賈柳楼四十六友結義
山東の空気は、四十八万両御銀強奪事件以来、鉛のように重く淀んでいた。小龍山の惨劇——靠山王楊林の苛烈な捜索は、血の雨で山肌を洗い流し、賊徒の首は郡県の城門に晒され、恐怖は庶民の骨髄にまで沁み込んだ。役所の門前には洗いきれない血痕が黒ずみ、路傍の捨て子の泣き声だけが、消えぬ不安を仄かに伝える。表向き、節度使唐壁をはじめとする山東七十二県の役人たちの血の滲むような弁明と、惜しみなく注ぎ込まれた賄賂の甲斐あってか、楊林の怒りはかろうじて収束の兆しを見せていた。しかし、それはただ水面下の緊張が、より狡猾で陰湿な形で潜行したに過ぎなかった。密告の目は街角に張り巡らされ、楊林の密偵は市井に溶け込み、些細な疑いで人々が闇に消えることも珍しくなかった。民は息を潜め、商人は交易を控え、かつて賑わった街道は不気味な静寂に包まれていた。
この微妙で危うい均衡のただ中、済南府に一つの噂が駆け巡り、静まり返った水に石を投げ込んだ。節度使唐壁麾下の旗牌官であり、山東随一の義侠として名高い「小孟嘗」秦瓊が、母の六十の誕生を祝う盛大な宴を開くというのだ。招かれる客は多士済々。府衙の顔役から市井の商人、腕に覚えのある武芸者、果ては遠方から馳せ参じる名士まで、その人脈はあらゆる階層を覆い尽くす。秦瓊の「小孟嘗」の異名は伊達ではなく、困った者を見れば身分を問わず手を差し伸べ、その度量の広さは山東のみならず天下に知れ渡っていた。
しかし、この招きの名簿は、並みのものではなかった。噂は噂を呼び、人々は囁き合った。楊林が血眼になって捜す「賊首」、緑林の総瓢把子単雄信、その右腕にして小龍山事件の首謀者の一人尤俊達、そしてあの怪力無双の巨漢程咬金までもが、公然と招かれているというではないか! 秦瓊の度量の大きさの現れか? それとも、朝廷の高官でありながら、根は義に厚い彼の複雑な立場が露呈したのか? あるいは、何か深い思惑があってのことか? 賈柳楼の宴は、鉛のように重い山東の空気に投じられた最初の、そして危険な異物であった。それは祝宴であると同時に、山東の勢力図を揺るがす可能性を秘めた、静かなる戦いの幕開けでもあった。
宴の前日。長く粗末な街道を、程咬金は大地を揺るがすような巨大な足音を響かせて歩いていた。無骨な顔をしかめ、分厚い唇をモグモグと動かしながら、心の内で激しく葛藤していた。
「ちっくしょー! 手ぶらで叔母様の誕生日に行けるかよ! 父さんと秦彝叔父さんは、北斉が隋に滅ぼされる時、背中合わせで戦った義兄弟じゃねえか! 血を分けた兄弟の子が、母の誕生祝いに何も持たずに現れるなんて…俺がそんな恥をかかせるわけにはいかねえ!」
しかし、金も品もない。彼の住む小屋は貧しく、唯一の財産はあの巨大な萱花大斧だけだ。この男の思考はいつも直截だった。深く考えるより、体が先に動く。彼の目が、食い物を狙う猛獣のようにギラリと光る。筋肉隆々の腕を組み、顎の赤い髭を無意識に引っ張る。
「…よし、決まった! 俺様、追い剥ぎ程咬金、久々に稼ぎに出るぜ! 叔母様への贈り物は、この俺が調達してやる!」
標的は案外早く見つかった。街道の彼方から、蹄の音が軽やかに響いてくる。真っ白な名馬「閃電白龍駒」に跨り、銀鼠がかった明光甲冑に身を包んだ一人の若武者。その顔は白磁のように端正だが、目元には溶けぬ氷のような冷たさが漂い、背筋は凛と伸び、周囲の空気さえ引き締める威風を纏っていた。供回りは精悍な若者数人、皆、目に鋭い光を宿し、揃いの装備を身に着けている。北平王羅藝の御曹司、「冷面寒槍俏羅成」である。父の命で山東の地を視察に来ていたところだった。
