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隋唐演異  作者: 八月河
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四十八万両騒動

燭火が巨大な広間を揺らめかせていた。天井は高く、梁にはかつての戦利品である武具や旗が無造作にかけられ、重厚な影を落としている。空気は酒と汗、そして張り詰めた緊張感で満ちていた。ここ山西二賢荘の主、単雄信の許に集うのは、天下十三省から馳せ参じた緑林の豪傑たちである。王伯当、王君可、尤俊達、斉国遠、李如輝…その顔ぶれは、隋王朝に刃向かう者たちの名簿そのものだった。


「諸君、耳を貸せ!」


雷鳴のような声が静寂を破った。主座に立つ単雄信、その巨体は燭火に照らされ、壁に巨大な影を落とす。腰の剣を一閃。ガシャン!轟音と共に傍らにある青銅の燭台が真っ二つに割れ、火花が渦を巻いた。飛び散る火の粉が、彼の赤銅色の顔と、顎を覆う赤みがかった剛毛を一瞬、不気味に浮かび上がらせる。


集った者たちは一斉に息を飲んだ。斉国遠が無意識に腰の刀に手をかける。


「この期に及んで微睡みを貪るか!」


単雄信の眼光が、広間に並ぶ男たち一人一人を貫く。


「天は見ているぞ!大地は泣いているぞ!」


彼は背後の壁に貼られた巨大な山東地方の地図へと猛然と振り返り、砂礫のように荒れた指で一点を力強く叩いた。その音が広間に鋭く響く。


「ここだ!小龍山!」


男たちの視線が一点に集中する。地図上、山東省の中央部に描かれた小さな山の印。


「楊広あの暴君が!」


単雄信の声は怒りで震えていた。


「旱魃で枯れ果てた畑から、疫病で伏した親の腕から、飢えで膨れた幼子の口から…一滴の血、一粒の粟すら搾り取って集めた金だ!」


彼は拳をぎゅっと握りしめ、関節が白くなる。


「四十八万両!それが…」


再び地図を叩く。ドンッ!


「三ヶ月後!六月十七日!この小龍山の隘路を、御料所の封蝋を押した荷車に積まれて通る!」


広間に衝撃が走る。四十八万両…それは途方もない数字だった。一両で一家族が一年間、細々と生き延びられるほどの価値がある。それが四十八万…山東一円の飢えた民を救うには余りある額だ。


「ええいっ!」


若気に溢れた斉国遠が席を蹴り、拳を天に突き上げた。


「奪い返しまする!その金を一粒残らず、奪われた民に返すがよい!」


熱気が広がる。だが、単雄信の次の言葉は冷たい水のようだった。


「いや」


彼の眼光が鋭く研ぎ澄まされる。赤みがかった髭が微かに震える。


「聞け。護衛は二千…精鋭の府兵だ。旗指しは宇文智及、楊広の寵臣宇文化及の弟よ。油断ならぬ男だ」


「二千…」


王伯当が呟く。その端正な顔に一瞬、陰りが走った。彼は神射の腕前で知られるが、数の暴力の前には無力であることを痛感していた。


「正面からぶつかるは無謀というもの」


王君可が顎に手をやり、青龍刀の柄を撫でながら低く言った。その美髯が燭光に艶やかに光る。


「では如何せん…」


斉国遠が歯噛みした。


沈黙が重くのしかかる。二千の正規兵を相手に、寄せ集めの緑林の衆でどう戦えというのか。現実の壁が、熱い志を冷やしていく。


その時、重厚な音と共に一歩前に出た男がいた。尤俊達である。がっしりとした体格、眼光の鋭さは単雄信に引けを取らない。彼はかつて、隋朝の運送ルートを専門に狙った大物強奪者だった。その経験が、今、重みを増す。


「総帥…」


尤俊達の声は低く、しかし確固としていた。


「拙者に、その役目を任せてくだされ」


単雄信の目が細くなった。彼は尤俊達の過去と手腕をよく知っている。


「尤兄弟…作戦は?」


「詳細は後刻、申し上げます」尤俊達は深く一礼した。


「ただ一つ、請う。小龍山への道程、地の利は全て承知しております。そして…『ある力』を必要としております」


「ある力?」


単雄信が眉をひそめる。


「然り。それは…『破壊』の力です」


尤俊達の目が一瞬、遠くを見るような表情を浮かべた。


単雄信は尤俊達をじっと見据えた。広間の空気が再び緊迫する。燭火がぱちぱちと音を立てる。やがて、単雄信は大きく頷いた。


「よかろう!」


その声は決断に満ちていた。


彼は腰に差した一本の矢を掴んだ。それは緑林箭、天下の緑林の好漢たちが結束の証として用いる、鏃の部分に細工を施した特別な矢である。単雄信は渾身の力を込めてそれを振りかぶると、


ズドンッ!


