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隋唐演異  作者: 八月河
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理想郷

朔風、オルドス草原を刃のごとく切り裂く。天幕のように垂れ込めた闇を、祭壇の炎が不気味に焦がしていた。獣脂じゅうしの甘ったるい匂いが冷たい空気と混じり合い、一種の神聖かつ野蛮な雰囲気を醸し出す。中央に立つのは、白霊族の長老、烏洛蘭。その手に高々と掲げられたのは、月明かりに鈍く光る巨大な狼の頭蓋骨だった。風が彼の白髪を乱し、深く刻まれた皺の奥に宿る眼差しは、古の精霊を見据えるかのようだった。


「風よ! この誓いを天に届けよ! テングリ(天)よ、我らが新たなる棲家を見守りたまえ!」


その荘厳な声は、烈風をも掻き消す力強さで草原を駆け抜けた。祭壇を取り囲むように跪いていたのは、突厥系十部族の族長たち。彼らの顔には、長い流浪と抗争の疲れと、この瞬間への期待、そして一抹の疑念が入り混じっていた。彼らの背後には、漢人、鮮卑、契丹、ソグド、さらには西方から逃れてきたペルシャ系の民まで、様々な出自を持つ一万に迫る人々が、息を詰めてこの儀式を見守っていた。彼らの粗末な衣服は風に翻り、凍てつく大地に立つその姿は、まさに乱世の波間に漂う葦のようだった。


「ここに漢と胡の血を分かつ壁はない!」


轟くような声が祭壇の脇から響いた。それは姜松だった。彼は、名槍「穿星槍」を大地に三度打ち据えた。金鉄の激しい音が、烏洛蘭の呪文と共鳴し、草原の隅々にまで反響した。その音は、古い因習を打ち砕く宣言のようでもあった。


「我らが築く砦の名は…『天穿塞』! 天をも穿つ、この地を守るとりでとならん!」


「オオオォォォーッ!!!」


地鳴りのような歓声が一万人の胸の奥から迸った。それは、凍てついた大地を揺るがし、夜空の星々すら震えているかのようだった。この歓声は、単なる賛同ではなく、長く続いた漂泊と迫害に対する解放の叫びでもあった。啓民可汗の密使が、神々しいほどの緊張感を持って捧げ持つ青銅の杯が回され始めた。中に満たされた馬乳酒は、月光を反射して銀色の渦を巻き、異なる言語を話し、異なる神を祀る者たちの唇を次々と潤した。酒の一呑み一呑みが、この場に集う者たちの間に、見えない絆を紡いでいく。この夜、の冬、オルドス草原の西端、黄河が大きく湾曲する要衝の地に、一つの新たな民の砦が、その胎動を始めたのだ。それは、帝国の隙間、民族の狭間で生き延びようとする者たちの、希望の星であった。


「親分! 北平からの報せが届きましたぞ!」


蹄音が丘を駆け上がる。風塵にまみれた張鉄が、荒い息を吐きながら羅松の前に飛び降りた。彼の左腕には、精巧な鉄製の義手がはめられ、その関節部分に革袋が巻かれている。震える手でその袋を開け、一枚の書簡を取り出した。簡素ながらも上質な紙。そこに記された文字は、羅松が幼い頃から見慣れた、整然とした筆致だった。墨の香りが冷たい風に乗り、一瞬だけ、遠い北平の屋敷の書斎を思い出させた。


松へ

母は王府に迎えた。慈恩尼寺にて安穏に暮らす

秦氏も了承せり 心置くな

              羅芸


羅松は羊皮紙の端を強く握りしめた。指先が微かに震えているのを感じた。薄い紙が、母の存在を、そしてその存在の重さを、鋭く突き刺してくる。尼寺…。母が、父・羅芸の正室である秦氏の嫉妬と権勢の前に、ついに髪を下ろし、静かな寺院に隠棲せざるを得なかった現実。それは彼にとって、父の冷酷な計算を改めて突きつけられる瞬間でもあった。


「姜様は無事でござるか?」


低く落ち着いた声がした。隻眼の李四郎が、影のように近づいてきた。かつて隋軍の斥候として活躍したが、戦乱で片目を失い、この地に流れ着いた男だ。その一隻の眼は、闇夜でも物を見通すかのようだった。