程咬金は巨躯を道の真ん中にドシンと据え、持ったばかりの萱花大斧をガシッと天を衝くように構えた。声は雷鳴の如く、街道に響き渡った。
「おい! 行き交う者よ! この山は俺が切り開き、この道は俺が舗装した! 通るなら金と荷物を置いて行け! 命が惜しけりゃな! さあ、早くせんか!」
その刹那、風がピタリと止んだ。程咬金の視界を埋め尽くしたのは、一点から迸る無数の冷たい星の群れだった。羅成の五鉤亮銀神飛槍が、生きるが如く翻り、瞬時にして程咬金の全身の要害——眉間、咽喉、両肩、心臓、両脇腹を同時に突き刺さんと迫る! 槍先が引き裂く風圧が逆立つ程咬金の髪を撫で、喉元に鋭い殺気が針のように走る。その速さ、精度、圧倒的な殺意! 流れるような槍捌きは、まさに神技と呼ぶに相応しい。
「ぬわっ!? こ、このガキ…化け物かよっ!」
程咬金は喉から絞り出すような声を上げ、本能で巨斧を振るった。彼の斧捌きは「三斧頭半」と呼ばれる荒削りだが破壊力抜群のもの。しかし、羅成の槍は風を切り、幻影のように斧の軌跡をかわし、あるいは軽やかに弾き、カンカンカンッ! と炸裂する金属音と共に火花が散る。一撃、また一撃ごとに彼の腕は痺れ、虎口が裂ける痛みが走り、背筋に冷たい汗が滝のように流れた。格の違いを思い知らされた。間一髪で致命傷を避けられたのは、彼の獣のような反射神経と、並外れた耐久力のおかげだった。
「ちっ…くそっ! おめえ、なかなかやるな…だが、この技…どこかで…」
必死に斧を振るいながら、程咬金は何故かこの超絶の槍捌きに覚えがあるような、胸騒ぎがするような…しかし、その正体を見極める間もなく、羅成の冷徹な目と、次に繰り出されようとするさらに危険な技に、彼の生存本能が最大限に働いた。
「…今日は運がいいぜ、小僧! 次に会ったら覚えてろよ!」
程咬金は捨て台詞を吐くと、巨体に似合わぬ素早さで路傍の藪に飛び込み、煙の如く逃げ去ったのだった。萱花大斧を引きずりながら、息を切らして走る背中は、どこか間抜けながらも必死だった。
その後も程咬金は幾組かの通行人に「商売」を試みた。裕福そうな商人の一行、旅の武芸者、地方の役人…。しかし、奇妙なことに彼らは皆、程咬金の名を聞き、あるいは彼が「秦瓊様のご母堂の誕生日祝いの品を調達している」と分かると、驚きこそすれ、怒るどころか、苦笑いを浮かべ、時に感心したように首を振りながら、「秦瓊様の母上とならば…」「どうぞお持ちください、これも何かの縁です」と、金品や貴重な贈り物を快く差し出したのだ。中には、程咬金のあまりの無鉄砲さと義理堅さに感心し、わざわざ持っていた上等な絹織物を追加で渡す者までいた。
「はっはっは! さすがは叔宝兄貴! 名が物を言うってもんよな!」
結局、程咬金は山ほどの贈り物を抱え、満面に笑みを刻み、まるで凱旋将軍のように秦瓊の屋敷へと向かうのであった。彼の背中には、絹、茶、酒、薬草、果物などが山積みになり、滑稽でありながらもどこか感動的な光景だった。山東に響く「小孟嘗」秦瓊の名の重みと、人々の彼への信頼が、ここにありと知らしめる一幕であった。
