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隋唐演異  作者: 八月河
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市井の豪傑程咬金

煬帝の治世は、その絶頂から奈落へと急降下していた。前年、高句麗遠征の大号令が発せられ、全国は兵士と物資の徴発に揺れていた。百万の大軍が集結しつつある中、その重圧は末端の民衆に容赦なくのしかかる。大運河工事は未だに続き、無理な徴発と過酷な労働で命を落とす者、故郷を追われる者は後を絶たなかった。山東は特に負担が大きく、天候不順による不作も重なり、農村は疲弊の極みにあった。各地で不満は鬱積し、小さな反乱や逃亡者が続出していたが、皇帝の権威と官僚機構、そして恐怖による支配はまだ盤石に見えた。しかし、その重い空気をものともしない、あるいは全く気づいていないかのような巨大な笑い声が、東阿県の片田舎に響いていた。


身長は九尺を優に超え、筋骨隆々。肩幅は牛ほどもあり、歩けば地響きがする。顔は大きく、眉は太くて逆立つような勢い、目はランランと輝き、口は常にニカッと開き、笑うと真っ赤な歯茎と白い大きな歯が丸見えになる。髪はボサボサで、貧しい身なりだが、その存在感は貧しさを吹き飛ばす。動きは大きく、何をするにも「ドカッ」「ガシッ」「バサッ」と効果音がつきそうな破壊力。


生まれつきの超人的な怪力の持ち主。性格は太陽のように明るく、豪快で、単純明快、そして空気が読めないことこの上ない**。悪意は微塵もなく、むしろ正義感は人一倍強いが、その表現方法が破天荒で周囲を巻き込むトラブルの元凶となる。物事を深く考えず、直感と勢いで突き進むタイプ。母親への孝行心は厚いが、その行動が逆に母を心配させることもしばしば。根は無邪気で、騒動を起こしてもなぜか憎めない体質。


かつては塩の密売で生計を立てていた。理由は単純、「役人の取る分が多すぎて貧しい人が塩を買えないのが我慢ならん!」という正義感から。当然、役人と衝突し、大暴れの末に捕縛、投獄される。しかし、牢内でも「飯が少なすぎる!もっとよこせ!」と大声で要求し、他の囚人を煽動。そのあまりの無邪気な図太さと、役人や牢番を笑わせてしまう愛嬌で、意外と短期間で釈放された(情けをかけられたという説も)。現在は、母と二人、竹細工で細々と暮らす。


背は低く、痩せているが、長年の苦労に耐えてきた頑丈な体つき。手は竹を編むため、節くれだって硬い。顔には深いシワが刻まれているが、目は澄んでおり、息子を見る時だけ優しい光を宿す。質素な衣服に身を包む。


非常に気丈で勤勉。夫を戦で亡くし、厄介者の大男の息子を女手一つで必死に育て上げた。程咬金の破天荒な行動には毎日ヒヤヒヤし、ツッコミを入れ、時には本気で怒るが、根底には深い愛情がある。息子の単純な正義感は理解しているが、乱世を生き抜くためには「余計なことは言わず、目立たず、ひたすら耐える」ことが大事だと信じている。息子の大きな笑い声は、彼女にとっては苦労の多い生活の中で、少ないながらも確かな幸せでもある。


竹細工の名手。編んだ熊手は頑丈で使いやすく、近隣では評判。これが母子の命綱。


重税、兵役、労役の徴発、物価高騰に苦しむ庶民の代表。愚痴をこぼしつつも、表立って反抗する勇気はない。程咬金の騒動は、彼らにとっては重苦しい日常の一時の気晴らしでもある。


中央政府の過酷な要求を末端で実行する立場。プレッシャーは大きいが、権威を笠に着て民衆を威圧し、私腹を肥やす者も少なくない。程咬金のような「明らかなバカ」には、真剣に取り合うのが馬鹿らしく、あるいは面倒なので、軽く流す傾向がある。


