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隋唐演異  作者: 八月河
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血塗られた帝冠

大業元年春、長安大興宮の奥深く。かつて天下を統一した隋の初代皇帝、楊堅が病床に伏していた。かつて鋭く覇気に満ちた目は今、濁り、深く落ち窪み、骨と皮ばかりに痩せ衰えたその姿は、かつての威風を微塵も残していなかった。重苦しい沈黙が、龍涎香の香りすら淀ませる病室を支配していた。外は春の陽光が煌めいているというのに、ここには死の気配が濃厚に漂う。


「父帝…お薬でございます」


低く、滑らかな声が響いた。枕元に恭しく跪くのは、次男にして晋王楊広。その端正な顔には深い憂いと孝心が刻まれているように見えた。しかし、その長い睫毛に隠れた瞳の奥底には、冷たく研ぎ澄まされた野心の光が、蝋燭の灯りに揺らめいていた。


文帝は微かに呻いた。口を開くことすらもはや困難だった。楊広は微かに手を挙げた。影のように控えていた御医が、黄金の小椀に注がれた黒ずんだ液体を差し出した。楊広自らが、慎重に、しかし確実に、その液体を文帝の乾いた唇に流し込んだ。


(父よ…ご容赦あれ。この帝国は、汝の老いたる手に委ねておける代物ではない。停滞と保守…それこそが腐敗の元だ。朕こそが、この広大な帝国を真に輝かせる者。汝の築いた礎は、朕が受け継ぎ、汝の想像を絶する高みへと導いて見せよう…永遠の都・洛陽を建設し、大運河で南北を繋ぎ、四方の蛮族に隋の威光を見せつけてやる。そのためには…この一歩が必要なのだ)


「…ぐ…ぐおおっ…」


突然、文帝の痩せた身体が痙攣した。苦悶の呻きが喉の奥から絞り出される。目を見開き、眼球が異様に突出した。その視線は、楊広を、否、何か見えざる恐怖をまっすぐに見据えているようだった。その目に映る我が子の顔は、もはや優しい次男ではなく、地獄から這い出た夜叉の如く歪んで見えたかもしれない。


「父帝! 父帝! 何とかなされた! 御医、早く!」


楊広の声は悲痛に満ちていた。しかし、その手は、父の震える腕を押さえつけるように強く握りしめていた。演技と現実の境界が、この瞬間、彼の中で溶解していた。恐怖? 興奮? 達成感? それとも…後悔? 否、後悔など微塵もなかった。あるのは、今この瞬間、歴史が動くという確信だけだ。


数度の激しい痙攣の後、文帝の身体はぱったりと動きを止めた。開かれたままの瞳には、生気の光は完全に消えていた。部屋に漂っていた重苦しい空気が、一瞬の静寂の後、深い絶望と虚無へと変容した。隋の建国者、文帝楊堅は、その生涯を、息子の手による毒の一滴で閉じたのだった。


「父帝あああああっ!」


楊広の慟哭が病室に響き渡った。それは聞く者の胸を締め付けるほどに悲痛で、偽装とは思えないほどだった。彼は文帝の亡骸にすがりつき、肩を震わせて泣いた。その姿は、まさにこの世の悲しみを一身に背負った孝行息子そのものだった。



(泣け…泣くのだ、楊広よ。この涙は真実だ。しかし、その真実は、帝位への渇望と、この瞬間を待ち焦がれた歓喜の裏返しに過ぎない! さあ、次は…あの愚鈍なる兄だ)


慟哭は、周到に準備された合図だった。楊広の号泣とほぼ同時に、宮殿の外では鉄兜のきしむ音、重い足音が響いた。楊広が事前に配置した親衛隊、そして彼の腹心である宇文述率いる精鋭たちが動いたのだ。


目標は、東宮。皇太子・楊勇の邸だ。


「皇太子楊勇! 陛下崩御! 速やかに参内せよ! ただし…謀反の嫌疑あり! これを捕らえよ!」


宇文述の冷徹な声が夜気を切り裂いた。武装兵士たちが東宮の門を打ち破り、乱入する。まだ寝間着姿の楊勇は、突然の事態に呆然とし、抵抗することもできずに縄で縛り上げられた。