宴は、済南府随一の豪華な酒楼、賈柳楼で開かれた。三階建ての威容を誇る楼閣は、この日ばかりは赤い提灯と寿の字の飾りで彩られ、異様な熱気に包まれていた。一階から三階まで吹き抜けの広間には、数十もの大円卓が所狭しと並び、山海の珍味が隙間なく並べられている。脂の乗った黄河鯉の蒸し物、山深くで獲れた熊の掌の煮込み、山海関から急送された珍魚、色とりどりの点心…酒の香り、肉の香り、香辛料の香りが渾然一体となり、濃密な空気を作り出していた。
そこに集う人々の様相は、まさに隋末の世の縮図そのものだった。節度使府の高官たちは、刺繍を施した綺羅びやかな官服に身を包み、腰には玉帯を下げ、上品に、しかし目端の利く笑みを浮かべて談笑する。市井の大商人たちは、金糸銀糸で富を誇示する豪華な衣装をまとい、互いに商談の糸口を探り合う。各地から集まった武芸者、侠客たちは、実用的な皮革や布の装束に身を固め、鍛え上げられた筋肉を誇示し、酒を啜りながら眼光鋭く周囲を見渡す。そして、緑林の豪傑たちは、色褪せたが丈夫な麻の衣に身を包み、無造作に帯刀し、大声で笑い、大杯を傾けている。役人と賊が同じ空間に居合わせるという、常識では考えられない光景がここにはあった。
秦瓊は、節度使旗牌官の威厳ある礼服を身に着け、主賓席で応対に追われていた。端正な顔立ちには温厚な笑みを浮かべているが、その目には深い憂いと覚悟の色が潜んでいた。彼は、単雄信、尤俊達ら緑林の巨頭を招くことの危険性を十二分に承知していた。しかし、彼らは彼にとっては「賊」ではなく、義を重んじる「友」であった。楊林の監視の目をかいくぐり、この宴を実現させるために、彼は唐壁をはじめとする役人たちへの根回し、密偵の目を欺く細工、ありとあらゆる手を尽くしていた。
程咬金は、自らが「調達」した山のような贈り物を、得意げに秦瓊の母、寧氏夫人に献上していた。夫人は深い皺の刻まれた顔に優しい笑みを浮かべ、この無骨ながらも真心あふれる義理の甥を労っていた。その傍らで、羅成は壁際の席で、冷ややかな目で宴会の喧騒を見つめ、わずかに手にした杯を口元に運ぶだけだった。程咬金との一戦は彼にとって取るに足らない出来事だったが、山東の空気と、この奇妙な宴会の様相には、鋭い違和感を覚えていた。一方、赤い髭をたくわえた単雄信は、豪快な笑い声を響かせ、周りの緑林の兄弟たちと大杯をぶつけ合い、酒をあおっていた。尤俊達は、やや神経質そうに周囲を見渡しつつも、秦瓊への信頼から不安を押し殺しているようだった。
酒が進み、宴は最高潮に達した頃、場は熱気と酒気でむんむんとしていた。程咬金は最早べろんべろんに酔い潰れ、顔を真っ赤に染め、舌も回らなくなっていた。彼の血走った目が、壁際で冷然と酒を啜る羅成と、赤い髭を震わせて大杯を干す単雄信の間を行き来する。何かが彼の単純な頭の中でこんがらがった。無鉄砲な正義感と、酔った勢いが混ざり合い、奇妙な行動を引き起こした。
「おいおい、兄弟たちよぉー!」
程咬金が巨体を揺すりながら立ち上がり、よろめきながら二人の間に割って入った。そして、両腕をドシン、ドシンと二人の肩に乗せ、酒臭い息をプハーッと吐きかけながら言った。
「もっと楽しめよ、楽しめよ! そんなに堅くすんなっての! 酒はな、なぁ! 飲んで騒いでこそ祝いってもんだぜ!」
そして、片方の耳を単雄信にグイッと寄せ、涎と酒の匂いを混ぜた熱い息を吹きかけながら、囁くように、しかし周囲にも聞こえそうな声で言った。
「…で、あの白い顔の小僧、つんとすましてやがって、鼻持ちならねえよなぁ? てめぇみたいな大物、緑林の総瓢把子の前じゃ、ガキに過ぎねえってのによ! ふんっ!」