「…ああ」


羅松は深く息を吸い込み、震えを抑えた。


「父上は母を『亡き王妃の侍女』と偽り、秦氏一門が建立した慈恩尼寺に匿ったようだ。表向きは、戦乱を避けての出家。秦氏も、『亡き王妃』という箔付きの侍女なら、目障りにならないと了承したと…」


「はっ! 羅総管も策士よのう!」


傍らで、巨大な熊の毛皮を鞣していた程咬金が豪快に笑い声を上げた。元は山賊の頭目、怪力無双の巨漢だ。その笑い声は、緊張した空気を一瞬和らげたが、次の瞬間、彼は真顔に変わった。


「だがよォ、親分」


程咬金は毛皮を置き、羅松を真っ直ぐに見据える。「姜様は宮廷の奥深くを、その暗闇をよく知るお方だ。檻の中の鳥になるのが、本望かは…?」


羅松は、言葉を返さなかった。その視線は、吹きすさぶ風を越え、はるか南の果て、中原の地へと向けられた。母の優しくも悲しげな声が、耳朶に蘇る。


『松よ…乱世を生きる女は、静かに生きるがよい。嵐の過ぎ去るのを待つがよい…』


それは諦めではなく、深い諦観に裏打ちされた生存の知恵だった。しかし、その静けさの代償は大きすぎる。


張鉄が黙って近づき、鉄の義手をポンと羅松の肩に載せた。その冷たい感触が、現実へと引き戻した。


「親分、いつか必ず」


張鉄の声には、揺るぎない確信が込められていた。「必ずや姜様を迎えに参りましょう。立派な輿で、晴れやかな行列でな!」


羅松は肩の鉄の重みを感じながら、うつむいた。その「いつか」が、どれほど遠い道のりであるかを、彼は誰よりも痛感していた。穿星槍の柄を握る手に、再び力が込められた。


半月後、地平線が歪んだ。春浅いとはいえ、容赦なく肌を刺す風が砂塵の巨大なカーテンを押し流す中、牛車三十両からなる長い隊列が、もくもくと砂煙を上げて現れた。先頭を騎乗で進むのは、筋骨隆々の老将。その顔には無数の傷痕が刻まれ、眼光は鷹のように鋭い。羅芸の腹心にして武芸の達人、丘和きゅうわであった。


「羅松殿! ご無事で!」


丘和は敏捷に下馬し、馬上の羅松に向かって深く揖する。その礼は、単なる主従を超えた、武者同士の敬意を感じさせた。


「総管様の御配慮にて、工匠百名をここに遣わされました! 如何なる艱難辛苦にも耐えうる者ばかりぞ!」


丘和の背後から、牛車から次々と降り立つ者たち。その顔ぶれは実に多彩だった。鍛冶屋三十名、その多くは北斉時代から刀剣を打ってきた老練の匠。大工二十名、宮殿の梁も組んだという腕利きたち。陶工十五名、青磁から唐三彩の祖型まで手掛ける者も。機織工十名、絹から丈夫な麻布まで織り上げる女たち。さらに農具職人、石工、漆工…。皆、中原の風土に比べて苛烈な辺境の風と砂塵に焼かれた顔に、見知らぬ土地への不安と、新たな生活への淡い期待を浮かべている。


「総管様の口上は『突厥対策のため、城塞補修工匠を派遣す』とのこと。」 丘和は声を潜め、懐から正式な文書を取り出した。そこには、朝廷向けの体裁を整えた派遣の理由が記されていた。「…これが精一杯のご配慮でござった」


羅松は書状を受け取り、その偽りの文言を目で追った。父羅芸が、朝廷の目を欺きながらも、この遠い地で生きる息子に送れる最大限の支援。それは冷徹な計算でありながら、届きにくい父性でもあった。胸の奥で複雑な感情が渦巻く。


(父上…これが、朝廷という檻の中で、精一杯に伸ばしてくれた手か…)