「何たる無礼! 余は皇太子ぞ! 謀反など…そんな…父帝が? まさか…まさか晋王が…!」


楊勇の叫びは虚しく夜に消えた。彼は楊広の策略に気づいていた節もあるが、その優柔不断さと、父帝への盲目的な信頼が、自らを守る手段を講じることを許さなかったのだ。


彼は大興宮の奥深く、一室に押し込められた。そこに現れたのは、喪服をまとったが、その目に一切の悲しみの影のない楊広であった。


「兄上…父帝は崩御なされた。」


「楊広! お前…お前が父帝を…!」


「兄上、何を仰る」


楊広の口元が歪んだ。


「父帝は御不例で…。しかし、問題は兄上だ。なんと兄上は、父帝御不例のこの時に、兵を動かして帝位を奪わんと企てたというではないか。痛ましい限りだ」


「虚言! それはお前の仕組んだ罠だ!」


「証拠は揃っている。兄上の側近たちは、ことごとく自白しておる。兄上は、あまりにも愚かすぎた…皇太子たる器量に欠けていたと、父帝も常々嘆いておられたぞ」


楊広の言葉は冷たい刃のようだった。楊勇は震える唇を噛みしめた。全てを理解した。この弟の、あの温厚な仮面の下に潜む、恐るべき本性を。


「楊広…お前は鬼だ…」


「残念だが、兄上。隋の帝位にふさわしいのは、この朕だ。兄上には…静かに逝っていただく」


楊広は微かに手を振った。背後に控えていた宦官が、白絹の帯を手に、ゆっくりと楊勇に近づいた。楊勇の目に、恐怖の色が走る。


「待て! 待つのだ楊広! 朕…いや、私が全てを諦める! ただ命だけは…!」


「遅い」


楊広の一言が宣告となった。宦官たちが楊勇の首に白絹を巻きつける。もがき、足をばたつかせる楊勇。その苦しむ姿を、楊広は微動だにせず、むしろ興味深そうに見つめていた。かつて自分を「晋王」と蔑んだ兄の、この醜く哀れな最期が、彼の心の奥底に渦巻く闇を満たしていく。


やがて、楊勇の身体の動きは止まった。玉石の床に、ぽたりと一滴の血が落ちた。兄の血だ。


(一つ、消えた。これで帝位への道は…開けた。次は…あの男だ。朕の手足となり、この醜業を共にした男…楊素よ。お前はあまりにも賢すぎる。知りすぎている)


楊広は、即位して煬帝を名乗った。その戴冠式は、かつてないほどの豪奢を極めた。しかし、その輝かしい即位の裏には、越国公楊素の存在なくしてはありえなかった。老獪な策士であり、強大な軍権を握る楊素は、文帝の健康悪化をいち早く察知し、むしろ積極的に楊広(当時は晋王)に近づき、陰謀に加担した。文帝毒殺の実行犯となり、楊勇派の徹底的な弾圧を指揮したのは、他ならぬこの楊素であった。


「陛下、万々歳!」


朝議の場で、群臣の先頭に立って深々と頭を下げる楊素。その声は朗々としているが、煬帝の目には、その頭頂に薄く光る白髪が、異様に強調されて映った。


(楊素…お前の功績は大きい。朕は認める。だが故にこそ…お前は危険だ。軍はお前を崇め、朝廷にはお前の派閥が巣くう。お前は…朕が先帝にしたことを、朕に対して企てはせぬか? あの毒薬を調合したのも、お前の手の者だったはずだ。その知識は…朕をも脅かす)


煬帝は楊素に最高の栄誉を授けた。上柱国、司徒、莫大な封戸…。しかし、与えるものがあれば奪うものもある。巧みに楊素の権力基盤を削ぎ、腹心の者を要所に配置していった。楊素は老獪である。煬帝の猜疑心を感じ取らぬはずがない。


