十八路反王、六十四処煙塵
洛陽の深宮、沈香の香りと権謀の匂いが混じり合う玉座の間。宦官が震える声で奏上する。
「陛下…山東の程咬金、瓦崗にて『混世魔王』を僭称し…河北の竇建徳、『夏王』を号し…江南…」
「黙れ!」煬帝・楊広の怒声が玉座を震わせた。彼は手中の翡翠の杯を床に叩きつけ、琥珀色の酒と砕けた翠玉が飛び散った。
「賊どものままごとめいた騒ぎよ!烏合の衆が、朕の大隋を揺るがせると思うか!」
しかし、その高笑いの奥底に、微かに漂うのは焦燥だった。各地から上がる叛乱の烽火は、かつてない規模と頻度を増していた。彼の目は、傍らに仁王立ちする巨漢へと向く。金燦燦の鎧に身を包み、雷鳴を思わせる重厚な存在感を放つ男―天宝将軍宇文成都。その無言の威圧感こそが、今の煬帝にとって唯一の拠り所であった。
「成都よ」
「はっ」
低く轟くような声。
「…武闘会の準備は進んでいるか」
「陛下のご意志のままに。周辺諸国、各部族より、すでに猛者どもが洛陽に集結しつつあります」
「良し」
煬帝の唇が歪んだ。
「朕の目の届かぬ僻地の族どもにも、天宝将軍の武威と、大隋の絶対を見せつけてくれ。虫けらの反逆など…吹き飛ばしてしまえ!」
一方、太行山脈の奥深く、切り立った断崖の上に築かれた穿天寨。山頂に立つ一人の男、羅松。白衣は烈風に翻り、漆黒の瞳は雲海の彼方、洛陽のある中原を凝視していた。彼の耳には、早駆けの斥候が齎した言葉が鋭く刺さっていた。
「『十八路反王、六十四処煙塵』…洛陽では、煬帝が異民族の武芸者を集めた『武闘会』を開催せんとしています」
「…武闘会か」
羅松の低い呟きは、風に掻き消されそうになった。その目に、一瞬、氷の刃のような鋭さが走る。白霊族の族長として、彼はこの「武闘会」の真の意味を看破していた。煬帝の示威。叛乱の芽を力で摘み取ろうとする、傲慢な皇帝の最後のあがきだ。
「可汗、我らは如何いたしましょうか?」
老練な副官、羅鉄が背後で問う。顔には深い皺と共に、長年の戦いの傷痕が刻まれている。
羅松はゆっくりと振り返った。「参戦せよ。白霊族の代表として」
「はっ?」羅鉄の目を見開いた。
「それは…朝廷への恭順を示すことにならぬか?」
「恭順など、見せかけで足りる」
羅松の声は冷徹だった。
「宇文成都の金鎲を前にして、我らが臆さぬことを示すのだ。それが…白霊族が『叛乱など企てぬ』有力な族である証となる。朝廷の公認を得るための…最も確かな道だ」
羅鉄は深く息を吸い込み、重々しく頷いた。羅松の狙いは深い。乱世の嵐が目前に迫る今、独立した勢力として認知されることこそが、一族の生存を賭けた布石なのだ。だが、羅松自身の胸中には、重い鉛のような予感が沈んでいた。煬帝の狂気、宇文成都の絶対的な暴力…その渦中に飛び込むことの代償は、計り知れない。
洛陽上林苑。皇帝行幸のための広大な庭園が、異様な熱気に包まれていた。四方に設けられた高みには、豪奢な衣装に身を包んだ貴族や高官、そして異国の使節や部族の長たちが詰めかけ、好奇と警戒の目を光らせている。中央の広場は、武闘のための特設演武場と化していた。
玉座に座る煬帝は、退屈そうに顎を支えていた。これまでに登場した異民族の勇士たちは、宇文成都の前では子供同然であった。金鎲の一撃、一閃。轟音と共に敵は吹き飛び、時には武器ごと粉砕される。その圧倒的な力の前で、観衆は最初は歓声を上げたが、次第に畏怖と沈黙に変わっていった。
「退屈じゃ…もっと面白いものはないのか!」
煬帝が苛立ちを滲ませる。
その時、場内に微かなざわめきが走った。入場してきたのは、他とは明らかに異なる一団。白銀の鎧に身を固め、その歩みは整然として無駄がなく、静謐そのものの気を纏っている。先頭に立つのは、飄々とした白衣の男、羅松。彼の手には、一見すると質素だが、研ぎ澄まされた鈍い光を放つ一挺の長槍―穿天槍が握られていた。
「ほう…」
煬帝の目が興味深そうに細まった。
「あれが…太行の白霊族か」
宇文成都は微動だにしない。黄金の仮面の奥の目だけが、入場してくる羅松を捉えていた。獣が獲物の動きを凝視するように。