鈍い衝撃音と共に、矢は天井の太い梁めがけて放たれ、見事に深々と突き刺さった。矢羽が微かに震えている。


「これぞ我らの義挙の証!六月十七日!民のために!」


「おおおおっ!」


広間に渦巻いていた不安と躊躇が、熱狂的な歓声と怒号に変わった。豪傑たちの目に、再び決然たる炎が灯った。単雄信は梁に突き刺さった緑林箭を見上げ、赤髯を撫でた。その瞳の奥には、この決断が招くであろう未曾有の嵐への予感と、揺るぎない決意が渦巻いていた。計画は動き出した。しかし、彼は知っていた。この矢が、己の運命と、多くの兄弟たちの血を呼び込む狼煙となることを。


店の看板は半ば朽ちかけ、軒先には埃を被った酒甕が並ぶ。田舎道沿いの、客の入りもまばらな鄙びた居酒屋である。店の奥では、店主らしき小柄な老人が算盤をはじく音だけが、重い空気を切り裂いていた。


その静けさを、地響きを立てて破壊したのは、突如として爆発した怒声だった。


「ぬおおおおっ!熊手で酒代は足らぬか!この腐れ外道が!」


声の主は、店の中央に仁王立ちする異様な巨漢だった。筋骨隆々たる体躯は粗末な麻の着物をぎりぎりに押し広げ、露わになった腕は常人より太い樫の木の幹のようだ。髪は逆立ち、顔は怒りで真っ赤に染まり、巨大な斧を担いだ背中は、まさに壁そのもの。その名は。今この瞬間、店員三人を壁に押しつけ、陶器の破片が足元に散乱している惨状を作り出した張本人である。


「お、お客様…落ち着いてくださいまし…」


店主が震える声で哀願するが、程咬金の怒声にかき消される。


「ふん!この程様を舐めおったな!薄い酒を高い金で売りおって!腹の虫が治まらんわ!」


彼が足を踏み鳴らす。ドスンッ!その衝撃で、巨漢の足元の堅牢な青石板が、蜘蛛の巣状にみるみる割れていく。店全体が軋んだ。


この異様な光景を、二階の手すりからじっと見下ろす男が一人いた。尤俊達である。彼は単雄信から作戦の詳細と、必要な「力」の確保を託され、この済南府に潜入していた。目当ては、この地方で噂の剛力無双の乱破者の程咬金だった。尤俊達の鋭い眼光は、程咬金の巨体そのものよりも、むしろ彼が踏み砕いた青石板に釘付けになっていた。


(…凄まじい。これが噂の剛力か。天の授けたる破壊の力…まさに我らが必要とするものだ)


尤俊達の脳裏に、小龍山の隘路の地形図が浮かぶ。堅固な岩盤、狭く切り立った崖道…単なる伏兵では突破困難な防御線。それを一撃で崩せる「何か」が不可欠だった。そして眼前の男こそが、その「何か」に違いない。


程咬金は店員を壁に押しつけたまま、店主に詰め寄ろうとしていた。尤俊達は静かに立ち上がると、懐から分厚い銀袋を取り出した。それは小龍山作戦の初期資金の一部だ。彼はそれをそっと手の中で掂量てんりょうすると、一階へと降りていった。


「店主よ」


尤俊達の落ち着いた声が、緊張した空気を一瞬切り裂いた。程咬金を含め、店内の視線が彼に集まる。


「この方の酒代、並びに壊れた器物の弁償は、これで足りよう」


ポーン。尤俊達は銀袋を店主の足元に放り投げた。袋の口が緩み、中から白銀の丁銀が数枚こぼれ落ちた。店主の目が点になる。その額は、程咬金が飲んだ酒代や壊した器物の価値の、軽く十倍はある。


「…っ!あ、ありがたき幸せ…」


店主は銀を拾い上げ、震える手で額を床に擦りつけた。


尤俊達は店主には目もくれず、程咬金へと真っ直ぐに歩み寄る。程咬金は怪訝そうな顔で、突然現れたこの小柄だが眼光鋭い男を上下に見た。尤俊達は程咬金の巨躯の前で立ち止まり、見上げるようにして言った。


「兄弟」


その呼びかけに、程咬金は眉をひそめた。


「…なんだ?知らねえ顔の分際で、兄弟呼ばわりとはな」


尤俊達は微かに笑みを浮かべた。


「その豪胆、その剛力…もったいないではないか。こんな鄙びた酒場で小競り合いをしているのは」


「ふん!何が言いたい?」


程咬金が斧の柄を握りしめる。


「その足腰、その腕…」


尤俊達は程咬金の筋骨隆々たる腕を指さした。


「天が授けたその力を、もっと大いなる義のために振るわぬか?」


「義?」


程咬金の目が一瞬、揺らぐ。


「…何の義だ?」


尤俊達は周囲を一瞥し、声を潜めた。


「ここでは話せぬ。外で…少し話がある」


程咬金は尤俊達を疑わしげに見つめたが、さっきの銀袋と、この男の放つ不思議な威圧感に押されるように、不承不承うなずいた。


「…わかった。話だけなら聞いてやるぜ」


二人は醉仙楼を後にした。程咬金が踏み割った青石板の跡だけが、異様な力の証として残された。


鬱蒼とした木々が陽射しを遮り、薄暗い森の中。尤俊達は程咬金を人気のない場所に導くと、懐から一枚の羊皮紙を取り出して広げた。それは小龍山周辺の詳細な地形図だった。彼は一点を指さす。