早速、天穿塞の建設と生活基盤の整備が、異なる技術と文化を持つ者たちの共同作業として始まった。そして、最初に噴出した問題は、意外なところからだった。


共同炊事場となる巨大な竈の建設現場。漢人工匠の棟梁、陳老頭が、煉瓦を積み上げる設計図を広げ、力説する。


「漢式竈は耐久性に優れ、火力も安定す! 煉瓦積みが当然じゃ! この荒れ地でも、十年は持つわい!」


しかし、白霊族の鍛冶頭であり、かつて突厥の軍匠でもあった阿史那徳が、鼻で笑った。彼は移動式の竈枠を指さす。


「馬鹿を言え! 煉瓦? この砂地で? 雨季が来れば根元から崩れるわ! 突厥式移動竈こそが戦時に適す! 敵が来ればすぐに撤収、追撃の途中でも飯が炊ける!」


「撤収? 我々は塞を築くのじゃ! 移動などせん!」 陳老頭が真っ赤になって言い返す。


「塞が攻め落とされればどうする!? 生き延びて再起するには移動式が最良だ!」


「貴様は塞の落ちることを前提とするのか!?」

「現実を見よ、老いぼれ!」


議論はヒートアップし、周囲の工匠たちも二手に分かれて声援を送り、罵声が飛び交う。まさに漢と胡の技術思想の衝突が、竈という生活の根幹で火花を散らした。


「静まれ!」


阿史那徳の雷のような怒声が場を圧した。彼は突然、腰に下げた羊の皮袋を掴み、地面に叩きつけて引き裂いた。中からさらさらとした砂が勢いよく流れ落ちる。


「見よ! これがこの地の土だ! 漢式の煉瓦は、この砂を混ぜれば強度がガタ落ちする! 焼いても脆い! だが…」


今度は別の袋から、湿り気を帯びた粘土の塊を取り出し、陳老頭の目の前に突きつけた。


「…胡式の移動竈枠に、漢式竈の煙道と熱効率の良さを組み合わせよ! 竈枠は鉄骨で補強し、内側にこの粘土と砂を混ぜて塗り固める。これで熱は逃げず、移動も可能! これがこの地にふさわしい『天穿竈』じゃ!」


陳老頭は黙り込んだ。彼は阿史那徳の差し出した砂を手に取り、指の間でこすり、じっと観察した。長い沈黙の後、彼は砂をそっと地面に落とし、阿史那徳をまっすぐ見た。その老いた目には、頑固さと同時に、技術者としての好奇心が光っていた。


「…道理だ」


陳老頭は大きく息を吐いた。


「では明日から、試してみよう。お前の言う『天穿竈』をな」


阿史那徳の顔に、勝利と誇りの笑みが浮かんだ。この瞬間、単なる妥協ではなく、異なる知恵が出会い、融合する可能性が、砂塵舞う建設現場で確かに息を吹き返したのだ。竈の煙が上がる日は近い。それは、天穿塞に生きる者たちの団結と生存の象徴となる炎であった。


「親分! 千載一遇の商機ですぞ! 大儲けのチャンスです!」


元傭兵で、今は天穿塞の「目」と「耳」を担当する趙三が、闇夜に紛れて息せき切って駆け込んできた。懐からは、汗と脂で皺くちゃになった密書を取り出した。


「西突厥の処羅可汗、煬帝の西巡を警戒して軍馬三千頭を急募とか! 代金は…」


趙三の目が狡猾に光る。


「…砂金か、もしくは若い男女の奴隷か…とのことです!」


羅松の目が鋭く光った。彼はすぐに、天幕の奥に置かれた大きな羊皮地図の前に立った。指が、長城が蛇のようにうねる国境地帯を滑る。情報、危険、利益、そして機会が頭の中で高速で計算される。


「ここだ」


指が、ある一点でピタリと止まった。地図上では、風化が激しくほとんど廃墟と化した古い烽火台のろしだいが印されていた。東西交易路から少し外れた、見捨てられた場所。


「三日後の満月の夜。『狼煙市』を開く。伝えよ…」 羅松は趙三をまっすぐ見た。「『星あらば道あり』と。いつもの合図で」


その言葉は、塞の外に張り巡らせた情報網全体へ向けた、行動開始の合図だった。


三日後、廃烽火台。満月の青白い光が、崩れかけた石壁や雑草をらんに照らし出す。その廃墟に、異様な活気が満ち始めた。ソグド商人のラクダ隊が色とりどりの絨毯を広げ、香辛料やガラス細工を並べる。高句麗の間諜らしき男たちが、影に潜みながら武器の切れ味を密かに検分する。吐谷渾の馬商人が、たくましい軍馬の群れを率いている。さらには、身分を隠した隋の地方官僚の姿すら見られた。まさに、帝国の監視の目をかいくぐる、闇の交易市が出現したのだ。