ある夜、宮中で盛大な宴が催された。しかし、主賓たるべき楊素の姿はなかった。病と称しての欠席である。煬帝は、宴もたけなわという頃合を見計らうと、突然立ち上がった。


「越国公が病と聞く。朕は心配でならぬ。朕自ら見舞いに行こう」


群臣は驚いた。皇帝自らが臣下を見舞うなど、前代未聞である。しかし煬帝は微塵の躊躇も見せず、わずかな供を連れて楊素の邸へと向かった。


楊素の寝室。病床の楊素は、皇帝自らの見舞いに驚き、起き上がろうとしたが、煬帝は優しくそれを制した。


「卿、無理はならぬ。伏しておれ」


煬帝は楊素の枕元に座り、慈愛に満ちた表情でその手を握った。それは、かつて文帝の病床で見せた孝行息子の顔そのものだった。


「卿の病状、いかがかな? 朕は心配でならぬ。朕の天下は、卿あってこそ成り立っている。早く癒えて、また朕を支えてくれ」


「陛下…このような…お気遣い、身に余る光栄…」


楊素は涙声を交えて答えた。しかし、その老獪な目は、煬帝の瞳の奥を鋭く見透かさんとしていた。



(見舞い? ふん…この小僧め。何を企んでいる? この温もりのある手の裏に、冷たい殺意が潜んでいるのは、この老いぼれにもわかるぞ。かつて先帝をあやめた手が、今、この老骨を狙っている…。因果応報とはこのことか)


「卿、何も心配するな。朕は、卿の健康が何より大事だと心から願っているのだ」


煬帝はそう言い、そっと楊素の手を離し、ゆっくりと立ち上がった。そして、部屋を退出する際、控えていた主治医の耳元に、ごく低く、しかしはっきりと言い放った。


「越国公の病は…重いようだな。朕は…本当に心配だ」


その言葉は、優しい口調とは裏腹に、氷の刃のように冷たかった。医師は一瞬、蒼白になったが、すぐに深々と頭を下げた。


「…畏まりました。陛下」


煬帝の一行が去った後、医師は震える手で薬箱を開けた。そこには、煬帝の密使が事前に渡していた小瓶があった。中には無色透明の液体が。かつて文帝を苦しめたのと同じ「牽機薬」と呼ばれる激しい痙攣毒である。


「越国公様…お薬の時間でございます」


医師の声は震えていた。楊素は静かに目を開けた。その目には、全てを悟った諦念と、わずかな嘲笑が浮かんでいた。


「…持って参れ。それが…陛下の『お情け』ならな」


楊素は迷いなくその薬を飲み干した。医師は俯き、涙をこぼした。数刻後、楊素の寝室から苦悶の呻きと痙攣が響き、やがて静寂が訪れた。隋の最大の功臣にして、最も危険な陰謀の協力者、越国公・楊素は、自らが手を下した先帝と同じ死を遂げたのだった。


煬帝はその報せを聞くと、深い悲しみに暮れる様子を群臣の前で見せつけた。


「嗚呼、朕の股肱の臣よ! 隋の柱石を失うとは!」


しかし、その心の奥底では、巨大な影が消えた安堵と、自らの冷酷さを肯定する冷たい確信が渦巻いていた。


(楊素…お前の役目は終わった。朕の行く手を阻む影は、たとえかつての協力者であろうとも、容赦なく消し去らねばならぬ。これが…帝王の道というものだ。次は…あの口うるさい老臣どもだ)


楊素の死は、煬帝の猜疑心の終着点ではなかった。それはむしろ、自らの暴政に異を唱える可能性のある、有能で清廉な重臣たちに対する大粛清の始まりの狼煙に過ぎなかった。煬帝の心には、絶対的な権力を確立するためには、一切の批判と忠言すらも排除せねばならないという確信が固まっていた。


高熲は、文帝時代からの宰相である。清廉潔白、剛直無比、天下にその名を知られた名臣中の名臣だった。文帝の天下統一と開皇の治を支えた最大の功労者の一人である。彼は煬帝の即位後も、その贅沢と無謀な政策を厳しく諫言し続けていた。


ある日、朝議の場。煬帝がまたしても大運河の工事規模拡大と、そのための民衆徴発強化を命じようとした時、高熲が重々しく進み出た。その顔は怒りに紅潮していた。彼の元には、工事現場で倒れる民、鞭打たれる民、家族を引き裂かれる民の悲鳴が、日々血の滲む報告として届いていたのだ。


「陛下! 今一度、臣の声をお聞き入れ下さいますか!」


煬帝は面倒そうに眉をひそめた。


「…高熲、またか。」


「陛下! この大運河の工事は、民力の限界をはるかに超えております! 強引な徴発と過酷な労働で、河北、河南の地では、村々が廃墟と化し、路傍に累々と屍が転がっているとの報せが絶えません! 民は疲弊し、怨嗟の声が天に届かんばかりです! このままでは、天下は必ず乱れますぞ! どうか、陛下、民の労苦を顧みられ、工事の一時中断と、民の休養をお考え下さいますよう!」