互いに名乗りもなく、開始の合図もない。静寂が張り詰めた瞬間、宇文成都が動いた。地を這うような低い構えから、巨体が驚異的な初速で突進する。金鎲は風を裂き、低く唸る雷鳴を轟かせ、羅松の頭上へと叩きつけられた! 観客席から悲鳴が上がる。
しかし、その重厚無比の一撃が炸裂する寸前、羅松の白衣が微かに揺れた。まるで風に吹かれる柳の葉のように。彼の足は地面を滑るように半歩後退し、同時に穿天槍が、金鎲の柄の一点を、流れる水のようにそっと―しかし確かに―押し流した。
ガンッ! 鈍く重い衝撃音。金鎲は目標を外れ、羅松のわずか数寸横の石畳を粉砕した。砕け散る石片が飛び散る。
「…ふむ」
宇文成都が初めて声を発した。その声には、些かだが驚きの色が含まれていた。
羅松は無言。穿天槍は再び静かな構えに戻る。その瞳は、宇文成都の巨体全体を、一点の狂いもなく捉えている。
戦いは数百合に及んだ。宇文成都の金鎲は、剛力無双の雷神の槌の如く、破壊の嵐を巻き起こす。一撃ごとに地面は砕け、空気は歪み、轟音が観客の鼓膜を打つ。その圧倒的な攻勢に、場内は常に緊張の坩堝と化した。
しかし、羅松の穿天槍は、嵐の中の一筋の光の如し。決して力で押し返そうとはせず、流れるような身のこなしで金鎲の軌道を外し、その巨体の死角を穿つように鋭い突きを繰り出す。槍先は時に金鎲の柄をかすめ、時に鎧の継ぎ目を狙い、火花を散らす。その槍術は「技」の極致であり、宇文成都の「力」の極致と激しく対峙した。
剛と柔。力と技。静と動。
死闘は膠着状態に陥った。どちらも決定的な一手を出せない。汗が宇文成都の黄金の仮面を伝い落ち、羅松の白衣の背中にも汗の染みが広がり始めた。玉座の煬帝は、身を乗り出し、息を詰めて見入っている。その目には、純粋な武の神技に対する驚嘆と、自らの象徴である宇文成都が制圧できない相手が現れたことへの複雑な感情が入り混じっていた。
「…止め!」
煬帝の声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
二人の武人の動きがピタリと止まる。激闘の余韻が場内をゆらめく。
煬帝は立ち上がり、羅松をじっと見据えた。
「…朕は認めよう。そなたの族は、叛乱など企ててはおらぬ。その技量、天下一品なり」
場内にどよめきが走る。皇帝自らの公認である。
「そなたに下賜しよう。『白霊可汗』の称号を。太行の地にて、良く族を治めよ」
羅松は深々と頭を下げた。
「…陛下のご厚情、身に余る光栄に存じます」
その声は平静だったが、心臓は激しく鼓動していた。狙いは達した。白霊族は公認勢力としての地位を得た。
だが、玉座から降りる煬帝の背中に宿る狂気の影と、眼前に仁王立ちする宇文成都の金鎲から放たれる、圧倒的な「力」の重圧。それらが羅松の背筋に冷たい戦慄を走らせた。この対峙は終わったが、真の乱世の幕開けは、これからだ。彼が想像していた以上に苛烈で、血塗られた時代が…。羅松は、山頂の烈風のように冷ややかで確固たる決意を胸に秘め、静かに、しかし確実に、故郷・穿天寨への帰途についた。洛陽の喧噪が遠ざかるにつれ、彼の心は太行の険しい山並みへと飛んでいった。
瓦崗寨、義軍が集う本拠の大広間。程咬金が足を組んで大将軍の席に座り、大きな声で笑っているが、その目はどこか落ち着かない。軍師徐勣が一枚の紙を前に眉をひそめている。
「なあ、徐茂公!おめえの陰謀だろ?なんでまた『趙徳の墓』なんぞ掘らにゃならんのじゃ!俺様は大将軍だぞ!墓掘りなんぞ、くそみそな役目じゃねえか!」
程咬金が不満げに叫ぶ。
「咬金、落ち着け」
秦瓊が諌める。彼は常に冷静で、瓦崗軍の実質的な調整役だ。
「趙徳は前朝の反乱の首謀者。その墓に何か隋に抗う手がかりが眠っている…というのが軍師の見立てじゃ」
徐勣が静かに頷く。
「占星と古記録が示しておる。その墓は…単なる墓ではない」
「ふん!占いかよ!」
程咬金は大きく鼻を鳴らしたが、結局、くじ引きで墓掘り役に選ばれたことを恨めしそうに呟きながら、数人の小姓を引き連れて山へと消えていった。
一方、洛陽宇文邸の深奥。宇文化及が、密偵からの報告書を指でトントンと叩いている。その目は冷たく、蛇のようだ。