同時に、もう片方の耳を羅成に近づけ、今度はわざとらしく大声で言う。
「…んで、あっちの赤ひげの親分、威張りくさってやがって、うぜえんだよなぁ! 何が緑林の総瓢把子だ、笑っちゃうぜ! ふんっ! 偉そうに!」
一瞬、時間が止まった。広間の喧騒が一気に引いていくのを感じた。
「…な…なぬっ?」
単雄信の赤い髭が逆立ち、額に太い血管が浮き上がった。彼の巨体がゆっくりと立ち上がり、机が軋んだ。その眼光は、程咬金を焼き尽くさんばかりに燃えていた。
「小僧! よくも余を愚弄するか! この単通をなめるなよォーーッ!」
「貴様…今何と!」
羅成の冷たかった眼光が一瞬で刃のように鋭くなり、程咬金を貫いた。その手には、いつの間にか五鉤亮銀神飛槍の柄が握られ、無意識に震えていた。端正な顔に、怒りの赤みが一瞬浮かんだ。
「何だとコラァ! 程咬金、お前何をほざいてやがる!」
「生意気な小童めが! 単二哥を侮辱するとは!」
「羅成様への不敬、許さん!」
「ぶっ飛ばすぞ! この小童!」
たちまち席は修羅場と化した。感情の沸点を超えた男たちが、一斉に立ち上がる。拳骨が飛び交い、杯や皿が粉々に散り、食卓がひっくり返る。酒と汁が飛び散り、料理が床に叩きつけられる。役人も商人も武人も賊も、それぞれの立場、それぞれの忠誠心、それぞれの意地が絡み合い、怒号と罵声を浴びせ合い、もみ合い、一触即発の乱闘寸前となった。賈柳楼の豪華な内装は瞬く間に破壊され、祝宴の場は阿鼻叫喚の巷と化した。
「皆の者! やめろーーっ!!」
天地を揺るがす雷鳴のような怒声が轟いた。秦瓊が主賓席から猛然と立ち上がり、その威風堂々たる体躯が、乱闘の中心に割って入った。彼の眼光は普段の温厚さは微塵もなく、鋭く燃え上がり、騒然たる場を一瞬で圧倒した。旗牌官としての威厳と、何よりも母の大切な宴を乱す者への怒りが、彼の全身から迸っていた。
「ここは何処だと心得る! 我が母、寧氏の寿宴ぞ! この喜びの場を血と争いで汚すとは何事だ! 恥を知れ!」
彼の一喝に、さすがの豪傑たちも一瞬ひるみ、怒号が収まりかけた。秦瓊は苦渋の表情で額に浮かんだ脂汗を拭い、騒ぎの発端となった程咬金を強く睨みつけた。そして、怒髪天を衝く単雄信と、冷気を漂わせる羅成の間に割って入り、必死の説得を始めた。
「単二哥! どうかお怒りを! 程咬金は酔って妄言を吐いただけ! 彼の無鉄砲は知っておられるではありませぬか!」
「羅成賢弟! どうか剣を収めて! この場は母上の寿宴、どうかこの秦瓊の顔を立ててくだされ!」
彼の言葉には、単雄信への深い敬意と、羅成への親族としての情、そして何よりも「小孟嘗」として築き上げた絶大な信頼が込められていた。必死の説得と、彼自身が放つオーラが、ようやく剣呑な空気を和らげ、男たちは互いに睨み合いながらも、拳や武器を下ろし始めた。
そこへ、階段の方から静かな足音が響いた。老母、寧氏が、侍女に支えられて座敷に現れた。深い皺が刻まれた顔には、騒動の余波による疲労の色も見えたが、背筋はピンと伸び、目は穏やかでありながら揺るぎない威厳を湛えていた。絹の上質な服を着こなし、銀の簪で髪を整えたその姿は、貧しい寡婦として秦瓊を育て上げた苦労を思わせつつも、芯の強さを感じさせた。
「…皆様、お騒がせいたしました」
老母の静かな、しかし場内にしっかり届く声に、さすがの豪傑たちもハッと我に返り、頭を垂れた。酒に狂った熱気と殺伐とした空気が一気に醒めていくのを感じた。程咬金は、赤くなった顔をさらに深くうつむかせた。