八百屋の親父、魚屋の大将達は程咬金の破壊力の被害に遭う町の商人たち。怒りは本物だが、程咬金の憎めなさと、彼の母の謝罪の姿を見ると、ある程度は許してしまう。


物語の背景に常に存在する巨大な圧力。大運河建設、高句麗遠征、豪奢な離宮建設など、民力を顧みない大プロジェクトが地方を疲弊させている。山東はその影響を強く受ける地域の一つ。

* **瓦崗寨がこうさいの予兆:** 程咬金が後に活躍する反隋勢力の一つ。まだ物語のこの時点では、各地に散らばる不満の種に過ぎないが、程咬金のような豪傑や、世の中の不正に耐えかねた人々が、やがて集う土壌は着実に育っている。


山東の東阿県。都からはるかに離れた、山あいの貧しい村。煬帝の野望が生み出す暗い影は、ここにも確実に落ちていた。若者は次々と徴兵され、村に残るのは老人、女、子供ばかり。畑は人手不足で荒れ、役所からは容赦ない税の取り立てが来る。村全体に漂うのは、諦めと疲労、そしてどこか張り詰めた不安の空気だった。


しかし、そんな重苦しい空気を、一発で吹き飛ばすような豪快な笑い声が、村はずれのボロ屋から響いてきた。


「はっはっはっは!母さん!今日の飯うめえなあ!この粥、水っぽいけど、母さんが作ったから世界一うめえぜ!」


声の主は、程咬金。粗末な木の机を囲んで、大きな陶器の碗を両手で抱え、ズズズッと音を立てて薄い粟がゆを啜っていた。その様子は、まるで何かご馳走を食べているかのようだ。碗は彼の巨大な手にすっぽり収まり、小さく見えるほどだった。


「金よ…もっと静かに食べんか。隣の家まで響くわい。それに、ただの水粥じゃぞ。お前の体を思うと、もっときちんとしたあるものを…」と、細い竹ひごを手早く編みながら、母の秦氏が呆れたように言う。彼女の目の前には、編みかけの竹熊手があった。手際は良く、竹の選び方、組み方に職人の確かな技術が光る。


「なに言ってるんだ母さん!飯はうまけりゃ何でもいいんだよ!量さえあればな!…って、もしかして母さん、また自分の分を減らして俺に回したんじゃないだろうな!」


程咬金はパッと顔を上げ、ランランと光る目で母をじっと見つめた。


秦氏は手を止めず、「バカを言うな。お前みたいな大男を育てるには、それなりの量が要るのじゃ。わらわはこれで十分じゃよ」と、淡々と言う。だが、程咬金にはわかっていた。母の碗は自分のものより明らかに小さい。母はいつもそうだった。


「ダメだこりゃ!母さん、俺の粥半分やるから、母さんももっと食え!」


程咬金は立ち上がり、自分の碗から母の碗へゴポゴポと粥を移し始める。


「お、おい!金!やめんかっ!こぼすわいっ!」


「大丈夫大丈夫!こぼれたら俺がペロッとなめればいいんだよ!ほら、母さん、食べて食べて!」


押し問答の末、結局秦氏は息子の無理やりな親心に折れ、少し多めの粥を食べることになった。程咬金は、母が食べる様子を満足そうな大きな笑顔で見つめていた。


「そうだ!母さん、今日は何を作ってるんだ?またあのスゲえ熊手か?」


程咬金は、母の手元の竹熊手に興味津々。


「そうじゃよ。明日は町の市の日じゃ。これを売って、米と、少しの野菜、それに…お前の好きな塩でも買えたらいいのじゃが…」


秦氏は、複雑な思いを込めて熊手を眺めた。生活は常にぎりぎりだった。


程咬金は、ほぼ完成した熊手をそっと手に取る。竹はしっかりと乾燥し、弾力がありながらも頑丈だ。組み方は実に巧妙で、無駄がない。


「うおっ…すげえな、母さん。これ、竹が『俺をこんなに立派な熊手にしてくれてありがとう!』って泣いて喜んでるぜ!」


「竹が泣くわけあるかい」と秦氏はツッコミながらも、息子の大げさな褒め言葉に、少しだけ頬が緩んだ。


程咬金は熊手を握り、庭へ出る。「よし!お試しじゃあ!」そう叫ぶと、地面を目がけて熊手を振り下ろした。


ガシッ!バサッ!