「二賢荘…単雄信の巣窟か」
彼の唇が歪んだ。
「あの赤髯の賊、各地で我が軍を苦しめおる。その家族を擁する二賢荘こそ、反逆の温床だ」
「では、即刻、討伐を…」
側近が進言する。
「待て」
宇文化及が手を挙げて止めた。
「公然と手を出すのは…面倒を招く。『反逆の証拠』を『発見』したことにせよ。夜陰に紛れて急襲だ。一族郎党、根絶やしにせよ」
「はっ!」
その夜、二賢荘は闇に包まれていた。しかし、宇文化及の精鋭部隊が荘内に突入した時、彼らが見たのはもぬけの殻だった。人影はなく、貴重品も持ち去られ、生活の気配さえ消えていた。
「な、なんだこれは!?」
指揮官が絶叫する。
「宇文化及様、ど、どうやら…すでに立ち退いたようです!しかも、かなり前から…」
「なにーーーっ!?」
指揮官の顔が蒼白になった。任務失敗の報せが、苛烈な宇文化及の怒りを招くことは明白だ。
「くっ…!焼け!この荘を、跡形もなく焼き払え!『反逆の証拠隠滅のための自焼』と報告せよ!」
指揮官は逆上して叫んだ。
業火が二賢荘を包み、かつての栄華を誇った豪商の館は、一夜にして灰燼に帰した。この報せは、前線で隋軍と対峙する単雄信の下へ、致命的に歪んだ形で届けられた。
「単将軍!大変です!」
血まみれの伝令が倒れ込むように駆け込んだ。
「二賢荘が…宇文化及の手勢に急襲され…ご家族…皆様…皆殺しに…!荘は…焼け落ちました…!」
「…は?」単雄信の動作が止まった。
その巨大な槊が、手から滑り落ちそうになる。
「…何だと?お前…何を言っておる?」
「宇文化及が…許さぬと…一族根絶やしに…」
「うおおおおおあああああああああっーーーーーーーーーーーっ!!!!!!」
単雄信の絶叫は、戦場の喧騒を一瞬にして飲み込んだ。それは獣の断末魔にも似た、魂の底から絞り出される悲鳴だった。彼の赤髪は逆立ち、目は血走って虚ろとなり、全身から殺気が迸る。その巨大な槊を再び握りしめた手は、鬼の爪のように白く震えていた。
「宇文化及ーーーっ!楊広ーーーっ!畜生めええええっ!!お前らを…お前らを骨の髄まで、粉々に叩き潰してくれるわあああっ!!!」
その日を境に、瓦崗軍随一の猛将単雄信は、死を求める狂戦士へと変貌した。常に最前線。敵陣へ単騎で斬り込み、血の雨を降らせ、己の傷など意に介さず、ただひたすらに敵を屠り続けた。彼の双槊は復讐の鬼哭となり、その姿は味方ですら畏怖の念を抱かせた。
その頃、穿天寨。東の砦の一画に、新たに設けられた居住区があった。羅松の密かなる庇護を受け、辛うじて命を繋いだ単家一族の人々である。老人も女も子供も、皆、放心状態だった。故郷を焼かれ、肉親の生死も定かではない。安堵と深い不安が交錯する日々。
羅松は彼らを手厚くもてなしたが、過保護にはしなかった。「この地で生きる以上、力になってもらわねばな」彼は淡々と言い放ち、老いも若きも、それぞれの役割を与えた。炊事、武器や武具の手入れ、砦の見張り、畑仕事…。些細なことから始めさせた。生きる意味と、己の手で何かを成す力を、少しずつ取り戻させるためだ。
中でも、単雄信の末弟、十四歳の単英は、羅松の傍らにいることが多かった。ある夕暮れ、羅松が槍を研ぐ様子をじっと見つめていた単英に、羅松は振り返らずに言った。
「持ってみよ」
「…は、はい!」
単英は緊張して、羅松が差し出した研ぎかけの穿天槍を受け取った。その重さと冷たさに、思わず身震いした。
「研げ」
「え…?私が?」
「然り」
羅松の声に迷いはない。
「命を懸けるなら、己の武器は己で磨け。研ぎ澄まされた刃こそが、乱世で信頼できる唯一の友だ。他人に頼るな。己の手で、その切れ味を感じろ」
単英は必死に槍の柄を握りしめ、石の上で槍身を擦り始めた。ぎこちない手つきだが、その真剣な眼差しに、焼け落ちた二賢荘の悲しみだけではない、何かが宿り始めているのを、羅松は静かに見守っていた。復讐の炎ではなく、生き抜くための…確かな意志の灯りが。
揚州の離宮から届いた一本の早馬が、洛陽の宮廷を震撼させた。
「稀代の奇花瓊花、ついに開花す!」
玉座の煬帝は、報告を聞くやいなや、狂喜乱舞した。
「朕の目で!朕の目で必ず見ねばならぬ!天が朕に贈った瑞兆だ!」
