衝撃で一時意識が遠のいた。


「ぐはっ…!」


塵埃が落ち着きかけた時、巨大な金鎚が、倒れた裴元慶の頭上にゆっくりと掲げられていた。


「死ぬか、降るか?」


李元覇の無邪気で残酷な声が響く。


敗北。圧倒的な力の差を思い知らされた裴元慶は、歯を食いしばり、唇を噛みしめた。しかし、瓦崗の仲間のことを思うと、ここで死ぬわけにはいかない。彼は屈辱に震えながら、かすれた声で言った。

「…降伏…する…」


「ふん。つまらん」


李元覇は金鎚を下ろし、すぐに次の獲物を求めて戦場の彼方へと駆け去っていった。倒れ伏す裴元慶の傍らに、瓦崗の兵士が駆け寄り、必死に彼を助け起こした。彼の目には、無念と敗北感の涙が光っていた。三撃で完敗。雷神の前では、銀鎚すら無力だった。


煬帝の勅命は、山深い穿天寨にも届いた。朝廷の使者が、絹に金泥で煌びやかに記された煬帝直筆の詔書を、恭しくも高慢な態度で羅松の前に差し出した。


「白霊可汗 羅松様。大隋皇帝陛下より、直々の詔書を賜る」


使者は跪いて、その文面を朗々と読み上げた。


『詔す。白霊可汗・羅松よ。朕は、爾の武勇と忠節を深く信頼す。今、四平山にて賊軍跳梁、天宝将軍宇文成都すら劣勢なり。爾は直ちに四平山に馳せ参じ、天宝将軍を輔け、反逆の徒を討伐すべし。これをもって、爾の忠節を問う。速やかに参じ、朕の期待に応えよ』


使者が去った後、主室には鉛のように重い沈黙が流れた。副官・羅鉄の顔には苦渋の色が浮かんでいた。


「可汗…この詔…断ることは…」


「…できない。」


羅松の声は、研ぎ澄まされた刃のように冷たく、静かだった。彼は窓辺に立ち、砦を見下ろす険しい山並みを虚ろな目で見つめていた。


「『白霊可汗』の称号は、煬帝が与えたものだ。この立場を利用し、『朝廷の忠臣』を装って父から兵を引き出し、砦を守ろうとした以上、表向きは朝廷の臣下として振る舞わねばならぬ。公然と詔を拒めば…これまでの策は水泡に帰す」


羅鉄の言葉が喉元で詰まった。言いたいことは山ほどあった。四平山には、単家の当主単雄信がいる。穿天寨が庇護し、羅松が槍の手ほどきをした単英の兄が、今まさに戦場で命を懸けている。羅松が隋軍として参戦することは、単家の人々を直に刃にかけることに等しい。


「…知っている」


羅松の背中が微かに震えた。彼の視線は、無意識に中庭へと向かった。そこでは、汗だくになりながらも必死に槍を振るう一人の少年の姿があった。単雄信の末弟単英である。その真剣な眼差し、拙いながらも懸命な槍さばきを見るたびに、羅松は単雄信の面影を重ねずにはいられなかった。


(あの狂戦士が…宇文成都に挑めば…結果は火を見るより明らかだ。一合も持たぬだろう)


朝廷公認の立場を利用して砦と民を守る策と、庇護下にある者の家族、そして己が鍛えた少年の兄を守りたいという心情。この矛盾した板挟みの中で、羅松は冷酷な「選択」を迫られていた。彼の心は引き裂かれる思いだったが、表情は氷のように冷ややかだった。


「…行く」


羅松は静かに、しかし揺るぎない口調で言い切った。


「可汗!?」


羅鉄の息が止まる。それは予想していたとはいえ、やはり衝撃だった。


「詔に背けば、煬帝と宇文化及は直ちに穿天寨を『反逆』と断じ、大軍を差し向ける口実を与えることになる」


羅松の声は論理を積み重ねるように淡々としていた。


「父からの燕雲鉄騎が到着する前に、砦は危うい。守り切れまい」


羅松はゆっくりと振り返り、羅鉄を真っ直ぐに見据えた。


「私は行く。だが…『参じる』ことと、『宇文成都を輔ける』ことは、別だ」


羅鉄は、主君の言葉の裏にある危険な意味を瞬時に悟り、思わず息を呑んだ。それは、表向きは勅命に従いながらも、戦場では意図的に傍観する…あるいは、より危険な行動に出る可能性すら示唆していた。


「可汗、まさか…あの者たちを…」


「何もするな、羅鉄」


羅松は鋭く、しかし深い諦念を含んだ目で副官を睨み、その言葉を遮った。


「お前の務めは一つ。砦を守れ。父からの援軍が来るまで、耐え抜け。それだけだ」


彼は一歩前に出て、声をさらに潜めた。

「そして…単家の者たちには…何も言うな。特に、単英にはな」


羅鉄は、唇を噛みしめ、無言で深く頭を下げた。その背中には、主君の苦悩がひしひしと伝わってきた。


羅松は、壁に立てかけられた愛槍・穿天槍の元へと歩み寄った。普段は油を塗った布で念入りに包まれているその槍身を、今は自らの手で丁寧に解き放った。長く、冷たく、鈍く光る鋼。彼は布を手に取り、槍身を撫でるように、一拭き、一拭き、丁寧に磨き始めた。布が鋼を撫でる微かな音だけが、重い空気に反響した。それは、自らが下すことになった危険で微妙な「選択」の瞬間を、静かに、しかし全身を研ぎ澄ませて待ち続けた。穿天槍の穂先が、丘の上の風に、かすかな唸りを上げた。

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