「母上…お招きが遅れ、このような不始末、誠に申し訳ございません」
秦瓊が深々と頭を下げ、声に詰まりながら言った。
「皆様、これこそがわが母、寧氏でございます」
寧氏は静かに微笑み、ゆっくりと傷ついた宴会場と、頭を垂れる男たちを見渡した。その目は、役人にも賊にも、分け隔てなく温かく注がれた。
「老身の為に、遠方よりお集まりいただき、誠にありがとう存じます。息子叔宝が、皆様方のご厚意に支えられ、今日まで無事に成長できましたことを、心より感謝いたします。この場が、皆様の情誼を深める場となりますことを、何より願っております」
慎ましくも堂々とした、心のこもった言葉だった。場の空気は一変した。乱闘寸前の殺伐さは消え、老母への深い敬意と、場を乱してしまった後悔の念が広がった。単雄信は深く息を吸い、羅成はわずかにうつむいた。程咬金は涙ぐんでいるようだった。
静寂が戻ったその時、一人の人物が三杯の酒を捧げ持って進み出た。質素な道士風の衣を纏い、三綹の髭を蓄え、目は深い知性と落ち着きを宿す。賢者、魏徴である。彼の登場に、場の空気はさらに静謐なものへと変容した。
「秦瓊の母上。拙者魏徴、僭越ながら、母上に三杯の酒を捧げ、天寿を全うせられんことを祈念いたしたく存じます」
彼の声は澄んでいて、心の底から響き渡るようだった。騒動の後だけに、その落ち着いた威厳が一層際立った。
「この一杯は、天の恵みと健康長寿を。天の御加護があらんことを」
魏徴が一杯目の杯を差し出す。杯は上質な青磁。寧氏は感謝の言葉を述べ、ゆっくりと口を付けた。その姿は、まさに長寿を象徴するかのようだった。
「二杯目は、地の加護と子孫の繁栄を。大地の恵みが末永く続かんことを」
魏徴が二杯目の杯を差し出した瞬間、程咬金が突然、よろめきながら飛び出してきた。
「おっとっと! 叔母様! そんなに飲んじゃダメだぜ! まだまだお若く見えるけど、無理は禁物禁物! 俺が代わりに飲んでやるよ! 俺が飲めば叔母様も元気百倍だぜ、ははは!」
そう言うや否や、魏徴の手からするりと杯を奪い取ると、グイッと一気に飲み干した。一同、唖然とする。魏徴は目を白黒させ、呆然と立ち尽くした。
「こ、この三杯目は、人の和と末永き安寧を。この場に集う皆様の絆が永遠ならんことを…」
魏徴が呆然としながらも、何とか三杯目の杯を差し出すのも束の間、程咬金は再びすっと手を伸ばし、さらさらと奪い取る。
「はいはい、こっちもお預かり! これで叔母様はますます元気で長生き! 俺が飲めば飲むほど叔母様は元気になるんだぜ! はははっ!」
呆然とする魏徴と、唖然とする賓客たち。程咬金は平然と三杯目をあおり、満足げに口元を拭った。秦瓊は額に手を当て、思わず深い、深いため息をついた。
母、寧氏はただ、困惑と可笑しさが入り混じった苦笑いを浮かべるのみだった。程咬金の無鉄砲極まりない行動だったが、その純粋な義侠心と、あまりの図々しさが、かえって場の最後の緊張を解きほぐし、思わぬ笑いを誘った。魏徴も肩を落としながらも、苦笑いを浮かべた。
この連続する騒動を深く憂えた秦瓊は、ついに決意を固めた。このままでは、身分も立場も違う豪傑たちが、些細なきっかけで再び火花を散らすのは目に見えている。何よりも、楊林の監視が厳しい中、緑林の者たちを公然と庇ったこの宴の意味は計り知れない。結束こそが、この乱世を生き抜き、彼らが信じる「義」を貫く唯一の道だ。彼は心の中で、母のためだけではなく、この場に集う全ての者の未来のために、覚悟を決めた。