中央に設けられた天幕の中で、羅松が取引の采配を振るっていた。天穿塞の代表として、また、この市を仕切る「主」として。


「軍馬五十頭に金百両? 法外だ!」


ソグド商人の頭目、赤毛の鬚をたくわえた男が、宝石を散りばめた指輪をはめた手で鬚を捻りながら文句を言う。


「いや。」


羅松は表情を変えず、袖から一枚の密書を取り出し、そっとテーブルに滑らせた。そこには、帝の逆鱗に触れて追われる身となった元隋の将軍、史祥とその配下五名の偽名と、彼らの身柄を玉門関まで安全に護送してほしい旨が記されていた。


「代わりに、この者たちを玉門関まで護衛せよ。関を出れば、向こうで待つ者に引き渡す。報酬は関所で支払われる」


「はっ!」


ソグド商人の目が大きく見開かれた。


「…人と馬の両取りとは! そちもなかなかのやり手よ!」


幕の陰で、張り付いていた程咬金が、思わず


「グフッ」と笑いを漏らした。それを聞いたソグド商人は、ますます驚いた顔をした。


「これが辺境の商道だ。」 羅松は淡々と言い、帳簿を取り出した。そこには、取引の詳細が漢字と突厥文字で記されていた。彼は新しい項目を書き加える。


馬五十頭(ソグド商隊) - 代償:史祥ら五名の玉門関護送(報酬:金百五十両・関所払い)


「馬一頭に命一条」


羅松が帳簿を閉じながら呟いた。


「…等価交換よ」


その言葉は、この乱世という無法地帯で、命すらが取引の材料となる現実を、冷徹に言い当てていた。天幕の外では、様々な言葉で交渉する声、金貨の触れ合う音、馬のいななきが入り混じり、月光に照らされた廃墟は、生きるための欲望と駆け引きが渦巻く、危険で妖しい熱気に包まれていた。羅松は、そのざわめきを背に、次の取引相手を待った。天穿塞の存続と発展は、この闇の血流に支えられていた。


月日は流れ、天穿塞は驚くべき生活様式を育み始めていた。それは単なる寄せ集めの集落ではなく、異なる血と文化が交じり合い、新たな生命を宿す「生き物」のようだった。


居住区は、東側の緩やかな斜面に広がっていた。そこには漢人工匠たちの手による漢式瓦屋根の住居が整然と並び、小さな庭には季節の野菜が植えられていた。道路は碁盤の目状に整備され、所々に井戸が掘られている。一方、西側の広大な放牧区には、白霊族を中心とした突厥系の人々の毛氈テントが、まるで草原に咲く大きな花々のように広がっていた。テントの間を自由に駆け回る子供たち、群れを追う牧夫たちの姿があった。


そして、その二つの文化圏を結ぶ中央広場が、塞の心臓部だった。毎朝、日の出と共に、広場に立つやぐらの上で、二人の男が声を張り上げる。


「市、開けーい!」

「バザール、アチル!」


その掛け声を合図に、広場は一気に活気づく。漢人の農民が野菜や穀物を並べ、白霊族の女性たちが乳製品や手織りの毛織物を売る。ソグド人の行商人が珍しい香辛料やガラス器を広げることもある。取引の言葉は自然と混ざり合い、漢語に突厥語が交じり、身振り手振りが重要なコミュニケーションツールとなっていた。


「叔父さん! 今日は突厥のアスカと漢詩の競争したよ!」


十歳になる李児が、頬を紅潮させて駆けてきた。彼は、戦乱で家族を失い、塞に流れ着いた孤児だった。片手にはボロボロになった『詩経』の写本、もう片方の手には、白霊族の風習で串焼きにした羊肉を握りしめている。脂が彼の指を光らせている。


「おお、勝敗はどうだった?」


羅松が腰をかがめて尋ねた。


「うん! オレが『悠悠たる蒼天、此の何ぞ人を毒う』って詠んだら、アスカが『永遠なるテングリ(天)、何ぞ人を苦しむ』って訳したんだ! そしたら通りかかったウルク長老が、『フン。天は一つだ。言葉が違うだけだ』って笑ってたよ!」 李児は得意げに報告した。