彼は臣下たちを蹴散らすように玉座から飛び降り、命令を吠えた。
「直ちに龍舟を建造せよ!かつてない巨大なものを!絢爛豪華なるものを!朕の威光を天下に見せつけるにふさわしいものを!」
この無謀な命令は、直ちに天下に災厄をもたらした。大運河沿いの州県には、前代未聞の労役と重税が課せられた。農民は田畑を放棄し、男たちは鎖で繋がれた囚人の如く工事現場へと駆り立てられた。過酷な労働と栄養失調、監督官の鞭打ち。運河の岸辺には、力尽きて倒れ、そのまま土に埋もれていく者の姿が絶えなかった。
「早く!遅れるな!陛下の龍舟を造るのだ!」
監督官の怒声が飛ぶ。
「…お、おふくろ…もう…だめだ…」
若い男が泥まみれの地面に倒れ込む。傍らでは、幼い子供が泣き叫ぶ母親の袖を引っ張っている。
「お前たちの苦労は、大隋の未来の礎だ!文句を言うな!」
監督官の鞭が容赦なく振り下ろされる。
そんな民衆の呻きと死の影を全く顧みず、巨大龍舟建造は急ピッチで進んだ。全長数百尺、楼閣を思わせる数層の船体、金箔や朱漆で彩られた豪華な装飾。その威容は、まさに水上の宮殿と呼ぶに相応しかった。
しかし、この煬帝南幸の報せは、各地に潜む反乱勢力にとって、決起の狼煙に他ならなかった。
「龍舟南幸…皇帝自らが中原を離れる…!」
瓦崗寨、徐勣が地図を叩いた。
「千載一遇の好機!朝廷の主力が皇帝警護に縛られる!」
「よし!いよいよじゃあ!」
程咬金が大斧を床に打ち据える。
「俺様が本物の魔王になってやるぜ!」
「諸勢力へ檄を飛ばせ」
秦瓊が決断する。
「共に隋の虚を突く時だ」
河北では竇建徳が「夏王」を、江南では杜伏威が「楚王」を、さらに各地で李密、劉武周、梁師都…。煬帝の狂気の南幸を合図に、十八路の反王たちが次々と王号を掲げ、挙兵の烽火を上げた。大地は怒りに震え、燎原の火は一気に燃え広がろうとしていた。煬帝の暴政が撒いた種は、ついに一斉に芽吹き、巨大な禍根となって隋という巨木の根元を食い破らんとしていた。
大運河を悠然と、しかし異様な威圧感を放って南下する巨大龍舟。船上では、薄絹をまとった宮女たちが妖艶な舞を踊り、山海の珍味が次々と運ばれ、西域から取り寄せた高価な香料の甘い香りが漂う。絢爛豪華、極楽浄土の如し。
玉座に座る煬帝は、しかし、虚ろな目で窓の外の流れる景色を眺めていた。その手には、各地から届く奏上文書の束が握られていた。宇文化及が、低く沈んだ声で読み上げる。
「…河間府方面、李子通の反乱軍、宇文成都将軍の軍勢と激突、戦況は…膠着…」
「…瓦崗賊、秦瓊、単雄信ら、我が軍の兵站線を頻繁に襲撃…」
「…山西、劉武周配下の尉遅恭、黒甲鉄騎を率い南下、太原を脅かす…」
「…江南、杜伏威の水軍が官船を襲撃…」
「…っ」
煬帝の指が玉座の肘掛けを軋ませた。宇文化及が次の敗報を読み上げる度、その軋みは大きくなり、ついに
「何故だーーーっ!!!」
煬帝の絶叫が、豪奢な船室を揺るがした。彼は玉座から猛然と立ち上がり、手にした奏上文書を力任せに床に叩きつけた。
「朕は何一つ怠ったことはない!全ては…全てはこの大隋のため!万民のためだ!」
激情に震える声で、彼は自らの「功績」を列挙し始めた。
「見よ!この大運河を!南北を繋ぐ万世の大事業ぞ!民は苦しんだかもしれぬ!だがそれは…未来の安泰のための礎だ!朕が造ったのだ!」
「科挙を整えた!貴族どもの専横を断ち切り、才ある者を登用する公平の政ぞ!門閥に縛られぬ道を朕が開いたのだ!」
「高麗を征伐した!先帝の遺志を継ぎ、大隋の国威を四海に示さんとしたのだ!何が悪い!」
彼の絶叫は次第に歪み、狂気を帯びていく。
「朕は…朕は真っ当な事をしておるでは無いか!何一つ間違ってはおらぬ!…なのに…なのに何故だ…!何故、朕に対して叛乱など起こすかーーーーっ!!畜生どもめええええっ!!!」
その叫びは、運河建設で骨まで削られるように働かされ斃れた無数の民夫たちの怨念にも、度重なる遠征で異国の地に散っていった兵士たちの無念の涙にも、届くことはなかった。それは、自らが築いた「功績」という黄金の檻に閉じ込められ、その檻が燃え上がりつつあることに気づきながらも、自らの過ちを一切認めようとしない孤独な暴君の、空虚で歪んだ咆哮に過ぎなかった。