高熲の声は、老躯を震わせるほどの熱を帯びていた。しかし、煬帝の表情は次第に険しくなっていった。


「高熲…お前は何度同じことを言うのだ? 大運河は、帝国の南北を繋ぎ、万世のための大事業だ! 民など、いずれその恩恵に浴すのだ! 一時の苦労を厭うなかれと、朕は言っているのだ!」


「陛下! 万世のためとはいえ、民が今、死に絶えようとしております! これでは、運河が完成する前に、帝国の基盤たる民が崩れ去ります! どうか陛下、お慈悲を…!」


「黙れ!」


煬帝が怒声を上げて机を叩いた。


「高熲! お前は…先帝時代の功績を恃み、朕を軽んじているのではないか! 朕の政策をことごとく批判し、朝廷の威信を貶めるとは、何たる不敬だ!」


高颎は一瞬、言葉を詰まらせた。その老いた目に、かつて支えた文帝の面影と、今目の前にいる暴君の姿が重なって、絶望の色が走った。


「…陛下。臣は、先帝の御霊と、この隋の天下万民に向けて、ただ誠を尽くしておりまするまで…」


「誠? ふん!」


煬帝は嘲笑した。


「お前の言動は、朝廷への『誹謗』そのものだ! 朕はもはや、お前の不遜な言動を許すわけにはいかぬ!」


煬帝は宣告した。


「高熲! 卿は『誹謗朝政』の罪に問う! 即日、官位を剥奪し、獄に下すべし!」


「何っ!」「高公が…!」「陛下、お待ちを!」


群臣から驚きと悲鳴にも似た声が上がったが、煬帝は一切聞き入れようとしなかった。衛兵が進み出て、高熲の冠帯を剥ぎ取った。高熲は微動だにせず、煬帝をまっすぐに見据えていた。その目には怒りも悲しみもなく、ただ深い諦念と、この国の行く末への憂いだけが浮かんでいた。


「陛下…お気をつけあれ…この道は…破滅へと続きますぞ…」


その最後の忠言すら、煬帝の耳には届かなかった。高熲は獄に繋がれ、間もなく「斬首」の刑が執行された。隋の建国を支えた最大の功労者の一人、その清廉無比な老宰相の首は、晒し台に晒されるという屈辱まで味わわされた。その最期は、あまりにも惨めで、理不尽なものだった。この報せは、長安中に衝撃と悲嘆をもって伝わり、民衆の煬帝への不信感を決定的なものにした。


高颎と並ぶ文帝時代の功臣、賀若弼。彼は南陳を滅ぼした隋の天下統一における最大の軍功者であり、勇猛かつ率直な性格で知られた猛将であった。彼もまた高熲同様、煬帝の政策、特に度重なる外征の無謀さを公然と批判していた。


ある時、賀若弼が、親しい将軍たちとの酒席で、煬帝の高句麗遠征計画を激しく非難したという密告が煬帝の元に届いた。


「『陛下は、高句麗などという遠い蛮地に、何十万もの兵を送るつもりか? 兵站もままならぬ、無謀この上ない! それよりも、国内の疲弊した民を労わるべきだ! こんなことを続ければ、必ず大乱が起きる!』…だそうです。」