その様子を遠くから見ていた烏洛蘭長老は、深くうなずき、目を細めた。異なる言葉で同じ想いを表現する子供たち。それが彼の望んだ未来の一端だった。


鍛冶場では、常に熱気と槌音が渦巻いていた。阿史那徳が、汗だくで鉄を打つ若い漢人工匠、王鉄柱の脇に立つ。


「鉄は生き物だ! 呼吸を感じろ! 熱さ、柔らかさ、硬さ…すべてを肌で感じ取れ!」


王鉄柱は必死に槌を振るうが、そのリズムはぎこちない。漢式の連続した細かい打ち方が染みついている。


「違う! 力任せに打つな!」


阿史那徳が声を荒げる。「胡式の打ち方は間が命だ! 一打ち一打ちに魂を込めろ! ほら、俺のを見ろ!」


阿史那徳が槌を取ると、その動きは力強く、しかし無駄がなかった。トゥルルル…(鉄をならす軽い打ち)…間…トン!(力強い一撃)…間…トゥルルル…。それは戦場の鼓動のようでもあった。


「わ、わかった! やってみる!」


王鉄柱が息を整え、改めて槌を構える。阿史那徳のリズムを頭の中で反芻する。トゥルルル…(間)…トン! 次の打撃が少し間を置いて落ちる。


「おお!」


阿史那徳の目が輝いた。


「そうだ! その間だ! 漢式の連打と胡式の間を合わせるんだ! これが『天穿打ち』じゃ!」


王鉄柱の顔に、達成感と新たな技術への興奮が広がった。その槌音は、次第に周囲の職人たちのリズムにも影響を与え始め、鍛冶場全体が新しい音律を奏でるようになっていった。


一方、陶工たちの作業場では、突然、陳老頭の驚きの声が上がった。


「見ろ! 見てくれ! 灰釉が…胡式の緑釉と混ざった! こんな色は見たことがない!」


窯から取り出されたばかりの壺は、漢式の端正な形を保ちながら、その表面には、草原を思わせる深い緑と、中原の陶磁器を思わせる落ち着いた灰が、まるで水流のように絡み合い、混ざり合って、見たことのない深みのある碧色を放っていた。それは偶然の産物だったが、漢と胡の技術が交わることで生まれた、まさに「天穿色」とも呼ぶべき奇跡の輝きだった。職人たちがその壺を囲み、感嘆の声を上げた。この壺は、後に天穿塞の名産品となり、遠く長安や西域まで取引されることになる最初の一片であった。異なる文化の融合が、生活の隅々に、そして美の領域にまで根を下ろし始めていた。


秋が深まり、草原は黄金色に染まったある日、丘和が再び密かに天穿塞を訪れた。彼の顔には、これまでとは違う、緊迫した影が漂っていた。


「羅松殿…急ぎの報せ」


丘和は周囲を警戒しながら、懐から封印された密書を取り出した。蝋封には、太原留守李淵の印が押されている。


羅松は天幕の中で書状を開いた。そこに記された内容は、予想を遥かに超えるものだった。


軍馬三百頭 明光鎧百領を至急調達せよ

代償は晋陽宮の財宝一切

                    李


「…軍馬三百頭に明光鎧百領?」


羅松は書状から目を離し、天幕の炉で揺らめく炎を見つめた。その炎が、彼の瞳の中で不気味に揺れた。


「李淵が…ついに動くのか? 謀反を?」


丘和が首を振り、声を潜めた。


「表向きは、突厥の大規模侵攻に備えるための緊急調達とのこと。しかし…この数量は、単なる防備をはるかに超えています。まるで…まるで一軍を丸ごと装備させるが如し」


「晋陽宮の財宝一切…」


羅松が繰り返した。晋陽宮は、煬帝が太原に設けた離宮。そこに蓄えられた財宝は、まさに帝国の富の象徴だ。李淵がそれを代償に差し出すとは、もはや決死の覚悟であり、背水の陣であることを意味していた。


「彼は、退路を断ったな」


「はたして…動けるでしょうか?」


丘和の声には懸念がにじむ。三百頭の軍馬と百領の明光鎧。それは天穿塞が短期間に調達できる量の限界を超えていた。


羅松はしばらく沈黙し、指で机を軽く叩いた。彼の頭の中では、各地に張り巡らせた馬商人の情報網、塞内で増産中の鎧の在庫、そして李淵の信用と、この取引がもたらす将来の可能性が天秤にかけられる。