「見よ。ここが小龍山の隘路だ。幅はわずか三頭立ての荷車がやっと通れるほど」


程咬金がのぞき込む。


「…ふん。で?」


「六月十七日…」


尤俊達の声がさらに低くなる。


「ここを、二千の精鋭兵に護衛された御料所の荷車が通る。中には…」


彼は地図の脇に墨で大きく書かれた数字を指さした。


「四十八万両の官銀が詰まっている」


「なっ…!?」


程咬金の目が大きく見開かれた。


「四、四十八万両…!?」


途方もない金額に、さすがの巨漢も言葉を失った。


「そうだ」


尤俊達は程咬金の目を真っ直ぐに見つめた。


「だが、それは黄金でも宝玉でもない…山東の民から、飢えと病と絶望の中で絞り取られた血税だ」


程咬金の顔がわずかに歪んだ。彼はかつて、飢饉で家族を失った過去を持っていた。


「その金は、洛陽の都へ運ばれ」


尤俊達の声に怒りが滲む。


「あの暴君楊広の、贅沢三昧と無謀な遠征の軍資金となる」


程咬金の巨体が微かに震えた。その拳がギュッと握りしめられる。


「お前の言う『義』ってやつは…」


程咬金の声は低く唸るようだった。


「…その金を、奪い返すってことか?」


「然り!」


尤俊達の目が鋭く光る。


「一両残らず、奪われた民の手に返す!それが、天下の緑林が結集して成す『義挙』だ!」


程咬金は黙り込んだ。彼の巨大な胸板が大きく上下する。怒り、疑念、そして微かな希望が、その荒削りな顔を駆け巡っている。彼は天を見上げた。木々の隙間から漏れる細い光の帯が、彼の顔を縦に走った。


「…で、俺に何をさせようってんだ?」


程咬金が俯いたまま問う。


「二千の兵だろ?俺一人がどうにかできる相手じゃねえ」


「その通りだ」


尤俊達は即答した。


「故に、お前の力が必要なのだ」


彼は地図の隘路部分を強く指さす。


「見ろ。ここは両側が切り立った岩壁だ。頂上は平坦だが、岩盤は堅い…通常の手段では崩せぬ」


「…ああ?」


「しかし、もしもだ…」


尤俊達の声に熱がこもる。


「もしもその岩盤に巨大な亀裂を走らせ、頂上から巨岩の雨を降らせることができたら…護衛兵の陣形は一瞬で崩れ、荷車隊は立ち往生する」


程咬金の目が徐々に大きくなっていく。尤俊達は程咬金の巨体を見つめ、その筋肉隆々の腕を指さした。


「お前のその剛力…天が授けた破壊の力こそが、その岩盤を砕く鍵だ!お前の一撃で、この作戦の要を断て!」


「…俺の一撃で?」


程咬金が己の拳を見つめる。さっき青石板を砕いた感覚が蘇る。


「然り!」


尤俊達の声は力強い。


「王伯当の矢、王君可の騎兵、我ら伏兵の突撃…それら全ては、お前が岩盤を砕き、敵を混乱に陥れた後に始まる!お前の力なくして、この義挙は成らぬ!」


沈黙が流れる。森のざわめきだけが聞こえる。程咬金は再び天を見上げた。そして、ゆっくりと尤俊達の方へ顔を向ける。その目には、先ほどまでの怒りや迷いは消え、燃えるような決意の炎が灯っていた。


「…あんた」


程咬金が口を開いた。


その声は意外なほど静かだった。


「本気か?」


「命を懸けておる」


尤俊達は即座に答えた。


程咬金は大きく息を吸い込んだ。胸が風船のように膨らむ。


「…よし!」


その一声は、森の木々を震わせた。


「引き受けた!この程咬金、お前たちの『義』に、この命預けた!四十八万両…一滴の血も無駄にせず、飢えた子らの口へ届けてやる!」


尤俊達の顔に、初めて心からの笑みが浮かんだ。彼は拳を握り、程咬金の巨大な胸板にそっと当てた。


「ありがとう…兄弟よ」


程咬金は「うん!」と力強くうなずき、巨大な斧を肩に担ぎ直した。その姿は、もはや乱破者ではなく、巨大な義の塊のようだった。小龍山の運命が、この瞬間、動き出した。


果てしなく広がる草原が、夕陽に赤く染まっていた。風が長い草を波立たせ、砂塵が陽炎のように揺らめく。その平原のほぼ中央で、一人の騎手と一騎の馬が、まるで風景画の一部のように佇んでいた。馬は穿雲駒。その背にまたがるのは、漆黒の甲冑に身を包み、長大な穿天槍を手にした若き武将羅松である。彼の顔は彫りの深い異国の面影を残し、その目は鷹のように鋭く、遥か前方を見据えている。