土埃が舞い上がる。見事に土塊や小石が熊手に絡め取られた。


「見たか母さん!こいつ、めっちゃ働くぜ!田んぼの草なんて朝飯前!…って、よし!次はもっとデカい石をぶっ飛ばすぜ!えいやっ!」


「待て待て!金!そんな乱暴に…!」


秦氏の制止の声も虚しく、程咬金は庭の隅に転がる犬の頭ほどの石を熊手で豪快に叩いた。


ドカン!ガラガラガラッ!


石は見事に粉々に砕け、その破片が勢いよく飛び散り、隣の家の菜園にバラバラッと落下した。


「おい!程の大バカ!わしの大根の苗めちゃくちゃにするなーっ!」


隣の爺さんの怒声が響く。


「おっとっと!すんません爺さん!掃除してやるからな!ほら、この熊手の実力を見てくれ!一発でキレイさっぱりだぜ!えいやっ!」


程咬金は、飛び散った石片を熊手でかき集めようと、今度は菜園めがけて熊手を突っ込んだ。

バサッ!ザクッ!


「ああっ!わしの苗ぁーーっ!お前の熊手で引っこ抜いてるじゃねえかーーっ!」


「あ、あれ?ごめんごめん!つい力が…!代わりに新しい苗買うから…あ、でも金ないや…じゃあ、俺が毎日水やりするわ!」


「お前が来たら、畑全体がめちゃくちゃになるわい!これ以上近づくな!金の母さん!すまんが息子を引き取ってくれーい!」


秦氏は慌てて庭へ飛び出し、程咬金の大きな腕をグイッと掴んだ。


「金!もういい!早く中に入りなさい!…ご隣さん、本当に申し訳ございませんでした。このバカ息子めが…後ほどわたくしがお詫びに伺います…」


程咬金はしょんぼりと頭をかきながら、


「でも母さん、俺、隣の爺さんのために頑張ったんだぜ…?」と、全く悪びれない様子でつぶやいた。秦氏は深いため息をつき、息子を家の中へ引っ張り込んだ。隣の爺さんの怒鳴り声はまだしばらく続いた。


翌日、東阿県の町、市場


朝から市場には人、人、人。とはいえ、かつての活気とは明らかに違う。人々の顔には疲労と不安の色が濃く、声にも張りがない。野菜や穀物を売る農民たちは、役所への納税分を除くと、売れる量がわずかしかないことを嘆く。商人たちは、物資の不足や役人の嫌がらせで仕入れが困難だと愚痴る。どこからともなく聞こえてくるのは、「徴兵」「労役」「重税」「高句麗」「大運河で死んだ」といった重い言葉の数々。


そんな重苦しい市場の片隅に、一人の巨人が陣取った。程咬金である。天秤棒に何本もぶら下げた竹熊手が、歩くたびにカラカラと軽快な音を立てる。彼は場所を見つけると、天秤棒をドスンと下ろし、腹の底から炸裂するような声を張り上げた。


「おーーーい!集まれー!見ろー!聞けー!世紀の大発明、母ちゃん特製天下無双の竹熊手が登場じゃああああ!」


その轟音のような声に、近くの屋台に積まれた陶器の皿がカタカタと小刻みに震えた。人々は一斉に振り返り、その声の主の巨体と、天秤棒に無数にぶら下がる熊手の山に目を見張った。