宇文化及は、玉座の階下で深々と頭を下げていた。その俯いた顔に浮かんだのは、薄く冷ややかな嘲笑だった。
「陛下の御功績は天地神明も照覧あらせております。賊どもは、陛下の偉大さを理解できぬ愚か者にございます」
しかし、龍舟の豪華な装飾と香料の香りが立ち込める外では、煬帝の絶叫は運河の濁流に呑まれ、消えていった。代わりに、運河沿いの村々から、そして遠く離れた地平線の彼方から、十八路反王が上げる烽火の煙が、真っ赤に夕焼け空を焦がし始めていた。その煙は、まさに隋王朝の終焉を告げる弔いの煙のようであった。
鳳鳴王・李子通の本拠、河北河間府。重厚な城壁に囲まれた城内、練兵場で二人の男が向き合っていた。一人は白銀の鎧に身を包み、長身で端正な顔立ちだが、その瞳には拭い難い悲しみと静かな怒りが湛えられている―伍雲召。かつての南陽侯であり、今は復讐に燃える反王の将である。もう一人は赤毛を逆立て、筋骨隆々の巨体に混天鎲という大武器を軽々と担ぐ豪傑―その実弟、伍天錫である。
「兄上…遂に時が来ましたな」
伍天錫が地響きを立てて混天鎲の柄尻を地面に打ち据えた。彼の目には、父伍建章と伯父が、隋朝廷の奸計により無念の死を遂げた怨念が燃えていた。
「楊広と宇文狗め…このままではいられぬ!」
「…ああ」
伍雲召は、手入れを終えたばかりの素銀鎗の切っ先を微かに光らせながら、静かに頷いた。
「宇文一族の血で、父上たちの霊を鎮める日が…」
その時、鎧を着た斥候が土煙を上げて駆け込んできた。
「急報!伍将軍!宇文成都率いる隋軍精鋭、我が領内北部に侵攻開始!その先鋒は…麻叔謀!」
「なっ!?」
その名を聞いた瞬間、伍雲召の平静な表情が一瞬にして剥がれ落ちた。目を見開き、持っていた布きれが手から滑り落ちた。麻叔謀―彼こそが、父伍建章を捕らえ、無実の罪で処刑台へと引き渡した張本人だった。血の海に沈んだあの日、父の無念の形相を、伍雲召は今も鮮明に覚えていた。
「麻叔謀ーーーっ!!」
伍天錫の怒号が練兵場を震わせた。彼の目は一瞬で血走り、全身の筋肉が怒りに膨張した。
「この野郎を俺が叩き切ってくれるわ!父上の仇だぞおおおおっ!!」
「待て、天錫!」
伍雲召が必死に弟の腕を掴んだ。理性が叫んでいる。麻叔謀は餌だ。背後には必ず宇文成都が控えている。
「麻叔謀は囮に過ぎん!深追いは危険だ!罠かもしれぬ!」
「そんなこと言ってられるか!父上の仇が目の前にいるんだぞ!兄貴は忘れたのか!あの日を!」
伍天錫は伍雲召の手を振りほどき、傍らの愛馬に飛び乗ると、混天鎲を天にかざして咆哮した。
「出撃じゃあああっ!麻叔謀を討ち取れええっ!」
「天錫!待てえっ!」
伍雲召の制止の声も虚しく、伍天錫は単騎で城門を破って飛び出していった。伍雲召は苦渋の表情で歯を食いしばり、直ちに自らも軍勢を率いて後を追った。
河間府郊外の平原。伍天錫の一騎駆けは、麻叔謀率いる先鋒部隊に真っ向から突っ込んだ。赤毛の豪傑は鬼神の如く暴れ、混天鎲の一撃ごとに隋兵を薙ぎ倒していく。
「麻叔謀ぉぉ!出て来い!憶病者め!」伍天錫の怒声。
「小僧が…!」
隋軍本陣から、巨漢の武将麻叔謀が大斧を手に現れた。その顔には、伍家への嘲弄が刻まれている。
「うおおおっ!」
伍天錫は愛馬を蹴り、一直線に麻叔謀へと突進する。混天鎲が唸りを上げて振り下ろされた。麻叔謀が大斧で受けようとするが―
ドガンッ! 鈍く重い金属音。麻叔謀の大斧が、その剛力の前に弾き飛ばされた!麻叔謀の目に驚愕が走る。次の瞬間、伍天錫の混天鎲が、無防備となった彼の胸板を、鈍くも確かに貫いた!
「ぐはっ…!こ、この小童が…!」
麻叔謀が血の泡を吹きながら呻く。
「伯父上に…償えええっ!」
伍天錫が渾身の力を込めて鎲を押し込む。
その刹那―
ゴオオオオオオンッ!!!
雷鳴が地を這うような轟音と共に、金色の閃光が襲い掛かった!天より降り注ぐ雷槌の如く!天宝将軍・宇文成都の金鎲だ!
「なっ!?」
伍天錫は麻叔謀から鎲を引き抜き、間一髪で頭上に構える。
ドゴォォォンッ!!!!!