見据える先には、黒い雲が地を這うように広がっていた。それは無数の旌旗と槍衾。三万の隋朝精鋭部隊である。中央に翻るのは、忠孝王伍建章の将旗。紫の地に金色の龍が燦然と輝いている。部隊は整然と陣を敷き、その威圧感は数里先にいる羅松にまで重くのしかかってくる。


やがて、隋軍の陣から一騎がゆっくりと前に出た。老齢ながら背筋はピンと伸び、紫金盤龍槍を手にした武将。白髯が胸まで伸び、その眼光は経験と威厳に満ちている。隋朝随一の名将、伍建章その人であった。


「小僧め!」


伍建章の声は平原を渡り、羅松の耳に力強く届く。老将の声には、軽蔑と怒りが込められている。


「よくも我が軍の進路を阻むか!小僧!その行い、謀反の罪は万死に値する!」


羅松は微かに口元を歪めた。それは冷笑だった。彼は穿天槍を風車のように一閃させると、その切先を伍建章に向けて静かに言い放った。


「謀反?ふっ…」


その嘲笑の響きが、風を切る。


「民を虐げ、その膏血を絞り取り、飢え死にせしめる暴君を戴く朝廷…」


羅松の声が次第に熱を帯びる。


「その朝廷に忠義を誓う貴公らこそ、真の『賊』とは言えぬか!」


「黙れ!小童が!」伍建章の顔に怒気が走る。彼の誇りが深く傷つけられた。


「天下の大義など、お前ごときが語るものではない!覚悟せい!」


紫金盤龍槍が夕陽を反射して燦然と輝く。伍建章の愛馬が嘶いた。老将の闘気が一気に高まる。


「来い!」


羅松は穿天槍を構え、穿雲駒が前足をあげた。


二頭の馬が、赤く染まった平原を一直線に駆け抜ける。蹄が土煙を上げる。


カンッ!キィィンッ!


衝撃音と金属の軋む音が平原に炸裂した。穿天槍と紫金盤龍槍が激しく交錯し、火花が散る。一撃の威力は凄まじく、両者の馬が一瞬後ずさりした。


「ほう…なかなかの腕前」


伍建章が一瞬、驚きの色を見せる。彼の槍は重厚無比、一撃一撃が地響きを立てる。


「老将も…まだまだ枯れてはいませんな」


羅松は流れるような身のこなしで伍建章の重い一撃をかわし、瞬時に反撃の突きを繰り出す。その槍さばきは軽やかでありながら、一点に集中する破壊力は恐ろしい。


両者は馬を縦横無尽に操り、平原を舞台に死闘を繰り広げた。槍の閃光が夕闇迫る平原を鋭く切り裂く。五十合、百合…二百合。戦いは長引き、やがて三百合に及ぼうとしていた。伍建章の呼吸が次第に荒くなる。老齢の壁が現れ始めた。一方の羅松は、若さと鍛え抜かれた体力で、息も乱さず流れるような動きを続ける。


「くっ…!」


伍建章が必殺の回転突きを放つ。紫金盤龍槍が竜巻のように襲いかかる。


その瞬間、羅松の目が鋭く光った。今だ!


彼は穿雲駒をわずかに横に流すと同時に、穿天槍を驚くべき速さで捩じり、伍建章の槍の軌道に絡め取るように差し込んだ。蛇が獲物に絡みつくような、柔軟で粘着質な動きだ。


「ぬおっ!?」


伍建章が驚く。彼の槍の動きが完全に封じられた。


「老将よ…」


羅松の声は静かでありながら、決然としていた。


「これで終いだ!」


サッ!


羅松が槍を微妙に回転させると同時に、その切先が一瞬、伍建章の胴鎧の脇腹を掠めた。パチンッ!何かが切れる音がした。


伍建章の胴鎧の、脇腹を締める頑丈な革紐が、見事に断ち切られていた。


「な…!?」


伍建章の目が剥かれる。鎧がずるりと片方にずれ、バランスを崩した老将は、その巨体もろとも愛馬から転げ落ちた。ドスンッ!土煙が上がる。


「捕らえよ!」


羅松の号令が響く。同時に、平原の周囲の丘陵の影から、轟音と共に騎兵隊が一斉に姿を現した。羅松の配下、精鋭の契丹騎兵である。彼らは伍建章を一瞬で取り囲み、拘束した。


「ぐ…ぐう…」


塵まみれの伍建章が、屈辱に震えながら羅松を睨み上げる。


「…なぜ殺さぬ?わしを辱めるためか!」


羅松は馬から降り、伍建章の前に立つ。夕陽が彼の白銀の甲冑を真っ赤に染めていた。


「貴公の武勇と、民を思う忠義…その一点を買ってな」


羅松は淡々と言った。


「貴公は暴君に従うも、心根は兵や民を慈しむ将であったと聞く」


伍建章は無言で歯を食いしばった。


「我が目的は達成した」


羅松は穿天槍の穂先に付いた土埃を払いながら言う。


「貴公の軍勢はここで足止めを食らう。これで、山東の友への援護は終わりだ」


「山東…?」


伍建章の目が一瞬、鋭くなる。


「…単雄信か…!」


羅松は答えず、馬に乗り直した。彼は伍建章を拘束したまま、隋軍本陣の混乱を見据えた。主将を失い、突然現れた騎兵に翻弄される三万の兵は、もはや統制を失い、総崩れとなっていた。