「…やる」


羅松は静かに、しかし力強く言った。


「塞の備蓄を切り崩す。『狼煙市』のルートを総動員する。全てをこの取引に注ぎ込め」


丘和は息を飲んだが、羅松の決意の眼差しを見て、深くうなずいた。


一ヶ月後、嵐の前の静けさのような夜。指定された場所、長城の地下にひそむ、かつての密輸経路の拠点で、歴史的な取引が行われた。松明の不気味な炎が、巨大な岩壁とそこに積まれた木箱を揺らめく光で照らし出す。


「…これが晋陽の宝か」


羅松が、木箱から取り出された一つの黄金の仏像を手にした。その重みと輝きは、まさに帝国の富そのものだった。彼の前には、まだ若さの残るが、眼光鋭く、並外れた威風を放つ青年が立っている。李淵の次男、李世民りせいみんである。


「約束の品は?」


李世民の声は冷たく、緊張の張り詰めた空気をさらに引き締めた。


羅松が合図を送る。暗がりから、蹄の音が響き、息遣いの荒い軍馬の群れが現れた。その数、三百頭。どれもが筋骨隆々とした良駒だ。さらに、別の暗がりから、重々しい金属音を立てながら、明るい光沢を放つ明光鎧をまとった兵士が百人、整然と現れた。鎧は、天穿塞の鍛冶場で漢式と胡式の技術を融合させて鍛え上げられた新たな傑作であった。


李世民が一領の鎧に近づき、指で甲冑の胸当て部分をトントンと叩いた。澄んだ金属音が地下通路に反響した。彼は鎧の継ぎ目、革の質感、金属の輝きを鋭い目で検分する。


「…質は上等だ」


ようやく彼が口を開いた。その声には、認めざるを得ないという感情が込められていた。「父上も満足されるであろう」


取引は粛々と進んだ。金銀財宝が天穿塞の者たちによって運び出され、代わりに軍馬と鎧が李世民の配下に引き渡される。沈黙の中、ただ物品が移動する音だけが響く。


全てが完了しようとした時、羅松が一歩前に出た。


「一つ聞く」


李世民が振り返る。その目は、松明の炎を反射して、猛禽のように光った。


「…天下を穿つ覚悟はあるか?」


この問いは、単なる商人と顧客の関係を超えていた。乱世を生きる者同士の、運命への問いかけだった。


十八歳の李世民は、一瞬、言葉を詰まらせた。しかし、すぐに顔を上げ、羅松をまっすぐ見据えた。彼は一言も発せず、深く、力強くうなずいた。そのうなずきには、揺るぎない決意と、燃えるような野望が込められていた。そして、彼は闇の中へと消えていった。その背中には、まさに天下を穿ち取らんとする者の、重くも激しい気概が漲っていた。この地下での取引は、後の大唐帝国建国への、最初の一歩を記す歴史的瞬間となった。


「親分! 大変です! 幽州で捕まりました!」


趙三が、顔面蒼白、血相を変えて天穿塞に駆け込んできた。彼の衣には泥と雪がまみれ、息も絶え絶えだ。


「羅成小将軍の手勢に、軍馬五十頭を押収されたんです! 今、小将軍自らが、こちらへ向かっているとの噂です!」


「羅成…!」


羅松の表情が一瞬で凍りついた。異母弟の名。父羅芸の嫡男。彼は、父の威光と自身の武勇で知られる隋の若き将星だ。その弟が、兄の密貿易の証拠を掴みに来る。


十日後。天穿塞は、今季最強と言われる吹雪に見舞われていた。視界は真っ白、風の唸りが塞全体を覆い尽くす。そんな中、一人の騎士が、白銀の甲冑に身を包み、吹雪を真っ直ぐに切り裂くように近づいてきた。その姿は、荒ぶる冬の精霊のようだった。塞の入り口で、羅成は馬を止めた。甲冑の表面は凍りつき、兜の下から覗く目は、吹雪よりも冷たく羅松を射抜いた。


「商人姜松…」


羅成の声は、寒さでかすれていたが、刃のように鋭かった。


「軍馬密輸の嫌疑により、ここに逮捕に来た。速やかに投降せよ」


「お前が…か」


羅松は穿星槍を手に、吹雪の中に一歩踏み出た。槍の穂先に積もった雪が、微かに震えた。


「なぜ、貴様!」


羅成の声が突然、感情の激流で割れた。それは、将軍としての威厳を超えた、弟の叫びだった。


「父上は…父上はお前をかばい続けてきた! この塞が続くのも、叔母上が尼寺で平穏なのも、全て父上が朝廷の目を欺いてきたからだ! なのに…なのに、お前は裏で密貿易を! 朝廷を愚弄するとは、裏切り者か!」