天地を揺るがす衝撃!伍天錫の愛馬は悲鳴と共に膝をつき、彼自身もその衝撃で地面に叩きつけられた。両腕は痺れ、内臓が攪拌されるような激痛が走る。混天鎲は奇跡的に折れずに済んだが、柄には深い凹みが刻まれた。
「小童めが…よくも麻叔謀を!」
宇文成都の冷たく重い声が頭上から響く。黄金の仮面が、無慈悲な太陽の光を反射している。
「うぐっ…宇…文…成…都…!」
伍天錫が歯を食いしばって睨み上げる。
「天錫ーーっ!」
その時、駆けつけた伍雲召の素銀鎗が、宇文成都の金鎲に鋭い火花を散らして叩きつけられた。素銀鎗は水のように流れ、金鎲の破壊的な剛力を無数に受け流す。流麗にして精妙、まさに羅松を彷彿とさせる技だった。
「…ふむ」
宇文成都が初めて後退の一歩を踏んだ。仮面の奥の目が、伍雲召の槍先を鋭く捉える。
「お前が…南陽侯、伍雲召か」
二人の対決は、まさに神々の戦いの如く。剛力無双の金鎲と、柔にして剛の素銀鎗が激突し、火花と衝撃波が周囲を薙ぎ払う。伍雲召の槍は、宇文成都の鎧の隙間を狙い、時にその巨体を翻弄する。しかし、宇文成都の一撃一撃は桁外れの重さで、伍雲召もまた完全には受け流せず、着実に消耗していった。
兵力で劣る伍軍は、宇文成都本軍の猛攻に次第に押され始める。兵士たちの悲鳴が飛び交う中、伍雲召は弟・天錫が瀕死の重傷を負っているのを確認した。
「…くっ!」
伍雲召は歯を食いしばり、深い悔しさを呑み込んだ。今は退くしかない。父の仇麻叔謀は討った。しかし、その奥に控える天宝将軍という壁のあまりの高さを、身をもって思い知らされたのだ。
「全軍!撤退じゃああっ!天錫を護れえっ!」
辛うじて撤退に成功した伍雲召軍だったが、その背後には、宇文成都の金鎲と、彼を中心とした隋軍精鋭の、圧倒的な存在感が立ちはだかっていた。復讐の道は、あまりにも険しかった。
煬帝の絶叫が響く南方のはるか彼方、太行山脈の穿天寨。山頂に立つ羅松の白衣が、冷たい風に翻っていた。斥候からの報告が脳裏を巡る。
「…龍舟、揚州へ向かうか」
彼の呟きは、風に消えそうだった。
「天下は…沸騰点に達しようとしている」
「可汗」
副官の羅鉄が近づき、低く告げた。
「単家の者たちは、東の砦の修復を無事に終えました。皆、よく働いております」
「良し」
羅松は目を閉じ、僅かに頷いた。
「次は穀倉の警備を増員せよ。三倍に。乱世は、食糧こそが真の兵だ。これを失えば、如何なる堅城も一日と持たぬ」
彼は確実に単家一族を戦力として組み込み始めていた。砦の修復や食糧生産、見張りといった後方支援から、次第に武芸の訓練へと移行させていた。砦の一角では、単英が汗だくになりながら、羅松から渡された槍を振るっていた。その必死な姿に、羅松は近づいて言った。
「その突き、まだ甘い」
「は、はい!」
単英が息を切らして答える。
「敵の喉元を貫くつもりで、一点を穿て。槍は突くものだ。薙ぐものではない」
羅松は自らの穿天槍を微かに動かし、一点を穿つ突きの要諦を示した。
「命を懸けるなら、己の武器は己で磨け。研ぎ澄まされた刃こそが、乱世で信頼できる唯一の友だ。他人に頼るな。己の手で、その切れ味を感じろ」
単英は深く息を吸い込み、目を槍先の一点に集中させ、再び突きを繰り出した。その目には、当初の悲しみや怒りだけではない、何かを掴もうとする必死さ、そして乱世を生き抜くための「覚悟」とも言える確かな光が灯り始めていた。復讐の炎ではなく、自らを鍛え上げる意志の炎だ。羅松はそれを静かに見守り、認めた。
彼の視線は、山々の彼方、遠く離れた地を捉えていた。心の目には、瓦崗寨の光景が浮かぶ。程咬金が大将軍の座に胡坐をかきながらも内心は不安げな様子。秦瓊が軍師・徐勣や慎重派の魏徴らと地図を囲み、采配に苦慮する姿。狂戦士と化し、いつ爆発するかわからない火薬庫のような単雄信。そして、冷徹無比の槍の遣い手、羅成が、ただひたすらに己の槍を磨き続ける孤高の側影。
河北では、伍雲召が復讐の炎を燃やしつつも宇文成都という巨大な壁に阻まれている。山西では、尉遅恭が鋼鞭を轟かせて黒甲の鉄騎兵を率い、破竹の進撃を続ける。江南では沈法興の水軍が縦横無尽に動き、隋の水軍を翻弄する。
「…火はついた」
羅松が低く呟いた。
山頂を吹き抜ける烈風が、その言葉に応えるかのように唸りを上げた。かつて賈柳楼という小さな楼閣で灯された、ほんの小さな反逆の火種は、ついに天下を焼き尽くさんとする燎原の火へと成長し、隋という旧時代を灼熱の炎で焼き払おうとしていた。
瓦崗寨の本拠、議事堂に異様な熱気が充満していた。中心にいるのは、泥だらけの服を着て、得意げに胸を張る程咬金だ。彼の前に広げられたのは、一枚の古びた皮の地図と、奇妙な文様が刻まれた青銅の板であった。
「はっはっは!どうだい、みんな!俺様が掘り出してきたぜ!趙徳の墓の宝物だあ!」程咬金が大斧の柄で地図をトントン叩いた。「なんだかすげえもんが出てきたぞ!こりゃあ、大した獲物だ!」
「…む」
軍師徐勣が地図に慎重に目を凝らした。その細い目が次第に鋭さを増していく。
「…これは…これは大興城の…地下水路網…そして…皇宮の守備配置…門番の交替時間…まさか…」
一同が息を呑んだ。隋の帝都長安の、中枢部の弱点を克明に記した、まさに軍事機密文書だった!