「見てくれこの見事な出来映え!東阿の山で育った、しなやかで頑丈な竹を、わが母ちゃんが愛情込めて一本一本選び抜き、編み上げた逸品じゃあ!」


程咬金は一本の熊手を高々と掲げる。陽光に照らされた竹は、確かに美しい光沢を放っていた。


「これ一本あれば、田んぼの草なんてヘッチャラ!畑の固い土くれも、ガシガシッと軽々かき起こす!道に落ちてる役人の横暴な言葉のカスまで掃除できそうな勢いじゃあああ!」


「おおっ!」「ははっ!」と、思わず笑いと感嘆の声が上がる。程咬金はますます勢いづく。


「値段は破格の安さ!一本買えば二本分の働き!三本買えば、母ちゃんが『ええ子じゃ、金!』って天にも届くほどの声で褒めてくれるかもしれん!さらになんと!五本まとめ買いすれば…えーと…母ちゃんが飛び上がって喜ぶのは間違いないぜ!」


意味不明ながらも圧倒的な熱量の売り文句。程咬金は実演を始めた。地面を力強くかき、「ほら!土も石も草の根っこも、これ一つで何にでも使えるぞお!」と見せる。が、熱が入りすぎ、熊手を振り回す勢いが増してきた。


「役人のケツの穴より小さい悩みも、これでかき集めて…ぐわっ!?」


その時だった。勢い余った熊手の動きが、隣の八百屋の親父が丹念に積み上げた大根の山に直撃したのだ。


バサバサバサッ!ゴロゴロゴロッ!


真っ白な大根が無残にも転がり、中には見事に真っ二つに割れたものも。


「おのれ程の大バカァァァァーーーッ!!わしの大根めぇーーっ!!今日一番の出来だったのにぃーーっ!!」


親父の絶叫が響く。顔は真っ赤、湯気が立ちそうな怒りようだ。


「おっとっとっと!すんません親父!今すぐ元通りにするからな!ほら、俺の熊手の実力見せてやる!一発でキレイに積み直すぜ!えいっ!」


程咬金は慌てて、散らばった大根を熊手でかき集めようとする。


ガサッ!ザクッ!ポンッ!


「やめろーっ!お前の熊手で大根を傷つけるなーっ!刺さってるわい!ああ、また割れた!やめろって言ってるだろーっ!」


程咬金の熊手は、大根を集めるどころか、さらに踏みつけ、突き刺し、弾き飛ばし、大根地獄を拡大させていく。そのうちの一本が、勢いよく空中を舞い――


パシッ!


隣の魚屋の店先に並んでいた、脂の乗った大きな魚の切身の山に、見事なダイビングヘッドを決めた。


「なにィィィィーーーーーーッ!!こ、この野郎ォォォォーーーーっ!!わしのブリィィィーーーっ!!今日の目玉商品だぞォォーーっ!!」


魚屋の巨漢の大将が、包丁を手に飛び出してきた。目は三角に吊り上がっている。


「げっ!魚屋の大将!やべえ!…あ!大丈夫!大根が刺さってるから、これで『大根おろしブリ』って新メニューが…ぐわあっ!」弁解しようとする程咬金の顔面に、怒り心頭の魚屋大将がブリのアラを投げつけた。


「ふざけんなコラァーーーッ!!弁償だ!弁償しろや!!」


「お、おう!わかった!…でも金ないんだよな…そうだ!この熊手を…」


「いらねえわい!そんなもん持って帰れ!金を出せ!出さなきゃ許さねえぞ!」


「ぐぬぬ…」


市場は大混乱。大根を踏む人、魚のアラに滑る人、程咬金と魚屋大将の大げんかを固唾を飲んで見守る人…。中心に立つ程咬金は汗だくで、散らばった大根と魚を必死に拾い集めながら、魚屋大将に土下座して謝り、八百屋の親父にも平謝りする有様だった。