密告者の言葉を聞いた煬帝の顔が、怒りで歪んだ。


「賀若弼め…! 朕の外征を無謀と? この天下に、朕の征伐に値せぬ蛮族などおらぬ! ましてや、乱が起きるなどと…それは謀反を仄めかしているに等しい!」


煬帝は即刻、賀若弼を捕らえるよう命じた。高熲の処刑から間もない時期だった。賀若弼は捕らえられると、取り調べの場で一層激しく煬帝を非難したという。


「陛下は、高公のような忠臣すらも斬首なさった! 何たる暴挙だ! これでは、忠臣は心を痛め、奸臣のみが跋扈する朝廷となる! このままでは隋は滅びる!」


この言葉が、煬帝の怒りに決定的な油を注いだ。


「賀若弼は、高熲と結託し、朝廷を誹謗し、不満を抱き、謀反を企てている! 即日、高熲と同じく斬首に処すべし!」


こうして、陳を滅ぼした猛将賀若弼もまた、高熲と同じ刑場の露と消えた。彼の最期の言葉は


「無念! この剣をもって、高句麗の賊を討たんことを!」


だったという。武将としての本望を果たせぬ無念が、その叫びに込められていた。


宇文弼、賀若弼と並ぶ文帝時代の重臣、宇文弼。彼は高熲ほど剛直ではなく、賀若弼ほど激しい性格でもなかったが、深い見識と民を思う心を持つ名臣であった。高熲と賀若弼の処刑は、彼に深い衝撃と危機感を与えた。しかし、臣下としての本分を尽くさねばならぬという思いが彼を突き動かした。


彼は慎重に言葉を選びながら、煬帝に上奏した。


「陛下、高熲、賀若弼両名の処刑は…あまりにも重きに過ぎます。両名とも、先帝以来の大功労者であり、その言葉には陛下への忠誠が込められておりました。どうか、今一度お考え直しくださり、また、今後の政事においては、民の疲弊を深くお慮りいただき、ご聖慮を…」


「宇文弼!」


煬帝の怒声が宇文弼の言葉を遮った。彼の目には、高熲と賀若弼を擁護する宇文弼への疑念と、自らの権威への挑戦を見て取った激しい怒りが燃えていた。


「お前もか…! 高熲、賀若弼と結託して、朕の政治を誹謗する気か? 朕の目は節穴ではないぞ! お前の心の中は見抜いておる!」


「陛下! それは誤解でございます! 臣はただ…」


「言い訳は聞きたくない! お前もまた、彼らと同罪だ! 連座して処すべし!」


こうして宇文弼もまた、何の具体的な証拠もないまま、


「高熲、賀若弼と結託して朝廷を誹謗した」との罪状で捕らえられ、処刑された。わずか数ヶ月のうちに、隋の朝廷を支えた三本の大黒柱が、次々と煬帝の猜疑心と暴虐によって伐り倒されたのだった。朝廷には恐怖と沈黙が支配し、もはや煬帝に逆らって諫言する者など、誰一人いなくなった。これこそが煬帝の望んだ「絶対的権力」の完成形であった。


長安の宮廷に忠臣たちの血の匂いが充満する中、煬帝はただ恐怖で臣下を押さえつけるだけでは不十分だと悟っていた。広大な隋帝国の各地には、有力な将軍や皇族、地方長官がいた。彼らが、高颎らの死に危機感を抱き、反乱の芽を育てるかもしれない。煬帝は、最も信頼する腹心たち(宇文化及、宇文智及ら宇文一族や、裴蘊ら)に命じ、密使を各地へと走らせた。その使命は二つ。脅しと懐柔によって、有力者たちを「現状維持」に留めさせること。そして、彼らの動向を探り、少しでも危険と見れば、次の粛清の標的とすることであった。


老将軍伍建章の邸は重々しい空気に包まれていた。高颎斬首の報せが、この忠義一徹の老将に深い衝撃と怒りを与えていた。その時、密使が深夜ひそかに訪れた。煬帝の親書を手渡すと、密使は低く、しかし鋭い口調で告げた。


「伍公、陛下の御意を承り、申し上げます。『伍建章の忠義は、天下に知れ渡る。朕も深く信頼しておる。されど…今の朝廷は、高熲ら不忠の輩が跳梁跋扈したため、粛清の嵐が吹き荒れておる。卿は、この動乱の時、軽挙妄動せず、ただ静かに剣を鞘に納め、時節の到来を待たれよ。』…かくのごとし」


伍建章は無言で親書を受け取り、じっと密使を見つめた。その剛毅な目には、怒りの炎が静かに燃えていた。


(静観せよ…と? 高熲ほどの忠臣が無実の罪で斬首され、その首すら晒されるとは! このような暴政を前に、剣を鞘に納めよと? ふん…煬帝め、この老いぼれを侮るなよ。この剣は、いつでも暴君を討つために抜けることを忘れぬがよい)


口に出した言葉は違った。


「…陛下のご配慮、痛み入る。臣、伍建章、深く御意を奉じ、慎んで静観いたす所存」


密使は満足そうにうなずき、闇へと消えた。伍建章は拳を握りしめ、高颎の無念を思うと、老将の目に初めて涙が光った。その胸中には、後に息子伍雲召の凄まじい反乱へと爆発する怒りの種が、確かに蒔かれたのだった。