「撤退せよ!」


羅松が命じる。彼の目的は伍建章軍の足止めであって、殲滅ではなかった。


契丹騎兵たちは素早く集結し、夕闇に紛れて平原を駆け去っていった。残されたのは、主将を失い混乱する隋軍と、縛られたまま大地に跪く老将伍建章の無念の姿だけだった。山東への援軍は、ここで完全に断たれた。羅松の見事な働きは、小龍山の義挙を陰で支えていたのだ。一方、都では、この敗報が新たな嵐を呼び込もうとしていた。


白玉の階段、黄金の龍柱、天井には無数の夜明珠が星のように輝く。隋の絶頂期を象徴する絢爛豪華な大極殿だいごくでんであったが、その空気は重く淀んでいた。玉座に座る煬帝の顔は、酒色と猜疑心でむくみ、眼光は常に苛立ちを宿していた。


「何と…!?」


煬帝の金切り声が、広大な宮殿を震わせた。彼は玉座から転げ落ちんばかりの勢いで身を乗り出し、御前ひざまずく伝令官を睨みつける。


「四十八万両が…!?山東で奪われただと…!?」


「は、はい…」


伝令官が震える声で答える。


「小龍山の隘路にて…賊徒の襲撃を受け…宇文智及様の率いる護衛兵二千は壊滅…銀は…全て奪取されたとの報告でございます…」


「うぬぬぬぬ…っ!」


煬帝の顔が怒りで歪み、よだれが口元から垂れそうになる。彼は玉座の肘掛けを力任せに叩きつけた。


「ど、どこのどいつが!?名は!?賊の頭目は誰だ!?」


「それは…」


伝令官が言葉に詰まった。その時、玉座の脇から一人の大臣が平伏しながら進み出た。長い顎ひげ、狡猾な目つき。宰相宇文化及である。彼は声を潜め、わざとらしい慟哭の調子で言った。


「陛下…恐れながら…」


煬帝がギロリと宇文化及を睨む。


「…どうした!?知っておるのか!?」


「ハッ…」


宇文化及はさらに深く頭を下げた。


「この度の凶行…山西の大賊、単雄信の仕業と…確かな情報が入っております」


「単雄信…?」


煬帝の顔に血の気が引く。


「あの…『赤髪霊官』と畏怖される逆賊か…!?」


「然りでございます」


宇文化及が毒を含んだ声で続ける。


「かねてより緑林の徒を糾合し、陛下の御世に逆らう凶賊でございます。今回の事件も…恐らくは、賊徒どもが結束を示すための示威行為でございましょう」


「ふざけるなああっ!」


煬帝が狂ったように叫ぶ。


「朕の金を!朕の権威を!地の底の鼠どもが!朕が…朕が…!」


彼は激しい咳き込みに襲われ、左右の侍女が慌てて支える。煬帝は顔を真っ赤にし、喘ぎながらも声を絞り出した。


「宇文化及!朕の大叔父を!直ちに呼べえっ!」


その名に、宮殿内の空気が一瞬で凍りついた。大臣たちの顔に恐怖の色が走る。宇文化及さえ、わずかに目を剥いた。


「…か、かしこまりました」


間もなく、宮殿の巨大な扉がゆっくりと開かれた。開く音すら威圧的だった。そこに現れたのは、一歩一歩が地響きを立てるような巨漢である。身にまとうのは漆黒の鋼鉄鎧。肩には獣頭の威嚇的な飾り。腰には二本の水火囚龍棒その名も靠山王楊林。隋王朝創立の功臣であり、煬帝の大叔父、そして何より、その武勇と冷酷さで天下に知られた隋朝最強の武将であった。彼の存在感は、玉座の煬帝さえも凌駕するほどだった。宮殿内が水を打ったように静まり返る。