「すんません!ほんとにすんません!今は金ないけど、必ず働いて返しますから!母さんにも怒られますし!ほら、この熊手、一本無料で…」


「だからいらねえっての!金を用意して持ってこい!今日中にな!」


「ひぃーっ!」


その騒動の最中、程咬金の耳に、近くで農民たちがこそこそと話す声が届いた。


「…まったく、あの皇帝様のなさることは…去年、村から徴発された若い衆、大運河の工事で何人死んだと思ってるんだ…」


「そうだよな…わしの甥っ子も…あれほど頑丈な若者が、戻ってきたのは骨壺だけだった…」


「それなのに、今年は高句麗か…また徴兵だ…このままじゃ村に男はいなくなる…」


「役人の取り立ても厳しい…米も麦も持っていかれる…この先どうやって生きていけば…」


彼らの声には、怒りよりも、深い絶望と無力感がにじんでいた。


その瞬間、程咬金の大きな顔がパッと真剣な表情になった。魚屋大将への土下座も忘れ、立ち上がり、その農民たちのほうへ歩み寄った。


「なあなあ!そこの兄さんたち!それめっちゃわかるわー!あの話!」轟音のような声で同調する。


農民たちはビクッと飛び上がり、青ざめた。こそこそ話がバレた!役人に聞かれたら…!

程咬金は全く気づかず、怒りに任せて熱弁をふるう。


「あんなこき使われ方、牛や馬以下だぜ!力自慢の俺だって、『今日はちょっと休みてえなあ』って思うもんな!ふん!偉い連中はよ、もっと下の者のケツの穴の大きさくらい、考えてみろってんだ!」


一瞬、場が水を打ったように静まった。

「…ケ、ケツの穴…?」一人の農民が呆然と繰り返す。


程咬金は力強くうなずく。「そうだ!穴が小さすぎて、苦しいんだぞ!もっと大きく開けて、楽にウン…ってできなきゃ、みんなストレスで爆発しちまうだろ!」


彼は「苦労くる」を「苦しい」と言い、「ストレスで押しつぶされる」を「爆発」と表現し、そして比喩として「ケツの穴の大きさ」を選んだのである。本人は至って真剣な社会批判のつもりだった。


「プ…プハハハッ!」「グフッ!」「ケツの穴が…大きさ…」農民たちは、あまりの突拍子もない表現と、程咬金の真剣そのもののデカい顔を見て、最初は驚き、次に呆れ、そして我慢できずに笑いを爆発させた。緊張感は一気に緩み、涙を浮かべながら笑い転げる者もいた。


「こ、この大男…何言ってんだ…でも…言いたいことは…わかる気が…する…フゴホッホッ…」


程咬金は、なぜ皆が笑っているのかさっぱり理解できなかったが、自分の意見に賛同して笑ってくれているのだと思い込み、満足そうに頷いた。


「だろ? やっぱりわかってくれるよな!」


その刹那、市場の入口の方で人々がサッと道を開けた。青い役人服を着た、小太りの下級役人が、数人の手下を引き連れて、偉そうな顔で歩いてくる。人々はうつむき、息を殺した。農民たちの笑いもピタリと止まった。役人は、騒がしい場所が嫌いらしく、眉をひそめている。


程咬金は、その姿を見るなり、反射的に声をかけた。


「おーい!役人さん!ちょうどいいとこ来たな!」


一気に凍りつく空気。秦氏の顔色が一瞬で引く。


「聞いたか? みんな大変なんだぞ! 税金安くしてくれ! 休みももっとくれ! それに、徴兵とか労役で人を死なせるな! あと、ケツの穴のことも…ぐほっ!?」


程咬金の言葉は、電光石火で駆け寄った秦氏の手によって、完全に封じられた。母は必死に、息子の大きな口を両手で押さえつけている。程咬金は「ぶえっ? ぐへっ!」と悶絶する。


「すんませんっ!役人様!」


秦氏の声は普段の倍の高さで震えていた。


「このバカ息子の戯言は、どうかお気になさらずにおいておいてくださいませ!ほら金!早くお詫びを申し上げなさい!」


母は程咬金の頭をグイッと下げさせようとするが、首が太くてなかなか曲がらない。


役人は、異様な光景をしばらく無表情で見下ろしていた。手下たちも呆気に取られている。程咬金は口を塞がれたまま、必死に「でも母さん!俺、正しいこと言ってるんだぜ!」と訴えるような声を上げる。