勇猛で知られた長平王邱瑞の屋敷にも、密使が訪れた。重々しい口調で言い渡す。


「邱公、陛下の御意なり。『邱瑞の武勇は、朕も畏れておる。されど…天下は未だ定まらず、高颎らの一派が各地に禍根を残しておる。このような時、軽挙妄動は禍の元となる。卿は、雌伏して力を養い、真に朕に尽くすべき時が来るのを待たれよ。』…以上」


邱瑞は眉をひそめ、無言でうなずいた。しかし、その心は穏やかではなかった。



(雌伏して力を養え…? はあ? 静観せよ…と? 高熲公や賀若弼公を謀反人呼ばわりして斬り、その一方で俺には力を養えだと? この言は矛盾している。もしかすると…次は俺の番か? あるいは、俺を油断させておいて、隙を見て討とうというのか? 煬帝め…その心は測りがたい)


「…陛下のご命令、承知した。武芸の鍛錬に励み、いずれ来るべき時に備える所存」


そう答える邱瑞の拳が、膝の上で固く握りしめられていた。高熲らへの哀悼と煬帝への不信感が、この猛将の心に反隋への決意を徐々に固めさせていった。


重要な軍事拠点太原を守る留守は、煬帝の従兄弟にあたる唐国公李淵であった。密使は、李淵の次男で、若くして非凡な才覚と人望を放つ李世民に特に注目して接触した。


太原留守の府。密使は、弱冠の年の李世民を前に、巧妙に言葉を紡いだ。


「世民公子、その聡明さと武勇の誉れは、都の宮廷にすら轟いております。陛下も、公子の将来を大いに期待されておられまする」


「恐れ入ります」


李世民は恭しく頭を下げた。その目は澄んでいたが、奥底には警戒の色が浮かんでいた。都での粛清の嵐は、すでに太原にも届いていた。


「しかしながら…」


密使は声を潜めた。


「今の朝廷は…いささか不穏でございます。…力を蓄えよ? 真に天下のために? ふん…これが煬帝の本心か? それとも、我ら李氏一族の動きを封じるための甘言か? 高熲公ら忠臣を殺し、民を虐げる暴君公、賀若弼公のような重臣さえも、陛下の御意に逆らう者は…容赦なく粛清される有様でございました。」


李世民の目が鋭く光った。密使は続ける。


「陛下は、公子のような麒麟児こそ、この太原の要衝にあって、力を蓄え、練兵に励み、真に天下のためにその才覚を発揮すべき時が来るのを…ひそかに待たれております。その日を、どうか見据えられよ。軽率な行動は、公子の前途を台無しにしかねませぬ」


(…力を蓄えよ? 真に天下のために? ふん…これが煬帝の本心か? それとも、我ら李氏一族の動きを封じるための甘言か? 高熲公ら忠臣を殺し、民を虐げる暴君が、天下のことなど本気で考えているとは思えぬ。この言葉は…脅しだ。しかし…確かに今は動く時ではない。父と共に…この太原で力を蓄え、真に天下を救うべき時を待つのだ。その時こそ、この暴政を終わらせてみせよう)


「陛下のご期待、身に余る光栄に存じます」


李世民は深く一礼した。


「太原の地にて、日夜研鑽を積み、陛下と天下のために尽くす覚悟でございます」


密使は満足げに去っていった。李世民はその背を見送りながら、静かに、しかし確固たる決意を胸に刻んだ。都で流された忠臣たちの血は、この若き英雄の心に、乱世を征し新たな世を創るという大志を燃え立たせたのだった。


北辺の守りを固める北平府の長官、燕山公羅芸のもとにも密使が訪れた。羅芸は、突厥などの北方民族に対する防衛の要であり、精強な私兵を擁していた。


「羅公、北辺の守護神たる御身に、陛下は深く信頼を寄せておられます」


「かたじけない」


羅芸は重々しくうなずいた。


「しかしながら…」


密使は周囲を窺い、声をさらに潜めた。


「都では、高熲公ら不忠の輩が粛清されました。この動乱の兆し…いずれは北辺にも及ぶやもしれませぬ。」


羅芸の目が鋭くなった。


「この北平こそ、その時こそ真価を発揮する地。羅公の統べる精兵と、この要害の地が、乱世を鎮める大きな力となることは間違いありません。陛下はひそかに、羅公に万全の備えを整えられるよう、望まれております」