楊林は玉座の前に立つと、跪くこともなく、ただ深く一礼した。その動作にさえ、無言の圧力があった。


「大叔父…」


煬帝の声が、先ほどまでの怒号とは打って変わり、奇妙に弱々しくなっていた。


「聞いておくれ…山西の賊、単雄信が…朕の四十八万両を奪ったのだ…」


「…承知しておる」


楊林の声は低く、冷たい鉄の塊のようだった。その一語で、事態の重大さが改めて浮き彫りになる。


「この屈辱…この無礼…!」


煬帝が再び声を荒げる。


「決して許さん!朕は…朕はお前に命ずる!山西の賊を…根絶やしにせよ!単雄信の首を…朕の前に晒せ!」


楊林はゆっくりと顔を上げた。その目は、深い淵のように暗く、一切の感情を覗かせない。


「…一ヶ月」


老将の口から、冷たい言葉が落ちた。


「一ヶ月あれば…山東の地より、賊の息の根を止めてみせる」


その言葉は宣告のようだった。煬帝の顔に安堵と残忍な喜びが走る。


「よかろう!よかろう!全てを任せる!」


「しかし…」楊林の眼光が、玉座の周囲に居並ぶ大臣たちを一瞥した。その視線を受けた者たちは皆、震え上がった。「この命題…賊徒のみならず、お前たちも覚悟せよ」


その言葉は、山東の行政官たちへの警告だった。


「…はっ!」


山東七十二県を統括する将軍唐壁が、玉階の下で震えながら平伏した。汗が彼の額を伝う。


「か、かしこまりました…必ずや賊徒殲滅に、全力を尽くします…」


唐壁の背後で、一人の武将が俯いていた。その表情は複雑で、拳を握りしめている。彼こそが唐壁配下の旗牌官の秦瓊、後に唐王朝建国の功臣となる「秦叔宝」である。彼の胸中は激しく揺れていた。


(単二哥…なぜ…なぜ賊に身を落とした…?)


彼の脳裏には、かつて単雄信と酒を酌み交わし、武芸を磨き合った日々が鮮明に蘇る。単雄信の豪快な笑い声。秦瓊が病に伏した時、薬を求めて百里を駆け回ったという単雄信の義侠心…その男が、朝廷に刃向かう賊の頭領とは?


「秦瓊よ」


楊林の冷たい声が、秦瓊の思考を断ち切った。秦瓊がハッと顔を上げると、靠山王の鋭い視線が自分を貫いている。


「お前が先鋒を務めよ」


「…は?」


秦瓊は思わず声をもらした。


「唐壁から聞いた」


楊林の口元がわずかに歪む。それは笑顔とは程遠い、薄ら寒い表情だった。


「お前は…山東の緑林事情に最も詳しいと。単雄信とも…旧知の仲だと?」


秦瓊の背筋に冷たい汗が走った。楊林は知っている…単雄信との関係を。


「…恐れながら」


秦瓊は必死で平静を装う。


「旗牌官として、賊情の探索は職務でございます。ゆえに…多少のことは…」


「よかろう」


楊林が秦瓊の言葉を遮った。


「お前の知識を存分に活かせ。賊の巣窟を暴く先鋒として、存分に働くがよい」


「…はっ…かしこまりました」


秦瓊は深く頭を下げた。俯いた顔には、苦渋と葛藤の色が濃くにじんでいる。


(単二哥…なぜ賊に…なぜ俺を…この立場に…)


命令は下った。山東全土が震撼した。楊林の厳命は瞬く間に伝わり、各郡県、各村々に至るまで、お触れの張り紙が貼り巡らされた。


《皇綱強奪犯、三十日以内に出頭せよ》

《賊を匿う者は、三族皆殺し》

《情報提供者には、銀千両を下す》


恐怖と疑心暗鬼が、山東の地を覆い始めた。楊林率いる三万の精鋭は、すでに洛陽を出発し、山東へ向けて驀進ばくしんしていた。その牙城が最初に目指すのは、事件現場――小龍山である。一方、小龍山では、尤俊達と程咬金たちが、運び込まれた銀の山を前に、束の間の祝杯を挙げていたが…。


山肌は切り立った岩肌が剥き出しとなり、谷底へと続く道は、わずか八頭立ての荷車がやっと通れるほどの細さだった。頭上には、風化した巨岩が不気味にせり出している。陽射しは強いが、谷間には冷たい風が吹き抜け、不気味な静けさが支配していた。


「来たぞ…!」


絶壁の中腹、岩陰に潜む尤俊達が、鋭く息を吐いた。その声は、周囲に潜む伏兵たちの緊張を一気に高める。


谷間の入り口から、金色の旗が現れた。続いて、磨かれた鎧兜に身を固めた兵士たちの列。その中央を、八頭の駿馬に引かれた頑丈な荷車がゆっくりと進んでくる。荷台には、御料所を示す朱色の封蝋が無数に光っていた。護衛兵の数、二千。指揮官の宇文智及は、馬上で周囲を警戒深く見渡している。部隊の足音と鎧の軋む音だけが、狭い谷間に反響する。


「…程兄貴」


尤俊達が、すぐ隣の岩陰に隠れる巨漢程咬金に声を潜めて呼びかける。


「覚悟は…よろしいな?」


程咬金は巨大な斧を握りしめ、岩壁に張りつくように身を潜めていた。汗が額を伝うが、その目は獲物を狙う猛獣のように爛々と輝いている。


「ああ…」


程咬金はかすかにうなずき、巨大な拳をギュッと握りしめた。


「あの岩…ぶっ壊す…!」


「よし…」


尤俊達は絶壁の頂上を指さした。


「頂上は平坦だが、岩盤は固い。だが、あの割れ目…見えるか?」


程咬金が目を凝らす。尤俊達の指す先、頂上の岩盤に、自然にできたと思われる大きな亀裂が走っている。


「そこだ…あの弱点を叩け!岩盤全体を崩落させる鍵はそこにある!」


程咬金は黙ってうなずいた。その巨体に力がみなぎるのが分かる。


荷車隊が完全に隘路の中に入り込んだ。先頭が程咬金たちの潜む絶壁の真下に差しかかる。


「…今だ!程兄弟!」尤俊達の声が鋭く飛ぶ。


「おおおおっ!」


程咬金の咆哮が谷を揺るがす。彼は隠れていた岩陰から猛然と飛び出し、断崖を駆け上がる!その巨体は、険しい斜面をまるで平地を走るかの如くよじ登っていく。岩が崩れ、小石が雨のように谷底へ落ちる。