「皆の者! 静まれ!」
秦瓊が再び立ち上がり、声を張り上げた。先程の怒気は消え、代わりに熱い決意と、兄弟への慈愛に満ちた光がその目に漲っていた。場内のざわめきが一瞬で収まった。
「我ら、今日ここ賈柳楼に集いし者よ! 身分こそ違えども——役人あろうと、商人あろうと、武芸者あろうと、緑林の者あろうと——その胸に宿るものは同じではあるまいか!」
彼の声は熱を帯び、広間を響いた。
「義を重んじ、情を尊び、弱きを助け、強きを挫く! この心こそが、我らをここに集わせた絆ではあるまいか! 表の顔、裏の顔、それはこの乱世を生きる術に過ぎぬ! この賈柳楼の宴こそが、我らの真の心が交わった証ではなかろうか!」
彼は拳を握りしめ、さらに声に力を込めた。その眼光は、単雄信、羅成、尤俊達、程咬金、魏徴、徐茂公…一人一人の顔を確かめるように見つめた。
「この絆を、この心を、この場で固めようではないか! 天と地と神々の御前で、固く誓い合おう! ここに一人残らず、義兄弟の契りを結ぼう! 血を分かち合い、苦楽を共にし、生死を同じくする兄弟となろうぞ! どうだ!」
一瞬の沈黙。秦瓊の熱き言葉が、それぞれの胸の奥深くに落ちた。そして、堰を切ったような賛同の声が沸き起こった。
「賛成だ! 秦瓊兄の言う通り!」
「これでこそ、真の兄弟というものだ!」
「よし、決まった! 血判状を用意しろ!」
「我らが兄弟、天地に誓わん!」
「俺も入れてくれよな!」
「…兄貴たちがそう言うなら。」
役人も盗賊も、貴公子もならず者も、それぞれの胸に去来する思惑はあれど役人たちは朝廷との決別を覚悟し、商人たちは新たな繋がりを求め、武人たちは活躍の場を、緑林の者たちは頼れる基盤を——秦瓊の熱き言葉と、この場の熱狂的な空気、そして何よりも「小孟嘗」秦瓊の人格と、彼らが共有する「義」の精神に心を動かされ、疑いの声は上がらなかった。
総勢四十六名。賢者魏徴が、すでに用意していた生黄麻紙に、早筆で誓詞をしたため始めた。筆の走りは速く、文字は力強かった。順番は年齢の長幼による。まずは最年長者から血を取る。
「では、最年長の兄貴、魏徴道兄より!」
魏徴が進み出た。彼の顔は静かだが、目は熱いものを秘めていた。短刀を手に取り、迷いなく左手の人差し指を切った。真っ赤な血が滴り落ちる。彼はその血を誓紙に押し当てた。赤黒い血痕が、黄ばんだ紙面に最初の印を刻んだ。
一人、また一人と、豪傑たちが進み出る。鋭い刃で指を切り、滴る鮮血を誓紙に押し当てる。その顔ぶれは、まさに隋末の世を彩る、あるいはこれから彩る豪傑たちの集大成であった。
魏徴、秦瓊、徐茂公、程咬金、単通、張公瑾、史大奈、尤通、王勇、杜差、南延平、北延道、唐万仁、唐万義、賈潤甫、柳周臣、盛彦師、丁天慶、黃天虎、李成龙、屈突通、屈突蓋、魯明星、魯明月、樊虎、連明、金甲、童環、金城、牛蓋、尚青山、夏玉山、尉遅南、尉遅北、毛公遂、呂公旦、柴紹、羅成、王君廓、張転、何金爵、謝映登、鉄魁、任敬思。
血の誓紙が回り、ついに最年少の羅成の番となった。彼は、冷たい表情をわずかに崩し、一瞬躊躇うように見えたが、短刀を取ると、潔く指を切った。滴る血を誓紙に押し当てた。四十六個の鮮血の印。それは単なる形ではない。この乱世において、身分や立場を超えた生死の絆、運命共同体となることを意味した。