「裏切り…?」


羅松の声は低く、怒りに震えていた。


「お前が今、身に着けている明光鎧は…誰が鍛えたものだと思う?」


羅成は一瞬、言葉を失った。彼の着ている鎧は、確かに最近、太原方面から調達したばかりの新品だった。その品質の高さは、彼も認めるところであった。


「それは…」


その瞬間だった。物陰から、風の唸りを掻き消す鋭い音が鳴った!


「兄弟! 伏せろ!」


羅松の警告が飛ぶ。ほぼ同時に、


「ぐあっ!」


鈍い衝撃音と共に、羅成の左肩を矢が貫いた。白銀の甲冑も、至近距離からの強弓の一撃を完全には防げなかった。


「畜生…罠か…!」


羅成が苦悶の表情でうずくまる。吹雪の中から、十数騎の隋軍巡察隊が現れた。先頭の隊長が、残酷な笑みを浮かべて叫ぶ。


「反逆者羅成! 密輸者と通謀したな! これでお前の父もおしまいだ!」


怒りと屈辱で羅成の目が血走る。だが、負傷した肩が動かせない。巡察隊長が、次の矢を番えようとしたその刹那!


「ウォオオッ!」


羅松の穿星槍が、閃電のごとく舞った。槍は風雪を切り裂き、巡察隊長の兜を真っ二つに断ち割った。脳髄が真っ白な雪原に鮮やかな朱を散らす。一撃必殺。


「逃げろ! 今すぐ!」


羅松は、呆然とする羅成の脇に駆け寄り、彼を無理やり自分の馬に押し上げた。吹雪はますます激しくなる。


「星穿塞へ! 俺について来い!」


羅松が叫び、自らも馬に飛び乗る。二人を乗せた馬が、吹雪の闇へと突っ込んでいった。背後では、巡察隊の怒号と追撃の蹄音が迫る。しかし、吹雪は味方でもあった。天穿塞を守る天然の障壁が、追手を混乱させた。羅松は、この地の地形を骨の髄まで知り尽くしていた。彼は、吹雪と岩場を巧みに利用し、追跡をかわしながら、塞の隠し通路へと弟を導いた。その背中には、傷ついた弟を守らねばという、血の絆が突き動かす必死さがあった。


傷の熱にうなされる羅成が、奇妙な歌声で目を覚ました。それは、彼が幼い頃、病床で聞いた記憶と重なるような、しかしどこか異質な旋律だった。漢語と突厥語が不思議に調和して紡がれる子守唄。


「スーホー スーホー…(眠れよ 眠れよ)

*月の子守り 星の灯り…

*ウルク・バートル…(英雄の子よ)

*テングリが守る…(天が守る)」


虚ろな目を開けると、眼前には、深い皺と優しい目をした白髪の老婆が微笑んでいた。烏洛蘭長老の妻、オジン夫人である。


「ウルク・バートル…(英雄の子よ)…お前を守る…」


彼女は、濡れた布で羅成の額をそっと拭った。


「ここは…?」


羅成の声はかすれ、肩の傷が焼けつくように痛む。


「天穿塞だよ、弟よ」


羅松が、湯気の立つ薬碗を持って幕をくぐって入ってきた。その顔には、連日の疲労の色が濃いが、目は弟を案じてしっかりと見つめている。


「お前の傷は毒矢だ。矢尻に猛毒が塗られていた。ウルク長老が、辺境の薬草で何とか毒の回りを抑えている。命に別状はないが、傷が塞がるまで時間がかかるだろう」


羅成は、虚ろな目で兄を見上げた。逮捕に来た兄に、命を救われた。その現実が、複雑すぎて理解できない。


「なぜ…なぜ助けた? 俺はお前を捕らえに来た。お前の邪魔をしに来たのだぞ?」


羅松は、弟の横に腰を下ろし、薬碗をそっと揺すった。


「なぜだと思う?」


彼は碗の湯気を見つめながら、静かに言った。


「お前は…弟だ。血を分けた弟よ」


その言葉に、羅成は目を大きく見開いた。彼は父・羅芸から、兄の存在を隠すように、そして兄は父の恥であると、暗に教え込まれてきた。しかし、この男は、命の危険を冒してまで自分を救った。