「なにっ!?」「伏兵だーっ!」


谷底の護衛兵が騒然となる。宇文智及が「上だ!弓を!」と叫ぶ。


「遅いわ!」


尤俊達が絶叫する。


「緑林箭発せよ!」


ピュッ!ピュッ!ピュッ!


尤俊達の合図と共に、数本の矢が空高く舞い上がった。それは緑林箭、矢羽に独特の刻印を施した、緑林の好漢たちの合図の矢である。同時に、谷間の反対側の斜面から、王伯当率いる弓隊が一斉に姿を現し、雨あられと矢を射掛けた!


「ぐあっ!」「敵襲ーっ!」


混乱する護衛兵たち。指揮官宇文智及が馬を立て直そうとしたその時、


シュッ!


一本の矢が、流星のように空を切り裂いた。王伯当の放つ必中の一矢である。それは宇文智及の喉元を正確に貫き、彼を馬車の轍に叩き落とした。


「指揮官がやられたーっ!」


さらに混乱が増す。その隙に、隘路の出口方向から轟音が響いた。王君可率いる騎兵隊が、砂塵を上げて突撃してくる!その赤兎馬にまたがり、青龍刀をひらめかせる王君可の姿は、まさに鬼神の如し!


「側面を衝けーっ!」


王君可の騎兵が、混乱した護衛兵の側面に深く食い込む。斬撃と悲鳴が入り乱れる。


「くそっ!まとまれ!まとまれ!」副官らしき将校が必死に叫ぶが、統制は乱れ切っている。


そのまさにその時、頂上で異変が起きた。


「うおおおおおおっ!!!」


程咬金の絶叫が天を衝く。彼は頂上の岩盤、あの大きな亀裂めがけて、巨大な斧を天高く振りかぶった。全身の筋肉が隆起し、目は血走っている。まさに天から授けられた破壊の神の化身だ。


「えいやあああっっ!!!」


轟音というより、地響きというべき衝撃音が、小龍山全体を揺るがした!程咬金の放った渾身の一撃が、亀裂の中心を直撃したのだ!


ガガガガッ…ゴオオオッ…!


岩盤が呻いた。巨大な亀裂が、みるみる広がり、枝分かれする。蜘蛛の巣状に走った裂け目が頂上一帯を覆い尽くす。


「…崩れる!」岩陰から見守る尤俊達が叫んだ。


バリバリバリ…ドッゴォォオオオーン!!!


天が崩れ落ちるような轟音と共に、隘路の頂上部分が、無数の巨岩と共に崩落した!岩の雨が、谷底の護衛兵と荷車隊の頭上に容赦なく降り注ぐ!


「うわあああ!」「逃げろーっ!」「ぎゃあああ!」


巨岩が兵士や馬車を直撃し、粉砕する。砂煙がもうもうと立ち込め、視界はゼロになる。逃げ惑う兵士、押し潰される兵士、悲鳴と地響きが隘路にこだまする。護衛兵の陣形は完全に崩壊した。


「いくぞ!諸君!」


尤俊達が自ら刀を抜き、絶壁を駆け下りる!


「銀を奪還せよ!」


「おおおっ!」「総帥のために!」


伏兵として潜んでいた単雄信配下の好漢たちが一斉に飛び出し、混乱する護衛兵に斬り込んだ!もはや戦闘というより殲滅戦である。抵抗は散発的で、半刻も経たぬうちに、谷底は静まり返った。血の匂いと砂塵の匂いが混ざり合う。