役人は鼻で笑った。


「…ふん。程咬金か。相変わらずの大馬鹿者め。牢から出てきて大人しくなるかと思えば、また騒ぎを起こしている。塩密売の前科者、いい加減に身の程をわきまえろ」


「ぐっ…!」


程咬金が反応しようとするが、母の手がますます強くなる。


役人は秦氏に向き直る。


「…母親が可哀想だ。この馬鹿息子の始末に終われて。今日はな。こんな馬鹿相手にするのも疲れた。見逃してやる。だがな、程咬金」


役人の目が鋭くなる。


「二度と余計な口出しはするな。次はただでは済まんぞ。その大きな口を、永遠に塞いでやるからな」


そう言い残すと、役人は手下を引き連れ、去っていった。人々はホッと息をついた。


秦氏はやっと程咬金の口を離し、放心状態でその場に座り込んでしまった。顔から血の気が引いている。


「ふう…はあ…金よ…わしの命がいくつあっても足りん…お前の始末には…」


震える声で言う。


程咬金は大きく息を吸い込み、憤慨したように言った。


「でも母さん!おかしいことはおかしいって言わなきゃ!それが男ってもんじゃねえか!それにさっきの役人、逃げたぜ!俺の言うことが正しすぎて、反論できなかったんだよ!見てたか?ビビってたぞ!」


秦氏は呆れ果てて、もはや言葉も出なかった。程咬金はケロッとした顔で、散らばった大根や魚の切身を最後に一つ拾い上げると、再び天秤棒のそばへ戻った。そして、腹の底から、今まで以上の大声を張り上げた。


「さあさあ!皆の衆!大騒動も一件落着!役人もビビって退散!これを記念して、母ちゃん特製竹熊手、今日だけじゃあああ!一本買えば一本分タダ!…ってわけにはいかねえな!でもな、役人も逃げ出すほどの正義の味方!この熊手を持てば、お前も今日の俺みたいに、悪い奴らをブッ飛ばせるかもな!?買わなきゃソンソン!さあ、今すぐだぜぇーーー!」


そのあまりに無茶苦茶な売り文句に、呆れていた人々の間から、再び笑い声が沸き起こった。八百屋の親父も魚屋の大将も、怒りが半分、呆れが半分、そしてなぜか笑いが混じってしまい、もはやどうにもならなかった。


「まったく…あのバカ…」「でも、憎めねえな…」「熊手より斧を持たせた方が世のためだぜ…」


秦氏は、またもや深い深いため息をつき、額に手を当てた。しかし、その目は、騒動を巻き起こしながらも、なぜか明るさを取り戻した市場と、無邪気に売り声を上げる息子の姿を見つめていた。疲労感と諦めの中に、ほんの少し、どこか愛おしいような、誇らしいような、複雑な感情がよぎった。


こうして、程咬金の母と子の竹熊手売りは、大騒動を巻き起こしながらも、なぜか数本は売れ、明日の糧を得たのだった。程咬金は、自分がやがて「混世魔王」と呼ばれ、隋王朝を震撼させる大乱の主役の一人となることなど露とも知らず、今日も母の編んだ竹熊手を天秤棒にブンブン振り回しながら、満面の笑みで帰路についた。市場の人々の囁きは確かに正しかった。


「あのデカイ男…竹熊手より、もっとデカい斧とか持たせた方が、絶対に似合うし、世の中も面白くなるんじゃねえか?」


その斧との出会いは、そう遠い未来のことではなかった。乱世の波は、東阿の片田舎にさえ、確実に押し寄せつつあった。程咬金の破天荒な笑い声は、その波を、本人も気づかぬうちに、さらに大きくさせる一因となろうとは…。

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