「父上は…」


羅成が、やっと声を絞り出した。


「…元気か?」


羅松が薬碗を持つ手が、微かに止まった。そして、彼はゆっくりと顔を上げた。


「…先月、刺客に襲われた」


羅松のその言葉に、羅成が息を飲んだ。まるで胸を金槌で殴られたようだった。


「左腕を斬り落とされたが、何とか命は取り留めた。今は…静養中と聞く」


重い沈黙が、薬草の匂いが漂う帳幕を満たした。遠くから、吹雪にも負けず、鍛冶場の槌を打つ規則正しい音が、トゥルルル…トン…トゥルルル…トン…と、まるでこの砦の鼓動のように響いてくる。その音が、二人の間に流れる複雑な感情を、奇妙に和らげていた。


「…見せたいものがある」


羅松が立ち上がり、天幕の奥の机から分厚い帳簿を取り出した。それを羅成の枕元に広げる。そこには、取引の記録が詳細に記されていた。


羅成軍団:軍馬80頭(代金未払・幽州防衛用として供給)`


秦瓊義勇軍:槍200本(代償:塩30石・情報提供)`

`太原通守李淵:甲冑30領(代償:晋陽宮財宝一部・前払い)


未回収分:宇文成都、鳳翅鎏金鏜修復代200両`

備考:西突厥処羅可汗分軍馬150頭(金80両・奴隷20名にて決済済み)`


「宇…宇文成都まで!?」


羅成が驚きのあまり起き上がろうとして、肩の傷の激痛に顔を歪めた。宇文成都は、煬帝お気に入りの天宝大将軍、隋随一の猛者だ。その彼が、この辺境の塞に武器の修復を依頼しているとは!


「天下の英雄が…李淵に秦瓊…そして宇文成都まで…皆ここで買い付けている? この塞が…天下の兵器庫となっているのか?」


「ああ」


羅松は穿星槍を取り、布で丁寧に磨き始めた。その動きは、祈りのようでもあった。


「ここは、朝廷に縛られず、乱世を生き抜く者たちが、必要を満たし、力を蓄える場所だ。次はお前の番だ。何が必要だ? 傷薬か? 兵糧か? それとも…新たな鎧か?」


羅成は蒼ざめた唇を噛みしめた。肩の傷の痛みと、心の中の葛藤が交錯する。父の教え、朝廷への忠誠、そして目の前で自分を救い、真実を見せようとする兄。彼は毛布の下で拳を握りしめた。


「…傷薬をくれ。」 彼は目を伏せて言った。「たくさん…兵士たちの分もだ。この冬…厳しい」


「分かった」


羅松は穿星槍を置き、立ち上がった。その顔に、ほのかな安堵の色が浮かんだ。


「代金は…兄弟の情けでどうだ?」


その言葉に、羅成は思わず目を上げた。兄の顔には、冷徹な商人の表情はなく、ただ弟を気遣う兄の顔があった。


しかし、その温かい瞬間を破るように、程咬金の雷のような大声が帳幕の外から響き渡った。


「親分! 大変じゃあ! 秦瓊どのが、大軍引き連れてやって来いやす! 丘の向こうに、もう旗が見えるぞ!」


羅松が幕を開ける。吹雪が小やみになった瞬間、丘の向こうの地平線に、百騎を優に超える義勇軍の旗が、風に翻っているのが見えた。先頭で手を振っているのは、間違いなく、彼の義兄弟であり、天下に名を馳せる豪傑、秦瓊その人であった。


毛布の下で、羅成が微かに笑った。その笑みは、痛みと驚きと、懐かしさが入り混じっていた。


「ふっ…あの大男…相変わらず派手好きだな…」


鍛冶場の槌音が、秦瓊軍団の到着を祝うかのように、より高く、より力強く響き始めた。そして、丘の下からは、新たに到着した軍馬の群れの蹄音が、地を揺るがす轟音を立てて近づいてくる。天穿塞という名の、乱世を支え、血脈を育む砦は、吹雪をものともせず、今日もまた、新たな絆と生存の物語を刻み続けていた。異なる血と運命が交差するこの地で、明日への希望は、鍛冶の炎のように燃え上がっていた。

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