「…終わったな」


尤俊達が血糊のついた刀を振るい、息を整える。


程咬金が頂上から降りてきた。顔は煤と汗で汚れているが、満足げな笑みを浮かべている。王伯当、王君可も集まってきた。


「銀箱を確認しろ!速やかに駄馬に積み替え、予定の隠し場所へ運び込め!」


尤俊達が指示を飛ばす。


男たちが動き出す。無数の銀箱が荷車から降ろされ、頑丈な駄馬の背に積まれていく。その光景を、程咬金は斧を担いで眺めていた。


「はっはっは!どうだい尤兄弟!」


程咬金が満面の笑みを浮かべ、尤俊達の背中をドンと叩いた。


「楊林のじいさんの鼻を、明かしてやったぜ!四十八万両!あの煬帝め、顔真っ赤にしてるだろうなあ!」


尤俊達も思わず笑みをこぼした。


「…兄貴の剛力なくしては成し得なかった。天が我らに味方したのだ」


程咬金は「うん!」と力強くうなずき、近くに転がっていた兵士の水筒を拾い上げ、中身を一気に飲み干した。


「ふう!さて、祝杯だ!酒はどこだい?」


銀の搬出が終わり、程咬金たちが戦利品の酒で杯を交わし始めたその時だった。


「総帥!尤頭領!」


血相変えた急使が、谷間の入り口から必死に駆け込んできた。彼は息も絶え絶えで、尤俊達の前にひざまずいた。


「何だ!?落ち着け!」


尤俊達が声を荒げる。


「大、大変でございます!」


急使が必死に息を継ぐ。


「靠山王…楊林が…自ら三万の精兵を率いて…山東に入ったとの報が…!先鋒は…旗牌官秦瓊と…!」


「な…何と!?」


程咬金の杯が床に落ち、割れた。王伯当、王君可の顔色が一瞬で青ざめる。尤俊達も、その剛胆な顔に一瞬、動揺の色が走った。


「秦瓊が…先鋒だと…?」


尤俊達が呟く。


場内が、水を打ったように静まり返った。祝賀の空気は一瞬で消え、代わりに冷たい戦慄が走る。靠山王楊林自らが動いた。その重圧は、四十八万両を奪取した成功すら霞ませるほどだった。


粗末な天幕の中、捕らわれの身となった伍建章が、縛られたまま、入口に立つ羅松を睨みつけていた。老将の目には、屈辱と怒りの炎が燃えている。


「…なぜ殺さぬ?」


伍建章の声は荒れているが、疲労の色が濃い。


「わしを生け捕りにし…辱めるつもりか?」


羅松は天幕の入口で、愛用の穿天槍の穂先を布で丹念に拭いていた。月明かりが、漆黒の甲冑と槍身を冷たく照らす。


「貴公の武勇と…」


羅松は拭く手を止めず、淡々と言った。


「…そして何より、配下の兵を慈しみ、領民を思うその『忠義』を買ってな」


「忠義…?」


伍建章が嘲笑する。


「賊徒に忠義を説かれる覚えはない!」


「賊と朝廷…その区別など、所詮は時の権力が決めるものだ」


羅松はようやく顔を上げ、伍建章をまっすぐ見た。


「貴公が守ろうとしたもの…それは朝廷という虚構ではなく、己の信じる『義』ではなかったか?」


伍建章は無言で羅松を見つめた。老将の目に、一瞬、迷いのようなものが走る。


「我が目的は達成した」


羅松は穿天槍を肩に担ぎ直した。


「貴公の軍勢は山東へ向かえぬ。これで…」


彼は一瞬、言葉を切った。


「…単雄信たちへの援護は終わりだ」


「…単雄信!」


伍建章が呟く。


「やはり…あの小僧がらみか…」


羅松は答えなかった。彼は天幕の外へ一歩踏み出した。砂漠の冷たい風が彼の髪をなびかせる。


「貴公はここで静養せよ。隋の朝廷が貴公をどう遇するか…見ておくがよい」


そう言うと、羅松は月明かりを浴びた砂漠へと歩き去った。背後に、伍建章の複雑な表情だけを残して。


崩落した岩塊が散乱し、無数の死体と破壊された荷車が転がる惨劇の跡。その中心で、一人の老将が仁王立ちしていた。漆黒の鋼鉄鎧をまとい、月光にその巨体を浮かび上がらせている。隋朝最強の武将、靠山王楊林である。


彼の足元には、御料所の封蝋が押されながらも無残に破壊された荷車の残骸。周囲には、配下の精鋭兵たちが、恐る恐る警護している。楊林は俯いて、荷車の破片を手に取った。その指が、封蝋の紋様を撫でる。


「…単雄信」


楊林の口から、低く冷たい声が漏れた。それは氷の刃のようだった。


「よくも…朝廷の金に手を出したな」


彼は手にした木片を、微塵に握り潰した。


「覚悟せよ…お前の命と引き換えに、山東の地を焼き尽くしてやる」


その絶対零度の宣告が、夜気をさらに冷たくした。


楊林の背後、少し離れた場所で、一人の武将が俯いていた。旗牌官秦瓊である。彼は月明かりの下、懐に隠した一枚の皺くちゃな手紙を握りしめていた。それは、かつて単雄信から届いた旧い手紙だった。紙面には、力強い筆致で記されている。


《叔宝よ、いつか再び、共に杯を酌む日を楽しみに…》


その文字の一つ一つが、今、秦瓊の胸を灼熱の刃で切り刻むようだった。彼は握りしめた拳をさらに強くする。肩にかかる旗牌官の肩章が、冷たい月光に鈍く光っている。忠義か、友情か。彼は決断を迫られていた。山東の地に、楊林の三万の大軍が迫る。四十八万両騒動は終わったが、その余波は、未曾有の大乱へと発展しようとしていた。単雄信と緑林の好漢たち、そして秦瓊の運命は、今、風雲急を告げている。

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