(…万全の備えを整えよ? 乱世を鎮めよ? つまり…いずれ起こるであろう反乱を、俺の手で鎮圧せよと? 高熲公ほどの人物を謀反人として殺すとは…。煬帝のやることは、もはや先帝の志から完全に外れている。このような暴君のために、忠義を尽くすべきなのか…? いや、俺が守るべきは、この北平の民と、この地だ。煬帝の言う「乱世」とは、おそらく彼自身が招くものに違いない)


「陛下のご信任、光栄の至り」


羅芸はそう答えつつも、心の中では煬帝への忠誠心に大きな陰りが生じていた。この思いは後に、彼の子の羅成や、配下の勇将秦瓊らと共に、半独立的な勢力として隋末の乱世に重要な役割を果たす基盤となる。


こうして、煬帝楊広は、毒と謀略によって父帝を弑し、兄を殺害して帝位を簒奪した。そして、自らの絶対的な権力を確立するため、かつての最大の協力者・楊素を始め、忠言を尽くした高熲、賀若弼、宇文弼ら歴代の重臣たちを、次々と謀殺・粛清した。その手口は、陰湿な毒殺、無実の罪状による逮捕、そして公開処刑と、手段を選ばない苛烈さだった。


長安の宮廷は、恐怖と偽りの恭順に塗り固められた。しかし、その静けさは、暴風雨の前の不気味な凪に過ぎなかった。煬帝の血塗られた恐怖政治は、隋帝国という巨大な楼閣の基盤を、根底から蝕み続けていた。人心の離反は決定的となり、その怨念と怒りは、帝国の隅々にまで確実に浸透していった。


忠孝王伍建章の胸中に燃え上がった怒りは、やがて彼の死をきっかけに、その剛勇無双の息子伍雲召が南陽で激しい反旗を翻す原動力となる。


長平王邱瑞は、高熲らの非業の死と煬帝の暴政に心を痛め、苦渋の選択の末、隋への忠誠を捨て、瓦崗寨の反乱軍に合流する決断を下す。


太原の李世民は、都での粛清の報せを聞き、煬帝への幻滅を深めると同時に、乱世を征する決意を固めた。父・李淵と共に、挙兵の機を虎視眈々と窺いながら、着々と準備を進めていく。


北平の羅芸は、煬帝の密使の言葉に不信を抱き、北辺の守りを固めつつも、煬帝への忠誠から距離を置き始めた。彼の庇護の下、後の隋唐演義を彩る傑物たち義侠の将秦瓊、槍の使い手羅成らが成長し、この地が後に独立勢力として、あるいは他の反乱勢力と連携して、乱世に重要な拠点となる礎が築かれた。


煬帝による簒奪劇とその後の大粛清。それは、文帝楊堅が血と汗で築き上げた隋という巨大帝国に、深く、癒えることのない傷を刻みつけた行為だった。この傷口からは、忠臣たちの無念の血と、虐げられた民衆の怨嗟が、絶え間なく流れ出ていた。


その血と怨念が、やがて瓦崗寨を拠点とする程咬金、徐茂公、魏徴ら英雄智将たちの挙兵へと結実する。それは「十八路反王、六十四路煙塵」と呼ばれる全国的な大反乱の烽火となって燃え広がり、隋帝国という巨象を群狼が食い荒らす未曾有の動乱時代を現出させる。そして、その乱世の渦中から最終的に頭角を現した李淵、李世民親子が、煬帝の最期を見届け、新たなる大唐帝国を建設するに至るのである。


越国公楊素の非業の死。高熲、賀若弼、宇文弼ら直臣たちの理不尽な悲劇。それらはすべて、煬帝の治世が、その最初の一歩から暗黒と破滅への道を歩み始めていたことを、血をもって刻印する序幕の一幕であった。この序幕なくして、隋唐演義という壮大な歴史絵巻の動乱と興亡は語れない。深宮の奥で静かに滴った毒と、刑場で飛び散った忠臣の血潮が、やがて天下を揺るがす大河の奔流へと変わる時は、確実に近づいていた…。

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