秦瓊が血染めの誓紙を高々と掲げた。その紙は、四十六の意志で重くなっていた。彼の声は感動と覚悟に震えた。
「皇天后土、この血誓を照覧あれ! 我ら賈柳楼に集う四十六人、今日ここに義兄弟の契りを結ぶ! 苦楽を共にし、生死を同じくす! 富貴貧賤を分かち合い、患難を救い合う! もしこの誓いに背くものあらば、天罰を蒙り、万刃に斃れんことを! 誓って悔いなし!」
「誓って悔いなし!!」
四十六の声が一つになって、賈柳楼を揺るがした。一同、深く頭を垂れ、天地神明に誓いを立てた。後に「賈柳楼四十六友結義」として、隋末唐初の乱世に燦然と輝く伝説となる契りが、この酒と血と熱気に満ちた宴の場で、固く結ばれたのだった。程咬金は早速、その新たな絆を笠に着て、血判の乾かぬうちに隣の席の兄弟に絡み始め、再び小さな騒ぎを起こしていた。
しかし、この宴の熱気と異様な顔ぶれは、秦瓊を監視する楊林の密偵たちの鋭い目を決して逃れなかった。情報は矢のように登州深奥の館にいる靠山王楊林の元へ届けられた。
「…ふむ。秦瓊の母の誕生日か。唐壁の旗牌官としての立場を考えれば、祝いの品を贈り、懐柔を図るのも一手ではある…」
老獪な靠山王は当初、秦瓊の武勇を惜しみ、まだ懐柔の余地を考えていた。しかし、次の報告が彼のその考えを木っ端微塵に打ち砕いた。
「しかし、その宴の列席者の中には…小龍山の賊首、単雄信、尤俊達、そしてあの程咬金の姿も確かに確認されておりまする! さらには、北平より密かに訪れていたと見られる羅成、ならず者の数々…彼らは一堂に会し、何やら血判状なるものに署名押印した模様でございます!」
「何だとーーっ!!」
楊林の目が、老いてなお鬼のごとく鋭く光った。手元の翡翠の杯が床に叩きつけられ、粉々に散った。秦瓊が緑林の賊徒と通じている。しかも、御銀強奪の首謀者たちと公然と! 血判状とは、もはや決定的な反逆の証だ! 懐柔など愚の骨頂、もはや看過できない。
「もはや猶予はならぬ! 秦瓊、裏切り者め!」
楊林の声は鬼気迫る冷たさに変わる。老将の怒りが部屋を満たした。
「即刻、精鋭五百騎を差し向けよ! 賈柳楼を包囲せよ! 楼内の賊徒どもを、一人残らず捕縛あるいは誅殺せよ! 秦瓊も例外ではない! 逃がすな!」
「はっ!」
楊林の命を受けた精鋭部隊が、闇夜に紛れて済南府へ急行した。彼らは迅雷の如く賈柳楼を包囲し、祝宴の余韻と酒気がまだ残る楼内へ突入した。
「官軍だ! 楊林の手下が来たぞ!」
「賈柳楼が包囲された!」
「武器を取れーっ! 兄弟たち、戦うぞ!」
楼内は瞬く間に阿鼻叫喚の巷と化した。役人たちは恐怖に駆られて逃げ惑い、商人たちは悲鳴を上げて机の下や柱陰に隠れた。一方、緑林の豪傑たち、そして秦瓊や羅成の配下の武人たちは、瞬く間に武器を手に取り、怒号を上げて襲い掛かる官兵に応戦した。卓の脚が棍棒となり、割れた皿が凶器となり、酒甕が投げつけられる。刀と槍がぶつかり合い、血しぶきが飛ぶ。楼内は血と酒と怒号が入り乱れる修羅場となった。賈潤甫と柳周臣は必死で財産を守ろうと奔走し、役人出身の者たちは苦渋の表情で武器を取らざるを得なかった。
秦瓊は瓦面金装鐧を抜き放ち、迫る敵兵をなぎ倒しながら、心の中で決断を固めた。もはや迷う余地はない。朝廷に留まり、節度使の旗牌官としての地位を保つ道は、自ら断ち切ったのだ。彼は血判状に誓った兄弟たちの命を守らねばならない。