「こ、これは…!」
秦瓊が身を乗り出した。
「これがあれば…長安城の真っ只中に、奇襲部隊を送り込むことも…」
「そうだぜ、叔宝!」
程咬金がドカッと座り込み、嬉しそうに足を組んだ。「これがあれば、あのデカブツの都の真ん中だって、俺様たちが殴り込めるってわけさ!楊広の玉座をぶっ壊してやるぜ!」
しかし、秦瓊の眉間に深い皺が寄った。
「しかし…なぜ?なぜ趙徳の墓に、このようなものが?彼は前朝の反乱者のはずだ。隋の機密が何故…?」
議事堂が一瞬静まり返った。その沈黙を破ったのは、老獪な参謀魏徴の低い声だった。
「つまり…趙徳もまた…隋に刃向かおうとした…同志だったのかもしれぬ。この地図は…彼が、あるいは彼の同志が、命懸けで集めたものではなかろうか…」
その言葉が重く落ちた瞬間だった。
「ドン!」と、議事堂の扉が乱暴に押し開かれた。そこに立つのは、全身に殺気を纏った単雄信だった。彼の目は虚ろで、深い闇をたたえ、赤髪は乱れ、呼吸は荒かった。どうやら二賢荘炎上の詳細な報せ―家族が皆殺しにされたという誤報を確かなものとして聞き届けた直後らしい。
「都…長安だと…?」
単雄信の声は、軋む金属のようだった。その視線は、床に広げられた大興城の地図を、飢えた狼のように捉えている。
「…楊広…宇文化及…お前ら…お前らはそこで…」
彼の指が、腰に差した双槊の柄を、ギュッ、ギュッと握り締める。骨が軋む音が微かに聞こえた。
「俺が…俺が必ず…お前らの首を…一族の墓前で…」
その殺意の籠った言葉に、場の空気が一気に凍りついた。程咬金さえも、思わず口を閉ざした。
「無謀すぎる」
冷ややかな声が響いた。議事堂の隅に佇む、若く美しいが表情の冷たい槍の遣い手、羅成である。「単騎で大興城に挑むなど、死に行くも同然だ。犬死にも程がある」
「黙れ小僧ーーーっ!」
単雄信の怒号が天井を揺るがした。彼は一気に羅成へと詰め寄り、槊を構えんばかりの勢いだ。
「お前の知った事か!家族を奪われた俺の気持ちが、お前に分かるものかああっ!」
「雄信!落ち着け!」
秦瓊が即座に二人の間に割って入った。その体格と威圧感で、一触即発の二人を引き離す。
「羅成の言うことも一理ある!だが、復讐は我ら皆で成す!この地図は…天が与えた好機かもしれぬ」
秦瓊は単雄信の目を真っ直ぐ見据えた。
「しかし…今は時期尚早だ。大興城は堅城。宇文成都を始め、精鋭が守る。正面から挑めば瓦崗の力すらも砕け散るだろう。この地図を活かすには…時を待ち、策を練らねばならぬ!」
「…ぐっ…」
単雄信は歯を食いしばり、全身を震わせた。理性は秦瓊の言葉の正しさを理解している。だが、心の奥底で燃え盛る復讐の炎は、一刻の猶予も許さなかった。彼は苦悶の表情で天を仰ぎ、ようやく槊を収めたが、その目は依然として狂気の色を失っていなかった。
議事堂には重苦しい沈黙が流れた。復讐に燃える単雄信。野望に目を輝かせる程咬金。慎重な準備を主張する秦瓊、徐勣、魏徴。そして、冷徹に事態を見つめる羅成。瓦崗軍の内部には、それぞれの思惑が渦巻き、その亀裂は深まるばかりだった。一枚の地図が、新たな希望であると同時に、新たな分裂の火種となる可能性を秘めていた。
穿天寨の簡素な主室。羅松の前に、瓦崗寨からの密使が跪いていた。使者は、先の長安城地図の精巧な写しと、秦瓊、徐勣連名による書状を差し出した。そこには、大興城への共同作戦への参加と、そのための軍議への出席が要請されていた。
羅松は書状を黙って読んだ。表情は微動だにしない。読み終えると、彼はそばに焚かれている暖炉の火の中へ、静かに、しかし確実に書状を投じた。羊皮紙は炎に包まれ、みるみるうちに灰と化した。
「可汗!?」
控えていた羅鉄が思わず声を上げた。
「お、お断り…ですか? 瓦崗軍との連携は…」
「今は動かぬ」
羅松の声は、
山岳の岩のように冷たく硬かった。
「白霊族はようやく安住の地を得た。朝廷公認の『白霊可汗』の地位だ。この身分を賭けて、瓦崗の乾坤一擲の賭けに付き合う義理はない」
「しかし…」
羅鉄は躊躇した。
「単雄信様のご家族は、我らが庇護しております。その義理を…」
「彼らを守るのは我々の責務だ」
羅松の目が、炉の炎を反射して鋭く光った。
「だが、その責務を果たすためには、穿天寨そのものを安泰に保たねばならぬ。今、群雄が隋の主力を各地で引きつけている。この隙こそ…我々は力を蓄え、領内を固め、天下の動静を窺うのだ。無謀な遠征は、砦を空虚にし、守るべき者たちを危険に晒すだけだ」
羅松は立ち上がり、窓辺へと歩いた。窓の外には、砦の中庭で槍の稽古に励む単英の姿が見える。少年の槍捌きは、羅松の指導を受けて以来、確かな上達を見せていた。力任せではなく、一点を穿つ突きに集中している。
羅松はそっと窓を開けた。冷たい風が室内に流れ込む。
「…その突き、まだ腰が浮いている」
彼の声が、風に乗って中庭に届いた。
「は、はい!」
単英がはっとして姿勢を正し、腰を沈めて再び突きを繰り出した。
「敵の喉元を貫くつもりで。一点を穿て」羅松の声には、厳しさの中に微かな認めの色があった。
「はいっ!」
羅松は少年の背中、そして必死に槍を研ぐ他の単家の人々の姿を見つめながら、心の中で思った。
『復讐は…力を持つ者のみに許された特権だ』
『お前たちが、己の意志で復讐を選び、それを成し遂げるだけの真の力を持つその日まで…生き延びよ。耐え抜け。鍛え上げよ』
風が羅松の白衣を翻した。彼自身もまた、この乱世の荒波の中で、白霊一族と、庇護した単家の人々を守り抜くための「力」と、時には非情とも映る「選択」を、常に模索し続けていた。瓦崗の熱気とは対照的な、穿天寨の静謐で冷徹な決断が下された瞬間であった。
煬帝の絢爛豪華な龍舟船団が、ついに揚州の埠頭に近づくにつれ、十八路反王の軍勢は各地で激しい戦いの火蓋を切った。隋という巨木は、四方八方から燃え盛る炎に包まれ、崩壊の時を刻々と迎えようとしていた。
山西の戦塵、尉遅恭が放つ鋼鞭の一撃は、城門さえも木っ端微塵に砕いた。彼が率いる劉武周軍の黒甲鉄騎は、まさに鉄の奔流。蹄の轟音と共に隋の精鋭部隊を蹂躙し、太原の城下にまでその黒い影を落とし始めていた。尉遅恭の無双の武勇は、山西の地に「黒煞神」の名を轟かせた。
河北の死守、伍雲召と、辛うじて一命を取り留めた伍天錫。兄弟は深い傷を負いながらも、河間府の城壁に立ち、復讐の炎を燃やし続けた。宇文成都率いる隋軍本隊の猛攻は凄まじく、城壁は何度も崩れかけた。しかし、伍雲召の神技に近い槍捌きと、伍天錫の執念の混天鎲が、何とか守りを支えていた。城壁の下には、両軍の将兵の屍が累々と積み重なり、その血が大地を染めていた。
瓦崗の策謀、瓦崗寨では、大興城の地図を前に、秦瓊と徐勣が昼夜を分かたず作戦を練り続けた。膨大な情報の分析、潜入ルートの選定、奇襲部隊の編成…。一方、単雄信は獣檻の中の虎のように城壁の上でうろつき、出撃の機会をうかがい続けていた。その目は常に血走り、大興城のある西の空を睨んでいた。そして羅成は、相変わらず人里離れた場所で、ただひたすらに己の五鉤神飛亮銀槍を磨き続け、その冷徹な瞳で瓦崗内部の軋みを静かに見つめていた。
穿天寨の静かなる胎動、太行の山奥、穿天寨では、羅松の指示のもと、領内の防備は一段と固められていた。砦の増築、見張り台の増設、食糧の備蓄。白霊族の戦士たちは、羅松自らが指導する厳しい訓練に明け暮れ、槍術のさらなる向上を目指した。そして単家の人々は、それぞれの役割をこなしながら、武芸の訓練にも励み始めていた。単英の槍は日に日に鋭さを増し、その目には生き抜くための確かな意志が宿りつつあった。羅松は、彼らが真に自立し、乱世を生き抜く力をつけるその日を静かに待っていた。
大運河沿いの村々では、龍舟の豪華絢爛さと民衆の疲弊、絶望が、痛烈なまでに対照をなしていた。絢爛豪華な船団が悠々と通り過ぎる岸辺では、重税と労役に喘いだ農民が力尽きて倒れ、その傍らで幼い子供が空っぽの粥碗を抱えて泣いていた。船団からは、宮女たちの嬌声や楽器の音が風に乗って流れてくる。
一人の痩せこけた老農民が、泥まみれの手を合せ、龍舟の行く末を涙ながらに呟いた。
「瓊花様…どうか…どうか隋の世を…早く終わらせておくれ…この苦しみを…」
その民衆の悲痛な願いを汲むかのように、あるいはそれに応えるかのように、十八路の反王が上げる烽煙はますます濃く立ち上り、六十四処の煙塵は大地をますます晦冥としたものにしていった。
煬帝が揚州の離宮で、ようやく咲いたという稀代の奇花瓊花を愛で、その美しさに恍惚としているまさにその時ですら、彼の足元では、隋という巨木が、民衆の怨念と反王たちの武力という灼熱の炎に包まれ、今まさに轟音と共に崩れ落ちんとしていた。
かつて賈柳楼という小さな楼閣で、ほんの数人の義士によって灯された、反逆の小さな火種は、ついに天下を焼き尽くす燎原の火へと成長した。それは、旧時代を焼き払い、新たなる時代の夜明けを、血と炎の色で灼熱に告げ知らせようとしている。乱世の巨大な波は、尉遅恭の鋼鞭、伍天錫の混天鎲、羅松の穿天槍、秦瓊の金装鐧、無数の名もなき兵士たちの武器、そして何より、塗炭の苦しみを味わった民衆の底知れぬ怒りと悲願を飲み込みながら、歴史の奔流をさらに加速させていく。真の天下大乱、群雄割拠の時代が、ここに幕を開けたのである。