「皆の者! ここは戦う時ではない! 退くぞ! 俺に続け! 裏口から!」
秦瓊の号令が響く。結義した兄弟たちは、それぞれの武器を振るいながら、追っ手の槍林剣雨をかいくぐり、賈柳楼の裏口や窓から次々と飛び出した。役人も武人も盗賊も、貴公子もならず者も、立場を超えて互いを助け合い、傷を負った者を支え、暗い路地裏や人気のない山道を必死に駆け抜けた。追撃は執拗で、張り巡らされた検問を突破するたびに血が流れ、容赦ない追跡の矢の雨が背後を襲った。もはや山東に安住の地はない。
血みどろの逃避行の果てに、ようやく辿り着いたのは、済南府から南西に離れた小孤山という急峻な山岳地帯であった。疲労と傷で倒れんばかりの一行が、山頂から見下ろすのは、無数の松明を掲げて迫り来る楊林軍の重厚な包囲網だった。逃げ場はなくなった。
追い詰められた彼らは、もはや後戻りできない現実を痛感した。秦瓊が血と汗と泥にまみれた顔を上げ、残った兄弟たちを見渡し、声を震わせて、しかし力強く叫んだ。
「もはや…もはや朝廷に従う道はない! 楊広の如き暴君が天下を牛耳り、民を苦しめるこの暴政を、我らがこの手で打ち破る時が来たのだ! ここで死を待つより、この山に旗を立て、義兵を挙げよう!」
彼は腰の瓦面金装鐧を高く掲げ、月明かりにその刃を煌めかせた。それは決起の狼煙だった。
「立ち上がれ! 我ら賈柳楼四十六友! この小孤山に、反隋の旗を掲げようぞ! 義のために、民のために!」
「おおおーーっ!!」
山峡に響き渡る四十六の雄叫び。小孤山の頂に、秦瓊を中心とする「賈柳楼四十六友」の旗が翻った。それは、隋王朝に対して、公然と反旗を翻した最初の烽火であった。燎原の火の、最初の小さな火種が、ここに灯されたのだ。
しかし、小孤山は小勢力に過ぎなかった。食糧も武器も乏しく、楊林の大軍の包囲を前に、長期の籠城は不可能だった。彼らが目指したのは、河南の地で勢力を拡大し、義を重んじることで知られる翟譲の下であった。翟譲は多くの反隋の志士を受け入れており、その険しい山に築かれた砦は「瓦崗寨」と呼ばれ、次第に反隋勢力の一大拠点となりつつあった。
幾多の追撃と死線をくぐり抜け、疲弊しきった一行が瓦崗寨の険しい山門の前に辿り着いた時、翟譲自らが配下を率いて出迎えた。賈柳楼四十六友結義の逸話と、秦瓊の名、単雄信の武名、小龍山以来の官軍相手の戦いぶり、そして小孤山挙兵の報は、既に翟譲の耳に届いていた。
「ようこそ、義を貫く勇士たちよ! この瓦崗寨こそが、暴政に喘ぐ民の砦だ! 力を合わせて、隋の暴虐を打ち砕かん! 我が砦で力を養い、共に戦おう!」
翟譲の温かく力強い歓迎の言葉に、一行は安堵の深い息をついた。彼らは砦内に一画を与えられ、休息と力を蓄える貴重な機会を得た。賈柳楼の血誓は、ここで新たな命を吹き込まれた。
ここに、賈柳楼で義兄弟の契りを結んだ四十六友は、瓦崗軍の一翼として、本格的な反隋の戦いの大舞台へと躍り出た。
楊林の執拗な追討は続き、天下はますます乱れ、群雄割拠の様相を深めていく。賈柳楼の宴が撒いた小さな火種は、瓦崗寨という乾いた草原に落ち、瞬く間に燃え広がり、やがては隋王朝という巨木を焼き尽くす、まさに燎原の火へと成長していく運命にあった。その炎は、歴史の闇を切り裂き、新たなる大唐の時代の曙光を告げる狼煙となってゆくのである。賈柳楼四十六友の名と、その血の誓いは、乱世の英雄譚として、後世に語り継がれていくのだった。